犬はペットしか知らない
蛇、狼、野犬、サソリ、熊。
何に備えれば良いのだろうか。危険生物の知識など、ネットを斜め読みした程度しか持っていない。俺たち家族の住んでいた東京で、危険生物は人間だけだった。
焚火の火を怖れてくれるのだろうか。移動した方が良いのだろうか。インターネットは繋がらない。通話もできない。ナナミからのメールはなぜ届いたのだろう。俺からの返信は届いたのだろうか。
リュックから負んぶ紐を出し、ハナを背負う。もうずいぶんと使っていなかったが持ってきて良かった。ラケットを握り立ち上がる。暗闇に目を凝らす。
ああ、何も見えねぇな、うん
腰を下ろしリュックの中身を確認する。
タオル2本
虫除けスプレー
かゆみ止め
絆創膏
タバコとライター
スマホの充電アダプター
震災後、何となく持ち歩くようになったツールナイフと小型ライト
あ、夜やろうと思ってた花火があるな。
ツールナイフと虫除けスプレーをジーパンの後ろポケットに入れ、リュックを腹側に背負う。
まだ宵の口といえる時間帯だ。普段ならリビングでダラダラしている時間。夜はまだまだ長い。ホー、とかクワー、みたいな鳥の声がするのはフクロウだろうか。何度目かの遠吠えが聞こえた。
ジャリ、ジャリ、と地面を踏みしめる音が近づいて来る。ハッ、ハッ、というイヌ科の動物の息を吐き出す音が聞こえる。
「ハル、ハル、起きろ」
なるべく冷静な声でハルを起こす。
「うーん、おとーさん、まだ暗いよぉ」
目を擦るハルの手を引き起き上がらせ、俺の背中に回らせる。
「リュックから空のペットボトル出して」
「うん、おとーさん、なにが居るの?」
ハルがペットボトルを俺に渡しながら、息を飲むように言う。
「大きい音出すぞ」
空のペットボトルをラケットでガンガンと叩いた。おんぶ紐の中で寝ていたハナが、びっくりしてうわーんと大きな声で泣き出す。
突然の大きな音と、ハナの泣き声で近づいて来ていたシルエットが小さく飛び上がり、踵を返す。遠ざかる足音にホッと胸をなで下ろす。
「おとーさんなに? 犬?」
ハルが俺の背中にしがみつきながら言った。
「たぶんな。もう行っちゃったから大丈夫だ」
足が震えるのを誤魔化しながら、軽い調子で言う。大声で泣くハナの背中をトントンと叩く。
なんとなく虫除けスプレーを暗闇に向かって噴射する。鼻の良いイヌ科の動物ならば、嫌いな臭いかも知れない。焚火の火を大きくして、腰を下ろす。
ハルが詰めていた息をはぁーっと、大きく吐き出した。
「泣かなくてえらかったな」
ニヤリと笑ってハルの頭をガシガシと撫でる。
「泣かないよ!」
口を尖らせてハルがソッポを向く。
まだベショベショとくずっているハナをよしよししながら、お茶のペットボトルを渡す。
実際この訳のわからない状況に陥ってから、ハルは泣いていない。大したものだと思う。俺ですら泣きそうなのに。
「次に来たらコレがあるぞ」
花火を取り出して見せる。
「あ、でもかわいそうじゃない?」
ハルはちょっと眉をひそめて言った。
「ハル、たぶんここでは俺たちは弱者だ。ここがどこで、なんでこんな所に居るのかさっぱりわからないけど、手加減なんてしてる場合じゃない。お父さんはハルとハナを守る為には、なんだってするぞ」
普段とは違う俺の様子に、ハルも今更ながら非常事態を自覚したらしい。今までハルを不安にさせたくなくて、軽い調子を崩さないようにしていた。だがここが限界だろう。俺も自覚した方が良い。
俺たちは今、かなり危機的状況にある。それこそ、命の危険を伴うほどに。
「うん、ぼくハナちゃんを守るよ」
「おー! カッコイイなお兄ちゃん! えらいぞー!」
真剣な眼差しに気圧されて、気恥ずかしさについ茶化してしまう。
本当はお父さん、感動して泣きそうだ。いやマジで。
それからハルと2人で、結構楽しく花火を武器化したりした。バトミントンのラケットにロケット花火を合体させる。コンビニ袋を細く千切り、こより状にしてギューッと括り付けただけだけどな。
武器名は『ラケット花火・改、ロケットスペシャル』に決まった。‥‥長いな。
1本だと威力不足だとか、外したらどーするのとか、構えてみたりとかな。あまりの非日常に、テンションが上がってたかも知れん。
ひとしきりはしゃいで、ハルがまたウトウトしだした頃、再び奴らが近づいて来た。