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後編 〜絶技、繚乱〜

ここでトリックスターが登場します。皆さんの期待を良い意味で裏切られたなら、嬉しいです。

 彼女にしてみれば、それは歯がゆいほどに後悔した、人生最初で最後のミスだった。


 彼女の侵入方法は、至ってシンプルである。顔を仮面で隠し、漆黒のダークスーツに身を包み、影から影へと移動する。

 警備兵の配置、館の見取り図のすべてを記憶し、最も安全かつ最速のルートで目的物を盗むことで快感を得られるのだ。目を欺き、耳を欺いて、誰にも知られることなく鮮やかに盗む。それが、彼女の美学だった。

 ダークスーツに施した“呪術”――Bクラス中級魔術に位置する“気配遮断”は、まさしく彼女にとって理想的な魔術であった。この魔術があればこそ、今の彼女があると言っても過言ではない。


 その彼女が、今や館中から集合しつつある警備兵に銃口を向けられ、万事休すの状況に置かれている。

 ロビーに張り巡らされた、蜘蛛の巣の如き魔術結界――その気配に気付かずに一歩を踏み出した時点で、彼女は自らの致命的な失敗を悟った。

 それは、ロビー全体に施された“火種”であった。触れたとしても蜘蛛糸ほどに感触のない狡猾な罠は、しかし愚かなる侵入者が触れた瞬間に爆発する。

 それが千個――ヴィルヘルムがロビーに仕掛けた火種は至る所に点在し、触れた瞬間に連鎖爆発を引き起こす。

 一つ一つは小威力だが、それを立て続けに食らえば無事に済むはずがなかった。

 一発目は回避した。だが、回避したその瞬間に別の火種が着火する。冷酷に無慈悲に、彼女は曲芸のように滑稽に弄ばれた。

 そうして、彼女は騒ぎを聞き付けた警備兵に囲まれる。

 ダメージは、もはや回復が追いつかぬ状態にあった。左腕は根こそぎ消滅し、全身が火傷と風傷の満身創痍。吐き気とめまいが平衡感覚を酔わせ、冷静な思考力さえも綻びつつあった。


