第4章 リアクション・フォーメーション ~ Reaction Formation
タバコの煙がこもる薄暗い地下室の中で、二人の男はバーボンを飲みながら話しをしていた。
「鮫島、お前にしてはやけにのんびりしてるじゃないか?」
「当たり前だろう。あの野郎がかぎ回っている以上、ことは慎重に運ばないとな」
「あの野郎? 里中のことか?」
「そうだ」
「だったら、いっそのこと殺っちまえばいいだろう。そうすりゃ、俺も枕を高くして寝られる」
「それはだめだ」
「どうして?」
鮫島はにやりと笑い、バーボンを飲んだ後に言った。
「つまり、男の美学さ」
「美学?」
「まあ、あんたには分からんさ」
鮫島と話しをしている男は橋本浩一といい、表向きは石油会社会長の秘書でとおっている。しかし、その裏の顔は〈民の証〉のテロ実践の指揮者であり、鮫島を始めとするテロリストや暴力団などを指揮し、これまで多くのテロを実行してきた人物である。
橋本は言った。
「まあ、何でもいいが、船の都合があることを忘れないでくれ、出国が面倒になるからな―でぇ、次の計画はもう決まってるのか?」
「ああ、獲物は決まってる」
「何だ」
「その前に、兵隊を集めてくれ。CQBの得意な奴を三人」
「分かった、すぐに手配しよう。それで、獲物は何なんだ」
鮫島は再びにやりとして言った。
「沢木聡さ、相模重工の」
人美が覚醒してから六日後の八月二十三日、水曜日、午後二時ごろ、この日退院した沢木は自宅に戻り、入院中に溜まった仕事の整理―それは書類に捺印したり、郵便物を整理したりなど、多くは雑務の類だった―をしていた。しかし、頭の中は人美のことで一杯で、一刻も早く次なる策を講じなければ、と思索を繰り返していた。
そんな中、彼は気分転換をしようとピアノを弾き始めた。
ふらふらと行く当てもなく、マウンテン・バイクで散歩をしていた人美は、ピアノの音色を聞きつけた。
オネスティだ
それは沢木の奏でるビリー・ジョエルだった。
誰が弾いてるんだろう? うまいなぁー、それにいい音
人美はピアノの音色に呼び寄せられるかのように、音の源を目指してペダルを漕いだ。 沢木は曲を弾き終えるとタバコに火をつけ、小さな庭を見渡せるテラスに立った。口から吐き出された煙を目で追うと、視界の下のほうに人影が見えた。彼はそこに目を移す。ピンク色のリボンが巻かれた麦藁帽子、襟の大きな白とブルーのストライプのシャツ―
人美だっ!
人美は庭の垣根越しに沢木を見つめていた。
沢木さんだっ!
見つめ合う二人―それは長い長い時間だった。
沢木はやっと口を動かすことができた。
「やあ」
はっとする人美。
「あっ! あ…… すみません、のぞいたりして」
沢木はサンダルを履き庭に下り、人美に歩み寄り始めた。近づくにつれはっきりと見て取れる人美の姿は、愛らしい、どこか大人びたところもある少女にしか見えなかった。
彼は知らないふりをして言った。
「私に何か?」
「いっ、いえ。ただ、ピアノの音はどこからするんだろうと思って」
「ピアノを弾くのかい?」
「ええ、少し」
「そう。よかったら弾いてみない? スタインウェイだよ」
「ええっ! 凄いピアノをお持ちなんですね」
沢木は微笑みながら言った。
「私にはもったいないけどね」
「そんなぁ、とってもお上手ですよ」
「ありがとう。ところで、私は沢木聡。君は?」
「見山人美です」
沢木は芝居を続けながら―
「見山人美さん? どこかで聞いたことがあるなぁ…… ああ、もしかして、白石さんの家に来た人かい?」
「ええ、そうです」
人美も芝居をしながら―
「白石のおじさまをご存じなんですか?」
「んん、よく知ってるよ。何せ、私は相模重工の社員だから―君のことも聞いたことがあるよ」
「そうだったんだ」
人美はにっこりと微笑んだ。
「見山さん」
「人美でいいです。みんな名前で呼ぶから」
「そう。じゃあ、人美さん。よかったら家のピアノを弾いてごらんよ。白石さんちにあるのよりずっといいよ」
実物の沢木は人美のイメージどおりの人だったが、近づくのが怖いような気もした。しかし、彼への好奇心と、ピアノを愛する者なら誰もが憧れるであろうスタインウェイへの誘いに心を動かされた。
「いいんですか? おじゃましても」
「どうぞ」
「あっー! 家の中に入っちゃいましたよ!」
「いちいちでかい声を出すな!」
渡辺は思った。
不思議だなぁ…… 運命、だろうか?
渡辺と進藤は、今日も人美を見守っていた。
沢木の住む家は、小さな庭付きの平家で、かなり“がた”のきている家だった。この家は相模重工総務部が、彼を迎えるために“取り敢えず”用意したものだったが、彼はこれを気に入り、帰国以来ずっと居をここに構えている。
人美はピアノの前にたどり着くまでに、いくつかのことに注意を引かれた。一つは玄関の靴―男性用の靴しかなく、彼女は、独身なんだぁ、と思った。もう一つは、スタインウェイの置かれた居間にある本棚で、その蔵書の数は人美のそれを遥かにしのぐものであり、また、その本棚にはロボットや飛行機、スペースシャトルなどの模型がいくつか並べられていた。
スタインウェイの前に立った人美は、鍵盤を人差し指で軽く押してみた。途端に顔がほころぶ―感激の瞬間。
「すごーいっ! 今まで触ったピアノと全然ちがーう!」
沢木は人美の麦藁帽子を預かると、「弾いてご覧よ。音もいいよ」と言って微笑んだ。 人美はピアノの前の椅子に腰掛け、何を弾こうかと考えた。
沢木さんのイメージは?
「冷たいものでも入れようか? 麦茶でいいかい?」
「すみません、お構いなく」
沢木は居間から続く台所へと進み、冷蔵庫の扉を開けた。その時、人美の演奏は始まった。
悲愴かぁ。いい趣味だ
人美の選択した曲は、ベートーベンのピアノ・ソナタ第八番『悲愴』の第二楽章だった。 沢木はピアノの近くに置かれたコーヒー・テーブルの上に麦茶を置くと、ソファに腰掛けた。そして、曲を奏でる人美の指先を見つめながら、演奏に耳を傾けた。
瞳の奇麗な娘だ。“美しい人”とは、またピッタリの名前をつけたものだ。ピアノも上手だし。この娘が、本当にあの力を持つ少女なんだろうか?
