6月■日 4
「こ、れは……?」
玲の蹴りを受けて瑞希の手から警棒が舞う。その様子を第二図書室の扉を開けた人物――慧子は呆然と見つめた。
「ああ、そうだった。先輩に注意しろって言われていたの、すっかり忘れてた。【影】の気配嗅ぎ付けました? それとも嫌な予感でもしました?」
香織は慧子に顔だけ向け、ニッと笑みを見せた。状況が把握出来ていない慧子はその笑みを呆然と見つめる。瑞希もまた、突如現れた慧子を呆然と見つめていた。次の瞬間、玲の足が動いた。瑞希の鳩尾付近に玲の蹴りが入る。
「かはっ!」
瑞希の呼吸がその衝撃で止まり、肺の中の空気が強制的に抜ける。そして、左の肋骨が嫌な軋みをあげた。
「瑞希ちゃん、さっきも言ったけど、隙作っちゃダメだよ?」
香織は床に転がった瑞希に嘲笑を向けた。玲は普段と変わらない穏やかな表情で瑞希を見つめている。
「瑞希ちゃん!」
慧子が叫んで瑞希に駆け寄り、瑞希を抱き起した。
「ま、なべ、せんぱ……」
抱き起された瑞希は、弱々しいながらも返事をする。慧子はホッと安堵の息を吐き、キッと玲を睨んだ。
「白糸先輩! これはどういう事ですか?」
「…………」
玲は表情を変えず、穏やかに慧子と、その腕の中にいる瑞希を見つめていた。
「どういう事も何も、見た通りですよ、先輩」
黙ったままの玲に代わり、香織が嘲笑交じりに答えた。慧子の表情が険しくなる。瑞希は何とか立ち上がろうと、慧子の腕の中でもがいた。
「眞鍋先輩。私、無駄な争いって嫌いなんです。今すぐ貴女をどうにかするつもりは無いので、そこ、退いてもらえます?」
香織はそう言うと、慧子の腕の中でもがいている瑞希に鋭い視線を向けた。さながら、弱った獲物を見つけた肉食獣のように。
「退けって言われて退くわけ無いでしょ!」
「困ったなぁ……」
気丈に叫んだ慧子に、香織は心底困ったような表情をし、考え込むように顎に手を当てた。
「……瑞希ちゃん。逃げるわよ」
慧子は低く、瑞希にしか聞こえないような小声で囁いた。そして、制服のポケットに手を入れ、中を探る。瑞希が無言で見上げた慧子の顔は、玲に向き、先程よりも険しさを増していた。
「あれぇ? もしかして、眞鍋先輩が相手してくれるんですか? 白糸先輩に勝てるの?」
慧子が制服のポケットから札を取り出しているのを見とめ、香織は口角を上げた。玲は表情を変えず、いつも通り柔らかく微笑んでいる。慧子はそんな玲の様子に眉を顰めた。そして、決意したようにスッと立ち上がると、札に霊力を込め、玲に向かって放った。
「立って! 走って!」
慧子の札から【影】が噴き出した瞬間、慧子は叫び、瑞希の手を掴むと引っ張り上げるように立たせた。そして、そのまま走り出す。瑞希は先に走り出した慧子に半ば引きずられるように走り出した。
「逃げるのね……」
香織は呆れたように溜め息を吐いた。その横では、玲が慧子の出した【影】を一瞬で塵に帰す。
「追うわよ」
香織は玲に声を掛けると同時に走り出した。玲もそれに無言で続く。
「一匹じゃ足止めにもならないか……!」
慧子は呻くように呟くと、制服のポケットから札を三枚取り出した。そして、それに霊力を込め、宙に放つ。すると、廊下を塞ぐように【影】が出現した。
「瑞希ちゃん、こっち!」
管理棟からA棟に繋がる渡り廊下に飛び出した慧子は、さらに札を三枚取り出し、霊力を込めて【影】を出現させた。そして、札が入っていたのとは別のポケットからスマートフォンを取り出し、走りながら電話を掛けた。慧子が焦りながら呼び出し音を聞いていると、突然、その音が途切れ、雑音が耳に入った。
