夕景
「飄々として動じないタイプなのかと思っていたら、そうでもないのね」
「そう見えるように、がんばっているだけです」
ポロリと本音が漏れてしまう。
「毎日いっぱいいっぱいですよ」
「私なんて当時はボロボロだったわよ。毎日泣いて、あの人に八つ当たりして」
「俺にとって、ここが異世界だとか、地球に帰れないかもって事より、嫁の行方不明の方が大きな問題なんです。このまま見つからないとか、子供たちまでいなくなるとか、俺、壊れる自信があります」
「あら、壊れちゃったら大変! カドゥーンに修理できるかしら?」
俺は吹き出して、ハハッと笑う。じーさんなら部品さえあれば、なんとかしてくれそうだ。
「さ、戻りましょう。ハルくんが心配しているわ」
縄ばしごを降りながら、俺は酷く無神経な事を言ってしまった事に気づく。この人は大切なものを全て置き去りにしてこの世界に来たのだ。
俺は宝物を取り上げられないように、ビクビクしている子供みたいだな。
家に戻るとじーさんが、ハルのスリングの手入れをしてくれていた。劣化を防ぐ為に、ゴム部分に革靴用の油を塗り込むのだ。しゃがみ込んでじーさんの手元を見つめていたハルが、入ってきた俺に気づき、こちらに歩いてくる。ハナは俺の荷物入れから、買ってきた衣類なんかを引っ張り出して遊んでいる。
ハルが戸惑ったような顔をしているので、
「ごめんな、お父さん、ひとりで帰ってきたから、緊張してちょっと疲れちゃったんだよ」
ハルの頭をポンポンとして、
「もう大丈夫だ」と笑ってみせる。
ハナから物入れを取り上げ、散乱した荷物を片付けていると、さゆりさんがお茶を入れてくれた。みんなでテーブルにつき、熱いお茶を啜る。ハナはじーさんが作ってくれた子供用の椅子に座り、じーさんが作ってくれた木のコップで果汁を飲んでいる。俺は屋根裏部屋から、ハナの食事用エプロンを持ってきて着けさせる。
ハナの世話をしていると、心が落ち着く。
「おとーさん、ひとりで大丈夫だった? 谷狼出た?」
「谷狼は遠くに見えたけど、急いで逃げたから大丈夫だったよ。帰りに崖の上に谷黒熊がいて、ちょっとビビったけどな」
谷黒熊は小型の熊で、サラサスーンの危険生物のトップに君臨する。足が遅いので馬に乗っていれば襲われる事はない。
リュートの様子や、似顔絵屋の客の話、服や荷袋を買いに行った話をする。ハルがスリングで岩壁の上からウサギを打った時の話を、少し興奮して話す。ウサギはしばらく倒れていたが、気がついて跳ねて行ってしまったそうだ。ハルのスリングは殺傷能力を、随分と抑えてある。
さゆりさんがハルとクッキーを作った時の話をする。ハナも型抜きを手伝ったのだそうだ。2人とも「お父さんに食べさせる」と張り切っていたそうだ。
ハルとハナが顔を見合わせて、クッキーを持ってくる。差し出されたハートや星形のクッキーに口元が緩む。勘弁して、お父さん今、涙腺壊れてるんだから。
口に入れると、ホロホロと香ばしく、甘い。
「上手にできたなー! すごい美味いよ!」
褒めるとハルとハナがパチンと、ハイタッチする。ハナがぴょんぴょん跳ねて喜ぶ。
いつもの穏やかな時間が心地良く流れてゆく。
この世界で、砂糖やスパイスは特に高級品ではなく、普通に流通している。日本での値段よりは高いが、一般家庭でも普段の料理に使える程度の値段だ。甘いものを食べると、心の何処かが暖かくなる。子供たちに甘いものを食べさせてやれる世界で、本当に良かった。
お茶の時間を終わりにして、それぞれが夕方の仕事に取り掛かる。ハナはさゆりさんと晩メシの材料を畑に取りに行き、俺とハルは家畜を小屋に入れる。ニワトリとの攻防戦は、未だに敗戦続きだ。じーさんにコツを聞いたら「気配、消す」と言われた。どうやって消すのか、そこんとこを教えて欲しい。
今日は風呂に入りたいので、その用意もする。何度も木桶に水を汲み、ドラム缶(おそらくリュートの手作り)に水を溜めていく。結構な重労働で、初めてやった日は腕がガクガクになり、晩メシでスプーンが握れなかった。
乾燥させた細い枝をドラム缶の下に入れ、その上におが屑を乗せる。金属を擦り合わせて火花を散らす、この世界の着火器具で火を点ける。俺はオイルライターを持っているが、この着火器具で火を点けるのが結構好きだ。少しコツがあるが、今では慣れたものだ。
火吹き筒で息を吹き入れ、パチパチと炎が上がるのを眺める。安定してきたら薪をくべる。
ふと顔を上げると、空が茜色に染まりはじめている。ここはサラサスーン。茜岩の谷、という意味だ。
風呂にスノコを入れ蓋をして、岩壁に登る。ハルも後から登ってくる。俺とハルはサラサスーンの夕焼けがたまらなく好きだ。大きな夕日が茜色を濃くしていく。岩場が作る影が、様々に表情を変える。ここで2人、少しずつ冷たくなっていく風に吹かれながら、毎日のように一緒に沈む夕日を眺めて過ごす。
この景色ともしばらくお別れだ。キャラバンの出発は五日後。ようやくナナミに会えるかもしれないという期待が高まるが、あまり期待し過ぎると辛くなるな、とも思う。ハナを置いていく事に対する不安。道中の危険を思い、ハルを連れて行くかどうかも決めかねる。また、感情の制御ができなくなり、頭を振る。
辺りが闇に沈む。
「ハル、さゆりさんの手伝いしに行こう」努めて明るい声を出し、ハルの頭にポンと手を乗せる。
家の灯りがぼんやりと、俺とハルとを呼ぶように灯った。