中編 〜歓迎の星空〜
トリックスターがいかにして盗むのか、皆さんも考えてみてください。
ヴィルヘルム・エーゼルヴァインは魔術士である。しかし、その事実を知る者は英国内でもほとんどいない。
そもそも、魔術士自体が世界に認められていない“異端者”である。
魔術の歴史は古い。古代においては“シャーマン”による祈祷が一般的であったし、神話にまで遡れば聖剣魔剣の伝説が今もなお語り継がれている。
ならば、なぜ魔術士の存在が公にされていないのか。
中世ヨーロッパにおいて行われた“魔女狩り”をご存じだろうか。
これは12世紀、スイスとクロアチアで行われた民衆法廷が起源だと言われている。この頃はまだ異端の追及はあっても裁判はなかったが、15世紀に入るとカトリック教会が異端者審問を通して“魔女狩り”にかかわりを持つようになったのだった。
魔女狩りには、二つの意味がある。
一つは、人々の平和を脅かす魔術士たちを抹殺すること。
そしてもう一つは、人々に力を貸す魔術士たちを探すことである。
魔術とは読んで字の如く“魔力を操る術”である。
術者は自身の活力エネルギーを魔力に変換し、世界に働きかけることで神秘を操る。
戦場を薙ぎ払う炎や、天空より轟く雷など――時の権力者が恐れるのも無理からぬ神秘の数々は、しかし魔術士からすれば、正しい条件を満たしたうえで導き出した結果にすぎない。
魔力を喩えるなら、世界に支払う専用通貨である。
術者は日々の活力を魔力に変換し、それを世界に支払うことで“一度限りの神秘”を買い、使用する。
長期間に渡る魔術もしかり、代価となる魔力を支払い続けることでその効果を続行させることができるのだ。
そこには当然、落とし穴もある。
魔力とは、即ち術者の活力エネルギーである。ゆえに魔力が尽きるということは、自身の活力がなくなったということ。活力を失った人間は植物状態となり、最悪の場合はその生涯を目覚めることなく寝て過ごすことになる。
つまり魔術の行使とは、魔術士にとっても破滅の代償を覚悟したうえでの神秘であった。しかし、すでに世界では“科学”が広まりつつあるため、魔術士たちは世間に隠れながら研鑽を積まなければならなかったのだ。
エーゼルヴァイン家も、元は魔術一族だった。しかし“魔女狩り”の弾圧により、その神秘を国に捧げる盟約を交わすことで滅びを免れたのである。
そのエーゼルヴァイン家の歴史の中で奇跡が生まれた。
ヴィルヘルム・エーゼルヴァイン――先の大戦において祖国に大勝利をもたらした英雄は、その活躍によって女王の信を得、ある“聖剣”を託される。
武術、魔術その両方に優れた才能を発揮した彼は、まさしく一族の至宝だった。これより後の21世紀において、エーゼルヴァイン家に最高の素質と人格を備えた双子が誕生するのだが、その時代においても“聖剣”は彼らの手元にあったのだから。
澄んだ夜風だった。
街の喧騒は昼間とはうってかわって、静かな空気を取り戻しつつある。
時刻は午後九時――世界中のトップニュースを飾る女盗賊“トリックスター”が出した予告の日。
ヴィルヘルムは博物館の庭で夜空を見上げていた。
「――道化は、いつ頃に現れると思いますか?」
ヴィルヘルムの隣には、東洋の僧らしき男がいた。
歳は40半ばといったところか。夜の闇に倣うように輝く黒の瞳が印象的である。眉間にシワを寄せ、その表情はいささか曇っていた。
「あやつは噂をすれば現れます。女狐ですからな、油断なされるな」
その被害者である彼が言えば、実に説得力のある言葉である。
織田がこうして博物館の警護にあたっているのは、ひとえにヴィルヘルムの招待があったからだ。
織田の持つ“トリックスター”の豊富な情報量――ヴィルヘルムの着眼点はそこにあった。その執念により世界各地に現れる“トリックスター”を追いかけたがゆえに手に入れた情報こそが、ヴィルヘルムの目的なのである。
その見返りとして、織田の博物館警備を容認したのは言うまでもない。
織田から手に入れた情報は、実に興味深いものばかりだった。
