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第一章 「帰りたくない!」

 第一章 「帰りたくない!」


 心地良いそよ風と陽光の暖かさに包まれて、御守遼司みかみりょうじは今、とてつもなく幸せだった。

「おーい、飯だぞ、飯」

 頭を軽く叩かれて、遼司は、んん、と唸ってからゆっくりと身を起こした。

「おはよう、遼司」

 目の前に座る少年は眠そうに目を擦る遼司を見つめながら食パンを齧っている。

 友人の笠井幸太かさいこうただ。

 人当たりの良さそうな顔立ちと、それでいて活気のある目つきが印象的な少年だ。やや小柄に見えるが、同年代の平均値から数センチ引いたくらいである。

「お前、何で食パン?」

 ボサボサの黒髪を掻きながら、遼司は真っ先に目に入った食パンを見つめる。

「これが弁当なんだよ」

 弁当がパンであったとしても不自然ではないが、ただの食パンだけだとおかしい気もする。良く見れば、食パンにもマーガリンも何も塗られていない。本当に食パンだけを齧っている。

「他に具は?」

「そんなことより、寝癖付いてるぞ」

 遼司の疑問は一蹴され、幸太が折りたたみ式の手鏡を差し出した。

 開かれた鏡には遼司の顔が映っている。ボサボサの黒髪に、寝起きのせいかいかにも気だるそうな表情をした遼司の顔が。鼻筋も整っており、目付きもやや切れ長で、普通にしていれば中々の二枚目だ。だが、ボサボサの黒髪が不自然に跳ねていて少々格好悪いのが現状である。

「……何でお前が鏡なんて持ってんだ?」

 少しずつ思考がはっきりしてきたところで、男の幸太が鏡を持っているという違和感に気付いた。

「偶然だ」

「じゃあ食パンは?」

「奇跡だな」

 遼司は真顔で言い張る幸太の両目に軽く指を突き入れる。

「目が、目がぁー!」

 情けない叫び声を上げて悶絶する幸太に、遼司は溜め息をついた。

 幸太の大声に教室内の視線が集中する。が、いつものことなので直ぐに元のざわめきへと戻っていく。

 窓際の遼司の席からは快晴の空が見える。青い空に光り輝く太陽の暖かさは心地良い。開け放たれた窓からは丁度良いそよ風が入ってくる。風に少しだけ混じる、草木の香りもリラックスするには良いアクセントだった。

「いい天気だなぁー」

 ほのぼのと呟く。

 椅子に座ったまま、大きく背伸びをして机の横にかけられた鞄から自分の昼食を取り出す。

「お前の昼飯だっておかしいじゃないか」

 黄色い箱に入ったバランス栄養食を見て幸太が指を突き出す。

「いや、お前ほどじゃない。俺のは某潜入作戦のエキスパートも絶賛している」

 ブロック状のクッキーのようなものを中の袋から取り出し、遼司は齧りながら反論する。

「でもまぁ、ちょっと昨日色々あってな……」

 遼司は心底面倒臭そうに言葉を濁した。

「食パン分けてやろうか?」

「一体何枚持ってきてんだよ」

 三枚目を齧り始めた幸太に、遼司はツッコミを入れる。

「一斤」

「売ってる奴袋丸ごとかよ」

 遼司の机の前に残り五枚の食パンが入った袋が置かれた。八枚切りの食パン丸ごと一袋が彼の昼飯らしい。

「おかずは?」

 食パンを見つめて、遼司は問う。

「目ぇ逸らすな」

 幸太は顔を九十度真横に向けていた。

「いや、昨日姉ちゃんと格闘してだな……」

「戦利品が鏡で、結果は敗北したんだな」

 両肩を落とす幸太に、遼司は小さく溜め息をつく。

 姉と喧嘩でもしたのだろう。争っている最中に鏡を強奪、もしくは密かに持ち出してきたに違いない。代わりに昼飯を奪われたというところか。

 飯抜きではなく食パン丸ごと一袋というのもおかしな話ではあるが、幸太のことだから仕方がない。前にも似たようなことがあった。幸太の勝率は一割と言ったところか。

「遼司〜」

 かけられた声に顔を向けた瞬間、何かが飛んで来ていた。

 反射的に横合いから掻っ攫うように掴み取る。見ると、袋に包まれた菓子パンだった。クリームパンらしい。

「これ、くれんの?」

 パンを投げた少女を見て、遼司は驚いた風でもなく確認するかのように呟いた。

 大きな瞳は長い睫毛に彩られ、ぱっちりした目つきを印象強くさせている。整った鼻梁に、薄い唇と白いけれど健康的な肌。背の中ほどまで伸びた黒髪はさらさらで、風に揺れている。

