静かなまぼろし
ズブロッカのロックは2杯目になっていた。
窓の先の水面は変わらず鏡面のように静かで、
オレンジ色のハロゲンライトを映し“夜焼け”のよう、
心を乱し昂らせる人工光の不躾が気になり始めていた。
高所から眺める都市の夜景とは違い、
手が届くほどすぐそこの港景は釣り人たちが残していった
絡んだ釣り糸やビニール袋などがしっかり目につく。
「闇の中にそのままにしておいたほうがいいものってあるのにな」
店に小さくかかっている音楽は有線の歌謡曲。
雰囲気には合わないと思うのだが、何故かいつも変わらない。
いつしか松任谷由実の「静かなまぼろし」になった。
アルバム「流線型‘80」に入っている曲。
別れた彼が偶然同じ店に入って来て、
彼は気付かないまま知らない女性とメニューを選ぶ、
その声を背中に聞いている、と言う歌詞だ。
間原の背中には初老の夫婦がお互い椅子の背もたれに寄りかかり
来週自分たちの家にやってくる孫の話をしている。
父親が倒れ、一命はとりとめたが介護生活が始まった。
長男の間原は母親を支え諸手配を行ううちにひと月が経っていた。
下田のおばちゃんに連絡できたのもあの一週間後だった。
めめぞうのことをそのときに知った。
めめぞうの連絡先は知らないまま、
自分の手紙だけめめぞうに託されたことになった。
1985年11月1日金曜日 24;00。
間原はめめぞうが来ることのないことを悟り
赤いネオンを後にした。
霧はまだ深いままだった。




