ハンパ者
その猫の人は、もふもふなのに表情の豊かな人だった。アーモンド型の目を見開き、たらりと冷や汗を垂らさんばかりに、焦った様子が見て取れる。たっぷりと三十秒見つめ合い、そして――。
逃げた。
振り返りもせずに、全速力で逃げていく。
あんなふうに必死で逃げていく人を、追いかける理由を俺は持っていない。たかだか卵とミルクが欲しいくらいのもんだ。なくても問題はない。きっと何か深い事情があるのだろう。それはおそらく、ほぼ猫が直立したような姿と関係があるのだろう。多少の好奇心はあるが、あの様子からしたら知られたくない事情に違いない。
ポカーンと口を開けているハルの頭を、ポンポンと叩いて
『さ、帰ろうか』と口にした時。
ハナが俺の手を振りほどいて、すごい勢いでユキヒョウの姿に変わってゆく。ポンチョの首の部分からシュッと抜け出ると、逃げた猫の人を追いかけて走りだした。
油断していた。想定外のハナの行動に、慌てて追いかける。
「ハナ! ダメ! ストップ!」
そう叫んだ時には、ハナは猫の人の背中に飛びかかり、耳にかぶりついていた。あれはハナがよくアンガーにやっているのと同じだな。甘噛みだ。よほど気に入ったのだろう。
「すみません! あ、カーニャ・ラザーナ!」
焦ってつい日本語が出てしまう。
「えっと、アイナ、迷惑、カーニャ・ラザーナ」
しどろもどろで謝りながら、ハナを猫の人の頭から引きはがす。
そうこうしているうちに、何人かの人が集まってきてしまった。普通に耳と尻尾のある獣の人たちだ。
「旅のものです。娘、迷惑、ごめんなさい」
「異国のお方か。なにゆえこんな街道から外れた場所へ?」
年配の四角い瞳孔を持つ男性が、探るような視線を隠そうともしないで訪ねてきた。額に小さな突起がある。ヤギの人だろうか。
「たまご、ミルク、欲しい。でも、娘、迷惑でごめんなさい」
「にゃー、キャルカ、にゃー!」
「うん、キャルカ・キャル・キャルカ(すごくかわいい)」
人の姿に戻ってハナが叫び、ハルもボソリと呟いた。
「こら! 失礼かも知れないだろ!」
「本当にただの旅人のようだな。事情を知らない異国人か」
俺たちの言葉と、子供たちの様子を見て、ヤギの人が言った。『ただの旅人』じゃない場合はなんだと言うのだろう。
「卵とミルクか。ついて来なされ」
▽△▽
「おまえさんたち、半獣を見たことがないのか?」
「は? 半分、ですか? 猫の人、みたいな?」
「この村はハンパ者の村だ。人になり切れない者や、獣の姿になれない者。弾き出された連中が集まって来る」
ちらほら見え隠れするのは、直立した熊の人やカンガルーの人。いや違和感ほとんどないな。ううっ、カンガルーの人エプロンしてるよ。困った。ヤギの爺さんは深刻なのに、微笑ましくて口元が緩んでしまう。
「少しでも哀れだと思ったら、まともな連中にはこの村のことは内緒にしてくれ」
この世界にも差別や排斥があるのだろうか。優しいだけの世界などありはしない。ハナがユキヒョウに変身する時に、人と獣の割合が変化してゆく。その途中で止まってしまったような人たちなのか。
「ほら、他になにが欲しい?」
ヤギの爺さんが籠に入った卵と、瓶に入ったミルクを渡してくれた。俺が料金を払おうとすると、
「金はいらんよ。おまえさんたちのまともな姿を見ていると、辛いことを思い出すものも多い。すまんが早く出て行ってくれ」
と、取り付く島もない。決してこの世界の『まとも』ではない俺たちだが、それを晒したところでこの村の人たちの救いにはならないだろう。
俺はスケッチブックを取り出して、絵を見せた。
「料金、かわり。好きなの、あげます」
ヤギ爺さんは恐る恐るといった様子で、スケッチブックをめくりはじめる。左手が、ヤギのヒズメそのままだ。
「シュメリルールの街か。ほう、ドルンゾ山。これは砂漠か?」
そして手がピタリと止まる。
「ラーザの海」
そう呟いたきり黙ってしまう。
「いい思い出なんか、ほんのちょっとしかありぁしない。帰りたいとも思わん。だが、ラーザの海はもう一度見たいと、ずっと思っていた」
「この絵をもらってもいいか?」
「もちろん」
「爺ちゃん、これもあげる!」
ハルが物入れから、ラーザの貝殻をいくつか取り出す。
「じーじ、あげりゅ!」
ハナが腕の貝殻のブレスレットを外して差し出す。あ、ハナに服着せるの忘れてた。はだかんぼだった! そういえばクーも置き去りにしたまま走ってきてしまった。慌てすぎだな。
「お嬢ちゃんのそれは、もらうわけにはいかん。宝物じゃろう? 坊や、ありがとう。この赤いのだけもらっていいかの?」
俺がハナに急いで服を着せていると、ヤギ爺さんが申し訳なさそうに口を開く。
「旅の人。さっきは早く出て行ってくれと言ったが、その絵を欲しがる村のものがおるかも知れん。大したものはあげられんが、みんなに絵を見せてやってくれんか」