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其の二

“ピンポーン”

 部屋で塾に行く準備をしているとチャイムが鳴った。今日は特に荷物が届くといったことは聞いていない。回覧板・・・は何時もドアノブに掛かっている。足音を立てないようにキッチンに行き、インターホンのモニタースイッチを入れて顔を確認。これは何者なのか。

 基本的に母親が不在の時は知らない人の対応はしないように言われているので、応答出来る相手か否かを見極めるまでは息を潜める。

 最近は宅配を装った犯罪が増えているとニュースで見てから、コンビニ受け取りが出来るものはコンビニを指定、自分が注文した物でも母親がいる時しか受け取りをしてはいけないとキツく言われている。

 なので、滅多にないが、日時指定が不可な物は、心待ちにしている物が届いたことが分かっても、インターホンのモニターの前で宅配業者が去って行く姿を、激しく申し訳さなを感じながら見送らなければならない。これは本当に心から申し訳なく思っている。

 それに関しては母親に声を大にして“受け取らせてよ、大丈夫だって、宅配の人だって気の毒じゃん”と言いたいが、世の中で起こっている事件などを見ると“絶対”とは言い切れない。信用の薄い未成年。母親の言わんとすることは理解出来る。しかし、宅配業者さんだって大変なんだ。

 と考えると、一番の悪は、宅配業者を装った犯罪者だ。こういうヤツらの為に、真面目に働く人が迷惑を被る。何時か、絶対安全と言えるシステムが出来て、真面目に働く人々が報われる日々がやって来ますように。

 インターホンのモニターには、落ち着きなくモニターに近寄ったり離れたりする、白髪が多めのひっつめ髪で、細いフレームで楕円形の眼鏡を掛けた年配の女性が一人。

― ・・・?なんっか見たことあるようなないような・・・誰だっけ?てか、ちかっ!

 女性の顔がモニターいっぱいに映し出され、思わず仰け反る。記憶の引き出しを引っ張り出そうとするも、今ひとつぼんやりとしていて思い出せない。再びインターホーンが鳴る。

 「すいませ~ん、ハナフサですけど~、チヅちゃん、いてる~?すいませ~ん」

― ハナフサ?チヅちゃん?チヅちゃんってお母さん呼ぶのって仲いい人だけな気が・・・

あ、そうか

 ぼんやりしていた記憶が少しだけ鮮明になってきて、誰かは分からないが、見たことがあることを思い出した。小学生の頃に何度か会っている人だ。知らない人、というワケではないが、こんなに記憶を引っ張り出すのに時間が掛かる人というところで一瞬迷ったが、知り合いであることに変わりはない。

― 取り敢えず用件聞くか・・・

 インターホンの応答ボタンを押し、母親は不在であることを告げる。

 「あ、すばるちゃんね!ハナフサのおばさんよ、覚えてる?」

 「あ、はい・・・何となく・・・」

 「お母さんいないのね。じゃあ、ちょっと渡しておいて欲しい物があるの」

 “知っている人”に“渡しておいて欲しいものがある”と言われ、断る理由もないなと思いドアを開けに玄関に向かった。

 玄関を開けると、母親と祖母の間ぐらいの年齢かと思われる、薄いイエローの、襟元にビーズをあしらった薄手のアンサンブル、こげ茶の膝下ぐらいのフレアースカートに、黒のローパンプス、皮だか合皮だかの茶色い大きめのバッグを引っ提げている。地味を絵に描いたような・・・

 「あらま~、いいお嬢さんになってぇ」

 「・・・や、そ~でも・・・」

 「あ、最後会ったのって、すばるちゃんがまだちっちゃかったもんね、覚えてないか~。お祖母ち

  ゃんのお友達のハナフサですぅ。生前、お祖母ちゃんにはすごくお世話にな

  ったのよぉ。あ、お母さんはまだお仕事?」 

  「あ、はい・・・」

 間髪入れずにぐいぐい寄って来る。圧がスゴイ。思わずたじろぎ。

― 何て馴れ馴れしいんだ

 とは言っても、小さい頃を知っている人なんてこんなものか。

会う度に“大きくなって”と言う人もいるが、あれは本当にそう感じているのか、それとも他に話すことがないから、それを言っておけば遜色ないという感覚なんだろうか。それにしても、この人はちょっと距離感がおかしい気がする。

 「あのぉ・・・どういうご用件でしょうか」

 「あ~、先日道端でお母さんに会ってねぇ、久々だから積もる話もあるかな~って思って寄ってみ

  たんだけどぉ、残念だわぁ。あ、すばるちゃん、ケーキは好きかしら?」

 「え?あ、はあ・・・はい」

 「わぁ、よ~かったぁ。良かったらこれ、お母さんと食べてぇ」

ハナフサさんが鞄を徐に開け、いそいそとケーキと思しき箱の入ったビニー袋を取り出す。

― 鞄から出すんかい!どうりでデカい鞄なハズだ

 更に笑顔の圧が強くなり満面の笑顔が不気味ではあるが、激しくニコニコしながら“はい”と手渡され、思わず手を出して受け取ってしまう。これは反射的だよな~。

 “あげる”と言われて何かを差し出されると、取り敢えず一旦受け取るべく手を出してしまう。小さい頃、それでトカゲを乗せられて泣き叫んだことがあり、それ以降はなかなか手を出せずにいた。が、その記憶を上書きするように、手に渡されるものが自分にとって利益のあるものが続くと、再び自然と手を出すようになったという事実。なんと現金。

 手渡されたビニールの印字、見たことがある。これは・・・

 「あー!ゲルストナー!」

 「あら~、知ってるぅ?美味しいのよぉ、ここのアプフェルシュトゥルーデル」

 「えー!それ、個数限定って・・・」

 「あ、今日知り合いがまとめて買って来てくれたから、お裾分けもらったのよぉ。お母さんと一緒

  に食べて。また寄らせてもらいますぅってお母さんに言っといてぇ。それじゃ」

 最後まで不気味な満面の笑みでぐいぐい来て、最後はケーキの箱だけ渡し、それだけ言って肩透かし的にアッサリと引き上げた。

― ただのいい人??????

 ドアの鍵を掛け、思い掛けず手にしたゲルストナーの箱を手に、ビニールの印字を再度確認。

 間違いない。自分にとっては幻のアプフェルシュトゥルーデル。並んで買うといっても、平日三日間と土曜しかやっていない上に、学校があるのに朝から並べるわけなかろうと、自分の中では幻のスイーツ。だった物が、今目の前にある。これは開けずにいられるわけなどなかろう。

 小走りにキッチンへ行き、テーブルの上で袋から箱を取り出し、蓋された日付印のシールをゆっくり剥がす。キレイにシールを剥がせた。心の中で“店員さんグッジョブ”。

シンプルな白い箱の蓋をゆっくり開けると、ネットでしか見たことがないアプフェルシュトゥルーデルが二つ。

― おお~、これかぁ、すげー・・・って二つ?お父さんいないの知ってるってこと?ま、いっか。

  しっかし、その知り合いって人、朝から並んだってことだよね~。てか、一人で何個も買えない

  んじゃないの?何人もで並んだのかな~?しかし、まさかのアプフェルシュテュルーデル!

 見た目は派手ではないが“アップルパイ”とは言っても普段見るアップルパイとは違い、何となく上品でおしとやか、優雅さを纏っているようだ。差し詰め、アップルパイは向日葵、こっちはジャスミン、といったとこ?いや、自分の表現力の乏しさは自分がよく知っている。ジャストな表現が見当たらない。

 ただ、自分の中ではウィーンの片隅の老舗カフェに足を踏み入れ、高い天井を仰ぎ見ているところにウィーンの風が吹いているような・・・と、ネットの受け売り情報が想像を膨らませる。小さく興奮気味で自分の部屋に携帯を取りに行って戻り、画像を数枚パチリコ。画像を確認し、箱の蓋を閉めて冷蔵庫に入れてから部屋へ戻る。


 《ご機嫌やのぉ~》

― ゲ、出た

 《“ゲ、出た”て、バケモンやあるまいし》

― 十分バケモノじゃん

 《バケモンちゃうわい、妖精さんやで》

― そうだった、思ったこと全部聞こえてるんだ

 「どこが妖精よ、オッサンのくせに。いい加減、出てってくれる?人ん家に勝手に入り込んでさ、

  人の物切ったり壊したりしてさ、人間なら不法侵入の器物損害じゃん」

 携帯でLINKを開くと、相変わらずファンのグループトークが多く成されてるが、今はそれはお預け。真利子たちとのグループトークにアプフェルシュテュルーデルの画像を貼り付ける。

 《何言うとんねん。ワシはずっとあっこに住んどんや。お前ら人間が勝手に切ってもたんちゃうん

  け!》

何時も飄々としているオッサンがいきなりキレキャラ。

 「も、うるさい!!“あっこ”って何よ、“あっこ”って!」

 《あっこじゃ、あっこ》

 「アッコジャアッコぉ!?」

 《おま、頭悪いんか。ここやんけ!!》

 何故にこのオッサンは関西弁なんだろう?時々異国の言葉にさえ聞こえ、早口で意味不明なことを捲くし立てられるとイライラする。

 「ココヤンケ?」

 《あ~腹立つ、もうええわ》

 声の後すぐ、戸口にある椅子がガタッと揺れる。一瞬、自分しかいない空間で椅子が動いたのでビクっとしたが、椅子の肘置きのところで両手を広げ、まるで飛び立つかのようにバタバタと上下させているオッサンの姿。

 「え?椅子?」

 《そぉや。言うとくけどな、わし、この木に三百年以上おんねんど。その木を切って、勝手に椅子

  なんかにしょってからに、文句言われる筋合いない》

 「椅子の木ぃ!?さんびゃくねん?????1700年代・・・江戸時代!?」

 《は?江戸?大坂やっちゅーねん》

 「いや、場所の話じゃないし」

 《知っとるわw》

― イラっ

 部屋の入り口にあるダークブラウンの革貼りの木の椅子は、小二の頃に父親が“いい木を分けてもらったから”と、家のキッチン用の椅子を作り始めたが、あまりに凝り過ぎ、結局一脚だけ作って止めてしまった代物。ただ、そのフォルムと貼ってある皮の感触が好きで、自分の物として貰った物だ。

 「え~、江戸時代からいてさあ、じゃあなんで着物じゃないのよ。可笑しいじゃん」

 《着物?ワシ、自分の姿とか知らんもん》

 「は?ウッソー」

 《お前にどう見えてるとか、わしゃ知らん。ま、三百年も前の昔からおんねんからな、大事にして

  もらわな》

― 全然遣り取りが成り立たない。放っておくべし。おっと、画像だけあげちゃったから、千華から

  コメ来てる~。〔ゲルストナーのアプフェルシュテュルーデル 貰っちゃった~(ハート)〕 

 送信。

 ふと革張りの椅子を見ると、オッサンが椅子の上でお尻を振りながらヨチヨチ歩いている。椅子に取り憑いているということは、この椅子がある限りオッサンはい続けるということか。大好きな椅子なのに、ああ、何と言う・・・

― あ、返信来た!

 取り敢えずオッサンを放置。今は相手をしている暇はない。自分にとってはちょっとした一大事なのだ。アプフェルシュテュルーデル食べるの、楽しみ過ぎる。

 《やあ、そこの》

― 無視、無視

 《おえ、そこの》

― 五月蝿い、ウルサイ

 《あ~あ、ええこと教えたろ思たのに》

― ふん、どうせ大したことないクセに

 《ふ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ん。ま、ワシはええけどな、オマエが塾に

  遅れても関係ないしなw》

― ・・・塾?・・・あーーーーーー!!ていうか、着替えてないし、何も食べてないっ!


 「ただいま~」

 荷物を部屋に置き、ヘロヘロとそのままキッチンへ向かう。塾の前に何時もは少し何か食べて行くのに、アプフェルシュテュルーデル、いや、あれはオッサンのせいだ。

 オッサンのせいで何かをお腹に入れて出る時間を失い、常備してあるゆで卵を冷蔵庫から一つ取ってペーパータオルに包んでポケットに突っ込んで塾へ向かい、塾の一番後ろの席で授業を受けながら、音を立てないように殻を剥いて隠れて食べたが、食べ終わるまでバレないかハラハラしながらでは食べた気がしない。隣りの子は優しく、匂いがしたかもしれないのに見ないフリをしてくれたのが分かった。有難い。

 そして、普段ならゆで卵一個なんて足りないが、幸い、緊張の中で食べたせいか空腹感は感じられなかった。

 「お帰り」

 母親は既に入浴を済ませ、TVのバラエティを観ながら髪の毛をドライヤーで乾かしている最中。

 髪を乾かす手段としてドライヤーを使うというのは当然のことだが、昔のドラマの再放送を見ても、何時の時代も形や風量、音は違えど、ずーっとドライヤー。もっと素早く乾かす手段が出来てもいいのでは?と思ってしまう。

 なぜなら、ドライヤーを使われると、TVの音は聴こえ難いし会話もし難い。せめて、音がなくなるとかそういうドライヤーが出て来ないものだろうか。

 テーブルの上に食事が準備されているが、母親は確実に冷蔵庫の中を見ているわけだから、その報告をせずに先に食事を取ると、確実に嫌味をいわれる。それは愚行でしかない。それに、一切こちらを向かないということが、既に自分からの報告を待っているという空気をガンガンに醸し出している。

 「あ・・・あのさ~」

 聞こえたらしく、母親がドライヤーを止めてこちらに顔を向ける。

 「今日さ~、ハナフサさんって人が来てさ~、ゲルス・・・」

 「花房さん・・・?」

 報告を始めたばかりなのに、母親が言葉を遮った。イヤ、まだ何も怒られるようなことは言っていない。“知らない人”ではないが、戸を開けて対応したのがマズかったか?