「それだけじゃ足りないでしょ?」

 高校の制服を着込んだ少女、珠樹香奈たまきかなは小さく笑った。

「助かる」

 力の無い笑みを返して、遼司は受け取ったばかりのクリームパンの封を開けた。

「香奈ー、ちょっとここ聞きたいんだけどー」

「はいはーい、なにー?」

 後ろから数人の女子に呼ばれて、香奈は直ぐに振り返って走って行く。慣性に従ってゆっくりと流れるように黒髪を目で追ってから、遼司はクリームパンに齧り付いた。

「お前ら、仲良いよな」

 もそもそと食パンを頬張りながら、うらめしそうに幸太が呟く。

「まぁ、お隣さんだしな」

 クリームパンを咀嚼しながら、遼司は返した。

 香奈の家は遼司の家の直ぐ隣にある。遼司の両親が香奈の両親と友達だったとかで、家族ぐるみの付き合いをしている。幼い頃からずっと一緒だったのだから、そりゃあ仲も良い。

 とは言え、成績優秀、運動神経抜群、容姿端麗の三拍子の揃った香奈はこの学校ではかなりの有名人だ。しかも、人当たりの良い性格だ。憧れを超えて好意を抱く男子も少なくはない。

「畜生、お前なんか死んでしまえ!」

 羨ましがる幸太も香奈に好意を抱いていたらしい。最も、幸太の場合は既に告白を実行、玉砕してしまっているわけだが。

「昼寝日和だよなー」

 幸太の叫びを無視して、遼司はクリームパンの最後の一切れを口に放り込む。

 昨日は良く眠れなかった。というよりも、眠る時間が削られてしまって満足に眠れなかった。睡眠という行動が大好きな遼司としては腹立たしいことこの上ない。元凶に対してちょっとした抵抗をした挙句、昼飯も簡素なものになってしまったわけだが。その辺りの事情を知っているから、香奈も差し入れをくれたのだろう。

 心の中で感謝しつつ、遼司は目の前に置かれたままの袋から食パンを一枚摘んだ。

「おまっ、俺の昼飯だぞ!」

「え、くれるんじゃなかったの?」

 予期せぬ幸太の言葉に、遼司は目を見開いた。

「お前はクリームパン貰っただろー」

「ガキか」

 ブーイングする幸太の眉間にチョップを叩き込んで、遼司は食パンを齧った。

「予想はしてたけど味気ねぇな」

 さすがにマーガリンかジャムが欲しい。

「最初のうちはな。そのうちパン本来の味というものが解ってくるさ」

 さも悟りを開いたかのように鼻で笑う幸太を尻目に、遼司は食パンを胃袋に詰め込んで行った。

 私立式守高等学校。広い敷地と大きな校舎を持つ名門中の名門だ。敷地のど真ん中に塔のように聳え立つ中央棟を挟んで左右に一棟、二棟が存在している。上から見ればカタカナのコの字のようになっている。コの字の中央には噴水があり、小さな公園のような雰囲気すらある。遼司のいる二学年棟の窓からは噴水も見える。昼休みの今は多くの生徒たちが昼食や遊びのために行き交っていた。

 校風は一般的に厳しいと言われているが、実際にはそれほどでもない。普通にしていれば問題は何もない。

「遼司ぃー、バスケしようぜー!」

 幸太の後ろ、遼司からすれば前方の席で昼飯を食べていた男子の集団から声が掛かった。

「そういえば今日はうちのクラスが体育館使えるんだっけ」

 ふと、思い出したように幸太が呟いた。

「俺の代わりに幸太を差し出す」

 食パン一斤を平らげた幸太の言葉を聞いて、遼司は言い放った。

「なっ、貴様、それはどういう意味だ!」

「俺は眠い。そして今日はこんなにも天気が良い」

 窓の外の青空を見つめて、遼司は幸太に答える。

「勝ち逃げか貴様ぁー!」

 ガタンと音を立てて立ち上がり、バスケ部の高田圭太たかだけいたが遼司を指差して声を上げる。

 前回、体育館使用日に遼司は彼らのバスケットボールに参加していた。その時、遼司は抜きん出た運動能力を遺憾無く発揮し、圭太との一対一に勝利したのだ。未だに根に持っているらしい。バスケ部としてのプライドがあるのだろう。遼司には知ったことではないが。

