6月▼日 3
夕闇が迫る町はどこか寂しさを感じさせる。昔は意味もなく不安になって泣いた事もあったなと、瑞希はふと空を見上げた。今はすみれ色に染まる空が嫌いではない。蓮の霊力の色とよく似ているから。瑞希は隣を歩く蓮に目を向けた。
「三井先輩。真田君、元気になって本当に良かったですね」
「うん!」
蓮が嬉しそうに頷く。そんな蓮の様子に、瑞希も嬉しそうに笑みを零した。
「そーいえばさ」
前を歩く裕太が、瑞希と蓮の方へ振り向いた。
「お前、いつまで三井先輩って呼んでんの?」
「え?」
「余所余所しくないか?」
「えっと?」
「だーかーら、余所余所しいだろ!」
「え……と……?」
裕太が言わんとしている事がよく理解できない瑞希は、助けを求めるように裕太の隣の玲を見た。
「瑞希さんがね、皆の事、苗字で呼ぶでしょう? 三井先輩とか伊勢先輩とか。裕太さんはね、それが余所余所しいって言っているんですよ」
そう説明した玲は、瑞希に優しく微笑みを向けた。
瑞希がよくよく考えてみると、名字で呼び合っている者は瑞希と真一以外はいない。しかし、真一は瑞希意外を名前で呼んでいるが、瑞希に至っては全員の事を苗字でしか呼んだ事が無い。
「僕、下の名前で呼んで欲しい~!」
蓮はそう叫ぶと、満面の笑みで手を上げた。
「でも……」
「瑞希ちゃんに蓮って呼んで欲しい~!」
「え、あの……」
「呼んで、呼んで~! 呼んでよ~!」
瑞希が戸惑っていると、蓮が地団太を踏みながら駄々をこね始めた。玲と裕太、慧子はその様子を面倒臭そうに見つめている。
「えっと……?」
瑞希が助けを求めるように裕太を慧子を見る。すると、二人の目が「面倒だからとっとと呼んでやれ」と雄弁に語っていた。
「あの、えっと……れ、蓮、先輩……?」
「はいっ!」
瑞希が照れながら蓮を呼ぶと、蓮は勢いよく挙手をした。その表情は満足そうに綻んでいる。
「今日からみんなの事、名前で呼ぶんだよ? 呼ばなかったら罰ゲーム~!」
「ば、罰ゲーム……?」
蓮の一方的な宣言に、瑞希は不安そうに蓮を見つめた。
「あの、罰ゲームって、何するんですか?」
「マロンちゃん式の罰ゲームにしよっかな~?」
不安そうな瑞希に、蓮がニヤニヤと笑いながら答えた。
「蓮さん、それは……」
玲が同情的な視線を瑞希に向けた。瑞希は訳が分からず、小さく首を傾げた。
「いいっすね、それ!」
「ふ~ん。裕太も瑞希ちゃんにマロンさん式の罰ゲームする気なの?」
――怖い……。か、顔が、怖い……。
蓮に同意した裕太を慧子が睨み付ける。その顔は般若の様相を呈しており、瑞希は普段見ない慧子の表情に恐れおののいた。
「いや、俺は参加しない。面白そうだと思っただけだ」
「そう。なら、いいけど」
裕太が顔を引きつらせながら宣言すると、慧子の表情が普段通りに戻った。その事に裕太はホッと小さく息を吐いたようだった。
「あ、あの。罰ゲームって痛いんですか? でこピンとか……?」
「痛くない、痛くない~!」
「痛くは無いですね。ただ……」
不安そうな瑞希が更に尋ねると、蓮が満面の笑みで、玲が複雑そうな表情で答えた。
「ただ……?」
玲の答えを促すように、瑞希がオウム返しをすると、玲はスッと瑞希から視線を逸らした。そんな玲の様子に、瑞希は再度首を傾げる。
「蓮さん。やはり止めた方が……。いくらなんでも可哀想――」
「やだ~! マロンちゃん式のがいいの~!」
「でも、可哀想で――」
「い~や~だ~! マロンちゃん式のって決めたの~!」
再び地団太を踏み始める蓮を、玲は面倒臭そうに見つめた。そして、同情的な視線を瑞希に向ける。今日に限っては、蓮を実力行使で止めるつもりはないらしい。
「じゃ、じゃあ、痛くないなら……」
「やった~!」
