111話 野生の前では人間は無力なんです
マルセーヌの街から少し離れると、すぐに周りの風景は手つかずの自然へと変化していった。まるで、文明のかけらも感じられないような世界。確かにここでは、モンスター達が生態系のトップに君臨しているのだろう。
「なんだか……少し怖いですね……」
人間の手がほとんど入っていない世界。怖いと感じることは、おかしいことでもなんでもない。いつどこから、捕食者が現れて襲われてもおかしくはないのである。いわば弱肉強食の世界だ。
「大丈夫だよナーシェ。みんながいるよ」
ナーシェの気持ちも元人間だった身としてはよくわかる。私もサクヤに出会う前はそうだった。
「そうだよナーシェ!何かあったらルカが守ってあげるよ!」
ルカは自信満々にナーシェに向かって笑顔で言った。すっかり頼もしくなったルカを見ていると、私もなんだか嬉しくなる。もし、自分に子供がいたら、こんな気持ちになるのだろうか。
だが、ナーシェへの心配も全くの杞憂だったようだ。そこらかしこに現れる見たことのないような動物に、ナーシェは先ほどまでの不安はどこへやら、興奮が止まらないような様子で周囲を調べていた。
「イーナちゃん!あのでっかいネズミ!見てください!なんだか愛くるしくて可愛いです!」
「イーナちゃん!見てください!あんな所にかわいいお猿さんが!」
「なんだかんだで、一番テンションが上がってるのナーシェだね~~」
「ナーシェ、あんまり離れて先に行くと危ないよ!」
すっかり周りの環境に夢中になってしまったナーシェは、恐怖心など微塵もないような様子で、1人足早にどんどんと先に向かって行く。
「全くナーシェは、変わらないよな」
シータが私に笑顔で話しかけてきた。
「そうだね」
そんなやりとりをしながら、ナーシェの後を歩いていると、突然、前方からナーシェの叫び声が私の耳へと届いた。
「イーナちゃん!大変です!」
だが、ナーシェの周囲を見渡しても、獰猛なモンスターがいるような気配もない。
「何かあったのナーシェ!」
「見てください!あの子、怪我をしているようです!」
ナーシェの指さした先には、足を怪我してしまって動けないような様子の小動物がいた。見た目はネズミのようだが、大分サイズが大きい。
「近づいても逃げないね……」
キューキューと声を上げながらも、ネズミのような生き物は動くことはしなかった。
「イーナ様。この子助けてあげるのは難しいのかな?」
ルカが心配そうな様子で私へと問いかけてきた。確かに、辛そうではあるし、助けてあげたいところである。しかし、おそらくこの環境じゃ助けてあげたとしても、すぐに他の動物に襲われてしまうだろう。この子を助けるとしたら、完全に保護するほかはない。
「ルカちゃん、ここは野生の世界だから……助けてあげても、この傷じゃ……」
ナーシェが私の代わりに、ルカに言い聞かせるように説明をしてくれた。そう、ここは野生の世界である。野生の世界に無責任に手を出すべきではないのは事実であるのだ。だけど……
「わかった、ルカ、出来るだけのことはしてみようか!」
「イーナちゃん!いいんですか?」
ナーシェはこちらに問いかけてきた。良いか悪いかで言ったら、回答が難しい問題ではあるが、おそらく良くはないだろう。だけど、ルカの今後のために、こういった場所での治療というのも、一つの経験として重要になる。だから私はそう判断したのだ。
「ルカ、一緒に診てみよう」
「イーナ様!ありがとう!」
「傷口は開いているわけじゃないし、なんだろうね?右後ろ脚が悪そうだけど……」
私はそう言って、ルカに直接触診をさせた。おそらくは初めてルカと出会ったときと同じような病態だろう。ルカもあれから私と一緒に勉強を一杯重ねてきたから、きっとわかるはず。
「イーナ様!この子骨折してるのかな?」
「多分ね……答え合わせしてみようか?」
――イーナ、あれじゃな?
サクヤの神通力の一つ。透視。私はその力で、ネズミの脚を見た。確かに右後ろ足の骨折である。それもあのときと同じ、綺麗な横骨折である。
「ルカ、正解だよ!じゃあ、固定するのにちょうど良さそうな木の棒を探してきてくれる?」
私の言葉に、ルカは周囲を見渡すと、真っ直ぐの木の枝を見つけたようで、すぐさま拾ってきてくれた。
「じゃあルカ、この包帯で、ずれないように綺麗に巻いてあげるんだ」
ルカは私から包帯を受け取ると、木の枝をネズミの脚の横にセットし、包帯でぐるぐると巻いていった。そして、最後に、持っていた赤いリボンのような紐で包帯ごと固定して、処置は終了した。
「イーナ様!どうかな!」
「ルカ!よくできてるよ!これなら大丈夫!ちゃんと1人で出来たね!」
「やったあ!ルカも出来るようになったよ!」
「でも、これ以上、私達に出来る事は何もない。後は、あの子が無事に戻ってくれれば良いんだけどね……」
ルカは、抱いていたネズミを地面へと下ろした。自然へと還っていくネズミ。それを黙って見送るルカ。私はそれを黙って眺めていた。
「元気で生きてね……」
ルカは小さな声でそう呟くと、ネズミに背を向けて、私達の方へと戻ってきた。
「きっと、大丈夫だよ!ルカの処置は完璧だったから!」
そう言って、私達へ再び、前へと歩き出した。
しかし、次の瞬間、私達の足元を大きな影が一瞬の間に通り抜けていったのだ。その影は真っ直ぐに先ほどの治療したネズミの方へと向かっていった。その正体はすぐにわかった。1mほどはあるであろう、大きな鳥である。
気付いたときにはもう遅かった。すぐに飛び去っていく鳥、その脚には先ほどルカが処置をした包帯に赤いリボンのようなアクセントが入ったネズミが捕らえられていた。
「イーナ様!」
「ルカ……」
だんだんと小さくなっていく姿を、ルカは呆然と眺めていた。おそらく、あの鳥は私達がいたときからずっと獲物を狙っていたのであろう。ルカが離れた瞬間に、襲いかかってきたのだから。
だが、これが野生の世界で生きるということなのだ。どうあがいても助けられない命というものもある。
私は黙って空を見つめるルカの元へと近づいた。そして、ルカの頭を撫でながら一言ルカに言葉をかけた。
「大丈夫。ルカは全力で治療したよ」
私の言葉に、ルカの目から涙が溢れた。そのまま、ルカは私の胸へと顔を埋めてきた。私には優しくルカを撫でてあげることしか出来なかった。