彼女の名が最初に世に出たのは紀元前11世紀。中国において、呂尚――一般的には太公望として知られている――が文王と出会った際に使用していた“釣竿”を盗んだことから始まる。
彼女は世界を股にかけ、時には戦場で暴れ、時には城に忍び込んでは宝を盗んでいく。
その神出鬼没な行動と盗賊行為により、いつしか誰からともなく“怪盗トリックスター”と呼ばれるようになったという。
もちろん、にわかには信じ難い話である。紀元前11世紀から現在の18世紀まで、実に2000年以上もの時が流れている。いかに魔術士とはいえ、2000年もの時代を生き続けることなどできないのだ。
それゆえに、ヴィルヘルムは考えた。
“トリックスター”とは、彼女の一族が一子相伝で受け継ぐ称号ではないかと。これならば、時代を超える不死性にも説明がつく。
たが、そんなことは些末事だ。問題は彼女の正体ではなく、女王陛下のルビーを守れるか否かである。
ルビーを展示する博物館は前庭を設け、城がすっぽりと収まるほどに広大な敷地のうえに建っていた。
予想される入館ルートは正門と裏門、館の窓約100ヶ所。地下からは床を鉄で補強しており、一日二日で細工できる硬度ではなく、上空からも備えて屋上に20人の警備兵を常に配置している。
博物館の内外においても各要点に警備兵を配置。総勢300名の警備兵を指揮する英雄ヴィルヘルムに守られた、サミットレベルの警戒網であった。
「――しかし、星が綺麗ですね。彼女も、この夜空を見ているのでしょうか?」
「あやつが見ておるのは、別の“星”でしょう。それを我が国の諺では“花より団子”と言うのです」
「花より団子、ですか?」
「そうです。浅ましい女盗賊には相応しい諺ですよ」
そう言って織田は高らかに笑う。彼女には聞かせられない言葉だな、とヴィルヘルムは思った。
「――“トリックスター”か」
今に思い返してみても、昼間に会った彼女はまさしくルビーのように輝いていた。
背に滝の如く流れ落ちる髪は淡い紅。艶やかにも鮮やかに、極上の絹糸を思わせる髪が真っ直ぐに伸びていた。
ドレスから露出した肌は冴え冴えとした汚れを知らぬ純白である。この月下にあれば新雪のようにさらに輝きを増すに違いなかった。
長く反った睫毛の下には、幼子のあどけなさを残した大きな目。瞳は南国の海を切り取った薄青で、時折そこに浮かぶ光が吸い込まれるように輝いていた。
充分な広がりを持つ唇は桃のように瑞々しいオアシス。まさかとは思ったが、彼女に施された化粧は確かにこれだけであった。
輪郭は卵のようになだらかで、高く細い鼻梁が影を映え落とす。
目の当たりにした誰もが息を呑む、手を加える余地すらない真正の美貌。陽のある朝にも月のある夜にも咲き誇る、決して枯れることのない花であった。
枯れぬ、とはもはや喩えではない。
2000年も前から地上に咲く彼女は、世界中にその美貌を携えて盗賊行為を働いてきた。その存在自体が神秘的とも言えるなら、想像もできぬ不死性も疑問に湧くことはない。
衰えぬ容貌、枯れぬ肢体――いつまでも十代の乙女であることを運命付けられたが如く、彼女はそのすべてが美しかった。「――はっ。何を考えている、ヴィルヘルム・エーゼルヴァイン。彼女は敵だぞ」
脳裏に浮かぶモヤを振り払うように、ヴィルヘルムはかぶりを振る。織田は訝しげにしていたが、さして疑問を口にすることはなかった。
「――それで、警備のほうはいかがですか?」
織田は警備兵の一人として参加しているが、立場はヴィルヘルムからも独立した人物である。この男は指示されるよりも、野性的な直感力と執念による単独行動が優れているとのヴィルヘルムの判断だった。
その織田が改めてヴィルヘルムの組み立てた警戒網を聞く。この意味を、ヴィルヘルムは正しく理解した。
「――彼女を歓迎する準備は整っています。300名に及ぶ警備兵を常時シフトし、不測の事態にはさらに100名の増員を予定しています」
「床に強化鉄板、屋上に20名の警備兵、前庭に60名、館一階に70名、二階に60名、三階に50名、残りはシフト――ですね」
