5月〇日
男子生徒の電車事故の件を調べ始めてから二週間。その生徒がどこで【影】に憑かれたのかが分かるような有力な情報は掴めずにいた。
「はぁ……」
「瑞希ちゃん、溜め息吐くと幸せ逃げちゃうよ? 何か悩み事?」
瑞希が顔を上げると、心配そうに香織が見つめていた。
「ん~ん。何でもないの」
「そう? 何かあったらいつでも言ってね。私で良ければ相談乗るよ?」
「香織ちゃん……」
瑞希が香織の優しい言葉に感激していると、授業開始のチャイムが鳴り、数学の担当教諭が教室に入ってきた。授業が始まり、瑞希は担当教諭が板書していく内容を必死にノートに書き写していた。そんな中、ふと隣を見ると、真一が机に突っ伏して堂々と寝ていた。
「じゃあ、次の問題は誰かに解いてもらおうかな。……真田! 前に出てこの問題を解きなさい!」
指名された真一は、余程深い眠りに入っているのか微動だにしなかった。
「真田君。真田君ってば!」
瑞希は堪らず真一を突っついて声を掛けた。
「ふあぁぁぁ……。んだよ?」
真一は大きな欠伸をし、恨めしそうに瑞希を見つめた。寝起きの為か、普段以上に険しい表情をしている。
「真田。前に出てこの問題を解きなさい」
「――だそうです」
「ふぇい」
担当教諭に不機嫌そうに言われ、真一は眠い目を擦りながら黒板の前に歩いて行った。そして、心配そうにその様子を見つめる瑞希を他所に、問題を見ていたかと思うとスラスラとそれを解いていった。
「出来ました」
そう言うと、真一はのろのろと自分の席まで戻った。
「正解……」
担当教諭は呆れた顔で真一を見ているが、席に戻った真一は既に夢の中にいた。何で授業を聞かずに問題が解けるのだろうかと、瑞希が呆れた顔で真一を見ていると、担当教諭が気を取り直したように中間テストの範囲の説明を始めた。ハッとして前を向いた瑞希は頭が真っ白になる。毎日訓練漬けでほとんど自宅学習などしていなかったのだ。板書された日程を確認すると、後一週間程で中間テストだった。瑞希は自分の顔から一気に血の気が引いていくのがはっきりと分かった。
瑞希は静まり返るラウンジで遅めの夕食を食べながら、教科書や授業中に取ったノートを参考に数学の問題集を解いていた。少し進んだ段階で既に解けない問題がいくつかあり、ペンが止まってしまった。英語と国語は比較的得意な為、何とかなるだろうと思っているが、如何せん、数学は一番の不得意科目である。夕食を食べ終わっても、今日のノルマと決めたページのうち、半分も解き終わっていなかった。
「う~ん……」
瑞希は唸りながら問題と睨めっこをした。そんな事をしても問題の答えが出てくるわけでは無いが、考えないよりはマシだろう。
「大丈夫ぅ?」
瑞希の手が全く動いていないことに気が付き、その様子を見守っていたマロンが心配そうに声を掛けた。
「あの、マロンさん。この問題分かります?」
「どれどれぇ? あら、数学ぅ? 私、数学って苦手なのよねぇ。記号とか図形とか見ているだけで吐き気がするの」
一縷の望みをかけてカウンターに立っているマロンに聞いた瑞希に、マロンは照れたような笑みを浮かべた。
「そう、ですか……」
席に戻った瑞希は途方に暮れた。答えを見て、解き方を理解してからもう一度解くという方法も思い付いたが、答えを見て理解する事が出来るのか不安だった。理解できなかった箇所を質問できる相手も今ここにはいない。もし、答えを見て理解出来なかったら、明日学校に行ってから担当教諭に質問するしかないかと、瑞希は溜息を吐いた。
「はぁ、暑い暑い~! マロンちゃ~ん! ジュース取って~!」
瑞希が声に驚いて弾かれたように振り返ると、蓮が丁度ラウンジに入ってきたところだった。髪の毛が湿っているところを見ると、風呂上がりに喉が渇いて飲み物を取りに来たのだろう。
「あ、蓮ちゃん! 丁度良かった。瑞希ちゃんに数学教えてあげてくれない? ほら、私ってあんまり数学得意じゃないから!」
「数学~? マロンちゃんは数学に限らず、勉強嫌いでしょ~?」
蓮はマロンからジュースを受け取ると、瑞希の座る席の傍らに立った。
