アルカディル伯爵家の主人と女主人
扉が開かれ、そこから一人の男性が邸宅へ足を踏み入れた。
主人の帰宅と共に、女主人は頭を垂れる。アルカディル伯爵家の使用人たちもそれに続き、総勢五十はいるだろうという出迎えだが、向けられた男は表情一つ変えない。
扉から入ってくる風に吹かれ、その柔らかさを象徴するかのようになびく、艶のある黒髪。
細身だが筋肉のしっかりとついた引き締まった体躯。剣を扱っているはずなのに、細く長く美しい指先。
見目麗しい顔立ちは妻を持った今でも社交界の夫人たちの目線を奪う。
切れ長の目元の中央に据えるチャコールグレーの瞳が自身の妻に向けられるが、そこには妻に対する優しさや愛しさは欠けらも無い。
しかし、突き刺さってしまいそうな視線を受けても、愛の言葉を囁かれなくても。
少しでも美しくあれるようにと身だしなみを人一倍気にしながら、恋する乙女さながらに夫の帰りを心待ちにしていたはずの女主人は、その夫の態度に意気消沈する訳でも、怒りを覚えるわけでもなく、ただただ頭を下げ続けた。
使用人たちがそんな彼女を心配そうに見つめるが、当の本人はカーペットのしかれた床を見つめながら、もう既に諦めてしまったかのような、この状況にさえ満足してしまっているような悲しい微笑みを浮かべていた。
白い肌に映える、無花果のようなみずみずしい色を保つ形の良い唇が動く。
「お帰りなさいませ、旦那様」
透き通った声がホールに響く。
彼女ほどに花のような美貌を持ち、儚く優しく、美しい妻はいないだろうに、妻のその出迎えの挨拶に主人は冷たい視線を向け続ける。彼女の細い体では維持することが苦痛であるその姿勢を解いていいと言うこともなく、手を差し伸べるわけでもなく。
しばらく経ってから、主人は口を開いた。そして発したのは、たった一言。
「いつまでそうしているつもりだ」
空気が凍りつく。使用人たちの中で怒りの唸りが聞こえたが、女は言われるがままに姿勢をとき、夫を見つめた。
「ご無事で何よりです」
「領地へ行っただけだ」
どこまでも妻に冷たい旦那は、着ていた外套を傍に立っていた補佐官に投げ渡し、妻には目もくれないまま執務室へと歩を進めていった。
「奥様……」
使用人たちの不安げな声、心配そうな視線を受けた女主人は、向けられた夫の背中への拝礼をとき、静かに言った。
「旦那様がお帰りになったわ。みんな、旦那様はおつかれでいらっしゃるのだから、隅々まで気を配ってくださいね」
不満や悲しみが、一切顔に出ることは無かった。
美しい容姿を持ち、社交界の女性たちから絶大な人気を誇っていた現アルカディル伯爵、リアム・リスト・アルカディル。
天才的な剣の才能、領主としての領民からの支持、部下たちからの尊敬、そして皇帝からの厚い信頼。
全てを手にし、ランドルアディス帝国内でも屈指の権力を持っていた彼だったが、二十になるまで婚約者はおろか恋人さえもおらず、誰もがアルカディル伯爵がどんな女性を選ぶのか注目し、そして多くの女性がその妻の座を夢見た。
しかしその年の春、彼は電撃的な結婚をすることになる。その早すぎる展開に人々は目を向き、女性たちは悲嘆に暮れた。
伯爵の結婚は皇帝からの命であった。帝国内でも屈指の権力者であるにも関わらず、いまだに家庭を持たない伯爵に痺れを切らしたのか、それとも数々の功績を残した伯爵への褒美だったのか。
伯爵の妻に選ばれた幸福な女性は、リヴェーラ・フェンデル。
ミルクティー色の髪に新緑の瞳を持つ帝国の侯爵家次女であると共に、ナイトベル公爵夫人の妹でもあり、一生完治させることは不可能だと言われた奇病を持つ、儚い美人であった。
美しい容姿と心を持ちながらも、奇病が故に結婚相手が見つからなかった深窓令嬢と、社交界一の美貌を誇る伯爵。
まるで恋愛物語のような幸せな結婚に見えた。
だが、その結婚から一ヶ月後、帝国内にある噂が広まる。
アルカディル伯爵は、妻を愛してはいない、と。