罰ゲームの内容を聞かず、駄々をこねる蓮をなだめる為に瑞希が同意する。すると、蓮は飛び上がる勢いで喜んだ。子どものように飛び跳ねる蓮の様子に、瑞希が目を細めていると、トンと誰かの手が瑞希の肩に置かれた。
「瑞希ちゃん、罰ゲームの内容、ちゃんと確認した方が良いわよ?」
「え?」
瑞希の肩に手を置いたまま慧子は複雑な表情を浮かべた。意外な慧子の様子に、瑞希が戸惑いがちに視線を彷徨わせると微笑んでいる玲と目が合った。
「呼び間違えてマロンさん式の罰ゲームなんて、悪趣味な事をするのは蓮さんくらいですし、蓮さんの前で間違えなければ問題無いですよ」
玲はそう言うと、少し困ったように笑った。
「それもそうですね。瑞希ちゃん、気を付けて。蓮先輩の事、呼び間違えちゃダメよ? ううん、蓮先輩がいる時に間違えちゃダメ!」
「は、はあ……?」
真剣な表情の慧子に両肩を掴まれた瑞希は、何か大きな間違えを犯してしまったのではないかと不安になった。
「ふっふっふっ! 絶対、成功させてみせる~!」
「え?」
何故か気合を入れている様子の蓮に、瑞希の不安は更に大きくなった。
「あ、あの――!」
「あ! そうだ! 瑞希ちゃん!」
瑞希の言葉を遮るように蓮が叫んだ。罰ゲームから話題を逸らそうという魂胆が見え見えだ。
「……何でしょう?」
「広田香織ちゃんに会いに行く日、決めよ~?」
そう言った蓮は嬉しそうに笑っていた。何がそんなに嬉しいのだろうと、瑞希は小さく溜め息を吐いた。
「ほら、市田さんもさ~、早く答え聞きたいだろうから! 今週の日曜日とかど~かな~?」
「分かりました。日曜日ですね。同行、お願いします」
「わ~い。デート! デート! 瑞希ちゃんとデート!」
嬉しそうに飛び跳ねる蓮を見ながら、玲、裕太、慧子の三人は溜め息を吐いた。瑞希だけが頬を赤く染めて慌てている。
「え? ちょ、ちょっと、三井先輩! 遊びに行くんじゃないんですよ!」
『あぁーあ……』
叫んだ瑞希を玲、裕太、慧子の三人が複雑な表情で見つめた。瑞希はそんな三人の反応に首を捻った。
「えっと……?」
「蓮さんのあれ、絶対計算だったっすよね?」
不思議そうにする瑞希を他所に、裕太が小声で隣の玲に問い掛けた。玲は溜め息を吐きながらそれに頷く。
「計算、でしょうね。わざと瑞希さんを慌てさせる事を言って……。やり方が汚いですね……」
ヒソヒソと話す玲と裕太の様子を、瑞希は不思議そうに見つめていた。
「むふふ~。瑞希ちゃん、瑞希ちゃん」
つんつんと蓮が瑞希の肩を突く。瑞希が振り返ると、蓮がいやらしい笑みを浮かべながら瑞希のすぐ後ろに立っていた。
「な・ま・え~! さっき、三井先輩って言ったよね~!」
蓮の発言にやっと合点がいった瑞希は、ハッとしたように自身の口を押さえた。そんな瑞希に蓮の顔が近づく。
「え? ちょっ! ち、近いです! 近いですって!」
「本家はこっち、なんだけどね~」
そう言って悪戯っぽく笑った蓮は、自身の唇を指差した。
「でも、僕、紳士だからおでこにしといてあげる~!」
蓮の長い指が瑞希の前髪を梳く。そして、だんだん近づいて来る蓮。罰ゲームの意味を知った瑞希は、羞恥で顔を茹蛸のように真っ赤に染めた。
「い、いやあああぁぁぁぁ!」
「ぅぶしッ!」
蓮の唇が瑞希の額に触れる直前、乾いた音が響き渡り、蓮がよく分からない声を上げて倒れた。蓮の頬には見事に瑞希の手形がついている。
「な。面白いだろ? 絶っっっ対に成功しないのに、果敢に挑戦する蓮さんの図」
そう言って裕太が自慢げに胸を張ると、慧子と玲が呆れた表情ながらも頷いた。
顔を真っ赤にしながらも、完全に伸びている蓮を心配そうに揺さぶる瑞希。そんな二人を、玲、裕太、慧子の三人はしばらくの間、興味深そうに観察していた。