 「や、うん、あの~、お祖母ちゃんの知り合いっていう。ほら、あたしも会ったことあるさ

  あ。“おばあちゃんには良くしてもらったのよ~”とかって。名前は記憶なかったんだけど、何

  となく顔は覚えてて。で、お母さんいないって言ったら、また来ます~ってコレを。アプフェ

  ル・・・」

 「何で花房さんが家知ってるの?」

 母親の眉間に皺が寄る。顔が曇る、どころじゃない、めっちゃ睨まれている。嫌な予感。と言うよりも、何故自分がそんな質問をされるのか?

 「え?え~っと・・・こないだお母さんと道端で会ったって・・・」

 「あたしと?あたしと会ったってそう言ってたの!?」

 「え?うん。って言ってたけど・・・、違うの?」

― おいおいおいおいおい、どういうことだよ、ハナフサさんよぉ~~~~~ 汗

 母親が既に怒り心頭状態なのが分かった。ただイラっとしたとかそういう次元ではない。ヤバイ、何が起こっているのか皆目検討がつかない。やっぱヤバイ人なのか、ハナフサさんとやらは?

祖母の知り合い、見た記憶のある顔、“先日母親に会った”というキーワードで判断をしてはいけなかったのか?何故にここまで母親の顔が険しいのか?もしかして自分はケーキに吊られて正しい判断を下せなかったのか?など頭の神経系統を倍速で動かし思考を巡らせたが、どれもが繋がらず頭の中がプチパニック。

 「・・・で、何て?」

 母親は冷静を装って言葉を発しているが、表情は固く、物凄く冷たい圧を感じる。ただ、どうやら母親も想定外のことが起こったと思っているような気はする。

 「いや、ホントに、ただ“また来る”って・・・」

 「・・・で、例のケーキを置いてったわけね。あの人ならやりそうだわ」

― “やりそう”って・・・(汗)これは、どう判断すればいいのか?判断ミス?無罪放免?

 母親が溜息を吐く。

 あたしは母親の溜息が嫌いだ。無言で人の気持ちを貶めるのに、こんな簡単な手段が他にあるだろうか。

 少し前まではこの母親の溜息の度にその理由を考え、機嫌を取ることを考えていた。今でこそ一瞬ドキっとするもののスルー出来るようになったが、母親のそれが無くなることはなく現在に至る。きっと母親は気付いていない。

 「そういう人よね・・・悪いけど、もしまたあの人が声掛けてきたら無視してちょうだい」

 「え?あ、うん、わかった、ゴメン」

 思わず謝ってしまった。自分は別に悪いことはしていないハズなのに、何となく母親の圧に負けてしまった。微妙な沈黙が流れる。この感じ、ホントに嫌い。

 と言うか、どうすれば良かったんですか。“母親の知り合い”というだけで反応したのであれば兎も角、自分でも会った記憶があったのだ。しかも、知ったように家にやって来て、態々並んで買わなきゃならないような手土産を持っていて、無碍にしろと言うほうが無理なのだ、自分の性格では。

― ここは何も考えず、取り敢えずサッサとご飯を食べて部屋に戻るのが得策。というか、アップフ

  ェル、今日は食べられないのか?

 「・・・で、あれ、何なの?」

 「あれって?」

 「冷蔵庫の中の、あの日とが持って来たっていう・・・」

 今日は珍しくやや早めに沈黙を破った。多少母親なりに、圧をかけていることに気付いたのか。イラっとしたこの気持ちをすんなり収めるられるワケではないが、ここは乗っておいた方が・・・アプフェルを食べ損ねずに済む気がする。

 取り敢えず、最近結構人気のウィーン菓子のお店のアップルパイ的なヤツであること、、数量限定で、本来は朝から並ばないと買えない貴重なモノなのだということを説明。母親はそれに対し、“そう、じゃあ、後で頂いたら”と冷えた返し。

 “うん”とは言ったものの、気分悪い。

― よっしゃ、食べれる!・・・っと、一緒に食べよう、とは言わないんだ。ま、会いたくなかった

  人っぽいから、そんな人から貰った物とか食べたくないか。・・・てゆーか、何なんだろう、結

  局あのハナフサって人・・・後をつけて来て家突き止めたってか~、キモっ!いや、でも食べ物

  に罪はないし

 母親があの“ハナフサ”と言う人と何があったのか知らないが、私にとってはあの幻のアプフェルを口にする機会なんてこの先あるか分からないのだから、美味しく食べさせて頂きたい。

 スッキリはしないが、取り敢えずアプフェルは食べられることになったことでモヤモヤやチャラにし、準備されている夕食のメモを見て、鍋の中のラタトゥーユを確認して火に掛ける。冷蔵庫からゴマドレを取り出し、サニーレタス、ブロッコリー、人参の千切り、トマトの角切り、ゆで卵のサラダにかける。少しずつ鍋からコトコトと音がし始める。

 母親はTVを観続けているが、恐らくTVに没頭しているワケではない。母親のことだ、あれこれゴチャゴチャ考えて、イライラしているに違いない。

 でも、そんなことはこちらの知ったことではない。大人たちのゴタゴタに巻き込まないでくれ。そして、突然爆発して、部屋に突撃してくることだけはヤメてくれ、心臓に悪い。

― 幻のスイーツなんだぞ!意地でも美味しく食べてやるからなーーーーー!!


 現在、週に一回、小さい頃から家族ぐるみで付き合いのある矢島家に英語の勉強の為に通っている。

 矢島家とは、母親が小さい頃近所に住んでいた矢島昇平おじさんの家で、あたしも小さい頃からよく知っているし、よく遊びにも行った。矢島家の杏ちゃんはお姉さんみたいだし、航くんはお兄さんみたいで、一人っ子だったにも関わらず、きょうだいがいる気分を味わわせてもらっている。有難い。

 そして、奥さんの慶子さんがバリバリ帰国子女のバイリンガル。杏ちゃんと航くんも其々自立し、慶子さんは週に二回幼児に、週二回小学生に英語を教えているが、それでも暇を持て余しているからと自ら申し出てくれ、中学の時から通い続けている。

 でも本当は、うちが母子家庭なのを気遣ってくれてのことなんだろうと、うっすらぼんやり思ってはいるが、そこは敢えて突っ込まず、気付かないふりを続けている。

 何故なら慶子さん、本当に教えるのが上手だし、何せ余談も面白いしで、お陰様で英語の成績は良い状態を保てている事実があり、また、慶子さんは母親より年上であるものの、自分にとっては、話をしていると少し年上のお姉さんにでも話しているような感覚があり、多岐に渡って相談にも乗って貰っているので、大人の事情に態々突っ込む理由はない。

 母親の方も、その昇平おじさんの口添えでおじさんの勤める会社に入れてもらって働けていることは知っていて、親子共々かなりお世話になっている。ので、慶子さんたちはそんなこと思ってないだろうけど、いつか恩返しができるといいなと思っている。

 「慶子さん、聞いて!昨日初めてゲルストナーのアッフェルシュテュリューデル食べたー。果物を

  加工したお菓子ってあんまり好きじゃないけど、あれ、あっさりしててめっさ美味しかったー」

 「あー、あたしもあれ好きー。と言ってももう随分食べてないなー。前に食べたのって・・・え、

  もう二十年ぐらい前!?少し前、とか思った自分が悲しい~」

 「え、何処で食べたの、それ?」

 「ウィーンに行った時」

 「お~っと、本場ぁ。スケールが・・・泣」

 「いやいや、航空券買えば行けるって 笑 あたしも久々に買って食べてみようかな~」

 「朝から結構並ぶらしいよ」

 「え、それは無理w じゃあ、ほとぼり冷めた頃に行くわ」

 慶子さんの家に行くと、何時も違うお茶が出る。紅茶、フルーツティ、ジャスミンティ、煎茶、ほうじ茶・・・そのお茶によって、いや、出てくるお菓子に合わせてお茶が出て来る。そういう楽しみ方をすることがない我が家とは随分違って、何時も新鮮で特別な時間。

 また、小三から高二までの大部分をアメリカで、途中二カ国ほど違う国に短期で住んだ経験があり、独身の時も海外へよく行ったという慶子さんとのちょっとした会話は刺激的だ。

 自分は国外に一度も出たことがないのに、何だかいろんなことを知っている優越感が味わえるのと、たまたまTVに聞いたことのある場所が映ると、食い入るように観てしまう。

 それに、好きなアーティスト・CUの国の話も聞けるので、勉強よりも楽しみにしているこの合間の時間。

 でも不思議なのは、住んでいたのは欧米なのに、CUの国の話も聞けるぐらいアジアにも詳しい。どういうことなのだろう?グローバルな人は、見るところも違うんだろうか?

 今日はバナナブレッドとダージリンティとで暫しの休憩。家じゃこんなオサレな空間作れない。まず内装が違う。

― 空間プロデュースって大切だねぇ

 「杏ちゃん、来年2月から4月ぐらいのどっかって日本帰って来れるかなあ?」

 「何で?」

 「へっへっへっへ~、ツアー始まるみた~い」

 「え、ホントに?最近何かバタバタしてて、情報逃してた~。いや~ん、またチケット争奪戦

  (泣)」

 「あっちのスケジュールから弾き出した話らしいから、まだ確定じゃないけど、でも多分そう」

 「相変わらず、あっちのペガちゃんたち、情報早いね~」

 「でね、杏ちゃんカナダ行っちゃったし、なかなか参戦できないから、休みに帰って来れたら会わ

  せてあげたいんだよね~。Cと結婚するって言ってるしw」

 「すばるちゃんもYと結婚するんでしょ?」

 「え~、もう既にダンナ様だもんw」

 「あ~、はいはいw」

 慶子さんと杏ちゃんは親子共々ファン友でもあり、ストレスフルなチケット争奪戦でもお世話になってもいる。しかも杏ちゃんは裁縫が得意なので、ライブ参戦用の微細なTシャツの細工やデコレーション、団扇作りなら、杏ちゃんに相談するとサラっとアイデアをくれる。

 そして、航くんはファンでも何でもないが、チケット争奪戦を手伝ってくれる。何故か航くんはチケット運が良く、毎回当たる上に、席がすこぶるいい。何なんだ、この運の差は!?

 とは言え、そうやってお零れを貰えるのだから、文句を言わず、有り難く思っておかないと。

 「あ、慶子さんさあ、ハナフサさんって人知ってる?」

 慶子さんなら何か知ってるかもしれない、と思い、話を振ってみる。昔のうちの周辺のことを知っている人が少ない中、慶子さんはかなりよく知っているほうなので、何か出てくるかもしれない、という一縷の望み。

 「ハナフサ?ん~~~~~~~、いや~、心当たりないなあ」

 「お祖母ちゃんの知り合いだったみたいで、アプフェルくれたのがそのオバサンだったんだけど

  ー、お母さんの反応が・・・」

 人差し指で両目尻を引っ張り上げて、、目を吊り上げて母親の怒りを表現。慶子さんは理解してくれた様子。

 「あ~、お祖母ちゃんの知り合いね。でも、智津ちゃんがそんな感じってことは、あっち関係のか

  な~・・・」

 「あっち?」

 やはり、慶子さんには思い当たる何かがあるらしい。

 「え、何?」

 「いや、確信がないからね、曖昧なことは言えない。まあ、お母さんに任せておいて、すばるちゃ

  んはスルーしとけばいいんじゃない?」

 「う~ん・・・」

 などと言われると、余計に気になる。

 「はい、は~い、じゃあ、帰るの遅くなっちゃうから、あと少しやっちゃお!」

 「へーい」

 バナナブレッドを食べ終えたところで慶子さんに促され、この自分では作ることの出来ない癒しの空間と戯れる暫しの休憩を終え、また英文の読解の続きを始める。


 家に帰る前に逆方向に自転車を走らせ、街で一番大きいショッピングモールの駐車場に到着。自転車を止め鍵をした後、そのまま携帯を取り出しLINKとSNSのチェック。

 携帯を持っていなかったらそのまますぐにモールに向かってただろうに、もうクセになってしまっていてこの動作を止められないでいる。本当は密かに、見なくても平気な飄々とした人間になりたい願望がある、今は無理だけど。

 何時もより慶子さんとの雑談が長くなり(明らかに自分のせいで)、家を向かったのが遅く、時間が時間なので、週末の日中のような自転車や原付の数はないが、ショッピングモールには全国展開しているカフェやフードコート、上にはレストランが多数入り、そして映画館も入っていてレイトショーが観られるので、夜遅くまで人気はそこそこある。

 携帯を制服のポケットに押し込み、駐輪場から入り口に向かう。入り口近くには全国展開しているカフェがあり、外に設置してあるテーブルが幾つか並び、季節が良い時は何時も埋まっている。