「いい加減、お前運動部入ったらどうよ?」

 圭太の隣にいるサッカー部の中森秀人なかもりひでとが溜め息混じりに呟く。

 実際、遼司の身体能力は高校生としては異常の域に達しつつある。運動神経抜群の香奈以上に、遼司は運動能力が高い。服を着ていれば判らないが、遼司の身体は細身ながら筋肉質である。当然、運動系の部活からの勧誘やピンチヒッターなどの依頼は多々あったが、遼司は全て断っている。

 面倒というたった一つの理由のみで。

「昼寝部とか睡眠部とかあれば入りたいけどな」

 残念ながら無いので遼司は帰宅部だった。

「ほんと寝るの好きだよなー」

「睡眠万歳」

 呆れたような幸太の言葉に遼司はからからと笑って両手をあげた。

「何故それで成績が底辺じゃないんだ……」

 秀人がまるで化け物でも見るかのように苦い表情で漏らした。

「記憶力はいいからなぁ」

 遼司は溜め息をついた。

 テスト前には教科書の試験範囲を丸暗記という無茶苦茶なことをしている。お陰で、成績は上の中か下ぐらいに留まっていた。

「本当は頭いいのよねー」

 女子のグループからも声が聞こえた。香奈と向かい合って菓子パンを食している、眼鏡をかけたショートヘアの少女だ。香奈と仲の良い鹿島奈津子かしまなつこである。

 言われて悪い気はしないが、遼司としては時折自分自身が酷く面倒に思えてしまう。常に上位の成績と、特にずば抜けた運動神経が他者の注目を集めるのは当然だ。遼司にとっては面倒ごとも増える。

「畜生、ぶっ殺してやるー!」

 今にも殴りかかろうとする圭太を隣の秀人が押さえる。

 圭太は成績が底辺だ。バスケ部ではエースとして有名ではあるのだが、遼司に敗れたことで取り柄を失った形になったらしい。

「そういや、お前隣のクラスの上條かみじょうさんに告られたけど振ったって本当なのか?」

 不意に、幸太が疑問を投げた。

 振った、という一言に教室が静まり返る。男子だけでなく女子も聞き耳を立てていた。遼司には居心地が悪くてたまらない。

「……ちょっとトイレ」

「逃がさん!」

 おもむろに席を立とうとした遼司の腕を幸太が掴んだ。

「この場で漏らすぞ」

「ふ、やれるものならな」

 にやりと笑みを浮かべる幸太に、遼司は渋い表情で椅子に腰を下ろした。

 遼司の身体能力なら振り払うのも不可能ではないが、周りに机や椅子があると危険この上ない。

「ネタは上がってるんだ! 吐け!」

「カツ丼奢ってくれたら答えてやる」

 取調べをする警官のように迫ってくる幸太を見返して、遼司は真顔で告げた。

「ちょっと待て」

 遼司に右の掌を向けて、幸太は後ろの男子を振り返る。

「カツ丼一杯、割り勘にするとしてこの人数だと一人幾らだ?」

「八十円ってところじゃないか?」

「学校近くの店なら五十円で済むぞ」

 ぼそぼそと相談し合う男子たちを見て、遼司はぐったりしていた。

「マジだこいつら……」

 バカにつける薬は無いと言うが、全くもってその通りだと遼司は思った。

「話は決まった、明日の昼飯を奢ってやる」

 遼司に向き直った幸太は腕組みをして言い放った。

 明日は土曜日、休日だ。近くの定食屋に集合し、皆で昼食を取りつつ遼司にカツ丼を奢るという話でまとまったらしい。そんなに聞きたいか、とも思ったが遼司は口に出さなかった。ここまでするのだから答えは判り切っている。尋ねたところで即答されるのがオチだ。

「さぁ、吐け」

 無言で視線を逸らす遼司の両肩を掴み、幸太が揺する。

「振ったのか! 振ったんだな!」

 がくがくと揺さぶられながら、遼司は何と答えるべきか考えていた。

「どこで聞いたんだ、そんな話」

「本人」

「ぶ」

 予想外な切り返しに遼司は噴き出した。

「聞くまでもねぇじゃねぇか!」

 今までの一連の流れは何だったんだと遼司は脱力した。

「たまたま本人が友達と話している会話が聞こえただけだ。本人からとは言ってない。そしてその内容は曖昧だった!」

 大袈裟に、しかも回りくどく言ってはいるが要は、結局真実かどうかは判らなかったということだ。遼司が聞くまでも無いと答えたということは、幸太の聞いた情報が正しかったことを示している。カマをかけたのである。

