始まりの日
旦那様の残る執務室から出ると、しんと静まり返っている廊下がいやに冷たく感じられた。いつもの事なのに。
旦那様の執務室の周りはいつも静かだ。お仕事の邪魔をしないように、レイが使用人の配置を徹底している。いつもはこの静かさが旦那様がお仕事をしている時の雰囲気なのだと思えて居心地が良かったのに、今日は違っていた。
この静けさが一層私を寂しく感じさせてきた。私はこれで一人ぼっちなのだと。終わってしまったのだと実感させてくるのだ。
もはや色さえ辛うじて確認できる程度の視界の中で、よろよろと廊下を歩く。
旦那様と私の部屋はかなり遠い。執務室が一階の奥に位置するのに対して、私の寝室は二階の手前側だった。夫婦といえば通常同じ部屋で就寝を共にするものだけれど、私たちは違う。
それは結婚当初からのことで、私と旦那様が邸宅内で同じ部屋にいる時といえば、二週間に一度の頻度で訪れる時と、朝食、夕食ぐらいだ。
隣で眠るなんて恋愛物語のようなことは一度もなかったし、体調を崩した時のお見舞いも、して頂けないしさせて貰えない。
"一度でもいいから、旦那様と朝を迎えたかった"
そう思った瞬間、ぼろっと大粒の涙がこぼれ落ちた。
それは止まることなく流れ続ける。涙が零れる度に胸の中の悲壮感が溢れ出し、顔を歪ませた。
立っていられなくなり手を伸ばして触れた壁に体重を預ける。この感情をどこかにぶつけないと自分が壊れてしまいそうだった。ドレスの上から太ももに爪を立て嗚咽を堪える。
この二ヶ月間、いや結婚してからの二年間、ずっと不安に思ってきたこと、恐れていたことがついに来てしまった。
いずれはこうなると、そう分かっていたのに、こんなにも苦しいだなんて。
「……奥様?」
目の前にメイド服の裾が見えた。声からしてロロとリリではない別のメイド。
「奥様しっかりなさってください。大丈夫ですか?誰か!!誰かきてください、奥様が!メイド長!!」
ロロもリリも、今私を支えてくれているこの人も。伯爵家の使用人みんなが私に優しくしてくれた。
病もちだと蔑まなかったし、倒れた時は看病するロロとリリを手伝っていた。料理長も、食欲がない時は私でも食べられるものをわざわざ作ってくれたし、庭師さんは気分が晴れるようにと花を飾ってくれたりもした。
その度に私は心が温かくなって、なんて幸せ者なのだろうと、泣きたくなった。
そんなみんなとも、お別れをしなければならないのだ。
「奥様!?」
「どうかし……っ奥様!」
「早くロロ様を呼んできて!」
「は、はい!」
「奥様、分かりますか?奥様!」
意識が遠のき、完全に体重を預けてくる私の肩を揺さぶりながら、この人は泣いていた。それはぽたぽたと私の手に涙が落ちてくるから気づいた。
どうして私なんかのために泣いてくれるのだろう。ロロやリリのように私に近いメイドではなかったし、何かしてあげたことも無い。
役に立たない名ばかりの女主人だと知っているはずだ。
なのにこの人は、みんなは、どうして私を大切にしてくれるんだろう。
「ロロ様こちらです!」
「奥様…………ーーー〜〜奥様っっ!!」
ごめんなさい。役に立たない、邪魔な奥様でごめんなさい。屋敷に緊張と、不安と、余計な仕事を増やしただけだった。
旦那様からの求婚を受けなければよかった。
陛下からの命が下った時点で、私には無理だと、そう言えばよかった。分かっていたのに。足手まといになるだけだと。こうなってしまうのに。何も出来ないまま終わるのに。
結局、初めからいなかった存在になるのに。
◇◇
夢見ていた。伯爵様との、幸せな結婚を。
これは偽りではない。自分が愛されていい存在ではないと分かっているけれど。
それでも、それでも私は、