曲が終わると沢木は人美に歩み寄り、ピアノに肘をついて言った。
「少しどころか、私より全然うまいじゃないか」
人美は照れながら答えた。
「そんなぁ、ピアノがいいんですよ」
「謙遜だな。私なんか自己流で、きちんと練習もしてないから、とても人美さんのようには弾けないよ」
「それであれだけ弾けるんなら、逆に立派ですよ」
「そうかなぁ?」
「そうですよ。でも、いいなぁ。私にもこんな素敵なピアノがあったらなぁ」
「よければ、もっと弾いていきなさいよ」
「でも……」
「私は今は夏休み中で暇なんだ。君さえよければ、もっと聞かせてくれないかなぁ。ピアノもうまい人に弾かれたほうが嬉しいだろうし」
人美は二曲披露した。ショパンの『ノクターン第二番』、リストの『愛の夢』―
この後、二人はピアノや音楽のことを語り合う中で、次第に打ち解け合い、互いに心を開いていった。それはまるで、ずっと以前からの友人のような、あるいは兄妹のような、そんな雰囲気さえ感じられるものだった。
人美は帰り際にこんな質問をした。
「技術者である沢木さんに質問なんですけど?」
「なんだい?」
「沢木さんは、超能力ってあると思いますか?」
ドキっとする質問だった。沢木はタバコに火をつけながら答えた。
「あると思うよ」
「本当?」
「んん。きっとあるさ」
人美は嬉しそうな顔をした。
「それじゃ、私帰ります」
「ああ。今日は楽しかったよ、ありがとう」
「いいえ、私こそ」
「またピアノを弾きにおいで」
「はい」
沢木は人美を家の前まで見送りに出た。彼女は自転車に乗って去って行った。そして、角を曲がる時に一度振り返り、沢木に手を振った。彼もそれに答える。
沢木の視界から人美が消えると、彼の横に黒いスカイラインが止まり、中から渡辺が話しかけた。
「偶然、っていうのは奇妙だな」
「そうですね」
「どんな娘だった?」
「んー、名前どおりの娘ですね」
「人美、かぁ」
「ええ」
「で、収穫はあったか?」
「そうですね。会えたことが一番の収穫でしょう」
「なるほど」
スカイラインは人美を追って走り去った。
沢木と人美が出会ったこの日の三日前、彩香は退院し、静養という名目で部屋にずっとこもっていた。しかし、これは予備校の夏季講習をサボるための口実であり、彼女の身体はすっかり健康体に戻っていた。そして、今日二十三日は、彩香の退院を祝って白石家での食事会が行われることになっていた。
午後五時半、彩香は白石会長が差し向けた迎えの車―白石のベンツを家政婦の橋爪が運転した―に乗り、白石邸に到着した。
彩香は人美の部屋に入るなり、「ねえねえ、見せて、見せて」とせがんだ。彼女が言っているのは人美のサイ・パワーのことである。
人美は覚醒した次の日に彩香の病室を訪れ、自分に隠された力があることを告げた。その時彩香は「見せて」とせがんだが、コントロールする自信がないからと断ったのだ。
人美は言った。
「いまだにうまくコントロールできないの。今日も午前中に少し練習したんだけど、花瓶を割っちゃって」
「んー、取り敢えず家の中では止めたほうがいいかも」
「そうみたい。でも、簡単なことならうまくいくと思うから」
「本当?」
「うん、多分」
人美はコーラの空き缶を手のひらの上に載せ、そしてイメージした―缶がつぶれるところを。緊張の眼差しで見つめる彩香の目の前で、缶はくしゃくしゃに丸まってしまった。「すごーいっ! 人美」
「このくらいのことならできるんだ。でも、大きなものを動かそうとするとだめなの。花瓶はベットを動かそうとした時に割っちゃったから」
彩香はびっりくした顔のままで言った。
「まあ、人美結構大胆ね。きっとベットじゃ大き過ぎて、必要以上に力が入っちゃうんじゃない。やっぱり、徐々にステップアップしていかなくちゃ」
「そうね」
「でもでも、信じられない。超能力があるなんて、しかも、人美にあるなんて」
彩香の喜びようとは裏腹に、人美は深刻な顔になって言った。
「彩香、私こんな力欲しくないよ」
「何もったいないこと言ってるのよ」
「だって……」
「持っちゃったんだから仕方がないじゃない。もっと前向きに、うまくその力と付き合っていくしかないわ。練習すれば、きっと思いどおりに使えるようになるだろうし、この前みたいに暴走することもなくなるよ」
「そうゆうものかしら?」
「そうよ。人美、あなたはその能力を活かして、あなたにしかできないことをしなくちゃいけないのよ」
人美は首をかしげながら尋ねた。
「例えば、どんなこと?」
彩香は束の間考え込み、「そうだ!」と手を叩いて続けた。
「人美、あなたはセーラームーンになるのよ」
人美は溜め息を一つ漏らした後に言った。
「また、彩香。そんな突飛なことを」
「いいじゃない。愛と正義のために、その力を駆使して闘うのよ」
「一体誰と闘うの? 第一、私たちの高校の制服は、セーラー服じゃないわ」
「んん、もう、じれったいわね。そんな細かいシチュエーションはどうでもいいのよ。心構えの問題ね。要は、悩んでいたって何も解決しないってことよ。ハッピーエンドを迎えるためには、自分自身で道を切り開いていかなくちゃ。苦難に立ち向かう物語の主人公たちは、みんなそうしているのよ」
「そうね、彩香の言うとおりだわ。とにかく、前向きに、ね」
彩香は納得の表情とともに首を縦に振った。と、人美が切り出した。
「そうそう、今日沢木さんに会ったの」
彩香はまたびっくりした顔で叫んだ。
「ひえぇー! もう、そんな大事なことは先に言わなくっちゃ」
「だって、彩香がセーラームーンとか言うから」
「で、何でなの。会いに行ったの?」
「んーん、偶然。自転車で散歩してたらピアノの音がして、誰が弾いてるんだろう、と思って探したら沢木さんだったの」
「凄いわ、運命の歯車はどんどん回ってる」
「でもね、沢木さんは私のこと、白石のおじさまからここにいるって程度にしか聞いてないって」
「そうかぁ。で、どんな人だった?」
「思ったとおりの人だよ。優しくて、ピアノが上手で」
「話しは? どんなこと話したの?」
「ピアノのこととか、音楽のこと」
「それだけ」
「だって、私の夢に出てきたの、なんて言えないでしょう」
「んー、それはそうだけど」
「でも、超能力ってあると思うって聞いたら、あると思うって答えたわ」
彩香はいぶかりながら言った。
「怪しいわね、沢木さん」
「どうして?」
「だって、得てして科学者とか技術者っていうのは、そういうものを否定するものよ。あると思うだなんて、んー、怪しいわ」
「そうかなぁ、私はあるって言ってくれて嬉しかったけど」
「まあ、とにかく沢木さんの正体が分かるまでは油断は禁物よ」
「んん、心得とくわ」
「ところで、会長やおばさんはなんて?」
「何も聞かないわ。きっと、気を使ってくれてるんだと思う」
「そう。じゃあ、超能力のことも……」
「うん、話してない」
「そっかぁ。まあ、しばらくは二人だけの秘密にしておいたほうがいいね」
「うん」
「とにかく、問題は沢木さんよ」
鋭い表情でそう言った彩香を見ながら人美は思った。
ああ、また彩香一人の世界に…… 楽しい人
里中は、SOP本部の捜査官居室に置かれた自分の机に座り、一枚の写真をじっと見つめながら考えていた。そこへ―
「里中さーん」
甘い声音で里中の名を呼んだのは、SOPのエース、星恵里だった。
一七〇センチの身長とスレンダーな体格、ポニーテールに結んだ髪を持つ彼女は、幼いころからずっと警察官を目指してきた。それというのも、彼女の父は警視総監章を表彰されたこともある優秀な警察官であり、その影響をずっと受けてきたためである。
そんな彼女の、今日の“エース”たる射撃の腕前は、警察大学校在学中に既に開花していた。それゆえ、射撃のオリンピック強化選手に、との話しもあったのだが、彼女はそれを拒み、刑事になることを目指した―父のように。
外勤警察官を一年務めた後、彼女はSOP入隊を志願したが、“SOPは女の来るところではない”との保守的な思想と、隊員の身体的資格条件―身長一七五センチ以上―とに道を阻まれ、それは実現しそうもない願いに思われた。しかし、これを聞き及んだ当時のSOP総括委員会のメンバー数名は、陳腐な政治的判断―SOPに女性隊員を誕生させることで、警察機構並びにSOPのリベラル性をアピールする―のもと、彼女の入隊を許可したのだった。こうして、SOP初の女性隊員は誕生した。
半年間に渡る厳しい訓練をへた後、彼女はSOP第一セクション第五小隊に配属された―それは、渡辺が辞職した二か月後、一九九二年の十二月のことだった。高度な射撃技術と敏捷な動き、不測の事態に柔軟かつ冷静に対応できる彼女の働きは目覚ましく、三か月後にはディフェンスマン、さらに二か月後にはポイントマンに抜擢され、それは正に飛ぶ鳥を落とす勢いだった。そして、いつしか彼女は“エース”と呼ばれるまでに成長していた。
里中は尋ねた。
「あれ、恵里さん。川崎はもういいの?」
「へへ」
「なーに、変な笑い方して」
星は目を輝かせて言った。
「私、今日から第三小隊で仕事することになったの」
里中は髪の毛を掻き上げながら言った。
「あーあ、かわいそうに。君も国家権力の先兵にされてしまったんだね」
「何よ、その言い方。せっかく栄光の第三小隊の一員になったっていうのに、もっと感激の言葉はないの?」
「ないねー」
「憎い人」
「全く本部長は何を考えているのやら。第三小隊ばかり強化してどうするんだろう?」
「約束したのよ、本部長と。第六小隊のお守りが終わったら第三小隊に、ってね」
「へー。でも、16部隊が他の小隊並になったとは思えないけど……」
「まあ、そうだけど。でも、私は念願かなって嬉しいわ。何せ、SOPが市民から高い信頼を得ているのも、第三小隊の功績のおかげですもの」
「でも、13部隊だって、勝ってばかりじゃないよ、へまだってしてる。もっとも、僕にも責任の一端はあるけど」
「ごめんなさい、気にしてるの?」
「いやぁ、渡辺さんほどではないよ」
「渡辺さんって、初代の第三小隊長ね」
「んん」
「SOPを辞めてどうしてるのかしら?」
「相模重工にいるよ」
「相模? へー、随分変わったところにいったのね」
「まあ、今でも似たようなことしてるみたいだけどね。でぇ、何班の所属?」
「第一班よ」
「ポジションは?」
「もちろん、ポイントマンよ」
「そう、じゃあ、訓練バッチリやっといてね」
「どういう意味、皮肉?」
「いや。いずれ鮫島と戦うことになると思ってね」
「望むところだわ」
「相変わらず勇ましいね」
「だって、私は闘うために生まれてきた女ですもの。でも、里中さんの言葉は戒めとして肝に銘じておくわ」
「そりゃ、結構」
「それで、鮫島の捜査は進んでるの?」
「まあ、ぼちぼちってとこかな」
里中は再び写真に目を移した。
「何の写真?」
「経団連の新年会でのひとコマさ。この真ん中の白髭のじじいは田宮総吉と言って、田宮石油の会長だ。そして、隣の長身の男が秘書の橋本浩一。前から臭いとにらんでいるんだが、なかなか尻尾を出さなくてね。でも、僕の直感に間違えなければ、鮫島を陰で操ってるのはこいつらさ」
「つまり、〈民の証〉のメンバーってこと」
「そうかも知れない」
ここで里中は写真を机の引き出しにしまい、満面の笑みを浮かべてこう言った。
「ねえねえ恵里さん。今夜、食事でも、どうかなぁ」
星は愛くるしい笑顔を横に振りながら答えた。