 それが家族や友達が楽しく戯れている分には全然問題ないのだが・・・

 今日も、夜であるにも関わらず、外のテーブルに人がいる。

― ・・・ゲ、何かあの三人ガラ悪そ~・・・・・

 一人は金髪で襟足がピンクのロング、一人は髪の毛のサイドを取って頭の天辺のシュシュからボサボサの噴水が出ている。もう一人は茶髪のサラサラミディアムだが、前髪が邪魔なのか、頻繁に髪を掻き揚げている。三人共、トレーナーやパーカーにスウェットかショーパン、家履きのようなサンダルを脱いで椅子に立て膝をして座り、それぞれ携帯をスクロールしながら、時折膝を叩いて爆笑し、会話も雑音並みの大声。しかも、テーブルの上には、そのカフェのカップではなく、ペットボトルが置かれスナック菓子が広げられている。

 見た目で決めてはいけないと言われても、醸し出す雰囲気や行動からはどうも受け入れられないし、以前、実際にいきなり絡まれたことがあったので、その記憶も相俟って苦手は仕方ない。

― 店の物頼んでるならまだしも、勝手だよね~、迷惑な客。あ~ゆ~人達とか無理。絡まれたりし

  ませんように

 その三人組がこちらを意識しているワケはないが、自意識過剰と言われても、一度、何もしてないのに絡まれたことがあるので、その記憶が消え去ることはなく、逆に必要以上に一瞬緊張してしまう。

 出来るだけ自然に、と思うもきっと何となくぎこちない。気付かれなければいい、睨まれたり目をつけられたりしなければそれでいい、と思いながらソソクサと早足で横を通りすぎて行く。何事もなかった。何よりだ。

 モールの中は時間的に人もまばらで、その先にあるフードコートも人が疎らで静か。どの場所を行っても人にぶつかりそうになりながら歩く必要がなく、快適。

 各専門店にも客は少なく、店員さんたちも手持ち無沙汰らしく、商品を意味もなく並べ直してみたり、店内をウロウロとしている。この状況、自分が店員だったら苦痛だろうなと思うと、働くって大変。

 でも自分としては、このまったりした時間が好きだ。人にぶつかることがなく、小さい子どもが走り回ってもぶつからない分、こちらも気を遣わなくて済む。有難い。

 ショッピングモールに入る中型の本屋。そこは何時も時間に関係なく人はコンスタントに入っており、会計時でも並ぶことがある。ネットでの購入も出来るご時世だが、自分は本屋が好きだ。

 

 帰り道にあった本屋が閉店してしまい、ここまで来ないといけないのは少し面倒だが、ぶらぶら見歩きながら偶々手にした本が秀逸だと、本に対するリスペクトの裏側に、“見つけた自分ってスゴイ”と人には言えないけど、ちょっとした高揚感。

 ネットは便利だし、携帯で本も読める。でもそうじゃない。ページを捲る作業も自分にとっては“本を読む”の一部だ。と、言ったところで、資源の無駄とかミニマム生活を持ち出されると、もうそこは見解の相違なだけで、言い返すつもりも議論するつもりもない。

 ただ、やっぱり本屋が閉店してしまうのは、一つの文化が消えていくようなうら淋しさを覚える。が、こういうことを言うと母親に言われる、“あんたはいちいち大袈裟”と。いいじゃないか、人の思いなんて其々だ。

 購入予定の雑誌が置いてある場所へ行こうと角を曲がったところ、同じ高校の制服を着た先客がいるが・・・男子?“女性誌の所に男子!?”と、一瞬怯み、影に隠れる。

― え、どゆこと?て言うか、何か行き辛いじゃん

 亀が甲羅から首を出すように、そろりと陰から覗き込む。この姿のほうが、さっきの三人よりもよっぽどヤバイのではないだろうか?

― ん・・・・?あれ、乙じゃん。何でこんなとこにいんのー!?家、この辺りじゃなかったよね?

  て言うか、女子の読むヤツ立ち読みとか、キモ! 

 “(おつ)”とは高校の同級生、乙藤宏(おとふじこうすけ)で、クラスは違い接点もないが、やや近寄り難い雰囲気を持っている。それだけでなく、彼の経歴が意味不明で、、相当の変わり者なのではないかと思っている。

 普段から周りに“おと”と呼ばれ、女子にそこそこ人気はある。正直、顔の構成が取り立てて素晴らしいというイケメンではないが、トータルすると雰囲気がイケメンと女子が錯覚するタイプ、なんだろう、多分。で、あたしたちは何となく“おつ”と呼んでいる。

― えー、いつまでいるんだろー、早く去ってくんないかなー、早くお迎えしたいよー

 年配の女性が訝しげにこちらを見ているのが視界に入り、そろそろ自分もこの状態に限界を感じ、脳内を駆け巡る『断念』の言葉と葛藤していると、気付いたら携帯を手に取っていた。乙の方に背を向けてLINKを開く。

 〔なぜか○○に乙〕

 〔え、乙君?〕

 たまたま携帯を見ていたらしい千華から即返信。

 〔CUの雑誌んとこにいるから お迎えに行けない(泣)〕

 〔え、なんで?面識ないんだし、サクッと取っちゃえば?〕

 〔同じ制服ってだけで、何かヤくない?〕

 〔いーじゃん、知らないんでしょ?ていうか、乙君だったらいいじゃ~ん〕

― 千華は行けちゃうのかよぉ・・・てか、よくな~い

 〔おし!行くべ(サムズアップ)〕

 そう返しつつも、暫く携帯を持って立ち竦んだまま。

“よし!”と自分に活を入れ、再度亀になって覗き見ると・・・いない。

一気に気が抜け“はあ”と溜息を吐き、気を取り直してやっと目当ての雑誌を目の前にする。やっとお迎えできるというハヤる気持ちを抑えつつ、一番上の雑誌の下から一冊を引っ張り出して手に取る。

 中を少し見てみようか、帰宅してゆっくり拝むべきかで悩みつつ、暫し手に持ったまま表紙を眺め、悩んだ挙句表紙を捲り、目次でページを確認してゆっくり捲る。

― おうふっ!わ~、こりゃいかん!鼻血モノだわ。ぶっ倒れたらダメだから、帰ってからゆっくり

  見よう~♪

 雑誌を閉じようとしたとき携帯のLINKの着信音がし、ポケットの中の携帯に気をとられた瞬間、手から雑誌が滑り落ちる。

― わ、やっば!

 慌てて雑誌を取り上げ、特にページが折れるなどがないのを確認し、雑誌の山に戻す。

― あ~、YとCに傷いかなくて良かった!も~、ホントにゴメンね~~~~~

 胸を撫で下ろすように一呼吸し、同じ雑誌の山の下から一冊を手に取って大事に抱えて持ち、レジに向かおうと立ち上がった。

 「あのさ」

 不意に横から降り掛かる声。これは自分に向けられたものなのか?と不信に思いつつも声をするほうに顔をやると、先ほど立ち去ったはずの先客が憮然とした表情で立っている。

 「あ、乙・・・藤くん」

 面識がないのに、思わず口を突いて出た名前。自分たちの会話の中に勝手に出演させて呼び慣れているというのは恐ろしいもので、ほぼ初対面の相手に“おつ”と言いかけ、咄嗟に“ふじ”をつけてしまい、もう既に別の名前。

 「あのさ、自分で落とした雑誌置いて、新しいの持ってくってどうなの?」

 初対面に“おつ”などと呼ばれてることは全く意に介していないようで、自分の意思だけを淡々と伝える。

 「え?」

 「今、自分、雑誌落としたよね」

― え、何、私、説教されてる!?

 「え~っと・・・」

 表情を変えず真っ直ぐ向かって来る先客の言葉に、焦りながらも言葉の引き出しをひっくり返しながら探す・・・も、何を探せばいいのかわからない。探しモノは何ですか?

 「自分の不注意で落としたんだったら、それ買うべきじゃないの?」

 「え、あ~、え~っと・・・」

― 立ち去ったハズなのに、なぜに戻って来たんだよ!?

 乙が、先ほど戻した方の雑誌を手に取り、「はい」と目の前に突き出す。

 「え?」

 「はい」

 「あ、え~・・・」

 乙は今度は雑誌を持ち替え、表紙のCUがこちらを見ているかのように、真正面に来るように突き出す。

 「はい。自分さ、人が落としたモノ、喜んで買う?」

 「・・・」

 大好きなアーティストのCUを目の前に突きつけられ、雑誌の表紙とは言え見られてる感じ・・・拒否することが出来ず、痛いところを突く。観念して乙藤から雑誌を受け取る。

 乙藤が他の本を脇に挟んでいるところを見ると、どうやら別の本を取りに行き、再度ここへやって来た様子。

― 何でだよ、さっきここいたじゃん、その時持ってけよ~ 泣

 乙藤は自分が購入する分の同じ雑誌を手に取り、さっさとその場を立ち去る。何だ、この顔から火が噴出しそうな感覚は?

 火が少しずつ沈静化し、我に返った。その反動で一気に沸きあがって来る怒りと屈辱、鮮明になる羞恥心。

― ナンなのよ、あいつーーーーー!!

 腹の底に沸々と煮え滾るのを感じつつも、何処にもぶつけられない苛立ち、どうしてくれよう!?誰かに見られたら、いや、誰も見てないだろう。けど、それでも兎に角ここから早く立ち去りたい。

そう、そしてこんな時に限って客が並んでいる。何時でもそうだ、“こんな時に限って”。

 急いでいる時に限って信号に引っかかる、買おうと思った時に限って売り切れ、連絡を取らないといけない時に限って携帯忘れてる、そしてそういう時に限って電話ボックスが見つからない、何の不可抗力なんだろう!?

 ヤツはもう去ったのか?早く立ち去りたい。いらっしゃいませ、と女性店員の声に促され、雑誌を手渡す。ポイントカード、はいはい、現金です、はいはい・・・ああ、きっとこの店員さんは当然のように丁寧に対応してくれているハズ、なのに、この丁寧さが今はもどかしい。店員さん、出来るだけ早くお願いします。

 表紙になっている大好きなCU二人の姿が、店員さんの手馴れた無駄の無い作業工程を経て丁寧に袋に収められて姿を消していく。そういうところに焦点を当てれば、先程の出来事など・・・消えるワケない。


 自宅のドアを開け、ゆっくり閉まるドアを無理やり引っ張り鍵を閉める。このゆっくりと閉まるドア、不審者に追いかけられるなどして逃げている時、絶対追いつかれる、足なんか挟まれたら入られてしまうのに、というのが何時も頭を過る。

 そんな確立は人生の中で〇・〇〇・・・%かもしれないが、実際にそんな目に遭った人にすれば二〇〇%ぐらいの感覚かもしれない。そう思うと、時々このゆっくりドアに恐怖を感じる。のは、推理小説の読み過ぎか?

 部屋に走り入り、床に鞄を放り投げ、でも雑誌の入った袋は丁寧に椅子の上に置いた後ベッドにダイブ。

 「ナンなん、あいつ、むっかっつくーーーーー!」

 ベッドに顔を埋めて叫ぶ。本当は本人に向かって言ってやりたい。でも、自分に出来るワケがなく、敢え無く退散してきた自分自身にも次第に腹が立って来た。

 仰向けになり、制服のポケットから携帯を取り出しLINKを開く。

 〔すばるー 結局どーなったー?〕

 〔ナニ 乙くん―?〕

 何時の間にか乙藤の話で盛り上がっている。

 〔いや~ あいつムカつく(怒)〕

 乙藤との一連のやりとりを、怒りと共に感情いっぱいに皆に訴える。

 〔なに ちょっと乙くんカッコいいw〕

 真利子の反応に脱力感。

 と思っていると、3人とも乙に対して良い印象を持っているようで、今回の行動が逆に信念を持って行動している男子に映った様子。その上、“カッコいい”とまで言い始めている。

― マジか・・・

 〔成績いいのにあそこからうちに来るってだけで謎めいてるのに〕

 〔琴まで何言ってんのーーーーー!!〕

 〔爆〕

― みんな、惑わされたらダメだよ、イヤなヤツなんだってばーーーーー!!