 つまり、遼司が振ったということを言ったも同然ということだ。

「もう赦せん、ぶち殺す!」

 血走った目で鼻息を荒くして、圭太が机を乗り越える。

 そういえば、遼司に告白してきた上條という女子生徒に圭太がアタックしたという話を聞いたことがあった。幸太からの情報だったが、圭太と仲の良い秀人も口止めされてないという理由であっさり事実だと認めていた。結果は見事に砕け散ったとか。

「何故振った貴様ぁー!」

 秀人に後ろの襟首を掴まれて前に進めない圭太が叫ぶ。

 手を離したら遼司に突っ込んでくるに違いない。

「俺は予想がついてるけどな」

 幸太の言葉に、また教室内が静まり返った。

 遼司は幸太の目を見る。嫌な予感がした。遼司の本能が危険を告げている。こうなってはもはや幸太の口を封じるしかない。

「幸太」

「知りたい奴は遼司を押さえろー!」

 先制攻撃を仕掛けたのは幸太だった。遼司が動くよりも早く距離を取るように飛び退いて、周りのクラスメイトを扇動する。秀人はあっさり手を放し、解放された圭太が突っ込んでくる。間一髪で圭太の突撃をかわしたものの、次々と男子が遼司目掛けて突っ込んでくる。全てをかわした遼司の背後から、数人の女子が左右から両腕を掴んできた。

 振り解こうとする間もなく、突撃に失敗した男子が遼司の両脚にタックル、しがみついてきた。

「お前ら……っ!」

 顔を引き攣らせる遼司に、幸太は不気味に微笑んでいる。

「で、話の続きは?」

 女子の一人が言った。

 待ってましたと言わんばかりに満面の笑みを浮かべて、幸太は口を開いた。

「俺が、香奈ちゃんに告白して玉砕したのは皆も知っての通りだ。だけど、俺はその時に聞いたんだ」

 観念して、遼司はぐったりしていた。何だか疲れたなぁ、などと考えつつ、ぼんやりと教室内を見回してみると香奈が一人、ストローでパックジュースを飲んでいる。

 遼司は項垂れた。

「許嫁がいるってさ。俺はそれが遼司じゃないかと思ったわけさ」

 幸太が推理を披露し始める。

 香奈は誰にでも等しく優しいが、遼司に関してはちょっと違う、と。先ほどのクリームパンのことだって、他のクラスメイトたちにしたことはない。心配することはあっても行動には繋がらない。行動があるのは遼司に限ってのことだ。幼馴染である点と家族ぐるみで付き合いがある点を考えれば、許嫁の相手としても不思議ではない、と。

「どうなの?」

 女子の一人が香奈に声をかける。

「当たりだよ?」

 何事もなかったかのように香奈は首を傾げる。仕草と笑みは可愛らしいが、男子たちは皆一様に複雑そうな表情をしていた。

「まぁ、いつか気付かれるとは思ってたし、そんなに隠すことでもないよね」

 さらっと香奈は告げた。

 男子たちが脱力して屑折れる。女子たちも唖然として、力が抜けていく。

「うん、まぁ、そういうわけだ」

 頬を掻きながら、遼司は足元で屑折れる男子たちを避けつつ自分の席に戻った。

「じゃあ、おやすみ」

 残りの休み時間を有意義に眠ろうと、遼司は机に突っ伏した。

 やけに静かなのは不気味だったが、幸い日差しが心地良かったのですんなり眠ることができそうだ。

 カツ丼はおかわりしてやろう。そんなことを誓いつつ、遼司はまどろみの方向へと一直線に駆け出していた。


 *


 高校の授業が終わり、遼司は帰途についていた。

「待っていなくても良かったんだぞ?」

 隣を歩く香奈に、遼司は言った。

 委員会の仕事があったせいで、下校するのが遅くなった。保健委員会で配布された掲示物を教室に運ぶだけではあったが。

「大して時間かかってないじゃない?」

 香奈は小さく笑う。

 確かに、遅くなったと言ってもせいぜい三十分ぐらいだ。部活がある生徒たちに比べれば格段に早い。

 香奈は遼司と帰ることが多い。友達と約束でもしない限りは遼司と一緒に帰途に着いている。家が隣同士であるから、帰り道は全く同じだ。自然と、何も用事がない時は遼司も香奈と帰るのが習慣になっていた。