心の奥底では、伯爵様に愛されることを夢見ていたの。
◇◇
二年前ーー……
「ヴェーラ、ヴェーラ?」
「はい。お母様。こちらにおります」
二階にある自分の部屋で本を読んでいたリヴェーラは、母の呼び掛けに答え、本を閉じ部屋を出た。
リヴェーラの部屋は侯爵である父と、侯爵夫人である母の寝室のすぐ隣にあった。
リヴェーラは近くから声が聞こえたためにてっきりそこから自分を呼んでいるとでも思ったのだろう。寝室のドアを開けて母の姿がないことに首を傾げていた。
その様子を見ていたリヴェーラの姉、ミランジェは妹の肩を叩き、さらに奥の部屋を指さし妹を案内する。
「お母様はお父様のお仕事部屋にいらっしゃるわ。さっきそちらに入っていかれたもの」
「そうなのね。ありがとうお姉様」
ミランジェは妹を母のいる部屋まで送り届け扉の前まで来ると、美しい新緑の瞳をキラキラと輝かせながら言った。
「もしかして、縁談のお話かもしれないわ」
「え?」
「だって、ヴェーラももう十七だもの。婚約のお話が回ってきてもおかしくはないわ」
そういうミランジェは昨年既に人妻となっている。社交界でも注目をあつめ、帝国中の男性を虜にしていたと言っても過言ではない彼女のお相手は、ナイトベル公爵だった。
ミランジェが当時十八だったのに対し、公爵は二十三。その若さで公爵のという地位につき、しかも婚約者の一人もいないというかなりの優良物件である。
ただ公爵の性格が少し難ありで、よく言えば人当たりがいい。悪くいえば女たらしと、そういうことだ。
そんな公爵が一目惚れした相手というのがミランジェで、彼女に一目惚れしたその日から公爵の八方美人は終結を告げ、ミランジェへの猛アタックが始まった。
当のミランジェはと言うと、妹溺愛の最中(年中無休である)だと言って求婚を断り続け、侯爵邸まで来ても追い返し、舞踏会で声をかけてきても当てつけに他の男性と踊ったりと、まったく公爵に興味がなかったのである。
そんな二人の橋渡しをしたのは他でもないミランジェの妹であり、奇病をもつリヴェーラだった。
姉と出かけた先で体調を崩したリヴェーラは意識を失い、周りに大人もいない中姉と孤立してしまったのだ。妹の意識がないことにパニックになり、頼れる者も見当たらず、助けを読んでいたミランジェの元に駆けつけたのが、公爵だった。
留学経験のある彼は医学の知識があり、その場でリヴェーラを介抱し、屋敷まで無事に連れ帰る。その姿に彼を見直したミランジェは少しずつ興味を持ち始め、そしてその事件から二ヶ月後、帝国で盛大な式を挙げたという訳だ。
幸せな真っ只中の姉は妹の結婚を心待ちにしていた。一方で結婚などしたくないという彼女の肩を持つ存在でもあり、政略結婚として上がってきた四十すぎの男爵との縁談などを公爵夫人の権力を使ってことごとく潰してきたのもミランジェである。
「……きたとしてもまたお姉様が追い払ってくれるのでしょう?」
「…………あなたが本当に結婚したいという男性だったのならそんなことはしないわ」
「そんな方はいないわ。きっと、……一生」
奇病が故に結婚を恐れ、そして諦めてもいる妹の悲しい笑顔にミランジェもまた顔を歪め、それから頭を振って母のいる部屋のドアを開けた。
「ま、リヴェーラに惚れて一生大事にすると誓える男性でも異議はなくってよ」
「……そんな方もいませんわよ」
笑いながら手を振り扉を閉める姉の姿を見てから振り返ったリヴェーラは、部屋に母だけでなく父の姿もあることに驚いた。
そして次に部屋に立ち込める真剣な雰囲気に圧倒され声を失った。立ち尽くす娘に母は眉根をさげ手を顎に当て、困ったようにため息をついていたし、侯爵家の家長である父は普段通りの無表情だがトントントン、と指が肘を打ち付けていた。誰が見ても不機嫌だとわかる。