「いーや。今夜は夜間戦闘訓練があるんだもん」
「はーあ。好きだねー、お仕事」
「もちろん。それから里中さん」
「なーに」
「名前で呼ぶのは、やめてね」
彩香はこの夜も人美の部屋に泊まることにした。部屋の電気を消し、二人が横になった時、人美は尋ねた。
「ねえ、怖くない」
「何が?」
「私のこと」
「どうして?」
「だって、この前みたいになったら」
「バカねぇー、人美のことが怖いわけないじゃない」
「……」
「明日さぁ、プールで遊ぼうね」
「うん」
「おやすみ」
「おやすみ、彩香」
八月二十四日、木曜日。プールで大騒ぎをしていた彩香は、「疲れちゃったよ」と言って午前中で帰宅した。人美はその後、異変の起こった夜に破けてしまった本を買い直そうと、葉山町で一番大きな本屋へと出かけた。
人美とのコンタクトの機会をうかがっていた沢木のもとに、渡辺から人美は本屋に一人でいるとの連絡が入った。彼は偶然を装って接触すべく、愛車のハイラックスに乗ってその本屋へと向かった。
沢木が本屋の隣にある広い駐車場に到着すると、黒いスカイラインがヘッドライトを点滅させた。沢木は渡辺たちから離れたところにハイラックスを止め、彼らに軽く手を上げると本屋の中に入り、店内を見回した。人美は専門書が並ぶ棚の前で立ち読みをしていた。 沢木は彼女に近づいた。
「やあ」
「あっ! 沢木さん」
「こんにちは」
「こんにちは」
にこっとする二人。人美は見ていた本を棚に戻した―それはサイ・パワーの本。
「どうやら最近は超能力に凝っているようだね」
「ええ、ちょっと……」
口ごもる人美を見て取った沢木は切り出した。
「ねえ、もう用は済んだの? よかったら、お茶でも飲んでいかないかい? 海の見える素敵な喫茶店があるんだけど。音楽の話し、またしたいなぁ」
人美は彩香の言葉を思い出した。
〈沢木さんの正体が分かるまでは油断は禁物よ〉
でも、悪い人じゃないよ、絶対
人美は答えた。
「はい、私でよければ」
人美は本を一冊買って沢木とともに店を出た。
「私、自転車なんですけど」
「そう、私は車。でも、後ろに載せられるから大丈夫だよ。ほら、あれ」
人美は沢木の指差した方を見た。
「あの赤い車?」
「そう」
「沢木さんは赤色が好き?」
「んん。そういえば、人美さんの自転車も赤だね」
「ええ、私も赤色が好きなの」
人美は微笑みながら続けた。
「でも、友達は赤は血の色だから、赤色の好きな人は血に飢えてるって言うの」
沢木は鼻で笑い答えた。
「なるほど、ユニークな説だ。でも、少なくとも私は血に飢えてるような危険人物じゃぁないから、安心して」
人美はくすくすと笑った。
沢木が人美の自転車を車の後ろに積み終わると、人美は尋ねた。
「この車って、四輪駆動なんでしょう?」
「んん、そうだよ」
「なんか、沢木さんのイメージと違う気がする」
「そうかなぁ」
「ええ。だって、この車はワイルドなイメージだもの」
沢木はとぼけた口調で答えた。
「んーん、そう言われてみるとそうかも知れない。私は、ワイルドって感じじゃないからねー」
人美はまたくすくすと笑った。
「でも、私はこういう車が好きなんだ。私の父は自動車修理工場をやっていてね、小さいころから車のメカには凄く興味があったんだ。まあ、それが講じて技術者になったんだけど。普通の車よりも、メカメカっとした車がいいんだ。だから、使いもしないのに電動ウインチとか補助ランプとか、エンジンも少しだけいじってるんだ」
「じゃあ、ずっと技術者になろうと思ってたんですか?」
「そう。ロボット・アニメなんかにもかなり夢中になってね。ああいう巨大ロボットや飛行機とか、いつか自分で造るんだって思ってたよ」
「へえー。じゃあ、子供のころからの夢をかなり実現したんですね」
「んん」と沢木は答え、助手席のドアを開けて「さあ、どうぞ」と言った。
沢木の案内した喫茶店は、彼の言葉どおりの素敵な店だった。それは古い西洋風のたたずまいの大きな家をそのまま店として用い、店内もアンチックな雰囲気で一杯だった。そして、ベランダ越しの大きなガラス窓の向こうには、葉山の青い海を望むことができた。二人はそのベランダ越しの席に座り、沢木はアイスティーを、人美はアイスココアと沢木お勧めのチーズケーキを注文した。
「そういえば、さっき買った本はなんだい?」
沢木が尋ねた。
「不思議の国のアリスの絵本です。絵が素敵で気に入ってるんです」
「んーん、そういうお話が好きなのかい?」
「ええ。でも、この本を買うきっかけは夢を見たからなんです」
「へえー、どんな?」
「“イルカの国の人美”です」
沢木はふふっと笑った後に言った。
「それはまた楽しそうな夢だね」
人美はにこやかに「ええ」と答えると、身ぶり手ぶりを交えながら“イルカの国の人美”を話して聞かせた。
「なるほど。それで“イルカの国の人美”なのか」
「ええ。私、この夢を見る前からイルカやシャチに興味を持ってたので、何だかとっても嬉しくて。でも、こんなお話の本はないから、それで不思議の国のアリスを買ったんです」
「そうか。人美さんは水性哺乳類に興味があるんだ。じゃあ、クジラなんかも」
「んーん、クジラは嫌なの」
「どうして?」
「だって、怖いんですもの」
「そうかな」
「そうですよ。だって、クジラって顔にふじつぼを付けたりしててちょっと不気味だわ」 沢木は笑いながらタバコに火をつけ言った。
「んー、つまりルックスの問題なわけね」
「ええ」
「じゃあ、イルカを見に行ったりしてるの?」
「ええ、この辺にイルカなんているんですか?」
「んん、いるよ。さすがに葉山の海には泳いでないけど、油壷マリンパークにはいるよ」「ああ、そうか。私バカみたい、全然気がつかなかった」
「見に行ってみるかい?」
「今から? いいんですか?」
「言ったろう、私は夏休み中で暇だって」
「じゃあ、行きましょう」
「よし、ケーキを食べたら出発しよう。たしか、イルカとアシカのショーをやってるはずだから」
油壷マリンパークは、三浦半島南部の相模湾側にある、世界最大規模の回遊水槽を有する水族館であり、およそ三〇〇種、六〇〇〇尾の生き物を見ることができる。このマリンパークの最大の呼び物は、〈ファンタジアム〉と呼ばれる屋内劇場で行われるイルカとアシカのショーであり、春、夏、秋、クリスマス、正月毎に出し物を替え人気を呼んでいる。 午後二時ごろにマリンパークの着いた沢木と人美は、パンプレットでショーの時間を確認すると、まずは〈魚の国〉と名づけられた生態水族館に入り、続いて屋外に設けられた〈アシカ島〉や〈ペンギン島〉を見て回った。
人美はペンギンを見ながら沢木に尋ねた。
「沢木さんはアメリカに留学してたんでしょう。アメリカって、どんな国なのかしら?」「そうかぁ、人美さんは来年アメリカに行くんだったね」
「ええ」
「そうだね。私が思うに、歴史に飢えた国かな」
「歴史に飢えた国? どういう意味ですか」
「アメリカっていう国は、建国からたった二百年しかたっていない新しい国でしょう。だから、アメリカ人は歴史―言い替えれば、自分たちの歩んで来た足跡をとても大事にするんだ。そして、それと同時に新しい歴史を造ることにも非常に熱心なんだ。今のアメリカは、財政赤字と貿易赤字、いわゆる双子の赤字っていうのを抱えていて、台所は火の車なんだ。ところが、一方では宇宙開発とか、膨大な資金を必要とする国家プロジェクトを推進している。これは一体何なんだろう? と私は考えたんだ。つまり、彼らは新しいものを創造したいんじゃないか、文化を築き、歴史を造りたいと。映画や音楽、そうしたエンターテイメントが盛んなのも、優秀な教育機関が数多く存在するのも、そうした欲が出発点のように思うんだ」
「んーん。沢木さんって、やっぱりものの見方が違うんですね」
「これはあくまで私の主観だから、何より自分の目で見て来るのが一番さ。人美さんの見たアメリカがどんな国か、いつか聞かせて欲しいなぁ」
こうした会話の後、二人はショーの開演時間が近づいた〈ファンタジアム〉へと移動した。
〈ファンタジアム〉で行われるショーは、“イルカとアシカ”という冠がついてはいても、主に“芸”を披露するのはアシカであり、イルカは時折“ジャンプ”をするくらいなのである。しかし、それだけでもイルカには十分な存在観があった。そして、人美が驚きを感じた瞬間は、『森の熊さん』を歌うイルカの芸を見た時、すなわち“知性”を感じた時だった。
三十分に渡るショーの間中、人美は熱心に、また、感激を持って鑑賞を続け、その間一度だけ沢木に話しかけた―彼のシャツの袖を引っ張りながら「ねえ、あれ見て」と。それは、一頭のアシカがオルガンを演奏している時だった。
アシカが弾けるように大きくした鍵盤―というよりスイッチだが―を、調教師の女性の指揮棒による合図で、アシカは指示された鍵盤を顎で弾く。だが、この時のアシカは―調子が悪かったのか、それともこれが実力なのかは分からぬが―一度に二つの鍵盤を弾いてしまったり、弾く鍵盤を間違えたりしてしまった。この時、調教師の若い女性はアシカの方に顔を近づけて、にこやかな愛情に満ちた表情でアシカに何かをつぶやいた―おそらくは、「だめよ、間違えちゃ」に類する言葉だろう。
人美が何を感じ取って「ねえ」と話しかけたのか沢木には分からなかったが、そうした光景に注目する人美という少女が、感性の豊かな―そう、“アリス”のような少女に彼には思えた。
ショーを見終わった後、二人は〈イルカのプール〉へと場所を移した。直径十メートル、深さ三メートルくらいのそのプールには、二頭のイルカが泳いでいた。二人はそのプールを囲む手摺りに肘を突きながら話し合っていた。
人美は言った。
「沢木さんといると何だか不思議」
「なぜ?」
「だって、ずっと以前から知り合いだったような気がするんですもの」
「そう、実は私もそんな気がするんだ」
「本当?」
「ああ。人美さんは、“袖振り合うも多生の縁”っていう言葉の“たしょう”って、どういう字を書くか知ってる?」
人美はしばし考えた後に答えた。
「多い少ない、かなぁ?」
「んーん、多く生まれるって書くんだよ。この言葉は仏教に由来する、つまり、輪廻転生の考え方からきてる言葉なんだ」
「へえぇー」
「私は輪廻転生を信じてはいないけど、人との出会いが時としてこうした言葉で語られるのは、それだけ、不思議な要素があるということだと思うんだ。運命的だったり、宿命的だったりね」
「沢木さんは、そういうことを私に感じる?」
沢木はにこやかな表情で言った。
「少なくとも、君は私の新しい友人だ」
嬉しい言葉だった。人美は小さな笑みを返すと、照れたようにうつむき、そして、イルカに視線を戻して言った。
「不思議なことって多いですよね。例えば、このイルカだってそう」
「どうしてだい?」
「だって、音波を使って障害物を見つけたり、餌を獲ったり、仲間と交信したりするでしょう。それって、超能力みたい」
「それで超能力に興味があるの?」
「ええ、それもあるんだけど…… どうしてだろう? そんな力を持ってるなんて」
「きっと、生きるために必要だからじゃないかなぁ」
「生きるため?」
「んん。私は思うんだけど、生き物っていうのは生きて行くために進化をしてきた。そして、その過程で必要な力を身に着けてきた。無駄なものって、生き物の持つ機能にはないんだよ」
無駄なものはない、かぁ?