「ああ、この問題~?」
蓮は瑞希の問題集を覗き込むと、瑞希の正面の席に腰掛けた。
「この問題はね~、公式習ったでしょ? それを使って――」
瑞希は正面に座っている蓮を見た。蓮と勉強という組み合わせが今一しっくり来ない。
「――で、グラフ書いて考えるんだよ~」
「こう、ですか?」
瑞希は蓮に教えたられた通り問題を解いていく。
「そうそう。瑞希ちゃんは飲み込み早いね~」
「いえ……。三井先輩の教え方が上手だから」
蓮にストレートに褒められ、瑞希ははにかんだ笑みを浮かべた。その笑みを見た蓮も、瑞希に優しく微笑み返す。
「お前ら、何見つめ合ってんの? 恥ずかしい……」
瑞希が驚いて振り向くと、すぐ後ろに真一が呆れ顔で立っていた。
「なっ! 見つめ合ってないもん!」
「見つめ合ってたじゃん」
恥ずかしさのあまり頬を染めて反論した瑞希に、真一はバカにしたように鼻で笑った。
「真ちゃん。二人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじゃうのよぉ! 私だって邪魔しないようにしてたのにぃ!」
厨房の方から真一を非難する声が聞こえてきたと思うと、カウンター越しに覗いていたのだろうマロンが、カウンターの下から顔を出した。その顔は非常に残念そうだった。
「お前、それはただ単に面白がって覗いていただけだろ。しかも、カウンターの影からって相当タチ悪いから」
「違うわよぉ! 優しい目で見守っていたって言って欲しいわねぇ。お姉さんとしてはね、やっぱり愛し合う二人に上手くいって欲し――」
「別に、私と三井先輩はそんな関係じゃありません!」
好き勝手な事を言うマロンに、瑞希は椅子から立ち上がり、大声でマロンの言葉を否定した。
「え~。そうなの? 僕は大歓迎だけどな~」
蓮はそう言ったかと思うと、いつの間に後ろに回ったのか瑞希の肩を抱いた。石鹸の良い香りが瑞希の鼻をくすぐる。蓮の服装がTシャツ一枚という薄着の為か、瑞希の身体にじんわりと蓮の体温が伝わってきた。全く予想していなかった蓮の行動に瑞希は硬直し、顔を真っ赤に染めた。
「蓮さん。これはセクハラですから」
静かな声と共に蓮の腕が瑞希の肩から離れた。恐る恐る瑞希が後ろを振り向くと、端正な顔を引きつらせて硬直している蓮と、その傍らにいつの間に来たのか氷の微笑みを浮かべる玲が立っていた。玲が掴んでいる蓮の手首がミシミシといっているのは、もちろん瑞希の気のせい――では無いだろう。
「お前は、何でいつもいつもそんな行動ばっかなんだよ。セクハラすんな!」
真一はそう叫ぶと、蓮の背中に容赦なく蹴りを入れた。
「助けて~! 瑞希ちゃ~ん!」
真一に蹴られた拍子に玲の手が離れると、蓮は迷い無く瑞希の背後に回り、両肩を掴んで盾にした。
「お前! 卑怯だぞ! 今日こそ、その根性叩き直す! 今すぐ出て来い!」
そう叫んだ真一の額には、すでに青筋が浮いている。
「蓮さん、温厚な私にも我慢の限界がありますから。瑞希さんを巻き込まないためにも早く出て来て下さい?」
玲も顔こそ微笑んでいるが、よく見るとその額には青筋が浮いている。このままでは本当に瑞希を巻き込みかねない。
「二人とも怖いよ~」
蓮は本気で怒っている真一と玲に恐れをなし、瑞希の後ろでプルプルと震えていた。その姿は正に怯えて震える子犬のそれだった。
「ま、まあまあ。二人とも落ち着いて下さい。三井先輩も反省しているみたいですし……。ね?」
瑞希は何とか場を納めなくてはと、必死に笑みを浮かべた。しかし、その笑みは誰がどう見ても引きつったものだった。
「蓮さんはこれ位では反省しませんよ。昔からこうですから。今日という今日はキツイお仕置きが必要です」
「お前、こいつのどこが反省してるように見えんだよ! お前の目は節穴か? とにかくそこ退け!」
玲と真一はそう言うと、じりじりと間合いを詰めてきた。二人の迫力に圧倒され、瑞希は引きつった笑みを浮かべたまま後ろに下がろうとするが、蓮がいてそれもままならない。
――無理無理無理! 怖い怖い怖い!