 

 みんなの言う、“あそこ”は、有名大学付属の中等部。何でも、初等部から通い続けて高等部には進まず、受験をして現在に至るらしい。全く意味が分からない。そのまま上がれば楽なものを。

 今のところ、学校ではミニテストではいつもトップ、定期考査でも成績はトップだったし、模試でも教科に寄るも名前を連ねていた。どう考えても成績に問題があって来たワケでは無さそうで、何か問題を起こしたのではないか、家族のほうが問題を起こしたのではないか、父親の病院がヤバイんじゃないか、といった噂は実しやかに囁かれてはいるが、同じ理由が回って来ないということは、実のところ、誰も本当の理由は聞いていのだろう。

 何時も淡々と瓢々とし、何を考えているか分からない雰囲気を醸し出しているが、普通に周りに溶け込んでおり、時に頼られているような様子も見られる。そいうい意味ではミステリアスだが、恐らくそれがみんなの脳内で“イケメン”と変換されているのだろう。

 が、今日で自分の中の“関わりたくない人リスト”に名前が刻まれた、“乙藤宏介”。

 まあ、接点もないことだし、あちらはスーパーサイエンスだから同じクラスになることは一生ないので、学校で出会さなければいいだけのこと。心頭滅却すれば火もまた涼し、だ。落ち着け、自分。

 部屋のドアをノックする音がし、一緒に片付けるから早く食事を済ませてくれという母親からの注文。

 今日は母親のほうが帰宅が早いし、塾から帰宅して食事が摂れる日だから、帰宅後の食事の片付けは自分でしないといけない。洗って貰えるのであれば有難いので、勿論行かないワケはない。

 気持ちを無理やり切り替えて「はーい」と快さそうな返事をし、白い着物を着て正座をし、バケツの水を3回ほど自分に浴びせる空想。取り敢えず食事。

― 雑誌は後で読もっと

 《雑誌は後で読もっと♪》

― また出た。いや、うん、気のせい、気のせい、ご飯、ご飯・・・服・・・はいっか、このまま食

  べちゃえ

 気にしないフリをしてそのままベッドから起き上がり、キッチンに向かうべく部屋のドアを開け、何となく振り向き、何となくアッカンベーをしてから部屋を出る。


 自分の好きな女優が出ているドラマを観ながら一瞬ため息を吐き、小松菜としめじのオイスター炒めを口に運ぶ。“どうせまた、い~よな~、カワイイ人は、とか思ってたんでしょ“などと、母親が洗濯物を畳みなが突っ込んで来る。仕方ないではないか。

 そりゃそうだろう。だって、生まれつき、遺伝、自分の努力でなく、それによって可愛い、スタイルが良い、それだけでスカウトされて仕事をゲット出来る人がいる。勿論、そこからは自分の努力如何だが、どれだけ望んでも努力しても、まずそこにも行けない人は五万といるのだ。

 「世の中、不公平だな~」

 「世の中は不公平よ、そんなの当たり前じゃない」

 洗濯物を畳みながら母親が返す。こういったことを言う時の母親は険がある。

― おお、何時ものことながら、子どもに夢を与えることの出来ない人だ

 小さい頃から変わらないそんな返しのせいで、あたしがこれまでどれだけ一部の大人に“可愛くない子ども”認定されてきたことか。夢を持つ、なんて小1ぐらいの時までしか記憶がない。

 周りが、どう考えてもなれそうにないような夢を語っていても、何故そんな楽しく夢を語れるのだろう?と思っていた。今思うと、自分がそういう無邪気にポワポワしていられる環境になかったんだな、ある時思ったことがあるが、と今の母親の言葉を聞いて確信を得る。物心付いた時から、妄想・空想は頭の中でいつもグルグルしていた気はするが。

― まて、オッサンも妄想?いや、違う、見えてるもん。頭の中で広がる空想・妄想とは意味が違

  う。

 茄子の揚げ浸しを口に運びながら、ふと思い出した。

― そう言えばお祖母ちゃん・・・

 「お祖母ちゃんてさ、若い時とか可愛いかったのかな?」

 「は?何、突然?」

 「いや、何か、おばあちゃんが前に・・・あ、口調がって言うか、その~・・・」

 今何かが頭に浮かび、というよりも思い出して来た映像・・・というか、祖母のことを母親に問うのは避けたほうがいいにも関わらず、思わず出てしまってどう収めればいいのか。

ただ・・・何か思い出しそうで出せないのは気持ち悪い。スッキリしたい。

―・・・そう、あれは小さい頃に茄子とピーマンの白味噌炒めを食べてた時だった

 おぼろげな記憶。

― 何で今?いや・・・でも思い出して来た、そう、あ、来た来た・・・かも・・・

 まだ祖母が入院していない頃だった。祖母が、“あたしは昔、美人さんと持て囃されたんだ。なのにあんたのお母さん、誰に似たんだろうねぇ”などとディスっていたことがあった。 

 それは暗に、というか明らかに“自分はキレイ、自分は可愛かったが、母親は父親に似てキレイでも可愛いくもない”と言っていたということだ。その時は多分、それを聞いて何となく不快に感じながら、自分なりに怒りも感じながら、言い返す力も無く記憶に蓋をしてしまったのだろう。

 今でも茄子とピーマンの白味噌炒めがあまり好きではないが、今解かった。自分にとっては、そんなことが結構なショックだったのだろう。母親がディスられたというよりも、言い返せなかった自分にかもしれない。

 にしても、今態々“お祖母ちゃんがディスってたよ”なんて言う必要はないし、自分から見ても祖母は性格がひん曲がって捻じくれていたのだから、今の自分ならそれを真に受ける必要はない。のに、漠然と浮かんで来たことを何故に言いかけてしまった、自分?何故に今思い出したのだ、自分。 茄子の揚げ浸しと茄子とピーマンの白味噌炒めじゃ、重なっているのは茄子だけではないか。

「ん~、どうなのかな~・・・」

 自分で撒いた種とは言え、微妙な空気を作り出してしまい、この空気が観ているドラマを霞めてしまった。TVのほうに目をやっても、内容が全く入って来ない。

― ああ、途中見逃してしまった・・・自業自得・・・取り敢えず茄子の揚げ浸し・・・

 ソソクサと食を進める。

 「あ~、ちょっと聞いてみただけだから、別にいい」

 「ん・・・」

 母親は、何となく歯切れの悪い返事を残し、再び畳んだ洗濯物を持ってキッチンを通って何処かに行った。TVの中では自分の生活とは程遠い話が繰り広げられ続けている。

 そう言えば、母方の祖父の話はあまり聞いたことがない。と言うか、母親が生まれてすぐに死んだとだけ聞いて、特に写真などもなく、一度母親が祖母に聞いたら発狂されたそうで、母親もよく知らないということだけは知っている。

― そう言えば、お祖母ちゃんの昔の写真とかも見たことないな~・・・

 まあ、あれだけガミガミしたお祖母ちゃん家には出来るだけ行きたくなかったし、家の中を勝手に触れるような関係性は作られていなかったし、正直、病院行くのイヤだったから、その当時は興味も湧かなかった。

 なので、家の中を物色などもしたことがなく、祖母が亡くなった後も伯父が一切こちらに手をつけさせなかったので、最後まで見たことがなかった。

 残りの鰹のタタキ一切れを口に運び、食事を終えてすぐに立ち上がり、食器をシンクに運び、そそくさと部屋へ向かう。自分の間抜けさにやっちまった感。

 部屋に戻ると、机の上の本屋の袋が目に飛び込んで来て、一瞬にして気分はお祭り状態。何と現金な、と自分でも思う。

 飛び掛るように袋を持ち上げ、とすんと椅子に腰掛けて、しばし袋の上から雑誌を擦り、それから少しして丁寧にテープを剥がして袋を開け、雑誌をそろそろと取り出す。

― うわぁお!

 表紙に在らせられるCUの姿に、思わず声を挙げそうになる。何と麗しい造形美。

― お待ち申し上げておりました

 暫し表紙を眺めた後、再び表紙を恐る恐る触る。

― おお~、CUの顔に触っちゃってるよ~、あたし。何と神々しい

 そして、逸る気持ちと共にCUについてを掲載されているページを開く。文章の前に飛び込んで来る二人の雄姿。まあ、何ということでしょう。

― おっほっほ~~~~~、ヤバ

 今、日本には同士達が自分と同じことを感じながら、同じようにページを捲り、同じように発狂しているのだろうと思うと感慨深い。

 映画館やライブ会場なんかで、同じ場所にいて喜びを分かち合い、同じようなリアクションが生じるのは当然だが、其々の生活をしているのに同じような喜びを感じ、同じようなリアクションを取っている可能性があるワケで。それだけも楽しい、歓喜の歌を。

 CUを知ることがなかったら、遠く離れていても仲間を、同士を感じられる喜びを得ることはなかった。世の中はこんなにも世界が広いことを知る機会もなかったし、逆に、子どもの世界って極狭住宅なんだとも。

 《おっほっほ~、ヤバ》

― ・・・出た、人が夢心地の中・・・

 《へっへーい!》

 オッサンが、携帯の上でエアギターをしている姿がクッキリと見える。慌てて携帯を取り上げ、携帯に不具合がないか必死でチェックし、何事も無かったことが確認。なぜ人の気分をぶち壊すか、与太者め。

 と、そんな中でも、雑誌は落とさない、落とせない、無意識の行為に思わず心の中でガッツポーズ。

 「おい、クソ親父!人の物、勝手に触んないでよ!」

 見失ったオッサンを探すも、すぐに見つからないから、ああ、胸がムカムカする。

 「オッサン、そのうち椅子捨ててやるから!」

 《どんぞ~。別に置いてくれとか言うてへんし》

― ・・・バキバキに壊してやる 

 《でけへんクセにw》

 「ふん!」

― 無視だ、無視。こんなことに使う余分な労力は無し。全てCUに集中!

 椅子に座り直して姿勢を正し、携帯を手に持ったまま再び雑誌に着手。

 「わ~、いらっしゃいませ~!うはん、カッコい~!!も~、ど~しよ~!!」

 一つのページをまじまじと眺めながら、二人の雄姿に一人ニヤニヤ。次のページに行きたいが、今のページを離れるのも難し。

 写真なので立体感も無いのに、何となく表紙を二人の姿を手で擦ってみたりする。何故だろう?思わず擦ってしまうのは自分だけではないハズ。

 グッズを売っている店などへ行くと、推しを見つけたファンは突如目の前に現れたその姿に絶叫し、そして擦る。一体、どういう習性なのだろう?これは世界共通なのか、それとも日本人特有なのか。

― ああ、なんという・・・“眉目秀麗”とはこの二人の為にある言葉だわ~。もう素敵過ぎるー

  ー!!ホント、傷つかなくてヨカッタ~ん・・・あ、イヤなこと思い出した。折角素敵男子を見

  てるのに、思い出すなよ~自分

 「あ!や~ん、CU見ながらあんなこと思い出すとか最悪~、ごめんね~」

 《雑誌見て笑ろたり泣いたり、キモいのぉ》

 「う・る・さ・い。てゆーか、いい加減出てくんのやめてくれる!?」

 《だーかーらー、普通は見えへんねんて。お前がガキやから悪いねん。はよ大人になりなはれー》

 「じゃあ、何で見えない時があんのよ」

 《知らんがな》

 姿がなく声だけ聞こえると、からかわれてるような気がして余計に気に障る。が、巻き込まれるな、一旦深呼吸・・・

― 捨ておけ、捨ておけ、捨ておけ、捨ておけ、捨ておけ、捨ておけ・・・しまった。“捨て置

  け”と言ってる時点で意識丸出しではないか。残念で仕方ない、自分

 と、気付くと目の前、雑誌の上でオッサンがゴロゴロ転がっているのが視界に入る。

 「ヲイーーーーーーーーー!!」

 咄嗟に携帯でオッサンを払い除けるが、空振り。というより消えた。どれだけ素早く手を振っても当たらない。それでも、雑誌のCUのページが傷つくのをを守るために、一旦雑誌を閉じて紙袋に入れて机の上に置く。

 《オツってヤツ、オトコマエやのぉ。最近の若造にしては大分出来がええのぉ》

 「はあ?どこが?見たことないのに、何言っんのwてゆーか、勝手に人の頭覗かないでくれ

  る!?」

 《勝手に聞こえてくるし、オマエが勝手にいろいろ想像するから悪いんやろ~。そんなん言うな

  ら、そのアホみたいな脳みそ、なんとかせえよ》

 雑誌の入った袋の先のペン立ての周りを、オッサンがスキップしながらくるくる回っている姿がある。

 トドノツマリ、自分の状態はこのオッサンにとって“サト○レ”状態なのだ。再放送のドラマを観たことがあるが、想像力にも限界が。

― “この野郎”というのは、こういう時に出てきてしまうもんなんだ。ああ、マジでウザい、この

  オッサン

 《ああ、マジでウザい、このオッサ~ンw》

 明らかに茶化されているこの状況で口調を真似され、イライラしない人がいるだろうか。と言うか、イライラを超えて卒倒しそう。黙っていても聞こえるのだから、取り敢えず言い返せ、溜め込む必要などない。

 「オッサンさあ、何見てオトコマエとか言うのよ。イミフなんだけど」

 《オトコマエ?やってることがカッコええっちゅーことやんけ》

 「は?カッコいい?何が?イミフなんですけど」

 《あんな、お前の目の前でお前と同じことやってるヤツ見たらどう思う?》

 「は?」

 《あ?わからんか?目の前に雑誌読んでる人がいますぅ。いきなり雑誌落としましたぁ。それを戻

  してちゃうの持って行きましたぁ。残りはその一冊しかありまへ~ん。どうする?言うとんね

  ん。落とした雑誌見ると、ちょい破れてましたぁ、どないする?》

 淡々と漫画の一コマ一コマの説明をするように、全く関係のないジェスチャーをしながら追い詰めて来る。何故にこんな世の中に存在しないような妖怪みたいなのに、何故自分がこんな追い詰められ方をせねばならないのか?

 《ほらな》

 「は?」

 《“は?”ちゃうわ。お前、ワシの言葉にぐうの音もでぇへんやん 笑》

 「は?」

 《恥ずかしがらんでもええがな、どうせワシに嘘言うてもあかんて。バレバレやねんから》

 オッサンが机の上に胡坐をかいて座り、腕組みをしてこっちを見上げ不敵な笑みを浮かべている。顔が引きつる。

 歯軋りってあるんだ、と今知った。どのぐらい続けると、歯が磨り減っていってしまうのだろう?このオッサンがいる限り、若干この年齢でどんどん歯が磨り減っていくのを食い止められないのではないだろうか?