「だからイルカも音波を使えるんだろうし、もしかしたら、人間だって今はない力を身に着けるかも知れない。あるいは、既に持っている人もいるのかも知れない」
そうよ、私にはあるもの
人美は尋ねた。
「じゃあ、もしも超能力を持ってる、っていう人がいたら、沢木さんは信じる」
「私は技術者だからね、確たる根拠もなしに信じる信じないを口にしたくはない。でも、今はあるような気がするんだ」
「どうして?」
「どうしてかなぁ?」
沢木がその先を答えようとした時、一頭のいたずら好きのイルカが、胸びれで水面をバシャンと叩いた。人美は素早くよけたが、沢木は水を頭から浴びた。けらけらと笑う人美。沢木は深い溜め息とともに笑みを浮かべ、一言つぶやいた。
「なんてざまだ」
こうして二人のイルカ見物は終わった。沢木は人美を送るべく白石邸に向けて車を走らせた。道中、人美は疲れたのか、すやすやと眠ってしまった。その寝顔を横目で何度となく見た沢木は、この娘の力の解明など試みないほうがよいのかも知れない、そっとしておいてあげたほうがよいのかも知れない、そんなことを思うのであった。
時刻が午後六時近くになったころ、彼らは白石邸に到着した。沢木はガレージにハイラックスを入れ、人美の自転車を下ろし、そして、助手席の窓ガラスをトントンと叩いて眠れる少女を起こした。まだ半分寝ている人美は車を降りると、しばしぼうっとした後に今日の礼を沢木に言った。その何ともいえぬ愛らしさに、彼は笑みを返した。
沢木は白石会長に用があるからと、人美と一緒に白石邸の中に入って行った。
「そうか、そんな展開になっていたのか。全く、突然人美君と一緒に来るから驚いたよ」 白石会長は沢木の話しを聞いた後に言った。
「でぇ、偶然だと思うかね。つまり、出会ったことを」
沢木は答えた。
「さあ? あるいは彼女の力が何かを感じ取ったのかも知れません。しかし、もうそんな推測はしなくてもいいでしょう」
「どういうことだ?」
「彼女にサイ・パワーがあることは間違いないし、渡辺さんの報告だとその力にも気づいている。そして、彼女自身の口からも、何度となく超能力に関する話題が出ています。彼女のサイ・パワーは実在し、また、それを自覚してもいるんです。これから我々にできることがあるとすれば、それは憶測や推測を行うことではなく、一つ一つの事実を検証しながら、彼女の力になってやることだと思います」
「具体的に考えていることはあるのか?」
「一つは、彼女が自らの能力について私に語ってくれればと思っています。しかし、それには時間が必要でしょうし、これから先のEB計画は、何より彼女を尊重したものであるべきだと考えています」
「つまり、彼女の本意のもと、研究が進められれば、ということか」
「そうです。彼女は秋山さんを通じて干渉するなとのメッセージを我々に示し、また、私に強烈な警鐘を鳴らしました。そして私自身、たった二日ですが彼女を知る中で、EB計画を打ち切ってもいいかと、そう思ってもみたんです。しかし、彼女の持つ能力が、過去に起こったようなことを引き起こしたり、あるいはこの前の夜のような現象を起こしたり、こうしたことが起こるのは好ましいこととはいえません。そして、何より私が一番危惧することは、彼女の能力が、彼女自身の精神や肉体に悪影響を及ぼすようなことがないか、という点です。こうしたことを回避するためにも、やはりEB計画は続けた方がいいかと、そう結論を出した次第です」
白石は深くうなずいた後に言った。
「うむ、分かった。この先のことも君に一任しよう。ところでだ、君なら見山君に、つまり、人美君の父に何と答えるかね」
沢木は「んんー」とうなった後に答えた。
「難しい問題ですね。真実を伝えればかなりのショックがあるでしょうし……」
「君の流儀からすれば、真実は伝えるべき、となるはずだが」
「ええ、確かにそうです。しかし、私は人美さんには今の輝きのままでいてもらいたいんです」
白石は再び深くうなずいた。沢木は続けた。
「何も過去のことなど知る必要はないんじゃないかと。そう考えれば、当然彼女の父親にも知らせなくていいと思うんです」
「そうだな」
「しかし、真実を隠すことは弊害を起こしがちです。これについては慎重に検討したいと思いますが」
「んん、わしもいろいろと考えてみよう」
こうしたやり取りが交わされた後、沢木は白石の勧めで夕食をご馳走になり、彼と人美、白石夫婦の四人による団欒の一時がこの夜は過ぎていった。白石は、最近ではめったに口にしなくなった酒を飲み、沢木は水野美和以外の人間には一度も披露したことのない、“ビリー・ジョエル”をピアノで弾き語りした。そして、人美は終始笑顔に溢れていた。
それから一日が過ぎた八月二十六日、土曜日、午前一時、沢木は自宅の寝室に置かれたパソコンに向かい、総合技術管理部内に新しい部署を設立するための計画書を作成していた。
キーボードを叩く手を休め、コーヒーカップを口に運ぶと、カップの中が空であることに気がついた。彼はカップを手に立ち上がり、寝室のドアを開けた。そして、一歩部屋を出て居間に立つと、彼は自分の目を疑った。
「……誰だ」
台所に置かれたテーブルの椅子には、大柄な男が一人背を向けて座っていた。
「沢木聡だな」
「そうだが―」
その先を言うことはできなかった。沢木の後ろに潜んでいた男が彼の口を押さえ込み、さらにもう一人が後ろ手に手錠をはめ、突き飛ばすようにしてソファに座らせると、銃口を身体に押し当てた。
MP5! テロリストか
沢木がそう思いながら部屋の中を見回すと、顔を目開き帽で隠した男たちは全部で四人いた―台所にいる大柄な男、眼鏡をかけた男、太った男、目開き帽から茶色い髪がはみ出した長髪の男。そして、全員がMP5SD3で武装していた。
MP5シリーズは、SOPも採用している九ミリ口径のサブ・マシンガンであり、その中のSD3というモデルはサイレンサーを組み込んでいる。ドイツのヘッケラー&コッホ社が製造し、高い信頼性と毎分八〇〇発もの連射能力を持つこの銃は、いくつかの特殊部隊―イギリスのSASやアメリカのネイビーシールズなど―でも使用されている。
沢木は言った。
「なんだお前たちは」
その声を聞くと、椅子に腰掛けていた男はゆっくりと立ち上がり、沢木の方に歩み寄りながら言った。
「我々が何者かは好きなように想像すればいい。今夜はちょいと用があってやって来た」「何の用だ」
「大したことじゃない。ただ、遺書を書いてもらいたい」
「遺書? 残念だが私に自殺の予定はない」
「安心しろ、俺が殺してやる。もちろん自殺にみせかけてな」
「何だと。なぜ遺書がいる。何を企んでる」
「では、冥土の土産に教えてやろう。まず、貴様にはプロメテウス計画の全貌を暴露する遺書を書いた後に死んでもらう。俺はその遺書を新聞社やテレビ局に送る。どうだ、簡単だろう?」
「なるほど、いいアイデアだ。相模も政府も大ダメージだな」
「お誉めにあずかって光栄だ。では、早速遺書を書いてもらおう」
「そんな要求を受け入れると思うのか。どっちにしろ殺されるというのに」
鮫島はかぶりを振りながら言った。
「一つだけ違うことがある」
「何だ」
「遺書を書けば死ぬのはお前一人で済むが、拒めばほかの人間も死ぬことになる」