 香奈も帰宅部だった。遼司とは違って、何か部活をするのではないかと思っていた。実際、入学当初は色んな部活を覗きに行っていた。だが、香奈は部活に入っていない。どの部活も香奈を欲しがった、結局彼女はどれにも属さなかった。

 遼司に合わせたというわけではない。彼女はまた違った理由で帰宅部を選んだのだった。

 高校前駅の敷地内に足を踏み入れて、改札口を定期券で通り抜ける。

 駅のホームで電車を待つ。幸い、目的の電車は直ぐに来た。

「疲れた」

 電車に揺られながら、遼司は呟いた。

 二人が座るぐらいの座席は空いている。遼司は香奈と隣り合って座りながら、向かいの窓から見える景色をぼーっと眺めていた。

「許嫁って言うの、バレない方が良かった?」

 不意に、香奈が尋ねた。

「んー、いや、まぁ、どっちでも良かったかな」

 遼司は曖昧に返していた。

 二人が許嫁であることが知られてしまった時、何か面倒なことが増えるのではないかと、遼司は一方的に危惧していた。

 遼司も香奈も、高校ではモテる部類にある。互いに全ての告白を断って来たのは知っている。

 香奈の場合は、許嫁がいるから。

 ただ、遼司の場合はちょっと違う。単純に、相手に興味が持てなかったから。許嫁がいることとは関係なく。

 香奈はどう思っているのだろうか。許嫁であることを納得しているのだろうか。そもそも、生まれた時から決められた結婚相手が遼司でいいのだろうか。

 結局、彼女がどう思っているのかは判らない。

 遼司自身も、香奈のことをどう思っているのか判らない。確かに、香奈は良い奴だ。昔からの付き合いだから、色んなことを知っている。誰か好きな人ができたら離れて行くのではないかと思っていた時期もあった。

 もっとも、一般人では香奈の相手は務まらないだろうが。

 電車を降りて、家までの道を歩く。

「今日、香奈んち泊まっていい?」

 家まであと数分の距離になった時、遼司は切り出した。

「え?」

「帰りたくない!」

 香奈の両肩を掴んで、遼司は叫ぶように訴える。

「う、うん、いいけど……」

 切実そうな遼司の勢いに気圧されながら、香奈は頷いた。

「……助かる」

 返事を聞いて安心したのか、遼司は脱力した。

 香奈の家の前まで来て、遼司は躊躇うことなく香奈と共に家へと入って行く。遼司の家は一軒向こうだが、今日は無視することに決めた。

「ただいまー」

「お邪魔します」

 香奈に続いて一言断って、遼司は靴を脱いで上がり込んだ。

「あらあら、遼ちゃんも一緒なの?」

 エプロン姿で顔を出したのは香奈の母、鏡子きょうこだった。

 ウェーブの掛かった長い黒髪に、長い睫毛に彩られた目を細めて笑顔を浮かべている。穏和な雰囲気を周囲に撒き散らすかのような表情をしている。一緒にいるだけで回りに花が見えそうだ。

「一晩お世話になります」

 遼司は苦笑して告げた。

「はいはい、ゆっくりして行ってね〜」

 柔和な笑みを崩さずに、鏡子は歓迎してくれた。

 これまでに何度も遼司は香奈の家に泊まっている。香奈と同じで事情を知っている鏡子は快く遼司を泊めてくれている。ありがたいことだ。

 玄関から直ぐの階段を昇り、香奈に続いて遼司は彼女の部屋に足を踏み入れる。

 もう見慣れてしまったので特に感動はしない。

 勉強机とベッド、小さなテーブルのある部屋だ。輪郭線上に花柄の刺繍が施されたピンクのカーテンに、ぬいぐるみもいくつかあり、それなりに女の子らしい内装だった。もっとも、香奈曰く、同年代の女子と比べたら女の子らしさは少ない方らしい。自分の部屋と比べるとさすがにそうは思えないが。