「……お呼びでしょうか」
「ヴェーラ。こちらへいらっしゃい」
母の手の引くままに隣に座ると、対面している父は
やっと指を止め、娘にはの方へ一通の手紙をおしやった。
読みなさい、と催促をされおずおずとそれを読む。次第にリヴェーラの顔には衝撃が広がっていき、内容を理解したと思われる時に父は口を開いた。
「あちらの意向では、婚約期間はなしで、再来月に結婚式だそうだ」
婚約期間はなし。求婚から二ヶ月後に結婚式。
急すぎる展開にリヴェーラは目を回し、母は心配そうに手を握った。
「ヴェーラが嫌なら断ってもいいのよ。その…相手はあのアルカディル伯爵だし」
手紙の内容はこうだった。
差出人は帝国の皇帝陛下。即位四年目の聖君だ。
陛下ともあろうお方からの手紙は、リヴェーラへの結婚の要求だった。
二ヶ月前、隣国からの侵略を食い止めたアルカディル伯爵への功労として、政略結婚相手として嫁ぐようにと、そう書いてあるのだ。
アルカディル伯爵はリスト・アルカディル伯爵というかつての英雄の子孫であり、リアム・リスト・アルカディルという帝国内で最も支持を集める男性貴族だった。
御歳二十、全くの健康体、皇帝陛下からの厚い信頼、その財産の豊富さ、そして何よりその美形から多くの女性たちから人気のある、今最も注目されている人物だ。
そんな男への政略結婚を命じられ、リヴェーラは頭を抱えたい気分だった。
それは、自分は誰かの妻になることは出来ない。なぜなら病気を抱えているから。迷惑をかけてしまうことになるだけで、それから捨てられてしまったらいよいよ後ろ指を刺されることになる、とそう考えているからだった。
「……ですが、陛下からの勅命です」
「いいのよ。ヴェーラが本当に嫌だと言うなら、お母様が……」
「嫁ぎなさい」
リヴェーラが父親の冷たい声にびくっと肩を揺らした。
青ざめた顔を上げたリヴェーラを、侯爵は厳しい顔で睨みつける。それを真正面から受けたリヴェーラは、か細い声で返事をする。
「ヴェーラ!……あなた、そんなふうに言わないでくださいな」
「嫁ぐからにはあちらで功績をあげるように。わかったな?」
「……はい、お父様」
「ヴェーラ!考え直しましょう。何もアルカディル伯爵のもとへ嫁ぐことはないわ。無愛想で堅物で冷血で、女性には何の興味もないと有名じゃない」
「いいのですお母様。もとより皇帝陛下の勅命には逆らえません」
「…………」
いくら侯爵家と言えど皇帝陛下から直々の縁談を嫌ですと断る訳には行かない。断った場合皇帝への忠誠心が薄いと咎められようと文句は言えなくなってしまう。
侯爵夫人であるリヴェーラの母がそれを分かっていないはずはなく、娘の淑やかながらも決意した顔を見て、悩むように視線を泳がせていたが、やがて目をつぶって俯いた。
リヴェーラはそんな母の手を握り返し口を開いた。
「お母様、心配なさらないでください。伯爵様に嫁いでもフェンデル侯爵家にはご迷惑をおかけしないと、この命を持って誓いますわ」
「ヴェーラそんなことはどうでもいいのよ、命だなんて……。あなたが幸せになってくれればそれでいいの。でも、アルカディル伯爵があなたのことを……」
大事にしてくれるとは思えない。それが母の本音だと知っているリヴェーラは頷いた。彼女自身も分かっているのだ。アルカディル伯爵に病持ちの自分なんかが大切にしてもらえるわけが無いと。使用人のような扱いを受けても仕方の無いことなのだと。
「……陛下への返信を書く。リヴェーラは今日から支度を始めるように」
「……はい、お父様」
こうしてリアム・リスト・アルカディル伯爵と、リヴェーラ・フェンデル侯爵令嬢の結婚が決まった。