 「そのシチュエーションならそうかもだけど、まだいっぱい雑誌あったし、皆やってるし。てゆー

  か、あたしが落としたのは破れてなかったし」

 《ほほ~。皆って誰?ほんじゃあ、この二人が目の前におって、ほんでも同じことできるんか

  ぁ?》

 オジサンは雑誌の袋を両手で指差し、片方の眉を顰めてすばるを見上げる。

 「え?」

 《オマエ、頭悪いんちゃう?“え?”ちゃうわ。そのオトコマエがこの二人やったら、そんでも同

  じことできるんかー!?って聞いとんねやー》

― ・・・二人がたまたま見てるのに気付いたら・・・テンパって固まる・・・

 《アホか、そこちゃうわ》

 「いや、固まるでしょ。て言うか、そこにCUがいるっていうだけで天にも昇る気持ち・・・見ら

  れてる・・・無理!恥ずかしい!」

 《そこちゃう言うねん、ハゲか。オマエは二人の前でも同じことやるんかー、って聞いてねん》

 すごい勢いで雑誌を拾い、アタフタしている自分が見える。

 《ほら見ぃや、好きなヤツの前やったらでけへんのやんけ。それをオトコマエに注意されて文句言

  われてやな、そんなん怒るほうがオカシイわい》

 オッサンは踏ん反り返って腕組みをして大きくウンウン頷き、勝ち誇ったような様子。その様子に言い返す言葉が見つからない。このオッサン、人の痛い所を突いてくるとは、いやらしいタイプ。

 「や~ん、CU、嫌いにならないで~、今度から気をつけるから。何時誰が見てるかもわかんない

  もんね。どっかから話が回ってって、“あのアーティストのファンって最悪”とか言われたら二

  人に迷惑かかるもんね~、えへっ」

 頭に浮かぶCU二人に謝罪。そしてCUは“大丈夫”と笑って返してくれる。

― ありがとう、流石CU、心が広い、性格いい、優しい!

 《も、アホやな》

 机の上のマグカップの取っ手に攀じ登っている途中のオッサンが視界に入る。

オッサンなんてどうでもいい。これから雑誌の中の二人を堪能するのだ。目次も逃さない、記載されている名前も見逃さない、小さな写真も見逃さない、自分だけの至福の時間。

 「きゃー!何コレ、カッコいー!!アーティストなのにモデルみた~い、ひゃー!ひゃー!ひゃ

  ー!!もう、カッコいいぃ~ん」

《病気やな》

 

 昼食時間は忙しい。学食に走る生徒、売店に走る生徒、教室に友達で集まって弁当を広げる生徒、校内放送も聞いているか否かに関わらず毎日同じように進められる。

 うちの高校の売店には、世界を渡り歩きイタリアのレストランで修行を積んだことのあるという奇特な卒業生が営むパン屋のパンを、母校の為に安価で置いてくれている。売り切れ必至の人気の為、希望者が順番に整理券を得て、注文を先に受けておいてその日付に取りに行く。

以前、早い者勝ちにしていた時があったそうだが、平等には買えないということで、そういう形にしたらしい。まあ、そのほうが有難いのだけど。

 自分も普段は母親の作ったお弁当を持参しているが、折角なので時々希望してゲットしている。お気に入りは、ベーコンとチーズのエピと焼きカレーパン。ありがとう、先輩。母校をここまで思える先輩のように、自分もこの高校に来て良かったと思える生活を送りたい。

 昼休み、何時も通り四人で集まって弁当を広げる。

 千華が、朝から妹とバトルをし、お弁当を作る時間が短くなり、如何に大変でてチャーハンになってしまった、という話をしながら、ブロッコリーの塩茹でとプチトマト以外全てチャーハンのお弁当見せてくれる。しかしながら、鶏肉ゴロゴロ、卵、玉葱、葱のみじん切りが入っており、栄養としては悪くない。何より、自分で作っているところがエライ。

 そのバトルの理由が、千華のお気に入りのシュシュを勝手に使った、というもので、自分には一生あることのない姉妹のやり取りに、大変さよりも少し羨望のほうを感じる。ただ、もうその羨望も随分前に小さくはなってしまってはいるが。

 「また?永実ちゃん、それ多いね~ 笑」

真利子がペットボトルのお茶の蓋を開けながら笑う。

 千華は思い出すと腹が立つようで、ブロッコリーにフォークを刺し、怒りの勢いそのままに齧り付く。怒りながら食べると、味分からなくなると聞く。千華は、味を感じられているのだろうか?

 「え~、シュシュぐらい良くない?妹とシェアできるのとかってウラヤマ~。弟なんて、まあ借り

  てもTシャツぐらいよ」

 「はぁ~?お気に入りよ?大事にしてるの知っててさあ、無断でとかあり得なくない?あー、妹な

  んかじゃなくて上が欲しかったなあ」

 「わ~か~るぅ、お姉ちゃん、欲しかったぁ。あたしなんて上下男じゃん?」

 「あたしも、四つ上のお姉ちゃんと二つ上のカッコいいお兄ちゃん欲しかった~」

 「何、すばる、その具体的なのw」

 「え~、何か周り見てたら総じてそういう結論になった、はは。四つ上だと近すぎないからケンカ

  少なそだし、一緒に服買いに行ったり貸し借りできそうじゃん。カッコいいお兄ちゃんはやっぱ

  し、“ねえ、3年の有本さんってすばるのお兄ちゃんでしょ?いいな~、カッコいいお兄ちゃん

  で~”“そぉ?別にそうでもないけど”とか言いつつちょっと自慢、みたいな?」

 一人ニヤニヤしながら、空想話を展開。いや、この空想は何百回、何千回としたことか。自分にとっては朝飯前の、特段変わったことでもなく、それこそ、ご飯を食べるかのようにする程度の空想。杏ちゃんや航くんがいてくれたから一人っ子であることを不便に思ったことはないが、本当の兄弟がいたらどうだったのか?と考えたことは勿論あり、この結果。

 ただ・・・幾度考えたところで、うちの家系を考えると、杏ちゃんや航くんのような性格も頭も良い兄弟がいるとは思えず、現状が妥当なのだろうということで納得している。

 「都合良すぎwお兄ちゃんがカッコいいとは限らないから。うちなんて兄弟みんな父親そっくしで

  さ~、上も下もぜんっぜんイケてない。お母さんに似てたらもっと目も大きかったのにさ~。遺

  伝子の掛け合わせって選択できないってどうなの!?って感じ。現実ってそんなもんよ~」

 そう言って、こちらを諭すように肩をポンポンする真利子。恐らく真利子の言うのが正論だ。

とは言え最近要所で感じるのは、そう口では言いながらも、其々がちゃんと家族としての愛情も持っているのが感じられる、と言うこと。

 勿論、兄弟本当に悪しき仲の家もあるから実際に事件も起きているし、現にうちの母親と伯父さんは絶縁状態。

 でも、少なくとも、真利子も千華も琴子も兄弟姉妹を大事に思っている。自分には、一生理解出来ることのない領域だ。それでも、彼女たちの話を聞いているだけで十分楽しい。

 「そんなもんか~。科学も医学も進んでも、遺伝子操作とかは人道的な部分で、やっぱ難しいんだ

  ろうな~。でもさ、真利子のお兄さん、○○大の理工学部でしょ?頭いいからいいじゃん」

 「や、そうなんだけど~、でもバカだよ、アイツ」

 真利子は何時もそう言うが、エピソードを聞くと愛すべき兄だ。

 「それで言うと、琴んとこのお姉ちゃんってキレーよねえ、琴もカワイイし」

 千華が思い出したように琴子のほうに目をやる。

 「あ、千華、見たことあったよね」

 「うん」

 千華曰く、一度琴子と姉が一緒に歩いているところを見かけたことがあり、長い黒髪の、睫毛長く目がパッチリのモデルのような様子だったと、目を丸くして、フォークを弁当の蓋の上に置き、ジェスチャーで大袈裟に髪の長さや目の大きさなどを表現して説明してくれる。

 「お姉ちゃん、それよく言われるけど、そういうの全然気にしてないみたい。弁護士になりたいっ

  て言ってて、法律の話にはスゴく食らいつくんだけど 笑」

 琴子は苦笑しつつ続ける。

 「うちはお姉ちゃんと体格も違うし服の趣味も違うし、貸し借りとかないな~」

 「う~ん、理想と現実のギャップって・・・」

 残しておいた玉子焼きを口に頬張り、喋りながらも日本の伝統芸である玉子焼きを味わ

う。他に意識が向いていても、無意識で味わうことが出来る、食べ慣れた玉子焼きの素晴

らしさよ。

 「ところで、昨日の怒りは収まったの~?」

 うずら卵が二つ刺さった串を手に、琴子が聞いてくる。当然、乙の件だ。

― あ、思い出すとやっぱ腹立つ

 「あ、うん。乙はまあさて置き・・・ほら、あの~、なんだ。CUの前で同じことできないな~と

  か思ったら、まあ、もういっかぁ、と思って」

 オッサンに言われた言葉を使うのは不本意だが、結局これが一番話が収まり易いのだろうと判断。惨敗。

 アハ、と乾いた笑いをしつつも、その話が広がらないことを願い、食べ終えた弁当箱をサッサと片付け、机の横のフックに掛けてあるサイドバッグに仕舞う。

 「あ~、そういう基準w ま、あたしも山下先輩の前だったら、“あ、コイツ最低”とか思われた

  くないからな~、落とした雑誌拾ってレジ持ってくかな~」

 千華は同調しているのではなく、空想に耽っているのだ。噴出し方向に視線を向けているのが分かる。同士だ。

 こういう対象がいると、言動や行動の抑制が効くこともあり、悪くない、と思う。勿論、自ら律することが出来ればそれに越したことはないが。

 「乙くんって何となくカッコいいよね」

― 唐突!どうした、琴!?それ持ち出す!?収束を願ったのにぃ 泣

 思わず目を剥いて琴子を見る。

 「すばるの好きなウズラ、いる?」

 有無を言わせない和やかな微笑みの琴子に見つめられ、自分に向けられたその言葉に、思わず「うん」と頷き、琴子が手に持つ串に一つ残ったうずら卵に食らいつく。・・・美味い。

 琴の可愛さはズルい。色が白くて、髪と瞳の色が茶色でふわっとしていて、見つめられ

ると思わずニコっとしてしまう自分がオヤジのようだ。


 「すばるちゃん!」

 マンションの前に着き、自転車を降りて駐輪場に向かおうとした瞬間、名前を呼ばれた。

 聞き覚えのある声に一瞬背筋が伸びる。聞き違いであることを切に願いつつ、恐る恐る声のするほうに顔を向けると・・・出た、日傘を差し立っているハナフサさん。

― うわぉ、出た!

 一応“どうも”と会釈はしたものの、何だか気まずい。どう対応すべきか考えるも、頭が回らない。『蛇に睨まれた蛙』とも違う、どう表現すればいいんだろう。『不思議の国のアリス』がいろんな生き物に出くわす瞬間、みたいな?いや、そんな素敵な話ではない。

 サッサと駐輪場に向かえば良いのかもしれないが、駐輪所に自転車を停め、鍵を抜いて鞄を取り上げて、という一連の作業している間に掴まる、どっちにしても掴まる。それを思うと動けなかったが、逆に、自転車乗って立ち去ればよかったのでは?判断ミスった・・・

 「すばるちゃん、これから塾か何か?」

 「あ、え~っと・・・」

 「おばさんとお茶しない?」

 「あ~、いや、それはちょっと・・・あの、友達以外でお茶したりすることは母に止められてます

  ので。それじゃ」

 そそくさと自転車を駐輪場に止めに行こうとすると、引いている自転車が途端に動かなくなる。重い。嫌な予感。背中を伝う汗。只でさえ暑いのに、それとは違う半端ない量の汗が滴る。

 考えなくても何が起こっているか容易に想像できる。ホラーだ・・・

 「ま~あ、そう言わずに。あ、じゃあ、これ一緒に食べない?」

 花房が、両脚を突っ張り、右手で自転車の後ろの荷台を掴んだまま、左手に持つ何かを

掲げる。一瞬その姿に戦慄が走ったが、次にどこかで見たことのあるロゴが目に飛び込む。

と、その一瞬の隙にハナフサさんがグイっと間を詰めて来た。これは非常にマズイ。メデュッサに見つめられて固まる人たちって、こんな感じだったのでは?いや、今はそんなことはどうでもいい。自分の瞬時の判断能力の低さに灰心喪気。

 ぐいぐいパーソナルスペースに入り込んで来られ、自転車もガッツリ掴まれて避けるこ

とが出来ず、母親の先日の怒りの形相との狭間で、頭の中ではとてつもなく激しく葛藤。

 「よかった~!ね、これ一緒に食べましょ!あ、お家、お邪魔してもいいかしら?」

 「あ、それはダメです。母の許可無しに人は入れられないので!」

― “それは”じゃないだろ、ダメなんだよ、全くダメなんだよ~~~~~ 泣

 「あ、じゃあ、あそこの公園でどお?座るとこあるし」

 「え?」

 「ね、ね、行きましょ、行きましょ」

― 何だ、その提案は!?

 「あ・・・」

 ハナフサさんがあっという間にハンドルを奪い、隣接する公園の方へと歩いて行く。しかし、こちらの承諾無しに人の物を奪っていくのは犯罪なのでは?と思いつつ、成すがままになる自分の心の弱さを呪う。

 何時もそうだ。後から注意をされるかもしれない、怒られるかもしれない、と頭を過りながらも、目の前の勢いに飲まれる、いや、長い物に巻かれる。意志が弱いと言われればそれまでだが、分かってはいても、その場面に出くわすと勢いに負ける。

 こんな自分でも、何時か強くなれるのだろうか?