男は笑い声で続けた。
「そうだなぁ、一人めは秋山とかいう女にしようか」
その言葉に沢木の表情の険しさは増した。
「愚劣な奴め。木下賢治を殺したのもお前か」
「ほう、いい読みだ」
「お前は、鮫島だな」
男の視線は鋭く沢木に注がれた。
「図星のようだな」
「なるほど。切れる奴が相模にいると思っていたが、貴様だったのか」
男は目開き帽を脱ぎ捨てながら言葉を続けた。
「いかにも、俺が鮫島だ。さあ、遺書を書いてもらおうか」
沢木は思った。
さて、どうする。このまま終わるわけにはいかないぞ
人美はなかなか寝つかれずにいた。ベットから起き上がり、窓越しに夜空を見上げると、半分欠けた月には黒い雲が薄く掛かり、幼いころに見た怖い映画を思い出させた。途端に不安な気持ちが込み上げてくる。何だろう? と思った途端、今度は沢木のことが頭をよぎる。
まさか、沢木さんに何か
人美は電話をかけに行こうとした。しかし―
いけない、電話番号なんて知らないじゃない
人美はパジャマを脱ぎ捨て、シャツとジーンズに着替えると慌てて部屋を出て行った。 トイレから寝室に戻ろうとした白石会長は、階段のところで人美に出くわした。
「おや、人美君。どうしたのかね?」
人美は階段を駆け下りながら答えた。
「ちょっと出てきます」
「出てきますって、こんな夜中にどこへ行くんだ!?」
白石は人美の後を追って走った。
「あーあ、風呂に入りたいなぁ。汗臭くて、これじゃ女の子は近寄らないよ」
進藤のその言葉に渡辺は答えた。
「元々そんな女はいないだろう」
ちぇっ! 嫌なおやじ
「明日になれば森田たちと交代できる。もう少しの辛抱だ」
「もう少しって、人美さんの監視はまだ続くんでしょう。そしたらまた車住いだぁ」
「進藤、嫌ならいつでも辞めろ。俺はいっこうに構わん」
「普通、そこまで言いますか。だいだい室長は―」
「話しは後だ。車を出せ」
「えっ」
進藤が前方を見ると、人美が自転車で走って行く後ろ姿が見えた。やや遅れて息を切らした白石会長。
渡辺は車中から白石に声をかけた。
「どうしました?」
「分からん。だが、かなり慌てて出て行った」
「そうですか、後は任せてください。連絡します」
「うむ。頼んだぞ」
人美の視界に沢木の家が入ると、寝室と居間の電気がついているのが確認できた。そして、自転車の速度を落としながらしばし考えた。
やっぱり止めようかなぁ。でも、せっかく来たんだから―姿を見れば安心だものね
人美は自転車を降りると、それを押しながら玄関に近づいて行った。
沢木の家へと続く一本道を曲がったところから、黒いスカイラインはヘッドライトを消しゆっくりと人美の後を追っていた。
ハンドルを握る進藤が言った。
「こんな時間に沢木さんに何の用だろう? まさかあの二人、危ない関係になっちゃうんじゃ……」
「それならいいんだがな」
「よかーないですよ! 神奈川県の青少年保護条例では―」
渡辺の目には、自転車を押しながら歩く人美の姿と、沢木の家の前に止まる白いバンが映っていた。
「進藤、お前の言いたいことの結末はとっくに分かってる。それよりもう少し近づいたら車を止めろ」
スカイラインは沢木の家から二〇メートルほど離れたところで止まった。渡辺は双眼鏡を目に当て、白いバンのナンバー・プレートを見た。
こんな時間に品川ナンバーか
「よし、中のようすを探る」
沢木は鮫島に監視されながら、寝室のパソコンを使い遺書を打っていたが、頭の中はこの危機からいかに脱出するか、その一点に絞られていた。
どうする?
彼はキーボードの横にあるタバコを見た。
タバコの火を押しつけてひるんだ隙に窓から脱出するか? いや、プロのテロリストにそんな小細工が通用するわけない
次にディスプレイの脇にあるスプレー式のOAクリーナーが目に入った。
こいつに火をつければちょっとした火炎放射器だな。しかし、銃を乱射されたら一巻の終わりだ―ああ、そうだ。引き出しの中にナイフがあったんだ。んー、これもだめだな。こんな奴と白兵戦だなんて、結果は目に見えてる
そんなことを沢木が考えていると、ドア・チャイムが鳴った。
鮫島が問い質した。
「誰だ」
沢木が首を横に振ると、眼鏡の男が入って来て言った。
「女だ。高校生くらいの」
人美?
鮫島は鼻で笑った後に沢木に言った。
「貴様も罪な奴だな。よし、出ろ。妙な真似をしたらすぐに撃つ、いいな」
沢木が玄関のドアを開けると、そこには予想どおり人美が立っていた。
「人美さん、どうしたの」
「あの―」
沢木は人美に話す暇を与えずに言葉を続けた。
「こんな遅くに出歩いちゃだめだよ。早くお帰りなさい」
鮫島は眼鏡の男に指示した。
「持ち駒は多い方がいい。あの娘を捕まえろ」
人美は沢木が無事なことに安心はしたものの、いつもと違う冷たさのある言葉にがっかりした。
やっぱり来なければよかった
「すみません、私帰ります」
「それがいい」
人美はドアを閉めようとした。その時、窓から出て人美の背後に回った眼鏡の男が、彼女を家の中へと押し込んだ―「きゃあー」
渡辺と進藤は人美の悲鳴を聞き取った。
「俺は裏へ回る、お前は玄関から行け。ぬかるなよ」
「了解」
沢木は人美を押さえる眼鏡の男に飛び掛かったが、彼の後ろにいた太った男に居間の方へと投げ飛ばされた。そして、長髪の男に再び後ろ手に手錠をかけられた。
この時、玄関ドアがぱっと開き進藤が飛び込んで来た。眼鏡の男は片手で銃を構えたが、人美が暴れたために狙いが定まらなかった。果敢に飛び掛かる進藤。しかし、太った男は進藤の大腿部に二発の九ミリ弾を撃ち込み、さらに、銃を使って彼の頭部を殴打した。
渡辺が台所にある勝手口のドアを蹴破って家の中に突入しようとした途端、それに気づいた長髪の男が沢木を盾にしながらMP5を乱射し、彼は勝手口の外に戻された。
渡辺の姿を認めた沢木は「鮫島だーっ!」と叫び、その声を聞いた渡辺は、ベルトに挟んでいた里中の銃―ベレッタM92Fを取り出し、発砲の隙をついてドアの陰から長髪の男の右肩を撃ち抜いた。
鮫島はその光景に少なからず畏怖を覚えた。なぜなら、人質を盾にしているのにも関わらず発砲し、なおかつ、標的を正確に撃てる人間は、この日本においてSOPの隊員以外には考えられないからだ。
SOP…… ということは里中も
鮫島は大声で指示した。
「人質を盾にして脱出する! 計画変更だ」
さらに、渡辺に向かって怒鳴った。
「外の奴! 今度撃ったら人質の命はないぞっ!」
鮫島たちは沢木と人美を盾にしながら家の外へと進み出た。
渡辺が人の気配のなくなった家の中に入ると、進藤のうめき声が聞こえた。彼は玄関近くに倒れる進藤に駆け寄った。
「進藤! 大丈夫か!」
「僕に構わず二人を……」
この時、外のバンのエンジンがかかる音がした。
「早く」
「救急車を呼んでやる。しばらく辛抱してろ」
「こういう時はさすがに優しいんですね」
進藤は微笑みながら続けた。
「さあ、早く」
渡辺が外に出ると、バンは走り出したところだった。彼はバンを追うようにしてスカイラインに向かって走った。
「ボス、追ってくるぜ」
その言葉に振り向いた鮫島は、大平の家で遭遇した男であることに気づいた。
奴はあの時の…… 一人か? 里中は?
