失ったもの
実際、あくびは、後の事を本当に引き受けてくれた。
俺の左手を粘着質な唾液で固め、出血を抑えつつ背中に乗せて、一番近い街まで一昼夜走り通したらしい。
自分だって片目を失い、血を流していたのに。
街の人たちは、そりゃあ驚いただろう。見た事もないくらい大きなトカゲが、血塗れの死体と見紛うほど、顔色の悪い男を背負っているのだ。
ハルが言うには、しばらくは、誰も近寄って来てくれなかったらしい。
虎に襲われた事を話すと、自警団の人が教会へ連れて行ってくれたそうだ。
この街は、もう随分とザバトランガから離れていたので、耳なしの扱いは穏やかなものだった。俺は速やかに教会へ運ばれ、治療を施された。
教会の人たちは、あくびの治療もしてくれた。だが、残念ながら右目は使い物にならなくなってしまったらしい。
爬虫類の視野は驚くほど広い。その半分を失ってしまったあくびに、どれほどの不便があるだろう。俺たち家族は、あくびに生涯頭が上がらないだろう。
まあ、元々そんな感じだったから、あまり変わらないかも知れないが。
俺の左腕は、肘から先がぐちゃぐちゃに噛み千切られていた。改めて切断し、今はきれいに縫合されている。
そのへんの治療中、俺はすっかり意識を失っていたので、さっぱり覚えていない。きっと、切ったり縫ったり削ったりしたのだろう。途中で目が覚めなくて、本当に良かった。
不便がないと言ったら嘘になるが、まあなんとかなるだろう。きっとハルやハナも、色々手伝ってくれる。
腕が片方だけになって、途方にくれたのは、初めてひとりでトイレに行った時だったりする。いやまじで。さすがにハルに手伝ってくれとも言えない。
しかし、本当に右手じゃなくて良かった。左手で前と同じ絵を描けるかと言ったら、難しい。
義手的なものが欲しい気もするが、このあたりには良い職人がいないらしい。それに、今はまだ、傷口が安定しないのでどちらにせよ、義手を付ける事は出来ない。
傷口が安定するまでには、一ヶ月以上かかるらしい。結局二週間も寝込んでしまい、体調は回復したが、体力と筋肉は落ちているだろう。また頑張って鍛えないとな!
今回の事で、俺たちが失ったもの。それは、あるだろう。
だが、俺は晴れ晴れとした気持ちだった。達成感すら感じている。
あの、白い母虎と正面から向かい合った時。絶対に敵わないと思った。三輪車で、大型トラックに突っ込んで行くような勝負だったと思う。それくらい圧倒的だった。
その迷いのない力の行使に、俺は、見惚れてすらいた。自らの為、子供のために、段違いで不公平なほどの力を、躊躇う事なく振るう。
命を賭けた勝負の、舞台に上がった俺と白虎は、真実、対等だった。俺が、本当は地球人だとか、この世界の人たちが知らない事を、本当は知っているだとか。そんな潜在的に持っていたひけめや罪悪感を、遥か彼方に吹き飛ばすほどに、ただ、対等だった。
そしてその舞台の上で、俺はやっぱり、情けなくなるくらい弱かった。地球の、爪や牙を持たない人間たちが、なぜより強い武器を望んで進化していったのか、やっとわかった気がした。
まあ、そんなわけで『生きているだけで見っけモノ』『ハルとハナが無事で、白虎さんありがとう』。今は、そんな気分だ。
教会での治療費や宿泊費用は、結構な額になった。手持ち分では到底足りなかったので、病室で似顔絵屋を開いた。
この街の人たちは、驚くほど耳なしを恐れない。恐れないだけじゃなく、寄ってくる。
『ちょっとうちの子の頭、撫でてくれない? 耳なしに撫でてもらうと風邪ひかなくなるんでしょ?』とか、
『耳なしに会うと、探し物が見つかるらしいと聞いてのう。三日前から小銭入れが見当たらんのじゃよ』
と言った具合だ。そんなの知るか!
ハルは道を歩くだけで、みんながお菓子をくれると言っていた。
神さまの御使いという呼び名を聞いた事はあったが、この街での耳なしは、ラッキーアイテムに近い。
『縁起がいい』
みんなそう思っているらしい。
俺の似顔絵も、そんな感じで物珍しがられ、教会の治療師からドクターストップがかかるほど、客がやってくる。
若干、霊感商法に手を染めているような気分にもなるが、適正価格からの値上げはしていないので、まあ良しとしてしまおう。
みんな喜んでるしな!
今朝の診察で、どうにか旅立ちの許可をもらえた。治療費もなんとか、耳を揃えて払う事が出来た。あくびの怪我の具合も、順調に回復した。
ナナミのいる『ミンミン』の街まで、あと二週間程度。
さあ、旅を再開しよう!