 しかし、これは本当にヤバイ状況。この時間に母親に見られることはないと思うが、もし万が一にでも母親が早退をして見られてしまったら・・・想像に難くない。

 が、しかし、自転車を奪われ成す術もなく、ヨタヨタと後をついて行くことになってしまっている。頭を過るのは、不快しかない母親のため息による圧力と怒鳴り声。

 公園のベンチの横に自転車を止め、こちらを見て手招きしているハナフサさん。何をそんなにニコニコしているのか、何ともウソ臭い笑顔。あたしを手懐けても何もない気がするが、ハナフサさんの目的は母親だろうから、それは一生懸命にもなるだろう。

 が、その母親にも一体何の用なのか。確かに後をつけて来て家を特定して、何をしたいのだろう?ただ懐かしくて話がしたいとしても、あの母親の様子では絶対に無理だろう、母親の方に良い印象がないのだから。それを言ったほうがもう近寄って来ないのでは?と思いつつも、自分にとってはほぼ知らない人なので、変に刺激して豹変されても怖いしで、態々自分で蜂の巣に石を投げる必要はない。

 この公園はあまり大きくはないが最低限の遊具があり、周辺の住人がよく利用している。

 小学校低学年ぐらいの三人の女の子が練習なのか、何度も鉄棒で逆上がり、前回りを繰り返し、時々何かを話しては再び始める。分かる分かる、出来ないとムキになるし、出来るようになると何度でも回りたくなる、ちょっとした高揚感。

 ジャングルジムで鬼ごっこをしたり、公園の隅っこで何かを探しているらしき男の子。こんなに無邪気に遊んでた時が懐かしい・・・

 「さ、さ、そこ座って!」

 無駄に元気なハナフサさんの勢いに乗せられ、言われるがままにベンチに座る・・・しかない感。

― これ、お母さんにバレたら、また機嫌悪くなるよな~、マジでヤバイよな~・・・さっきこの

  人、何かで拭いてたな・・・気が利くと言えば気が利くんだよね。それが逆に断り辛いって言う

  か・・・

 小さくキョロキョロと辺りを見渡し、まだ帰宅するハズもないのに母親がいないことを確認し、借りて来た猫のようにベンチで大人しく座っている自分って何?。

 ハナフサさんが持っていた袋から箱を取り出し、いそいそと開けてこちらに中身を見せる。

― まずい・・・

 袋に既に『Bread Guarden』の文字が見える。ここのブレッドプディングだとしたら好奇心が挑発されてしまう。これまたTVで観たことのある、しかも並ばないと買えない系。どうしてこういう店が多く存在するのだろう。

 「すばるちゃん、どれがいい?」

― ・・・ロックオン 泣

 ハナフサさんから、箱に添えられているお店の紙ナプキンとプラスチックのフォークを渡され、好きなものを取るよう促される。高揚する衝動を止められず、ブルーベリーと思われるカップを手に取る。ああ、なんと言う・・・

 「や~ん、すばるちゃんってツウね~。それ、一番人気なのよぉ」

― 褒めるな、褒めるな、余計に罪悪感より高揚感が増すではないか

 褒められて嫌な気がしないワケもなく、結局ハナフサさんの勢いに飲み込まれた。自分の意思の弱さを、後で嘆くことになるのに。

 まじまじといろんな角度から見つつ、意を決しておそるおそる口へと運んでいくが、もう匂いだけでも美味しい。これだけでヒーリング効果。

― ん~~~~~~~~美味しい~~~~~~~~!!

 目が飛び出る、目を剥く、鏡を見なくても、自分でも分かる。

 「美味しい?」

 思わずハナフサさんを見て、超高速で頷いてしまう。もう、ハナフサさんの不自然な作り笑いとかどうでもいい。

 ハナフサさんは横でテキパキと、ベンチの上に敷く布巾だの水筒だの紙コップを自分のバッグから取り出し、手際良く“お茶しよう”のセッティングを進めている。

 「はい」

 ハナフサさんから手渡された紙コップ、思わず手を出してしまう。紙コップの中には、キレイなルビーのような色の濃い紅茶が注がれていて、紙コップの色が白いので、そのルビー色っぽさが鮮やかだ。

 「あ、すいません」

 紅茶の入った紙コップを受け取り、そろそろと口に運び一口含む。適度な温度で飲みやすく、丁度味を感じられる程度の程良さ。芳醇な紅茶の香りと適度な渋みが口の中をスッキリさせる。

― ・・・うわ~、ウマ・・・何か恍惚・・・

 「美味しいでしょ~、この組み合わせはサイコーなのよぉ!食べて、食べて」

 ハナフサさんに言われると何となく違和感があるのだが、美味しいのは事実。きっとこれが慶子さんであれば、素直に“そうなんだ~”となると思うが、何だか印象にズレがある。

 「すばるちゃんは今何年生?賢い学校に通ってるのねぇ。お母さん似なのねぇ」

 「え?お母さん?」

 「あら~、お母さん、お勉強よく出来たのよぉ。知らない?」

 「へ~、知らないです」

 既に、美味しく芳しいブレッドプディングに鈍くされてしまった脳を動かし、記憶の倉庫を引っかき回す。どこを探っても、お母さんの成績だとか卒業した学校だとか、詳細を聞いた記憶がない。知っているのは、高卒で就職した、ということだけ。そう言えば、母親はあまり昔の話をしない。

 ハナフサさんの話では、母親はどこかの国立大学には受かったが、祖母が進学を反対したとのことだ。受験も祖母に黙ってし、受験料も誰か知り合いに借りたのだそうだ。

― てか、どこの大学だったんだよ~、覚えててよ~

 “どこの大学だったのか覚えていない”とハナフサさんが苦笑するのを見て、話自体がもうホントか嘘か見分けが付かない。本当に思い出せないのか、適当に話しをしているのか。

 進学よりも働いて欲しいという祖母の要望を受け入れた、とハナフサさんは言ったが、あの祖母がそんな要望の仕方をするとは思えない。あたしの記憶に残る祖母はいつも怒鳴っていて、“お願いだから、大学は諦めて働いて欲しい”などと愁傷な感じで懇願したなんてことは考えられない。

 「ところで、すばるちゃんは今何が好きなの?」

 「え?何って?」

 「ほらぁ、何か趣味とか、好きなアイドルとか」

― いきなり話飛ぶのかw

 と、話の流れでCUの説明を始めたのはいいが、この素性もよく判らないハナフサさんの相槌と絶妙な誘導に乗り、CUに対する溢れる思いを話し始めると、これがほら、止まらないというオタの悲しい性。思いが募り、口から次々と溢れるCUへの想い。

 しかもこのハナフサさん、何処までも話を聞いてくれる。母親に話をしても大して聞いていないので、今はこんな風にCUの話をすることはない。

調子に乗って話をしていて止まらず、後から自分のバカさ加減に呆れてしまうぐらいだ。

 暦と比例して陽も短くなってきている。季節は進んでいる。公園から見える遠くの空も秋の色・・・

― ん?

 「あ、ヤバっ!あたし、塾が!」

 時計も見ずに力説をしていた自分、ブレッドプディングに脳をトロトロにされた自分、一瞬見えた腕時計の針の意味を理解できず、焦り、慌てふためき、頭の中は軽くパニック。今自分が何をすべきか優先順位がつけられない。

 「あら、大変」

 ハナフサさんが手際よく布巾の上を片付け始めると、あっという間に元のベンチ。“お茶しましょう”の跡形もない。

 そして、持って帰るようブレッドプディングの箱が入った袋を差し出す。母親に怒られるからと拒否をしてもグイグイ押してくる。

― この現状を知られただけで激しく怒られるってのに、またもらったりなんかしたら、市中引き回

しの刑に逆さ貼り付けだわ~!!

この細い体から、どうやったらこんな押す力が出るのか。いや、押し付ける力と言うほうが正しい。

「いいから、いいから!じゃ、またね」

 ハナフサさんは無理やり手に袋を握らせ、笑顔で何度も振り返りつつ、手を振りながら去って行く。

― わ~、どうしよ~、コレ・・・わ、マジで遅刻する!

 急いでカゴの中に鞄と箱の入ったビニール袋を入れ、自転車に飛び乗り公園を後にする。

 塾から帰り、着替えもそのままに、キッチンで冷蔵庫から麦茶を取り出し、マグに入れてレンジで少しだけチンして、一度口に運ぶと次から次へと飲まずにいられず、思わず左手を腰に一気に飲み。ふぅ~、と息を吐いてから、横に置いていたお弁当の袋から弁当箱を出して洗う。

「すばる」

「ん?」

入浴を済ませて出てきた母親が、髪の毛をタオルドライしながらキッチンに入って来て、こちらに声を掛けてきた。

― ・・・あれ?何時もなら“お帰り”が先に聞こえるような・・・何となく、いや、明

らか不機嫌な声、ヤバイやつ。ただの不機嫌であることを願う

「今日、誰かと会ってたんだって?」

「は?」

― オーマイガーッ!何かバレてるぞ、ヲイ!どーするよ自分!?どーするよーーーーー!

「・・・塾?」

「じゃなくて」

― それ、ハナフサさんってことだよね、だよね、だよね。何で知ってんだ!?残りのブレ

ッドプディングは塾で配って来たから跡形もないのに!

「・・・じゃなくて・・・」

 横を向けない。どう言えばいいのかあれこれ思考を巡らせフル回転だが、ただ闇雲に頭の中を掻き回しているだけで、何を言うべきか、何を伝えるべきかが導き出せない。何か口から突いて勝手に出てきてくれればいいのにとさえ思う。いや、そうすると著しく的外れな言葉が出てきて、もっと修羅場になる可能性も。それは危険過ぎる。

「お隣の平塚さんが教えてくれたのよね。一緒にいた人の姿形、また花房さんじゃない

の?」

 固まったまま何も言えず、背中に流れる汗が止まらない。服の中がじんわり湿気て気持ち悪い。次第に脳が痺れて来て、動作も思考も停止寸前。

「声掛けられても無視するよう言ったわよね。何でまた?またお菓子で釣られた?」

― 釣られたって・・・勢いに負けたって言うか・・・

 残りを塾で配って、跡形も無ければ分からないだろうと踏んだあの時の浅はかな自分にグーパンしてやりたい。咄嗟の嘘なんてつけないのだから、もしバレてしまった時の言い訳をどうして考えなかったのだろう。“誰かに見られたら・・・”と頭の隅を過ったのに、何故・・・

しかし・・・何だかじわじわイラついてきた。お母さんはあの勢いを知らないからそんな風に言えるんだ。こっちの苦悩も知りもしないで、ただただ非難されるのは納得がいかない。ムカつく。

 「べっつにお菓子で釣られたわけじゃないし。あのオバサン押しが強いから、拒否れなかっただけ

  じゃん。大体さあ、何がダメなの!?ちょっと押し強いけど、話聞いてくれるし、気がいいただ

  のオバサンじゃん!理由も言わないでダメダメ言われて文句言われてさ、何なの!?あの押しの

  強さ知らないからそんなこと言えるんだよ。拒否るのが大変なのに、こっちの身にもなって

  よ!!」

 「ちょっと、あんた!」

 出た。最近は減っていたけど、この母親の張り上げた声、怒鳴り始める3秒前。それを聞くだけで、体が勝手に強張る。

 小さい頃はそこから動けず固まり、怒鳴られ続けていたが、その頃とは違い、今はそれを察知するとすぐにその場を立ち去る。理不尽に怒鳴られてたまるか。

母親の声を無視し、洗っている弁当箱を放置し、泡だらけの手をタオルで拭い、部屋へ走り込み、勢いよくドアを閉め鍵を掛ける。

 だが判っている、母親は必ずやって来て激しくドアを叩き、“親”という力で意地でもこちらをねじ伏せる。半分、子どもの為というよりも、鬱積した感情の発散、憂さ晴らしじゃないのかと感じるほどだ。しかし、今回は自分は何も間違ったことは言っていない。非難される言われはない。

― 何なん!

 ベッドの上に勢いよく倒れ込み、次第に膨らむ苛立ちを収めることが出来ない。それは、体が覚えている幼少期からの記憶分もプラスされ更に増幅。

“ムカつく!”しか口から出て来ない。自分の語彙数の貧弱さで、余計に苛々が募る。苛々を表現する語彙を増やさねば、と頭の隅っこで呟く自分がいる。

― 塾で疲れてんのにさ、余計なエネルギー使わせんなよ!