長髪の男は肩の傷に顔を歪ませながらも「俺がぶっ殺してやる!」と叫びながら車窓から身体を乗り出し、MP5を構えた。だが、その銃弾が炸裂することはなかった。
「畜生! 弾詰まりだ!」
車内に身を戻した長髪の男は銃を点検したが―
「変だ、なんともねー」
この時、人美は意識してサイ・パワーを使ったわけではなかった。しかし、彼女の心の叫び―「撃たないで!」―は、確実に反映されていた。
渡辺はスカイラインに飛び乗ると、タイヤがスピンするほどの急発進をして白いバンを追った。
午前一時四十分。里中は捜査第七班の部下たち五名を率い、横浜市の根岸港にある田宮石油根岸製油所の埠頭に停泊中の、大和丸という名の石油タンカーを監視していた。なぜなら、田宮石油が所有するこのタンカーが、テロリストの密入国や国外逃亡に関与しているという疑惑を持っていたからだ。
とあるビルの屋上から双眼鏡で大和丸を見つめていた西岡が言った。
「鮫島は来るかな?」
隣にしゃがんでタバコを吹かしていた里中が答えた。
「さあ? でも、張ってみる価値はあるさ」
「もし鮫島の乗船が確認できたらどうする?」
「出港してからSOP1に乗り込んでもらう。袋のネズミさ」
この時、里中の携帯電話が鳴った。それは鮫島を追跡中の渡辺からだった。
西岡は電話を切った里中に尋ねた。
「なんだい?」
里中はにやりとして答えた。
「へへっ。鮫の奴、葉山にいるよ」
里中からの連絡により、SOP本部で待機中だったSOP131(SOP第一セクション第三小隊第一班)が―すなわち、星を含む四人の隊員が、ナイトハウンドと呼ばれる戦術ヘリコプターで出動したころ、秋山は電話のベルに起こされた。
「もしもし……」
「渡辺だ。沢木と人美が拉致された」
「ええっ!」
驚きとともにベットから落ちた秋山は、その衝撃で目を覚ました。
「だっ! 誰に」
「木下を殺った連中だ。今追跡してる」
「沢木さんは!? 二人は大丈夫なんですか!?」
「取り敢えず怪我はしてないはずだ」
「渡辺さんたちは? 大丈夫ですか?」
「進藤が撃たれて救急車を手配したが、心配ないと思う。SOPにも連絡した、すぐに応援が来てくれるだろう」
「分かりました。私は社に出社して対応に備えます」
「そうしてくれ」
「渡辺さん」
「何だ」
「沢木さんを、頼みます」
「……心配するな。必ず助け出す」
秋山は電話を切ると慌てて着替え、髪を振り乱しながらマンションを飛び出し、愛車のインテグラで本社に向かった。
沢木と人美を乗せた白いバンは、国道一三四号線を通ってJR逗子駅前を過ぎ、京浜急行の線路沿いの道を横浜市に向かって走っていた。
時速三〇〇キロ強のスピードで飛行するナイトハウンドは、白いバンを追う渡辺からの連絡を受けながら飛び続け、午前一時五十五分、横浜横須賀道路と京浜急行線が交差する付近の道路で目標を捕捉した。
鮫島が雇った男たちが口を動かした。
「畜生! ナイトハウンドだ」
「びくつくなデブ、こっちには人質がいるんだ」
「ボス、どうするんだ」
助手席に座る鮫島は答えた。
「当初の脱出経路は使えない。ひとまずどこかに籠城するしかないな」
ハンドルを握る太った男が言った。
「でもよボス、籠城なんかしたらSOPの思う壷だぜ。やつらは人質救出のエキスパートなんだ」
「俺はお前たちをCQBの得意な奴らと聞いて雇ったんだ」
後ろの席で長髪の男の傷を手当していた眼鏡の男が尋ねた。
「それじゃ、ボスはSOPと初めから戦う気で」
「まあ、ある程度は予想してた。とにかく、今は戦うことだけを考えろ。脱出方法は俺が考える」
長髪の男は銃を沢木たちに向けながら、不敵な笑みを浮かべて言った。
「へへっ、おもしろくなってきたぜ」
バンの後ろ―荷台部分に座らされていた沢木と人美は、小さな声で話していた。
「沢木さん、私たちどうなるの?」
「大丈夫、私の仲間が動いてくれている、それにSOPも。きっと助かるさ」
「でも、一人は撃たれたわ。あの人は大丈夫かしら」
「撃たれたのは脚だ。早期に治療を受ければ心配ない」
「本当?」
「ああ。とにかく、チャンスを待つんだ、いいね」
「はい」
沢木は思った。
人美はなぜ力を使わないんだろう? 今以上に危機的状況に陥らないと力を発揮できないのか? あるいは…… まあいい―しかしまいったなぁ。あんなに銃を撃たれて、ピアノは大丈夫だろうか?
人美も考えていた。
力を使えば…… でも、コントロールできるかしら? 悪い人でも人間だわ、缶や花瓶のようにするわけにはいかない、そしたら私は人殺しだもの。どうしよう―でも、なんか沢木さんは落ち着いてるなぁ。怖くないのかなぁ?……
二人がそんなことを思っている時、地図を見ていた鮫島は突然沢木に質問した。
「エアステーションの滑走距離を教えろ」
「なぜ?」
「貴様死にたいのかっ! 余計なことを言わずにさっさと答えろ!」
鮫島が大声を出すと人美はビクっとした。それを感じ取った沢木は答えた。
「離陸が九六三メートル、着陸が八九〇メートルだ」
「航続飛行距離は!」
「三五五八キロ」
二つの答えを聞いた鮫島はほくそ笑みながらつぶやいた。
「ふふっ。余裕だな」
白いバンは時速一〇〇キロ近いスピードで、国道一六号線を南下し始めた。バンの約二〇メートル後方には渡辺の乗るスカイラインが、そして、上空にはナイトハウンドが、それぞれ白いバンを追跡していた。
星が搭乗するナイトハウンドの正式名称は、相模MD/AH93Jといい、これは相模重工がアメリカのマクドネルダグラス社の技術協力を得て開発したSOP仕様のヘリコプターである。一九九四年から陸上自衛隊にも導入され始めたナイトハウンドの任務は、SOPの作戦行動時の情報収集、管制などであり、防弾加工された黒い機体に赤外線暗視装置、高感度指向性マイク、サーチライト、コンピューターなどの近代装備が施されている。最大速度三一二キロ、航続距離三六八キロのスペックを誇るナイトハウンドには、パイロットとオペレーターのほか、SOPの隊員四名(つまり一班)が搭乗できる。
星は現場に車で急行中の里中に無線連絡した。
「こちら131。271聞こえますか」
里中が応答した。
「こちら271」
「目標は国道一六号線で進路を南に変更、横須賀方面に向かっています」
「13はどうしてる」
「アラート1でスタンバイしてます」
「了解」
里中は思った。
横須賀方面だと。鮫の奴どこへ行く気だ?
白いバンが京急追浜駅前の交差点に近づくと、鮫島はバンを運転する太った男に指示した。
「あの交差点を左折しろ」
「何があるんだ?」
「横須賀自工の工場だ」
「そこで籠城するのか?」
「そうだ」
「で、その先は?」
ここで沢木が口を挟んだ。
「そうか! テストコースを使う気か」
鮫島が答えた。
「そのとおりだ。貴様が人質にいると分かれば、相模は喜んでエアステーションを寄越すだろう」
横須賀自動車工業の追浜工場には、一キロ強の直線を有する巨大なテストコースがある。鮫島はこのテストコースを滑走路代わりにして、相模重工に用意させたビジネスジェット機―エアステーション1で、国外への脱出を図ろうと考えていた。
白いバンは追浜工場の敷地内へと入り、テストコース近くにある資材倉庫の中で車を止めた。一方、渡辺は白いバンが倉庫の中に入ったところで車を降りた。
バカなやつらだ。自分から檻の中に入るとは
渡辺は上空を旋回しながら倉庫を監視するナイトハウンドの姿を認めると、ひとまずタバコに火をつけた。
午前二時七分。SOP本部の屋上にあるヘリポートから、SOP13部隊を乗せたボーイングCH47Jチヌークが飛び立った。
チヌークは、川崎重工がライセンス生産する全天候型輸送ヘリコプターであり、SOPでは隊員や武器弾薬類、指揮車の輸送に使用されている。最大積載重量は約一三トン、最大速度二九八キロ、航続距離二〇五七キロのスペックを誇り、ナイトハウンドと同様、防弾加工された機体を艶消し黒で塗装している。
また、このチヌークで隊員たちとともに現場に向かう指揮車は、SOP1が小隊規模以上で行動する時―これを行動レベル2といい、レベル1は班規模の行動、レベル3は中隊規模の行動を意味する―に出動する。この指揮車は、相模重工が陸上自衛隊に納入していた四輪駆動の装甲車をSOP仕様に改良したもので、現場においては小隊の作戦指令室として機能する。
各隊員と指揮車をつなぐものは、隊員たちが頭部に装備する無線機とモニターカメラが一体になったヘッドギア(ヘルメットのようなもの)であり、これにより音声や映像を指揮車に送信できる。指揮車にはこの映像を映す一四インチのモニターが七台あり、モニター一台は画面を四分割して一班分の映像を映し出し、六台のモニターにより全隊員の“視界”が映される。残りのモニター一台は、全二十四画面の中から任意の画像に切り換えできるようになっている。
さらに、指揮車には戦術コンピューター・システムと呼ばれる高度なワークステーションや赤外線カメラなどが装備されていて、ナイトハウンドと連携することにより、膨大な量の情報を収集、解析できる。
