大岩の家での生活
空が白みはじめると、自然に目が覚める。スマホを手に取り時間を確認する。嫁からの着信やメールも確認する。2度目の通話以来、嫁との連絡は取れていない。
この世界の1日は、22時間45分くらい。日の出のタイミングで確認済みだ。スマホを持って、そっとハシゴを降り、家を出る。
この家は大きな岩をくり抜いたように、ぐるりと自然の岩壁に囲まれている。壁に掛けられた縄バシゴを登る。ここから眺める朝日は格別だ。日の出の瞬間でスマホの時計を合わせる。朝日が昇る瞬間を0時に合わせてある。
時間に追われるような生活はしていないが、なんとなく習慣になってしまった。そのうち、どうでも良くなりそうではあるな。
明るくなる空を眺めながら、タバコにオイルライターで火を点ける。日本では、禁煙したりしなかったりの生活だったが、朝日を眺めながらの一服はたまらなくうまい。毎朝一服だけ、これも習慣になりつつある。たまたまあの日、公園に行く途中で買った二箱のうち一箱がそろそろ無くなりそうだ。
一服を終えると壁から降り、井戸で顔を洗って軽くストレッチをはじめる。それから壁の内周を走る。小学校の校庭くらい、1周1000メートルくらいだろうか。3周目でハルが起きて来たので、準備運動を済ませてから合流させ、4周目と5周目を一緒に走る。
腕立て伏せと腹筋、背筋、と筋トレのメニューをこなす。その後また軽いストレッチ。ハルも2回くらいなら、腕立て伏せが出来るようになった。
ハナを起こしに家に入ると、さゆりさんが朝食の準備を始めている。
「おはよー、おばあちゃん」
「おはようございます」
「おはよう、ハルくん、ヒロトさん」
ふと見上げると、屋根裏部屋からハナが身を乗り出している。慌ててハシゴをのぼり、ハナを受け止める。ハシゴの穴を覆う、蓋のような物を付けるべきか?
左手でハナを抱き上げ、タオルを持って顔を洗いに行く。カドゥーンじーさんが俺たち用にそれぞれ歯ブラシを作ってくれたので、歯も磨く。
じーさんも起きて来たようだ。ニワトリとヤギと牛、全部庭に出している。コイツら何故か畑には入らないんだよな。端っこ方で草食べたりしてのんびりしてる。
じーさんが椅子に座って牛とヤギの乳を絞る。ハナとハルが走り寄って、キラキラした目でそれを眺める。俺とハルは挑戦済みだ。ハルは一滴も絞れずにギブアップ。俺は、うん。乳は割と得意だからな!
3人でニワトリ小屋に入り卵を集めて、軽く掃除する。家畜小屋も掃除して、フンを集めて捨てる。手を洗ってじーさんから2種類のミルクを受け取り、家に入る。
さゆりさんに卵とミルクを渡すと、
「今朝は和食よー。甘い卵焼き作っちゃおうかしらー」
と、ご機嫌な様子だ。さゆりさんは味噌と醤油、まさかの豆腐までを、長い試行錯誤の末作り上げていた。日本人の執念を感じる。
リュートが酒を持って訪れた日、少し酔ったさゆりさんに、延々と醤油と味噌作りの苦労を聞かされた。豆腐は海水を手に入れて、ニガリが出来れば簡単だったらしい。海が遠いこの地方では、海水を手に入れる事こそ大変だったと言っていた。米はカルフォルニア米っぽいヤツが普通に流通している。
朝食の後は、畑の手伝いをしたり、じーさんと狩りに出かけたりする。俺はまだまだ役に立たないが、獲物の解体は手伝わせてもらった。なかなか重労働だし、生々しさに目眩がした。異世界のハードルは色々高い。
じーさんはあまり話さないし、一見気難しそうに見える。でも不思議と一緒にいて心地良いし、ハルもハナもとても懐いている。ぶっきらぼうだが、先回りして俺たちが困らないよう気を使って動いてくれる。ハルとハナを見る目の色は優しい。リュートの包容力溢れる笑顔は、じーさんによく似ていると思う。じーさんはあまり笑わないけどな。
軽い昼食の後は、弓矢を射る練習をしたり、この世界の言葉と文字の勉強をしたり、さゆりさんと燻製を作ったり、じーさんと皮を鞣して細工物を作ったりする。異世界語は、ちんぷんかんぷんだが、色々教えてもらうのはとても楽しい。
それにしても、衣食住全てを自分たちで賄ってしまう、じーさんとさゆりさんのスキルが凄過ぎる。
ハルはだいたい俺と一緒の事をやっているが、ハナはとても自由だ。この大岩の中は危険なものがほとんどない。さゆりさんに着いて回ったり、畑の中を走り回ってじーさんに叱られたり、虫を追いかけたりしている。先日見失って慌てて探したら、ヤギと一緒に木陰で昼寝していた。
子供が育つ上でのこの環境は、日本の都会ではどんなに願っても手に入らない極上のものだろう。
この2週間で似顔絵の収入は、金貨15枚になった。ラーザまで行くキャラバンに同行させてもらうと、雑用を引き受けても金貨5枚くらいは必要だと云う。旅の色々を揃えて金貨5枚くらい、リュートに護衛料と宿泊費、さゆりさんへの生活費は共に金貨10枚ずつくらいは渡したい。やっと半分か‥‥。
なんとかあと半月で、旅へ出る目処がつくと良いのだけれど。