穏やかな朝 前編
息苦しくて目が覚める。
顔の上に何かが覆いかぶさっている。
いや、何かじゃないな。ハナだ。俺の頭を抱えて寝ているようだ。ハナ、お父さんのデコ、ヨダレでデロデロだよ。
べリッとハナを引き剥がし、上半身を起こす。
あー、自宅じゃないんだっけ。というか地球ですらない。訳のわからない転移に巻き込まれて、混乱したまま眠った。その次の日の朝だ。
ハルを起こし、半分寝ているハナを抱え、屋根裏部屋のハシゴを降りる。土間の向こうからベーコンの香りが漂ってきて、思わず鼻をスンスンと鳴らす。
「おはようございます」
台所に立つ人の後ろ姿に、思わず見入ってしまう。大きく膨らんだ黄色っぽい尻尾が、ふわりふわりと揺れている。頭には厚みのある、もふっとした大きめの耳がふたつ。この人もかつては、俺たちと同じ耳と尾てい骨を持っていたのだという。
それはつまり、俺たちもこのままこの世界にいたら、尻尾や耳が生えてくる可能性があると言う事だ。
ハルやハナに、あんな感じの耳や尻尾が生えた姿を思い浮かべてみる。うむ、悪くない。むしろかわいくて身悶えしてしまいそうだ。嫁には何の耳が似合うだろう、という妄想に入ったところで、さゆりさんが振り向いて言う。
「おはようございます。すぐに朝ごはんになりますから、顔を洗ってきてくださいね。ついでに畑に主人がいますから、トマトを三つもらってきてくれるかしら」
ハルとハナを朝の挨拶をするよう促し、了解の返事をする。家を出て正面が畑、その右手に井戸があるそうだ。
玄関のドアを出ると、ぐるりと周囲を壁に囲まれた箱庭のような光景が広がっていた。数羽のニワトリが地面をついばみながら歩いている。家畜小屋からはモォーと牛の鳴き声が聞こえる。正面の畑は思ったよりもずっと立派で、何種類もの野菜を育てているようだ。
生きものの気配が満ち溢れている。都会の生活に疲れたサラリーマンが、スローライフに憧れる気持ちが、今ならわかる。郷愁にも似た、穏やかで熱を帯びたものが込み上げてくる。空は高くどこまでも青い。
じーさんは麦わら帽子をかぶって、畑の草取りをしているようだ。
「おはようございます!」と、声をかけると、手を振って応えてくれた。
まずは顔を洗おう。
手押しポンプ式の井戸だ。可動部分を上下するとガシャコンという音がする。木桶を用意し、
「2人ともここに手出してみな」
期待感に満ち溢れた目をした2人に、つい吹き出しながら、ハンドルを上下させる。プシューッという音と共に勢いよく水が吹き出す。
「わー! 冷たーい!」
「キャー!! おみじゅー!」
2人とも大騒ぎだ。
「ほら、顔洗えー」
ハルが、バシャバシャと盛大に顔にかけ、ゴシゴシする。タオルを渡し、ハナの顔を洗ってやる。
「口もすすげよ?」
「ほら、ハナ、ぐしゅぐしゅぺー、して」
手のひらですくった水を、ハナに口に含ませる。
ビショビショになったな。まぁ、すぐ乾くだろう。
木桶の水を捨て、じーさんのいる畑に向かう。確かカドゥーンさん。昨夜さんざんマッドサイエンティスト扱いした為、若干どころじゃなく気まずい。俺の心の中の話だが。
ハナがとてとてと走るのを、ハルが追いかける。2人で手を繋いで歩く。
「さゆりさんに、トマトを三つもらってくるように言われました」
カドゥーンじーさんは日本語のヒヤリングは結構出来るらしい。しゃべるのは苦手なんだとか。
じーさんは頷くとトマトを、ポポポーンと投げてよこした。あわあわと受け取る。落とさなくて良かった。
近づいてきて、プラムのような小振りの赤い実を2人に手渡す。
「アマイ」
「ありがとうございます。朝食だそうですよ」と言うと、目に疑問が浮かぶ。
「朝ごはんです」
と、少しゆっくり言うと頷いて歩き出す。
「じーじ、あまいねー!」
あ、もう食ってるのね。
昨夜は命の危機すら感じていたのに、嘘のような穏やで優しい朝だ。考えなければいけない事や、わからない事が山積みだが、2人が笑っているので、俺も笑ってしまおう。
俺たちの荒野の一軒家での生活は、こんな風にはじまった。