午前二時十七分。チヌークは鮫島たちが籠城する資材倉庫の近くにあるビルの裏手に着陸した。後部のハッチが開くと隊員たちが一斉に飛び出し、セオリーどおりの行動を開始した。
第一に、警備員から資材倉庫の見取図を入手し、その情報を指揮車のコンピューターに入力する。そこへナイトハウンドの収集した情報を加え、コンピューター画面上に資材倉庫の立体モデルを作成する。さらに、赤外線カメラを使い、倉庫のどこに人質と犯人がいるかを探索する。赤外線カメラとは、熱源の発する赤外線をとらえる特殊なカメラであり、このカメラを用いれば、壁の向こう側にいる人間を透視するかのように見て取ることができる。そして、資材倉庫の立体モデルに赤外線カメラの映像を重ねることにより、内部の状況の一部始終を監視することができるのだ。
第二に行われるのは、情報からの隔離である。その一つが電話配線を遮断することで、これは犯人が特定の交渉人以外にコンタクトをとるのを防ぐためである。また、状況によっては無線器や携帯電話の電波を妨害する“ジャミング”も行われるが、これを実行するとSOPの無線も使用できなくなるため、常時使用されることはない。
渡辺はスカイラインに乗り込み、チヌークの着陸した地点に車を進めた。途中で出会う第三小隊の隊員たちは皆かつての部下であり、彼はすれ違いざまにある種の懐かしさを感じていた。
第三小隊長の笠谷将樹は近づいて来るスカイラインを笑顔で出迎え、車を降りた渡辺に親しげに声をかけた。
「よう、久しぶりだな。元気そうじゃないか」
「ああ、SOPを辞めたおかげで健康状態は良好だ」
「ふふっ。しかし、やってることは大して変わりなさそうだな。里中から聞いたよ」
「静かに暮らしてくつもりだったんだが、相模の厄介になったのが間違いのもとだった」
笠谷将樹は渡辺と同じ三十六歳で、渡辺がSOPを辞職した時に第三小隊の隊長に任命された。ともにポイントマンであった二人は、“栄光の第三小隊”を築いた立役者であると同時に、多くの困難な任務を切り抜けてきた“戦友”だった。
渡辺と笠谷が話しをしていると、ナイトハウンドから降りたSOP131の四人が側に歩み寄って来て、かつての上官に再会の言葉を発した。そんな中、星は「はじめまして」と渡辺に声をかけた。彼女を見た渡辺は、一瞬、女? と見下しかけたが、その制服の襟に特級射撃手徽章が付いているのを見て取ると、その考えを改めた。
特級射撃手徽章とは、最も勝れたCQB技術を持つ隊員に与えられるバッチであり、かつては渡辺もSOPの制服に付けていたものである。そして、この徽章を付ける者こそが、エースと称されるのである。現在、SOPの隊員の中でこの徽章を身に付けている者は、星と笠谷の二人しかいない。
渡辺は星に言った。
「いいバッチをつけてるな。SOPに女がいるのは知ってたが、まさかエースとは」
笠谷が言った。
「彼女は星恵里。お前が辞めた後に入ってきて、あっという間にそいつを付けるまでになった。まあ俺の見たところじゃ―そうだな、SOP史上最強ってところかな」
渡辺は半信半疑で「ほう」っと言った後、星の持つMP5を見て感想を漏らした。
「エイミング・ポイント・プロジェクターか。俺はそんなものに頼りはしなかった」
エイミング・ポイント・プロジェクターとは、銃に取り付ける照準器の一つであり、取り付けた銃の平均着弾点にレーザー光線を照射することにより、狙いを定めることができる装置である。
星はその言葉に反論した。
「お言葉ですが、私はこれを使わなくても標的を射抜く技術は持っています。しかし、私はそれ以上の精度を求めているんです」
「それ以上とは?」
「相手が例えテロリストでも、できることなら命は奪いたくないんです。そのためには、ウイークポイントをより正確に撃つことが要求されます。これはそのために付けています」「なるほど、優しいんだな。しかし、どこの対テロ部隊もそうだが、標的には可能な限りの銃弾を撃ち込むことを指導している。SOPもその例外じゃない。一発で仕留めるのは難しいことだ。かつての俺はそれでしくじった」
「もちろん状況によります。ですが、私の求めるものは必要最小限の弾で最大の効果を得ることです」
「ふふっ。その腕、どれほどのものか楽しみにさせてもらうよ」
「どうぞ、ごゆっくり見学してください」
そう言うと、星はにこっと笑顔を浮かべた。
沢木と人美は資材倉庫の二階にある事務室のソファに座らされていた。かなり大きなこの事務室は、ドアを入るとすぐにファイリング・ケースによる仕切りがあり、その向こう側に二人の座るソファとコーヒー・テーブルが置かれていた。ドアは東側の壁にあり、北側の壁にはテストコースが見渡せる窓と、屋外に設置された非常階段へのドアがあった。
長髪の男は部屋の中央より窓側に並べられた事務机の上に銃を構えて座り、渡辺に撃たれた傷の痛み止めに注射されたモルヒネのせいで、ニタニタと薄気味悪い笑いを浮かべながら二人を見張っていた。眼鏡の男は閉ざされたブラインドに穴を開け、外のようすを探り、太った男はドアの陰から一階と屋上に通じる階段を見張っていた。また、鮫島は事務机の上に脚を載せ、踏ん反り返って座っていた。
そんな中、沢木は、我ながら落ち着いたもんだ、と思っていた。最初に殺すと言われた時も動揺しなかったし、人質にされている今も恐怖を感じることはなかった。それがなぜかを考えはしなかったが、八年前から彼の心の中に宿っている虚無感は、こうした状況下でも彼に冷静さを与えていた。
一方、人美はテロリストたちよりも、自分自身の力に不安を感じていた。力を使わなければならない時が来るのだろうか、コントロールできるのだろうか。それとも、暴走してテロリストたちを殺して…… そう思うと、彼女は沢木に身体を寄り沿わせ、頬を彼の肩に載せるのだった。
渡辺と笠谷小隊長は、指揮車の中で強行突入の可能性を模索していた。そこへ、事故処理の渋滞に巻き込まれたために到着が遅れた里中と西岡の二人がやって来た。
笠谷が言った。
「根岸港からにしては遅かったじゃないか」
里中が答える。
「いやー、申し訳ない、渋滞に引っ掛かってね。で、状況は?」
笠谷はコンピューターのモニターを指差しながら言った。
「まあ、見てのとおりだ。犯人は鮫島を含めて四人、人質はここに座らされている二人だ」 西岡が尋ねた。
「部隊の配置は?」
「一班から四班までは通常装備で倉庫の周囲に展開してる。五班には五〇口径を装備させて倉庫一階に待機させた。六班はライフル装備でテストコース側に二名、ナイトハウンドに二名だ」
里中が言った。
「強行突入した際の勝算は?」
「取り敢えずは我々に有利だ―これだけ状況を把握しているんだから。まあ、二流が相手なら五〇口径だけで決着がつくだろう。しかし相手は鮫島だ。おそらく仕掛けを作って待ってるだろう」
「だろうね。ほんじゃ、一応要求を聞いてみますか」
笠谷は遮断中の電話回線を接続し、里中が電話をかけられるようにした。
「もしもし、里中だ」
里中の耳元で鮫島の低い声が響いた。
「ふふっ、貴様もしつこい奴だな」
「あんたがのこのこ帰って来るから悪いんだよ。俺だっていつまでもお前に構ってられるほど暇じゃぁないんだよ」
「だろうな、では早速本題に入ろう。相模にエアステーションというビジネスジェット機を用意させろ」
「ジェット機だと、冗談じゃない。お前に逃げられた上、パイロットまで人質にされるんじゃ歩が悪過ぎる」
「心配するな、ジェット機は俺が操縦できる。それに、人質も空で釈放してやる」
「空で? スカイダイビングでもさせる気か?」
「そのとおりだ」
「バカなことをいうな」
「ふふっ。自分の命がかかっているんだ、パラシュートの紐を引くことぐらいできるだろう。どうだ、悪い取引じゃないだろう。相模にとっちゃ飛行機の一機ぐらい安いもんだし、人質も無事に釈放される。そして、俺も貴様とおさらばできる。最も勝れた選択だ」
「一体どこへ逃げる気だ。北朝鮮か?」
「どこへ行こうと貴様の知ったことじゃない。返事はイエスかノーか、それだけでいい」「あっそう、相模に問い合わせてみるよ。それで、飛行機はどこに用意すればいいんだ」「ここのテストコースに着陸させろ。もっとも、この暗いコースじゃ着陸は無理だろう、日が昇るまで待ってやる。今日の日の出は五時八分だ。その時刻きっかりにはエアステーションをここの上空で旋回させろ、着陸は十分な明るさになってからでいい。それと、パラシュートを二つ用意するのも忘れるなよ」
総合技術管理部の秘書室で、片山とともにいらだちと不安の時を過ごしていた秋山のもとに、渡辺からの電話が入ったのは午前二時五十分のことだった。彼女は海老沢社長に連絡し―海老沢は本社へ向かう車の中でこの知らせを聞いた―エアステーションの使用許可を得たものの、大きな障害を一つ取り除かなくてはならなかった。それは、相模重工所有のエアステーションが駐機されている調布飛行場の運用時間が、午前八時三十分から午後四時三十分であるということだった。飛行機を一機飛ばすためには、管制塔を運用し、しかるべき手続きと準備を行わなければならないのだ。彼女は白石会長に連絡し、彼の政治力に期待した。