 遼司はドアの付近に荷物を置いて、テーブルの脇にある座布団に腰を下ろした。

「そうだ。遼司、ちょっと勉強教えてくれない?」

 鞄の中から教科書を取り出して、香奈が言った。

 数学のテキストをテーブルの上に広げて、遼司を見る。

「ん、どこ?」

 香奈の隣に移動して、遼司は教科書を覗き込む。

「ここなんだけど……」

 香奈が指で示したのは、教科書ではなく、ノートに書き込まれた問題だった。今日の授業の最後に出された問題の一つらしい。教科書を見れば、全く同じ問題は存在しなかった。教師のオリジナルの問題なのか、別のテキストや問題集から持ってきたものなのかは判らない。

「宿題か何かか?」

「これに似た問題をテストに出すって言ってたの」

 遼司の疑問に、香奈が答える。

 もしも宿題だったなら、遼司もノートに書き写さなければならなかった。何せ、今日の数学の授業は寝ていたのだ。何も聞いていない。必須の問題でないのなら、遼司が焦る必要はなさそうだ。

「えーっと、ちょっと待って……」

 教科書を手に取って、遼司は問題に関係していそうな場所を読んで行く。

 似たような問題を探しながら、手掛かりになりそうな例題や解法をチェックする。

「多分、ここを、こう……」

 香奈からペンを借りて、遼司はテキストを片手にノートへ書き込んで行った。

 文字式の計算を教科書から引用し、今までに習った公式を当てはめて変形を繰り返す。最後に、式変形により極限まで削った文字式に数字を代入、数値を導いて終わらせる。

「こんなんで、どうだろ?」

 ノートに踊る遼司の字を、香奈は真剣に見つめている。

「うん、これだと思う」

 暫くして、香奈は小さく頷いた。

「これがこうなんだよね?」

「ああ、ここはこっちがこうなって、こうなるから。ここでこれを代入すると……」

 香奈の質問に、遼司は的確に答えて行く。

 その様子は敏腕家庭教師のようにも見える。

 数学の他にも、香奈は自分で解けなかった問題を遼司に見せて来た。遼司は各教科のテキストを片手に、その場で解いて見せて解説を行う。

「うん、助かった! ありがと!」

 笑顔でノートを閉じて、香奈が告げる。

 満足したらしい。今日の授業で解らなかった部分は全て理解したに違いない。

「やっぱり遼司は教えるの上手いよ」

「そうかな?」

 香奈の言葉に、遼司は苦笑した。

 テストの点数では、常に香奈の方が良い点数を取っている。満点を取ることも度々あるぐらいだ。

「本当は私より頭いいクセに」

 今度は香奈が苦笑した。

 彼女から見れば、遼司の方が成績は上のはずなのだろう。誰かに教えられるということは、それだけ深く理解できているというのと同義だから。

 遼司の成績が香奈に比べて微妙なのは、授業中の居眠りが一番の原因かもしれない。テスト中も何回か寝てしまっている。結果的に、態度も点数も良い香奈がトップになっているだけと言っても過言ではなかった。

「勉強も終わったし、ミア呼ぶね」

 言って、香奈は立ち上がった。

 目を閉じて、精神を集中させる香奈の黒髪が風もないのにふわりと広がった。細く息を吐き出して、右腕をゆっくりと内側から外側へと払う。身体と水平の位置まで腕を薙いだところで、香奈の背後やや右寄りに円陣が浮かび上がった。光で描かれた幾何学文様の円陣は回転しながら輝きを増して行く。

 幾何学文様の光が円陣一杯に広がった瞬間、その向こう側から、何かが飛び出して来た。

 光に包まれた『それ』は水平に広げた香奈の右腕へと乗り、ゆっくりと肩へ移動する。香奈の後方にあった円陣が消えていくに連れて、方に乗ったモノの光も消えて容姿がはっきりとしてくる。

 淡い黄金色のふさふさの体毛に身を包んだ、小動物だ。猫や狐に似ているが、違う。大きな空色の瞳は澄み切っていて美しい。額にある真紅の宝石のようなものが部屋の明かりを反射して輝いた。

「ミア〜! ただいま〜」

 香奈はその小動物、ミアと頬を擦り合わせる。ミアの方も目を細めて、香奈に対してリラックスした表情を見せていた。

 一通り頬擦りをした後で、香奈が腰を下ろす。すると、ミアは香奈の肩から飛び降りて遼司の胸に飛び込んで来た。右肩から駆け上がって首の後ろを通り、左肩に乗る。見た目よりもミアは軽い。

「相変わらず、いい手触りしてるよな」

 右手の人差し指で喉から顎にかけて軽く掻いてやる。

 くすぐったそうにしながらも、ミアは目を細めて遼司の行動を受け入れていた。ミアの毛並みはふわふわでありながら滑らかで、触り心地が実に気持ち良い。もふもふしているのに抵抗なくするりと抜けてしまうような手触りが遼司は好きだった。