 どのぐらい時間が経っただろう?普段なら、怒りの勢いそのままにドアを叩きに来る母親が来ていない。来ようが来まいが部屋の鍵を開けるつもりはないし、待っているワケではない。この状態で部屋からは出にくいので、お風呂にも入りに行けない。

 ただ、怒りでエネルギーを使ってしまい、疲労感からやや動くのも億劫で、暫しボーっと同じ状態でいると、部屋の扉をノックする音。脳も疲れていたのか、スリッパの音に気付かなかった。

 「すばる、ちょっと来なさい」

 のっそりとドアの方を見る。母親の淡々とした口調、命令形で言う時はいい状況ではない。バカなのか?誰が“お菓子に釣られた”と咎められる為に出て行くのか。

 母親の激しいキレっぷりを金切り声で浴びせられる状況が頭に浮かび、自分の顔が歪むのが分かる。

 「理由、ちゃんと話すから来なさい」

― 理由?・・・う~ん、この口調で言われると気が重い。いや、どっちにしても気が重

  いか

 理由を言えと言ったのは自分だ。しかし、こんな形で聞きたかったワケではない。最初にちゃんと説明をしてくれてさえいればこんな状況にならなかったし、言いたいのは、“そっちのやっていることは筋違いだ”ということであって、こんな状況で聞きたくはない。

 とは言え、どうせ聞いておかないと、後から聞かなかったのはこっちだと咎められるのも鬱陶しいので、一瞬起き上がるか迷ったが、結局深くため息を付いてベッドから起き上がる。


 テーブルに着き、何となく顔を合わせ辛く、やや俯きがちなまま母親の言葉が始まるのを待つ。いや、本当は始まってなどいらない。こういうシチュエーションでは何時も鼓動が煩い。

 「・・・まあ、すばるも高校生だから、話も聞けるだろうし。どこから話せばいいか・・・」

― そこは最初に“ごめん”じゃないの、お母さん

 母親のこれまでの持論によれば、本来はここで母親が謝るべきではないのか、何時もそう言っているではないか。こちらには“間違ったことをしたらできるだけ早く謝るべき”と言うのに、正直、本当に謝って欲しい時に母親がそれを守ったことは少ない。それに関しては父親に軍配。あの人は逆にすぐ、“わるい、わるい、ごめんな~”と言う。軽いとも言うが。

 「あー・・の花房って人はあんたのお祖母ちゃんの昔からの知り合いで、すばるも会ったことあ

  る、小さい時から何回も、おばあちゃんの病室でも」

― あ~、やっぱり見たことあったのはあったか

 「けど、あの人はお祖母ちゃんと同じ宗教の人で、引き入れるためなら何でもするのよ。人の話だ

  って幾らでも聞くし、気を引くためなら情報も収集するし、流行にも敏感に反応するし、食費が

  足りないと言えばお米とかまで持って来てくれる。でも、それは全部あの人一人でやってるんじ

  ゃなくて、宗教挙げて皆でやるの。一人でも多く宗教に引き入れる為。お母さんは、あの宗教で

  苦労させられることはあっても、助けられたことなんて一度もなかった。入信してた記憶もない

  し。お祖母ちゃんが死んで縁が切れると思ったから、引越し先さえ教えなければもう二度と関わ

  らなくて済むと思った」

 話の出だしが余りに唐突で、既に話に付いて行けないでいる。宗教挙げて?引き入れる?入信?ドラマかニュースの話ですか?

 自分は無宗教だと思っているし、梨穂子の影響でカトリックに興味はあるものの基本的に無宗教で、今の年齢であまり周りに宗教の話をする子もいない。オカルト宗教がやらかしてニュースになることがあればそれについて友達と話すことはあるが、普段の生活で新興宗教系など、有名なものは名前だけは聞いたことがあっても、内情に関しては全くの無知。

 「宗教・・・はあ・・・何の宗教?」

 「まあ、あの~、“新久の園”っていうね」

 「あ、何か聞いたことある」

 「まあ、とにかくお母さんは二度と関わりたくないところ」

 「はあ・・・新興宗教とかよくわかんないけど、苦労させられたってどういう・・・あの、ハナフ

  サさんって人見てると、ちょっと強引だけどいい人っぽいから、何でそんなに嫌なのかよくわか

  んないっていうか・・・」 

 「すばる、いつか社会人になって自分で自分の身を守らないといけなくなる時が来るけど、“いい

  人”に見える人はみんないい人というわけじゃないことは頭に置いておきなさい。よく見て、自

  分でちゃんと見極める目を持たないと」

 母親は小さい頃からこういったことをよく言う、しかも怒り気味に。

 どうしてそんなことを言うのか理解が出来ない上に、自分の友達を次々否定されているような不愉快さに反発をしたこと数回に有らず。勿論、母親は人生経験によって話をしているのだろうが、具体例を出さずにこういった言い方をするところは嫌いだ。

 「そんなの、何回も聞いてるし」

 「花房さんはね、あれが生きがいだから、周りが何と言おうと同じものを信じる仲間がいて、貢献

  できることは喜びだし」

 「はあ」

 母親の話では、祖母も幸せになりたくて入信したのだろうが、どう見ても幸せではなく、何か縋る物が欲しい気持ちは理解できるが、母親は嫌な思いをさせられた記憶しかないと。

 祖母が入信したのは母親が生まれてすぐで、それが原因でもともとそれ程近しくなかった親戚とも完全に疎遠。その理由は、お布施(と称した貢ぐためのお金だそうな)を集めるため、親戚にも金の無心をしたこと。

― そりゃ、疎遠にもなるわ

 母親が物心付いた時は何時も家はお金が無く、時折信者の人がお米や食材を持って来てくれ、祖母はそれを甚く有難がっていたが、母親としては、お布施さえ出さなければ自分達で買えた物で、理解出来なかったそう。

― 正しくその通りだけど、何だかTVで聞くようなハナシだな~。これはリアルか?

 母親がお茶を一口飲み、小さく溜息を吐いて再び話し始める。

 母親は何時もお金がない感覚を持ち、学校で必要なものがあって祖母に言っても用意してくれず、言っても“そんな金はない”と言うのが口癖だったそうだ。

 が、これは実話なのだろうか。何時の時代の話をしているのだ。この表情一つ変えず淡々と話を進める母親は、感情を抑えているのか、はたまた達観してのことなのか、どちらにしても不気味だ。

 「お祖母ちゃんって・・・」

 小3の時に他界し、入院していた頃は母親に連れられ何度も病院に行った記憶はあり、その頃の印象が強すぎて、それ以前の祖母の印象や記憶が曖昧。

 ただ、入院していた祖母には正直いい印象は持っていない。何時も怒鳴り散らしていて、出来れば近寄りたくなかったし、病院にも行きたくなかった。病院から帰ると、母親の機嫌は最悪で、怒られるようなことは何もしていなくても何時もビクビクしていた。

 母親の話を聞きながら、左程思い出すことのなかった祖母の顔は、何時も般若のようであったことを思い出した。

 「でも、担任の先生が本当にいい先生で、そこは何とかして周りに気付かれないように手を打って

  くれたし、担任じゃなくなっても気に掛けてくれて。矢島さんとこのご両親もよく助けてくれた

  から何とかやってこれたようなもの」

― はあ・・・

 謎が多すぎて聞きたいことが沢山あるのに、一気に情報を投げられて、何から突っ込んだらいいのか分からない。

 更に母親が言うには、お布施は収入に応じてその金額は違っていたらしいが、祖母は見栄っ張りで、困っていると言われると出さずにいられず、何かにつけてお金を吸い上げられ(と祖母は思っていないが)、何時も生活はギリギリだったと。

 「でも、何でそんなギリギリなのに、そのお布施・・・」

 「その宗教にいいように利用されてたのよ。そうすれば幸せになれるって思ってたのよ。いっつ

  も“自分は不幸だ”って恨み節言ってたから」

 「・・・でも、お祖母ちゃん、シアワセそうに見えなかったけど・・・」

― あんな般若みたいな顔して、何時も怒鳴ってて、どう見ても・・・

 「お布施したら幸せになるってんじゃなくて、頼れる場所があることよ。その“お方様”に感謝を

  してのお布施をすること、仲間がいることよ」

 「おかたさま?何それ?」

 「その宗教のトップの人」

 益々リアリティがない。

― 今目の前で繰り広げられている母親の話は、本当に現実なのか?あの激しく気の強いお祖母ちゃ

  んが、おかたさま??????とやらに心酔?お祖母ちゃん、申し訳ない、ちょっと笑ってしま

  いそうだ。おかたさまーーーーーーーw ん、いや、ちょっと待て

 「あれ?高知の伯父さんは?それに対して何も言わなかったの?」

 「あ~、お祖母ちゃん、あの人にはやたら優しかったから。男至上主義」

 母親が軽く嘲笑するように言う。

母親は何時も伯父さんのことを“あの人”と言う。既に絶縁しているらしいので、自分も随分前に見たっきりで、もしかすると今見ても見極められないかもしれない。

 「は?なんで?」

 「う~ん、すばるに話したことなかったかしら?あの人とお母さん、異父兄妹だけど、あの人のお

  父さんは普通にお祖母ちゃんと結婚して、あの人が三歳の時に病気で亡くなって。で、それから

  数年経って出会った人との間に生まれたのがお母さんで」

― ん??????聞いたことないぞ?????は?イフキョウダイ?いふ・・・異父!

 「え~っと・・・あれ?お父さんが違う?あれ?あ~・・・あ、そっかー、うん、聞いたことある

  かも」

― いやいや、ないだろ、何を勢いで嘘言ってんだ自分

 自分が生まれた時から母方の祖父はおらず、“死んだ(らしい)祖父”の写真を何処かで見たことがある気はするも、それは伯父方の祖父であって、母親のではなかった、ということだ。今、感情が微妙に混乱を来たしている。

 今まで、正直そんなに祖父の存在を考えることはなかったが、漠然と自分のルーツとして認識していた自分の“死んだお祖父ちゃん”と思っていた存在は、全くもって只の真っ赤っかーの真っ赤っかーな赤の他人、という事実をたった今知らされたことになる。

 「男尊女卑が激しかっただけでなく、何でもお母さん、お父さんに似てるらしくて、それでいろい

  ろ思い出すのか、お母さんにはキツかったのよね」

 「いろいろ?」

 「うん。何て言うか・・・まあ、お祖母ちゃんは“捨てられた”って言ってたけど、あのお祖母ち

  ゃんだから、愛想つかされたんだと思うのよね」

― は?・・・捨てられた?何?ちょっと、軽くパニックの上を行く、頭の中がカオス!!何だ、こ

  のリアリティのない話は?いや、お母さんにとってはリアルな過去なワケよね!?

 ”似ているらしい”ということは、母親も写真さえ見たことがないということか。“捨てられた”などと言うぐらいだから、写真なんか残してはいないのだろう。

 何と言うか、この急に“このドラマ観てみて”と言われ、再生してみたら“わ~、韓国っぽ~い”ドラマだった、みたいな話は何なんだろう。母親から、ただドラマのあらすじを説明されているようなこの展開は何ですか?これは自分の身に起こっていること?母親がこんな作り話をするお茶目さは皆無なので、“母親が聞いた”リアルな話なのだろう。

 しかし、ジェノグラムなら書き換えは容易だが、気持ち的なところでの書き換えはそんな簡単にはいかないのではないでしょうか。

― あたし、只の一般人のハズですが?

 そして更に続く話では、祖母の信仰していた宗教には泊り込みの修行があり、小学生の時はその度、伯父さんと母親は学校に通える範囲にある同じ宗教の人の家に預けられていたそうだ。

自分が全く知らない家に突然預けられ、衣食住を共にし、そこから学校に通う・・・既に頭がカオスなので、話に付いて行けていない。

 母親は大学に進みたかったが、奨学金を借りて返す暇があったら働いて家に金を入れろと祖母に阻止され、結局諦めてしまったこと、仕事の給料も次々突きつけられる祖母からの要求に従うしかなく、自分で思うように使えなかったこと、それに対して強く反論出来なかったこと、早く祖母から離れたくて父親と結婚をして家を出たことを次々話をされるが、最早頭が付いて行かないので、取り敢えず後で整理をするため、記憶の大きな引き出しに話を雑多に詰め込んで行く。

― オーバーヒートしませんように・・・

 そして話は続く。

 自分が小2の頃に祖母が病気になり、それまで結婚によって多少離れられていた祖母との接触が再び密になり、携帯という文明の利器にて気が付くと毎日祖母から呼び出され、生活が間々ならないぐらいに逼迫していたのに、伯父夫婦は滅多に来ずで、祖母が亡くなった後は、同じ宗教に身を置く伯父に全てを仕切られ、葬儀も宗教のほうで行い、遺骨も教団で保管するとシャットアウトされたそうだ。確かに、自分も祖母の葬式に参列した記憶がないので、そうなのだろう。

 それっきり祖母の遺骨や遺品なども入手することなく、伯父とは絶縁状態となったそうだ。

― ん?あんなお祖母ちゃんでさ、迷惑被りっ放しだったんだからさ、そんな人の遺骨も遺品もいら

  なくない?何かお母さんの話聞いてると、欲しかったように聞こえるんだけど・・・気のせい?