「はい」
電話口に出た裕太の声はどことなく不機嫌さが漂うものだった。しかし、今の慧子はそんな事を気にしていられない。
「裕太! 今、どこ!」
「あ? お前こそ、どこいんだよ! 俺がどんだけ探したと――」
「いいから答えて!」
「B棟とC棟の間の渡り廊下だけど……?」
文句を言おうとした裕太だったが、慧子の剣幕に押され、素直に現在地を口にした。
「そこ、動かないで。今から行くから!」
「何? お前、今、走ってんの?」
電話口の慧子の息遣いを聞いたのか、裕太は怪訝そうな声をあげた。
「瑞希ちゃんが玲先輩に襲われたの! 追われてるの! だからそこにいて! 動かないで!」
「は? 何言ってんの、お前。玲さんが、んな事するわけ――」
「多分だけど、操られてる! お願いだから、そこ、動かないでね!」
一方的に電話を切った慧子は、走りながら後ろを確認した。そして、香織と玲が追ってきているのを目の端に捉えると、三度、廊下を塞ぐように【影】を出現させた。
「瑞希ちゃん、こっち!」
慧子は瑞希の手を引きながら廊下の角を曲がった。瑞希も慧子に遅れまいと懸命に走っている。しかし、息を吸うた度に脇腹に鈍い痛みが走り、呼吸がままならない。
「もう少し! この先に裕太がいるから!」
慧子に励まされ、瑞希は走りながら頷くも、先ほど受けたダメージが大きすぎるのか、なかなかペースが上がらない。後を追って来る香織達との距離はじわじわと詰まってきていた。
やっと目的の渡り廊下に差し掛かり、裕太の姿を認めた慧子は、札に霊力を込めて宙に放った。
「裕太ぁ!」
慧子があらん限りの声で叫ぶと、明後日の方向を向いていた裕太が弾かれたように振り返った。そんな裕太に、瑞希と慧子は駆け寄った。
「お前、校内で【影】出すって――」
裕太は目を見開いた。それも当然だった。慧子は、市田により校内での【影】の使用は禁止されている。もし、禁を破って【影】を使用した場合、お咎めなしでは済まない事は裕太も理解していた。それ以前に、真面目を絵に描いたような慧子が禁を破った事に、純粋に驚いていた。
「分かってる。文句なら後で聞くし、市田さんに報告しても構わない」
「え? いや、チクリはしないけど――」
「警棒、持ってるでしょ? 瑞希ちゃんに渡してあげて」
「お、おう」
裕太の元にたどり着いた安堵からか、膝から崩れ落ちた慧子は肩で息をしていた。瑞希も脇腹に走る痛みに耐えきれずに蹲る。そんな二人を気にしながら、裕太は足元に置いてあった鞄を漁り、警棒を取り出した。
「おい、大丈夫か?」
瑞希の前に屈んだ裕太は、瑞希に警棒を手渡す。そして、心配そうに瑞希を見つめた。
「大丈夫です……。ありがとう、ございます……」
瑞希はそう言って小さく笑みを浮かべると、痛みを堪えて立ち上がった。
「一体、どうなってんだよ!」
裕太はイライラしたように髪を掻き毟り、瑞希の隣に立った。そして、慧子が出現させた【影】の奥を睨む。とその時、【影】の腹に大穴が開き、悠然と玲が現れた。その後ろには香織もいる。
「玲さん。これ、どういう事っすか? ぶっちゃけ、今日は虫の居所悪いんで、答えによっては容赦しないっすよ?」
裕太が殺気の篭った声色で問い掛ける。玲はそれを気にする素振りも無く、ただ微笑みながら佇んでいた。