必死に二人から間合いを取ろうともがく瑞希は、視界の端にマロンを捉えた。
「マロンさん! 助けて下さい! お願い、助けて!」
「モテる女は辛いわねぇ。羨ましい限りだわぁ……」
必死でマロンに助けを求めた瑞希だったが、マロンはカウンターに頬杖をついて引きつった笑みを浮かべているだけで、止める素振りすら見せなかった。その間にも瑞希と玲、真一との間合いは、長身の玲が腕を伸ばせば瑞希に届くくらいに詰まっていた。
「マロンさんの薄情者ぉぉ!」
「いったい、何の騒ぎですか……?」
突然掛けられた声に、瑞希が弾かれたようにラウンジの入り口を振り返ると、呆れ顔の慧子が立っていた。
「眞鍋先輩ぃぃ! 一生のお願いですぅぅ! 助けて下さいぃぃぃ!」
慧子にまで見捨てられればもうどうすることも出来ない瑞希は、必死の形相で慧子に助けを求めた。その目に涙が浮かぶ。その姿を見て、何が起きているのかを一瞬で理解した慧子は溜め息を吐いた。
「ほらほら、皆さん。これ以上続けると瑞希ちゃんまた泣いちゃいますよ? マロンさん、アイスティー頂けます?」
そう言った慧子の顔は苦笑していた。
「何があったのかは大体予想出来るので、あえて聞きませんけど……」
ソファに座った慧子は、マロンから受け取ったアイスティーを一口飲んだ。玲と真一は慧子の正面に、瑞希は慧子の隣に腰を下ろした。蓮だけは床に正座をさせられていたりする。
「皆さん、少々やりすぎですよ。まあ、蓮先輩が元凶なんでしょうけど……」
「違うよ! 僕はマロンちゃんに頼まれて瑞希ちゃんに勉強を教えてたの! それを真ちゃんがからかったんだよ!」
「それは瑞希さんの肩を抱いた理由にはなりませんよね?」
玲がにっこりと蓮に笑いかけた。
「う……。それは……。成り行きというか、何というか……」
ブツブツ言う蓮を真一が無言で睨み付けている。
「う~ん……。こういうのはどうでしょう?」
慧子は何かを考えていたかと思うと口を開いた。
「明日から、蓮先輩と玲先輩と真一君で瑞希ちゃんに勉強を教える」
『は?』
予想しなかった慧子の提案に、一同は目を丸くした。
「瑞希ちゃんは誰かに勉強を教えて欲しい。蓮先輩は喜んで勉強を教えるでしょうけど、もちろんセクハラもする。玲先輩が教えても良いんでしょうけど、ここで瑞希ちゃんが勉強していたら必然的に蓮先輩も来ますよね? かといって、ここ以外には勉強出来るスペースは無いですし。で、真一君は瑞希ちゃんがどちらと仲良く勉強していても気に食わないから、からかいに来るんでしょ?」
「なっ、ちがっ――!」
真一は立ち上がり、慧子に反論しようとした。しかし、慧子は意に介さず話を続ける。
「蓮先輩がセクハラをしないように見張る意味も込めて、明日から仲良く四人でテスト勉強したら良いじゃないですか。蓮先輩がセクハラする前に、玲先輩か真一君のどちらかが止める。これで問題解決ですよね? じゃあ、私は明日早いのでもう寝ます。皆さんは?」
慧子はにっこりと笑うと、アイスティーを一気に飲んで立ち上がった。
「あの、えっと……」
「では、今日はもう遅いですから明日からそのようにしましょうか。蓮さん、真一さん。部屋、戻りましょう。瑞希さん、お休みなさい」
戸惑う瑞希に玲はにっこりと笑いかけるとソファから立ち上がり、蓮の首根っこを掴んだ。
「瑞希ちゃん、おやすみ~! また明日ね~!」
蓮は玲に引きずられながら、瑞希にブンブンと手を振った。真一はそんな蓮を睨みながら、無言でラウンジを後にした。瑞希は呆然と立ち去って行く四人を見送っていた。