 「お母さんはね、別に全ての宗教を否定してるわけじゃない。それで救われる人だっているだろう

  し。でも、お母さんは新興宗教が大っ嫌い!憎い!名前を聞いただけで吐き気する!」

― うわ、感情むき出し 汗 やっぱ達観したんじゃなかったのか

 母親はその宗教で救われたことはなく、何時も家にお金がなく、母親から見ても祖母は幸せに見えなかったが、伯父に対応している時は何時もニコニコしていたそうだ。母親曰く、伯父に伯父の父親の陰を見ていたのだろうと。

 祖母は何かに縋ってないと生きていけない人で、その宗教の勧誘組は、如何にもいい人といった雰囲気を出し、“この人は自分のことを分かってくれる”と思わせるように持っていき、それにまんまと引っ掛かったのが祖母、と。風を引いたと知ればすぐにやって来て、ちょっとお金に困ったと思ったらお米や食材を持って来て、辛いと言えばどんな話をでも愚痴でも聞き、一人でも会員が増えれば目的達成で、その為なら足繁く通い続けるのは厭わない、と。

 「それに・・・?」

 何だ、この間は。そんな溜めてから言うようなことなのか?変に間を開けられると、こっちは身構えないといけなくなる。気持ち悪いし、もう既にキャパオーバー気味なのだから、さっさと言って欲しい。

 「花房さんが、お母さんを見つけて後をつけて来て家を見つけたでしょ?あんなの、あの宗教では

  当たり前のことなのよ」

 「はあ・・・」

 今は頭に浮かんだハナフサさんの笑顔が・・・不気味・・・

 「お母さんは、すばるはそんな所と少しでも関わって欲しくない。花房さんは昔の誼でと近づいて

  来るんだろうけど、お母さんはあの宗教に嫌悪感しかないし、あっちはお母さんが嫌っているこ

  と、多分判ってないと思う。だって、自分が信じてるものは正しいと思ってるんだから。お祖母

  ちゃんが死んでから、お祖母ちゃんの知り合いとは全部連絡を絶ってるからもう二度と会わなく

  て済むと思ってたのに・・・虫唾が走る!」

 これでもお母さんは感情を抑えているつもりなのだろうけど、話す声が微妙に震える瞬間があるし、表情は険しい。

 口を“チッ!”と言いそうに歪める母親のクセ。機嫌の悪さが頂点に行く前に無意識になるのだが、あの表情を見ると瞬時に全身の筋肉が萎縮する。眉間に皺を寄せるよりも嫌いな、母親のあのクセ。自分が原因ではないことであっても、その表情を見ると何となくビクっとしてしまうのは嫌な記憶がこびりついているからだと思う。ふとした瞬間にもあの表情をしている時があり、正直ギョッとするし、母親の中でそうなるような思考がグルグル回っているのかと思うといつもゲッソリする。

 「・・・」

 何と返せばいいのか。こんな短時間に膨大な量の情報を与えられても、母親の感情についていけるワケはないのに。

 それでも、まだ全容を完璧に整理できているワケではないが、祖母が母親に冷たかったこと、祖母がその宗教に入っていることで大変な思いをさせられたこと、だからハナフサさんに近寄るべきではない、ということは分かった。分からないことは、どうしてそこまで祖母が母親に対して冷酷だったのか?男尊女卑?お母さんのお父さんに顔が似てたから?“捨てられた”という憎悪から?いろんな疑問はある。

 でも、なによりも自分にとって一番の衝撃は、自分のおじいちゃんだと思っていた人が実はそうではなかった、ということ。異父兄妹とか聞いてないし・・・漠然と信じていたものが欠けてしまった、微妙な喪失感・・・いや、母方の祖父なんて当然見たことはないわけだから、自分の中ではそんなに存在の認識をしていなかったのに。微妙に喪失感を感じている自分に驚いている。

 「だから、花房さんが寄って来ても絶対に避けて。じゃあ、早くそれ食べ終えちゃって」

 「え?あ、はい・・・」

― “はい”、じゃねーよ!え、話、終わり!?いや、これ以上情報増えても頭パンクだけど、

  何だよ、何て返事すべきか考えてた自分が馬鹿みたいじゃないですか

 突然話を終わられてしまい拍子抜け。とは言っても、既にキャパオーバーなのだから、まあ、切って貰ってOKか。

― ああ、内容が激しく濃い。一気に十歳ぐらい歳を取ったような、というのはこんな感じを言うの

  かもな~。何だか倦怠感。ここは一先ず・・・

 冷めている玄米の鶏玉雑炊を、レンジで温めに立ち上がる。既に食欲は消失しているが、何も食べないと後からお腹が空いても困る。それに、雑炊とナムルに罪はない


 明日も学校があると言うのに、頭の中をグルグルと駆け巡り、一向に頭を休ませられない。何かドキドキしてもいるし、一体何にドキドキしているのか。なかなかお風呂に入れない。

― いや、取り敢えずお風呂に入らないと、あっという間に時間が過ぎる。まだ明日学校あるの

  に・・・

 脳が疲れると、体まで動けなくなるというのは一つの発見、と思ったが、小さい頃に両親が喧嘩しているのを見続けてしまった時、お母さんに理不尽に怒鳴られ続けた時、そいう時は次の行動がなかなか起こせなかった、というのが記憶の倉庫から見つかった。

 ため息を吐き、意を決して“よっこいしょ”と思わず声に出してしまいながら椅子を支えにしてのっそりと立ち上がり、再度大きく息を吐いた。

 《おう、お前のオカン、苦労してんなあ》

― ・・・え~、今出るのか~~~

 無意識のうちに頭を横に振っている。

 《いやいや、オカン、大変やったなぁ、うんうん》

― ・・・まあ・・・

 《オカン、辛かったやろな~》

― ・・・やあ、まあ、そうでしょうよ

 《ま、クソガキには理解できひんねんから、無い頭で考えても無駄ムダw》

― ・・・クソガキ・・・

 悪口炸裂なのに、ぐうの音も出ない。

― ・・・ん?

 「てかさオッサン、この部屋以外に出ることって出来ないよね?」

 《出るっちゅー話ちゃうくて、ワシはこの椅子やねんって。前に言うたやろ~》

 「どうやってお母さんとの話、聞いてるワケ?」

 《ふっふ~ん》

― ・・・はあ?

 イラっとはしたものの、よく考えなくてもこの現状自体が有り得なくて、このオッサン

が自分の目の前にいて、普通に会話していること自体がおかしいのだから、何か考えても仕方ない気がしてきた。

― うん、お風呂入ろ

 《オイ、無視すんなや~》

 時間が経つに連れ更なる疑問がムクムクと膨らんでは来るも、整理をするのにはもっと時間を要するだろう。

 ふと机に目をやると、汗拭きシートケースの上にタイの仏像のように寝転がっているオッサンの姿。ふてぶてしい。

― ・・・何かもうどうでもいい。お風呂入ろ

 《ヲイ!》

― はいはい、あ~お風呂、お風呂


 湯船に浸かりながらも、再び母親の話が頭の中でぐるぐるぐるぐる。

― 母親が宗教憎んでるのは分かった。次、ハナフサさん見つけたら猛ダッシュで逃げればいい。し

  かし、何だあのドロドロしたドラマみたいな話は?あれがあたしのお祖父ちゃんじゃなかったっ

  て?どう整理つけるんだよぉ・・・

 あっという間にじわじわ汗が吹き出てきて、頭の中もぐちゃぐちゃで、気持ち悪さに思わず湯船に頭までザブっと潜る。暫し息を止めて静かに・・・お湯の揺れを感じる、感じる・・・

息が限界に来たところでザバっと飛び出る。水分を避けるべく髪を後ろに撫で上げ、顔の水を両手で拭う。

― あ~苦し。でもスッキリ!あ~もう、そうそう、はいはい、“無い頭で考えても無駄ムダ“です

  よね~だ、ふん!

 ふぅ、と一息ついて再びぼーっとし始めた時、何かが頭を過る。

― あれ?・・・何?

 記憶の倉庫をガサゴソと探ってみるも、手応え無し。

― 何だっけな~?何か、何か微かに浮かんだんだけどな~、う~ん・・・

 今日聞いた話に関係ある?ような気はする。記憶の倉庫から何か出てこようとしている・・・それは必要なことなのか?

 漫画や小説でも読んだことがある。本当は記憶は膨大に蓄積されていて、繰り返し思い出すことや、その人にとって都合の良いものなどが手前に収納され、辛い記憶や悲しい記憶、思い出したくない記憶などは奥に押し込めて封印してしまうことがあり、何かの刺激で思い出されることがある、と。ただ、思い出せると言うことは、それを受け止められる状態だから出て来るのだとも描いていた。。

 もしそれが本当だとすると、今奥から出て来ようと目論んでいる自分の記憶は、今受け止められる状態だからこそ出て来るということか。そういうことなら、是非出て来てもらおうではないか。と言うよりも、ここまで来て何も出て来ないほうが気持ち悪い。この、出そうで出ないというのは、何であっても気持ち悪いものだ。

― おお、何か・・・何か・・・

 「あ、ちょ、ちょっと待って・・・いや、ホント、マジで何か出そう・・・」

 誰がいるわけでもないのに、思わず出る独り言。

 喉まで出掛かって、なかなか出て来ないような気持ち悪さ。それこそ暫く便秘だったのの○○○が出そうな・・・のような、断片的な映像が少しずつ・・・絞り出そうとするのではなく、あくまでも自然に出て来るように、あくまでも自然に・・・

― あ・・・来たかも!いや・・・ちょっと来た?・・・え?あれ?ん?

 それは、保育園の制服を着ている自分。カバンにあのマスコット付けてるということは、年長さんの時か。

― あ・・・スルッと来た・・・

 無邪気に“おじいちゃんてどんなひと?”祖母に聞き、元々何時もしかめっ面の祖母の表情皺が更に深くなり、両肩を潰されるかと思う程に掴まれ、“今度同じこと聞いたら引っ叩くよ!!”と言いながら今度は両頬を強く掴まれ、般若のような顔を近づけて来た。

 ただただ恐怖と痛みで、確かあの時は・・・そう、その時自分には記憶がなくて、頬が赤くなっているのに理由も言わず泣きじゃくってそのまま寝て、次起きたら泣いたことも覚えていなかった、とそんな話を聞いたことがある。

― あたし、お祖父ちゃんに興味が無かったんじゃなくて、お祖母ちゃんに言われたあれが原因か。

  マジで覚えてなかったな~、ホントに全然出て来なかったって。今の今まで本当に全く・・・い

  や、あれじゃ怖いでしょ、そうじゃん。しかし、・・・

 しかし、祖母もあんな子どもにマジギレって大人げない。余程祖父に恨みの気持ちを強く抱いていたのか。

― あ、お母さんのほうのお祖父ちゃんにね

 自分はあんな韓国ドラマみたいなドロドロには無縁だと思っていたのに、画面の向こうの話だと思っていたのに、まさか、だ。なんと奇奇怪怪な話。

― う~ん・・・全然リアリティな~い・・・てかもうのぼせる、ヤバ、あがろ


 お風呂からあがり、気付いたら、スキンケアもヘアドライも携帯の充電も完了しており、何時ものルーティンは終えられている。考えなくても出来る“習慣”というものはスゴいと改めて思う。

― あ~キャパが・・・

 《無い頭で考えるな、無駄ムダ 笑》

― ・・・反論する気力もな~い・・・そ~っスね~、そ~っスよね~、もう寝よ

 視界の隅で、オッサンがコロコロと転がっているのが見えるが、今日の話と比べると、本当にどうでもいい。ビックリするぐらいどうでもいい。


 次の日、祖母が入信していたと言う宗教を検索にかけ、手当たり次第に文章を読んでみた。勿論、ホームページは良い事しか書いていないが、ネットという文明の利器がある限り、それだけを見て信じるなんてことはあるハズも無い。なのに、どうして引っ掛かるんだろう?

 検索を進めると、家族が被害に遭った人や、それに反論をする信者、抜けて注意を促す元信者などの話も多く掲載されている。読めば読むほど、祖母が入信に至った感覚は理解が出来ない。

― すがる物ね~・・・でも、お金吸い取られてるのに?

 《オマエもグッズとやらを買うやろー?吸い取られとるやんけ》

― ま、出てくるよね~

 《ま、出てきとんちゃうわな~》

 「はいはい、あたしが勝手に聞こえてんだよね、はいはい」

 《“はい”は一回じゃ、ボケ》

― へーへー

 「て言うか、あたしは吸い取られてんじゃないもん、欲しいから買ってんだし。それに、小遣いの

  中だから最低限しか買えないし」

 《使いモンにもならんモンにお金払ってんやろ?吸い取られてるんは一緒やろ》

 「え~、でも欲しくて買うのとお布施は違うでしょ。宗教に貢いでお金無くて生活にも影響出るま

  でってさ~、子どもに辛い思いさせててってさ~」

 《支えが欲しくてお布施を出す、“欲しい”物にお金を掛けるという意味では一緒やろ。問題はそ

  の度合いなだけちゃうん》

 「う~ん・・・まあ・・・う~ん・・・」

 《ま、ほんでもばーちゃんは兄貴にはちゃんとやってた、お前のオカンには冷たかった、そこは宗

  教云々ちゃうくて、只単に男尊女卑なんか、父親に似てる娘が気に食わんかったのかもなーっつ

  うハナシ。それに、オカンの兄貴もそれがフツーやったんやろ》

 「何か・・・そう集約されちゃうと、自分の母親のことであっても何か悲しくなるな~」

 《でもそういうこっちゃろ》

 「う~ん・・・でもお祖母ちゃん、いっつもイライラしてて幸せそうに見えなかったけどな~」

 《けど、伯父さんとやらはその宗教入ってんねやろ?そういうこっちゃ》

 「え?どういうこと?」

 《知らんけど》

 「え、ちょっと、どういうことよ~!言うだけ言って放置!?」

 《えっへっへ~》

 「ちょっと!このクソオヤジ!!」

 それ以上、オッサンの声はしなくなった。意味深な言い方でこういう匂わせするヤツは何処にも存在するものだが、こんな妖にまでしてやられるとは・・・すばる、一生の不覚。

― 都合よく消えるとか最悪!



 今でもあの宗教の名前を聞くと何となく気分悪い。母親から話を聞いた時の感覚が蘇る、ゾワっと毛が逆立つような嫌な感覚。

今では、んなイケてる女子でも男子でも、その仲間だと知ると引く。

 人が何を信じようと勝手だが、一度そういう気持ち悪い経験をしてしまったから仕方ない。

 しっかし、これ、どうやってまとめるよ~ 泣



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