「ほら」

 右手の甲を見せてミアの前に差し出してやる。

 右手にミアが飛び乗るのを確認してから、遼司は右手を香奈に向けた。ミアは遼司の腕から香奈の腕に飛び移って肩に移動する。香奈の肩がミアの定位置だった。器用に丸くなるミアに香奈は小さく微笑む。

「ご飯できたわよ〜」

 ドアがノックされ、鏡子が声をかける。

 ミアの耳が微かに動き、顔を上げて声のした方を見る。

「はーい」

 香奈が立ち上がるのと同時に、ミアは肩から飛び降りて床に着地していた。歩き出す香奈の足元で、ミアは一歩遅れて着いていく。

 遼司は香奈の後を追って立ち上がり、部屋を出た。

 一階のダイニングへ移動し、食卓に着く。遼司の分だけでなく、ミアの皿も用意されていた。

「話は聞いたぞ。ま、昨日の今日だからそうくるとは思ってたがな」

 食卓には既に大柄な男がいた。香奈の父、大智だいちである。がっちりした筋肉の鎧を身に着けたかのように大柄なシルエットは、明るく豪快な彼の性格も現している。

 大智は豪快に笑って、遼司の肩をバシバシと叩く。少々痛いが、もう慣れてしまった。

「そろそろ勘弁して欲しいです」

 遼司は溜め息をつく。

「あの人たちも懲りないわねぇ〜」

 鏡子が小さく溜め息をつきながら、遼司にご飯を手渡す。

 困ったような口調ではあったが、相変わらずの笑顔に深刻さは感じられない。

「全くです」

 鏡子の言葉に、遼司は全面的に賛同していた。

 あの人たち、というのは遼司の両親のことだ。鏡子は遼司の母親と、大智は父親と、それぞれ親友の関係にある。

「いい加減、諦めて欲しいよ」

 遼司はぼやきながら口に白飯を放り込んだ。

「諦めないのがあいつらの良いトコでもあるんだけどな」

 大智は笑った。

「俺はキャリアじゃないって言ってるのに……」

 遼司の両親は、遼司にも香奈のような力があると信じ込んでいる。

 隣り合って座る遼司と香奈の間では、ミアが皿に盛られた料理を食べている。思いの他、上品に。

 ミアはこの世界の生き物ではない。

 アウターと呼ばれる異世界に住まう異界生物、ビジターだ。アウターには数多くの種族が存在している。その中で、ミアはカーバンクルと言う種族に分類されている。額に宝石のような形状をした特殊器官を持つ小動物型の生物がカーバンクルに該当する。

 もちろん、カーバンクルとはこの世界で言う神話やファンタジーの中に登場する生き物の名前だ。外観が似ているからカーバンクルという種族名がつけられたに過ぎない。もっとも、逆にアウターの存在がファンタジーや神話の元になったとも言われているが、真相は定かではない。

 香奈は、アウターに住まう存在を召喚し、同時に召喚したビジターをいつでも自分の意のままに使役できるという特殊能力を持っている。

 こう言った特殊能力を持つ者のことを、キャリアと呼ぶのだ。

 当然、誰もがキャリアになれるわけではない。極僅かな者だけが何らかの拍子にキャリアとなるのみだ。原因などはまだ判っておらず、何がきっかけとなるのか、キャリアの条件は何なのか、判然としていない。

 香奈の両親もキャリアであり、遼司の両親もまたキャリアであった。だから、遼司もキャリアだと信じているのかもしれない。

「あの人たちはこうと信じたら言っても聞かないのよね〜」

 僅かばかり眉根を寄せた笑顔で鏡子が呟く。

 昨日、近くの公園にビジターが現れた。悪意の無い、ミアのような大人しいビジターであればまず害はない。だが、凶暴なビジターで在る場合は問題だ。付近の何も知らない住人たちに被害が出る可能性もある。何より、ビジターの方も意図せず迷い込んでしまった場合がある。

 アウターの存在が確認されてから、たまに世界同士の境界線が歪んでしまう異常が確認されている。人間がアウターへ、ビジターがこちらの世界へ、本人の意思とは関係なく飛ばされてしまうことがあった。