「あっけない幕引でしたね、美しいお嬢さん」


 目の前の男は、憎たらしい言葉を告げる。だが、彼が指示したなら周りの警備兵は一斉にその引き金を引くだろう。

 今の彼女の命はまさしく、この金髪の男が握っているのである。


「――君には無駄かもしれないけど、いちおう聞いておくよ。武器を捨てて投降してくれ。君はまだ、死ぬには惜しい人材だ」


 ヴィルヘルムの申し出に、彼女は無言の拒否で応えた。

 彼女とてプロである。自らの美学を曲げてまで生き長らえるつもりはなかった。


「――なぜ、女王陛下のルビーを奪うのです?」


 愚問である。

 盗みたいから盗む。ただそれだけに理由などあろうはずもない。「あくまでも無言ですか。――いえ、それがプロというものでしたね。

 それに――」


 彼女は死を恐れない。ゆえに、彼女の瞳はまだ爛々と輝いたままだ。


「――あなたはまだ、諦めていない」


 その言葉と、おぞましき異変が起きたのは、ほぼ同時だった。

 警備兵の“影”から、全身を黒に染める異形が現れたのである。

 ――否。それは“影”の本体である兵士たちの姿そのものだった。背格好も装備も瓜二つ。違うのは、その“影”たちが面も窺い知れぬほどの漆黒であることか。

 呪術――Aクラス大型魔術“正と負の狂騒曲”《ドッペルゲンガー》。

 本体である人物と全く同じ性能を持つ“影”を操る秘術。ゆえに攻撃対象は本体の人物のみに限定されるが、こと密集戦においては絶大な効果を発揮する魔術である。

 混乱とともに現れる影の軍勢は、その標的を自動的に本体に定め、殺戮を開始する。止めるには、本体が死ぬか、術者を倒さねばならない、非常に強力な神秘であった。

 この、見るもおぞましき“影軍団”の出現に、さしもの警備兵たちも混乱を極めていく。

 語る舌を持たぬ群れである。宣告もなく発砲する“自分の影”と戦うなど、冗談の悪い悪夢でしかなかった。

 ただ一人、この神秘を回避した男以外は――。


「――これが、あなたの切り札ですか?」 


 男の手には、いつのまにか“剣”が握られていた。他の警備兵たちとは違い、銃が常識となりつつある今では時代遅れもはなはだしい。

 だが、彼女はその“剣”をこそ警戒した。なぜかは自分でも分からない。しかし、この“剣”は危険だと本能が訴えている。


「女王直属近衛騎士、ヴィルヘルム・エーゼルヴァイン――推して参る!」


 高く謳い上げた宣言と同時に、消失したと見紛う瞬発力をもってヴィルヘルムは彼我の距離を瞬時に詰める。

 その動きには、当然に彼女も対応する。だが、男の速度は繰り出す剣撃のリズムに乗る形で徐々に早くなっていた。

 彼女は反撃すら許されない。片手で操るナイフは十合の打ち合いをもって木っ端微塵に破壊され、その衝撃を相殺できずに壁に叩き付けられた。


「これで王手チェックです」


 死力を振り絞り立ち上がろうとした彼女を、喉元に突き付けた剣が静止する。

 この時点で、警備兵たちを襲っていた“影”が消えていく。それは即ち、彼女の活力が神秘を維持できぬほどまで消耗させられていることを意味していた。

 しかし――。

 彼女には不可解な疑問があった。警備兵たちに通用していた“呪術”がヴィルヘルムには通用しなかった、この不可解な事実である。

 いかにヴィルヘルムが優れた魔術士とはいえ、Aクラスの神秘を無力化することなどできない。良くて“影”の出現を遅らせる、あるいはその能力をわずかながらに低下させる程度の“対魔力”《レジスト》しかないはずだった。大型魔術は、それほど強力な神秘なのである。

 にもかかわらず、ヴィルヘルムは完全に無力化してみせた。この不可解極まりない現象に、彼女は驚きを隠せない。


「――なぜ私が君の呪術を無効化できたのか、知りたそうだね」


 そんな彼女の心を読んだかのように、ヴィルヘルムは言葉を続ける。


「もちろん、私の対魔力ではあなたの魔術を無力化できない。その認識は間違いなく正しいのです。

 ――もう、あなたも気付いているのでしょう? この“剣”の正体を。

 騎士を夢見た者ならば必ず耳にする、かつての英国を生き抜いた伝説の騎士王の“剣”を――」


 それは、古の騎士たちを率いた光の象徴。

 数多の夢を背負い、幾多の涙で鍛え上げられた、無数の人々が祈り捧げる希望と信仰の結晶剣。


ゆえにその名を“聖剣エクスカリバー”


 200年後の21世紀においても、ヨーロッパ最大の伝説“アーサー王”が所持していた伝説の聖剣である――。


 それに気付いた瞬間、彼女は、あぁ…と抵抗の意志を自ら失い。


「この聖剣は妖精の祝福を受けていましてね。特に呪術に対しては、完全な対魔力を所持者にもたらすのです」


 ヴィルヘルムの言葉と同時に、その息を静かに引き取ったのだった。 その、あまりにもあっけない終幕に、ヴィルヘルムは言葉を発しようとはしなかった。

 彼にしてみれば、確かに彼女は盗賊として優れた技能の持ち主であった。

 徹底した訓練に裏打ちされた隠密性。

 さらに完璧を求めて習得した“気配遮断”

 そして発見された場合の逃亡を確実とさせる“正と負の狂騒曲”

 また、あの打ち合った際に実感した、魔術に頼らぬ戦闘能力。

 間違いなく一流である。それはヴィルヘルムも認めるところだ。

 しかし――。

 2000年もの時を生き続けた盗賊にしては、その終わりは静かすぎるのだ。


「――いや、考えすぎか。どんな物語も、最後はあっけないものだ」


 あるいは、華やかな結末を期待しすぎた自分の未熟さを恥じろ、というところか。


「まだまだ未熟だと、そういうことか。いや、今回はいい経験になったよ、トリックスター」


 彼女の亡骸を前に、ヴィルヘルムは複雑な気持ちにあった。

 彼女の死というのは意外な結末であったが、怪盗トリックスターは英雄ヴィルヘルムの前に倒れた。女王の憂いは消え、エーゼルヴァイン家の名声はさらに確実となるだろう。

 その一方で、まだ彼女と話をしたかったという自分がいることも否定できない事実だった。そんな気持ちを抱くこと自体が初めての彼にとって、それは不思議な感覚であったのだった。