しかも、その300名には拳銃が備えられている。小さな国なら、この戦力だけで制圧できるほどだ。
しかし織田の表情は険しいまま。つまり、彼の本能が危険を警戒し、畏怖を拭えていないことを意味する。
「安心してください。何人たりとも、女王陛下のルビーに近付くことは叶いませんから」
その理由には、ふたつあった。
一つは、ルビーが、強化鉄板に固められた地下室に保管され、その扉の鍵はヴィルヘルムによる契錠魔術が使われていること。
そしてもう一つ、地下室に続く階段に至るまでに広がる吹き抜けのロビーには、ヴィルヘルムが張り巡らせた魔術結界が施されていることである。
結界とは、言わば防犯システムである。外敵から身を守るため、土地あるいは建物に施す罠――決定的な違いは、その効果が極悪化した威力を誇ることである。
ヴィルヘルムがロビーに張り巡らせた結界はまさしく、外敵を追い返すよりも抹殺を目的とした罠であった。侵入した賊がロビーに踏み込んだ場合、その知らせを直ちにヴィルヘルムに伝えると同時に作動する殺傷魔術は、瞬時に塵と化す攻撃力を秘めている。
仮に相手がこの罠に耐え、地下室の扉に辿り着いたとしても、ヴィルヘルムでない限り解錠できない魔術が施されている。
簡単に言えば、ヴィルヘルムのみぞ知るパスワードである。
つまり、どんなに賊が足掻こうともルビーを手にすることなく、ヴィルヘルムと対面しなければならない。それは即ち、逃げられぬ破滅を、手をこまねきながら迎えなければならないことを意味していた。「さあ“トリックスター”――君は、この歓迎会にどんなパフォーマンスを見せてくれるつもりだ?」
この警戒網を計画したヴィルヘルムだからこそわかる。自分が盗賊となって思案したからこそわかる。
この状況下での盗みは絶対に不可能。仮に自分が同じ設定で侵入したシュミレートを行ったが、何度やっても結果は死であった。
「捕まえましょう、ヴィルヘルムどの。あやつを」
「ええ。あなたが提供してくれた情報は、無駄にはしません」
曰く、誰も彼女の姿を見たことがない――。
いかなる変装術を用いているのか、彼女は誰にもその姿を見せずに宝を盗んでいくという。
警備者は彼女に襲われた時と盗まれた後にだけ、その存在を痛感させられる。今だに目撃例のない怪盗――“トリックスター”の異名は伊達ではないのだと、ヴィルヘルムは改めて思う。
「――だからこその歓迎会だ。彼女はいかにして破るつもりなのか」
夜は静寂のまま、嵐の前の静けさのように静まり返っている。
二人の前に歩いてきた黒の子猫が愛らしい鳴き声をあげて、ヴィルヘルムらを見上げていた。
「おうおう。こんなトコロにいては危ないぞ」
織田の意外な一面である。いや、元々が僧である彼にしてみれば、動物愛は何ら不思議ではなかった。
「可愛い子猫ですね」
「このつぶらな瞳がたまりませんなあ……毛並みも柔らかく、温かくてイイ気持ちですぞ」
我が子のように抱き締める織田の表情は、いくぶん和らいでいた。動物とは不思議な生き物である。
もっとも、抱き締められている子猫のほうは、ニャーニャーと叫びながらジタバタと暴れているが、それはご愛嬌である。
「いつまでもこうしていたいが、すまぬなあ……我らは仕事があってな。お主に割いてやる時間もない」
寂しそうな表情だった。織田から滑るように離れた子猫は、そのまま走り去って闇に消えていった。
「――では、私は戻ります。織田さんは、どうなさいますか?」
「私はこの前庭におりましょう。もしやすると、あやつはここから侵入するやもしれませぬからな」
「わかりました。何かあれば、お知らせください」
「うむ。あやつの悔し顔が目に浮かびますわ」
二度目の高笑い。だが、その思いはヴィルヘルムとて同じである。
夜空は澄んだ風に包まれ、二人の感情を落ち着かせる。
悩む時間はない。
だが、考える猶予はまだある。
“トリックスター”が予告した期日まであと二時間を切った、静かなる夜。
ヴィルヘルムの魔術神経にかすかな痛みが走ったのは、それからすぐのことであった。