 多くの人々はアウターの存在を知らない。

 だから、召喚という、世界の境界線を意図的に抉じ開けることのできる香奈がビジターを送り返すために出向いたのである。相手が凶暴なビジターであれば戦い、大人しくさせてから帰す必要も出てくる。召喚能力を使うためには一時的にではあるが、無防備になってしまうから。

 香奈は先にミアを召喚していたから、ビジターであるミアに戦って貰うことができた。実際、ミアが持つ特殊能力が無ければ相手を倒すことはできなかっただろう。

 で、問題なのは香奈一人でも十分だった、という点である。遼司は親によって強引にその戦場に放り出されたのだった。キャリアでない遼司がビジターに敵うはずもない。盛大に吹き飛ばされて戦線から退場したのだ。

 キャリアとして覚醒させるために、遼司の両親はあらゆる無茶を遼司に叩き付けてきた。結果、遼司の身体は鍛えられた。同時に、面倒事がとてつもなく嫌いになったのである。

「あ、おかわり貰えます?」

「はいはい、沢山あるからもっと食べてもいいわよ〜」

 空になった器を鏡子に手渡し、ご飯を装って貰う。

「おいおい、あまり食べるなよ。俺の分が無くなるだろう」

「お父さんはちょっと食べ過ぎだと思うなぁ」

 大智の言葉に香奈が苦笑する。

 大抵の場合、無茶をやらされた後の遼司は香奈の家に泊まりに来る。ちょっとした反抗のつもりだ。真正面から両親に盾突いても遼司に勝ち目はない。二人とも化け物みたいに強いのだ。何度返り討ちに遭ったことか。

 香奈の家に逃げ込んでいるというべきかもしれない。

「お前の方は大変だったりしないか?」

 食事を終えて丸くなっているミアを撫でて、遼司は小さく呟いた。

 ミアも心なしか同情の目で遼司を見上げているような気がした。


 *


 大きな溜め息が漏れた。

「遼司、また大智んとこ行きやがったな……」

 呟いたのは遼司の父親でもあり、大智の親友でもある、たくみだ。

 すらりと長い身長に、絞り込まれた無駄のない筋肉。遼司によく似た顔立ちをしているが、やや鋭い双眸は彼にはない特徴だ。

 ソファにだらしなく座り込み、気だるげに天井を見上げる。

「昨日も失敗か……」

 匠は右腕を額に乗せて呟いた。

 昨日のビジターはさして強くは無かった。流石に可能性は低いだろうとは思っていたが、何の収穫も無いとなると少し落ち込んでしまう。

「あなた、ちょっと気になる情報があるんだけど」

「ん?」

 匠の妻であり、遼司の母親でもある恵子けいこが言った。

 セミロングの黒髪にぱっちりした目つきの少女のような女性だ。美しさも可愛らしさも兼ね備えた外見だった。実際は匠や大智と同い年なのだが、まだ高校生や大学生と言っても通じそうなほどである。

 匠とは違ってもう昨日の失敗は気にしていないようだ。

「式守高校にビジターの気配があるみたい」

「高校に?」

 恵子の言葉に、匠を姿勢を整えた。

 気配がある、ということはビジター自身が存在しているというわけでもないということか。あからさまにビジターが存在しているのなら、気配がある、などという言い方はしない。何か不自然な部分があると見て良いだろう。

「何だか気になるから、潜り込んでみようかと思って」

「遼司に処理させる気で、か?」

 恵子の言葉を否定するでもなく、匠は尋ねた。

 ビジターによる異変を値踏みするかのような問いだった。

「可能なら、ね」

 恵子は小さく笑みを見せる。

「なるほど、あいつら絡みだったら遼司にゃ荷が重過ぎるか」

 匠は恵子の表情の変化で意図を悟り、小さく息をついた。

「何かあったら、呼べよ?」

「一人で手に負えなかったら、そうするわ」

 匠の言葉に、恵子は大丈夫だとでも言わんばかりに笑った。

「ま、大丈夫だとは思うけどな」

 匠も肩を竦める。

 匠も恵子も、ベテランのキャリアだ。いざとなれば大智や鏡子に援軍を頼むという手もある。判断は恵子に任せてもいいだろう。

「で、次のプランなんだけど……」

 とりあえず、遼司をキャリアにするためにはどうすべきか、次の手段を考えねばならない。大智と鏡子の娘がキャリアだったのだから、匠と恵子の息子である遼司がキャリアでないはずはない。

 そう信じてやまない二人は、次の作戦を話し合い始めた。

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