「――だが、彼女はもういない」


 その決定打は、真実ヴィルヘルムが押した。魔術結界に加え、彼女に“正と負の狂騒曲”を使わせ、さらに接近戦で体力を削った。

 仕方のないことだった。すぐにでも彼女を倒さなければ、警備兵の被害はさらに大きくなっていた。彼らにも家族がいる。ヴィルヘルムの判断は、決して間違っていないのだ。


「――今更だ。何を言っても、か」


 せめて、彼女の素顔は月の光を与えてあげたい。死してなお仮面に隠すには、もったいなさすぎる美貌であったのだから。


「恨むなら恨め。その気持ちを背負って、私は生きていこう」


 それが、ヴィルヘルムにできる最大の強がり。

 弔いの風は冷たく、窓の月は神秘的に輝いていた。


「――失礼します」


 これでは、初夜を共にする恋人のようだな、と彼は自嘲した。

 鼓動が高鳴る。

 体が緊張する。

 息が詰まる。

 汗にじむ手でようやく仮面を掴む。一息の深呼吸の後、ヴィルヘルムは静かに仮面を剥がしていく。


 ――それが、間違いだった。

 その仮面を剥がさなければ、世界の“裏”を知らずに済んだのに。

 名誉ある勘違いをしたまま、本当の“世界”を知らずに済んだのに。


 ゆっくりと、決して顔が傷つかぬよう、大切に大切に。

 そこに現れた顔は、やはり彼が昼間に出会った――。


「――彼女じゃない」


 別人だった。

 確かに若い女性である。その容貌も、美女と呼んで差し支えないだろう。

 しかし、彼女ではない。

 この盗賊は、トリックスターではない。

 その事実を正しく認識した瞬間、ヴィルヘルムは電光の如き速さで振り向き、壁時計を見る。


 時刻は、深夜、一時。

 トリックスターが予告した期日は、すでに過ぎている。


 ――ド、クン。


 奇妙な違和感が、英雄の本能に警鐘を鳴らす。


「――まさか!?」


 ヴィルヘルムは警備兵に待機を命じ、一人で地下室へ向かう。

 階段は細長い、人一人がやっと通れる幅である。空気は冷え、人足であれば必ず足音が響くはずだった。


「――あのロビーの騒ぎに紛れて……?」


 あり得ない。いかに気配を消したとて、自分に悟られずに地下室へ向かうなどできるはすがない。 だが、階段の先に閉じられているはずの扉が――ヴィルヘルムの契錠魔術によって守られた堅牢な扉が、開いているではないか。


「――バカな!?」


 全身の汗が止まらない。絶息しそうな絶望が、彼の心臓と思考を圧迫する――。

 一歩。

 また一歩。

 ヴィルヘルムは無意識のうちに、扉の奥へと――“世界の深淵”の入口へと足を踏み入れる。


「――な、い……」


 ない。

 文字通り、あるべきはずの“星”が。


「――――」


 言葉さえ出ない。

 暑いわけでもないのに、夥しい汗が止まらない。

 生唾をゴクリと飲む音が、ヴィルヘルムの耳にこびりついて離れない。


 ――悪い悪夢だ。


 ヴィルヘルムは、そう思った。

 だが、なればこそ。


「――やっと、気付いたんだ?」


 悪夢は、覚めぬからこそ、悪夢たり得る。

 ヴィルヘルムは昼間に聞いた声のする方へ、半ば強制的に振り向かされた。


「――――」


“星”があるべき土台の下に横たわる、一匹の猫がいた。


“可愛い子猫ですね”


 自分がそう言い、織田が抱き上げた、一匹の黒い子猫。

 いるはずのない、どのように彷徨っても辿り着けるはずのない地下室に、それは確かにいた。

 その子猫が、二本足で立ち上がる。


「――さて、ここで質問。道化は、いつ頃に現れると思う?」

「――――」


 もう、汗さえ滲まなかった。

 ヴィルヘルムは、生きながらにして全身が干涸びていく感覚を無抵抗に味わった。

 この瞬間、抱えていた疑問が氷解する。

 そして理解する。本当の道化が誰なのかを。

 目の前で繰り広げられる、あり得ない光景にすべての答えがあった。

 ゴキゴキ、と音を立て、歪に変形していく黒い子猫。

 ヴィルヘルムの視線が、みるみるうちに、上がっていく。

 ただ一度――ただ一度だけ挨拶したにすぎぬはずなのに、細部に至って異様なまでに記憶へと刻まれた彼女の容姿に、ヴィルヘルムは改めて心を奪われていた。

 地下室の淡い光が、彼女の白い裸体を露わにする。

 形の崩れぬ豊かな乳房と蜂のようにくびれた腰、そして滑らかな曲線美を描き伸びる引き締まった脚。

 異性の情欲を焚き付けてやまぬ、あまりにもなまめかしい肢体であった。神造の女神像を思わせる、完璧な芸術品がそこにある。


「――はぁい。お待たせ、英雄さん」


“曰く、誰も彼女の姿を見た者がいない――”


 当然だ。

 人間が動物に成り代わるなど、どこの誰に想像できるというのか。

 それはもはや変装ではなく。

 整形と呼ぶことすらも生温い。

 それは変身。骨格から筋肉、神経に細胞――ありとあらゆるすべてを自分の体に投影する、人外の秘技。

 魔術士の領域にも止まらぬ、その存在自体が神秘のうえに立つ超越者。

 ゆえに、彼女は誰からともなく、こう呼ばれる。


“怪盗トリックスター”


「――君は、いったい、何者なんだ……?」


 ヴィルヘルムがやっと出しえた、その問いに。


 クスリ、と哀れみにも似た微笑みを浮かべて。


「――あなた、バカ? ミステリアスだからこそ、謎を楽しめるものよ?」


 朱と黒のコントラストが映えるスーツに身を包み。

 無慈悲に。

 悪魔の降臨を祝福したのだった――。

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