連絡を受けた白石は、彼にとって大切な二人の人物のために最善の努力を果たした。その結果、既に招集していたSOP総括委員会と、叩き起こされた運輸大臣の措置により、調布飛行場をエアステーションが飛び立つまでの間、その運用を相模重工に任せることが決定された。
これを受けた秋山と片山は、沢木組の航空部門のスタッフ九名を、川崎工場のヘリコプターで調布飛行場へ送り込むことを決めた。また、この事態を聞きつけた航空宇宙事業部長の宮本誠は自分の部下に招集命令を出し、調布飛行場へ向かわせた。このことにより、飛行場施設の運用及び機体の整備を行うに十分なスタッフが調布飛行場に送り込まれ、午前四時四十分に眠気眼のパイロットが飛行場に着いたころには、エアステーション1はいつでも飛べる体制に準備されていた。
しかし、こうした相模の行動とは裏腹に、SOP総括委員会が現場の指揮権がある里中に伝えた命令はこうした内容だった。早期のうちに強行突入し、テロリストを排除せよ。そして結び言葉は、失敗は許されない、だった。委員会の連中の言うことはいつもこうであり、里中を始めとするSOPの隊員たちのいらだちの原因となった。だが里中は、SOP総括委員会に言われるまでもなく、鮫島に空の散歩を楽しんでもらう気も、沢木と人美にスカイダイビングを楽しんでもらう気もさらさらなかった。彼は鮫島が飛行機に乗り込もうとした時に、一気に勝負をつけるつもりだった。
鮫島は、自分の出した要求に対する返事がなかなか返ってこないことにいらだっていた。そして、午前三時を過ぎたころ、そのいらだちの矛先を沢木に向けた。
「相模は何をしてるんだっ!」
この時、人美は沢木に寄りかかって眠っていた。
「大きな声を出すのはやめてくれ、彼女が起きるだろう。それに、飛行機を飛ばすのにはいろいろと手続き必要だ。タクシーを呼ぶようなわけにはいかないんだよ」
鮫島は憮然とした表情で言った。
「気に入らん。貴様はなぜそんなに落ち着いている。たいていの人間なら殺すと言われれば、泣き叫びながら命乞いをするものだ」
沢木は穏やかな口調で答えた。
「さあ、自分でも分からないね。しかし、ただ一つだけ確かなことは、私はお前たちのような人間に命乞いなどする気はない、ということだ」
その言葉を聞くと、鮫島は沢木の正面のソファに腰掛けた。
「ふふっ、さすがは日本の頭脳とまでいわれるだけの男だ、立派だよ」
「尋ねたいことがあるんだが」
「何だ」
「お前は何のためにこんなことをするんだ。理想のためか、それとも金か」
鮫島は懐からタバコを取り出し、火をつけた後に答えた。
「まあ、いくつか理由はあるが、一つは金であり、一つは報復だ」
「報復? 一体何の」
「腐った人間たちへさ―堕落した資本主義社会の豚どもに、恐怖を思い知らせてやるのさ」
「お前はコミュニストなのか?」
「この俺にイデオロギーなど関係ない」
「ではどういうことだ」
「貴様は今の日本の人間たちをどう思う? 平和に、幸せに、明るく楽しく、そんなふうに暮らしているように見えるか? 俺に言わせれば、奴らは目先のことしか考えていないのさ。何を学でもなく大学で暇をつぶし、大した能力もなく就職する。そして、一部の“できる”連中に寄生して給料泥棒をしてるのさ。お前の部下に、お前ほど稼げる奴がいるか? いやしないだろう。どいつもこいつも、ほとんどの奴らが寄生虫なんだ。そんな男たちがバカな女と結婚し、生まれた子供がまたでき損ないだ。街を歩いている若い連中を見てみろ。女はみんな娼婦の予備軍で―その娘だってそうさ」
鮫島は人美を指差して言った。
「この娘はそんなじゃない」
「そして、男はそのけつを追っかけ回す盛りのついた豚さ。そんな連中がまた結婚し子供を生めば、この世は劣性遺伝子で埋め尽くされてしまう。結局この日本の連中は、悦楽に支配され、悦楽を求めるがままの人生をただ生きながらえているのさ。日本だけじゃない、アメリカもヨーロッパの国々も、先進国とは名ばかりで、物質的豊かさの中で人間が本来あるべき姿を失っているんだ。俺はそんな連中が許せない。だから、俺は世の中をだめにした連中に報復するのさ」
沢木は鮫島の言うことに、少なからずうなずくところがあった。
「なるほど。しかし、暴力によりそれを主張すれば、結局犯罪にしかならない。そして、何も変わらない。そうだろう?」
「ある日本の国粋主義者はこう表現したことがある、肉体言語、と。第一、俺は“変えよう”などとは考えていない。だめになったものを破壊するだけだ」
「だめの判断はお前の価値観に過ぎん」
「ふふっ。まあ、貴様のようなものを創る世界にいる人間には分からんことだ。破壊、殺戮、混沌、そんなものを見続けてきた俺にしか分からないことだ」
「だろうな」
「お前は何を思って生きている」
「さあ、何だろう? そうだな、過去の夢の惰性かも知れない」
「惰性?」
鮫島はその答えを以外に思った。この手の男は、野心に満ちていると想像していたからだ。
「貴様もつまらぬ男だな」
「お前ほどじゃないさ」
「口の減らない男だ。ところで、その娘は何だ? お前の女か?」
沢木は薄い笑みを浮かべながら言った。
「いや、彼女はアリスさ」
「アリス?」
「そう、不思議の国のアリスさ」
それを聞いた鮫島は、鼻で「ふっ」と笑うと沢木の前から立ち去った。
寝たふりをして二人の会話を聞いていた人美が沢木に尋ねた。
「沢木さん」
「やあ、目が覚めたかい?」
「さっき言ってた、過去の夢の惰性ってどういう意味?」
沢木はにこりと微笑み、「聞きたい?」と尋ねた。
「ええ。だって、意外な言葉だもの」
沢木は静かな溜め息を吐いた後に語った。
「かつて、私には同じ夢を見られる人がいた。しかし、その人は私を残して遠くに逝ってしまったんだ。私だけが夢の中に取り残されたんだよ」
「それじゃ、沢木さんは仕方なく夢の中にいるの?」
「すべてがそうではない。しかし、夢は二人で見たほうがよりよいものだと私は思うよ」
「そういう人はいないの?」
「んー、どうだろう?」
人美は力強く言った。
「いるわよ、絶対。沢木さんにはいると思うわ」
「……」
「沢木さんの側で、沢木さんのことを想って、同じ夢を見てくれる人がいるわよ。私には分かるの、ずっと前からその人は沢木さんを大切に想ってくれてるわ」
この時、沢木は人美が秋山の肉体を通じ、メッセージを送ってきた時のことを思い出した。
「どうして人美さんに分かるの?」
「それは……」
それは人美自身にもどこに根拠があるのか分からない発言だった。しかし、彼女は沢木を見守る優しい影を感じ取っていた。
「いや、いいんだ。君らしい言葉だ、ありがとう」
絶え間なく続く不安といらだちの中で、彼女の心臓はその重さを増し、まるで異物が体内にあるかのようだった。が、彼女はそれを必至に耐え、最善をつくし、その結果相模のスタッフを効率よく調布飛行場に送り出すことができた。関係機関への連絡が一段落した今、彼女は沢木のオフィスの彼の椅子に座り、闇の中に静まり返った横浜港を眺めていた。そして、これまで続いていた緊張がいくらか緩むと、暗く悲しい気持ちが立ち込めてきた。 オフィスのドアが開くと、両手にコーヒーカップを持った片山が入って来た。彼はその一つを秋山に差し出した。
「ありがとう」
秋山は両手でカップを受け取ると、再び夜景に視線を戻した。片山は言った。
「何だよ。今にも泣き出しそうな顔だな」
「……」
「君は強い人なのに…… 好きなんだな、沢木のことが」
秋山は膝の上に運んだコーヒーカップに視線を落とすと、小さな声で答えた。
「ええ。でも、ずっと片思い……」
それは痛々しいくらいの声音だった。
「そんなことないさ。あいつだって君のことが好きなんだよ」
片山は、視線を下げたままの秋山を見やりながら続けた。
「秋山、一つヒントをやろう。沢木が君と話す時、自分のことを何と呼ぶか。俺の知ってる限り、その一人称は君にしか使わない」
一人称? 私、俺、僕…… 僕?
秋山は立ち上がり、片山に向き直って言った。
「片山さん。私、追浜工場に行ってもいい?」
「行ってどうなるものでもないよ」
「ええ、分かってます。でも、側にいたいんです」
片山は“やれやれ”というような顔で答えた。
「仕方ない、ここは俺が引き受ける。行っておいで」
「ありがとう」
秋山が小走りにオフィスを出て行くと、片山は沢木の椅子に座り、夜景を見ながら一人つぶやいた。
「全く、世話のやける二人だよ」
「サメよりシャチへ」
「こちらシャチ、どうした?」
「犬どもに囲まれた」
「どんな犬だ」
「三番だ」
「支援しようか?」
「いや、こちらで何とかする。しかし、最初の手はキャンセルだ」
「分かった。無理するなよ」
「心配するな。サメは不死身だ」
無線連絡が途絶えた後、橋本は深い溜め息を一つ吐き、田宮石油会長の田宮総吉へと連絡した。
「鮫島がしくじりました」
「そうか」
「私としては支援してやりたいのですが」
「何をバカなことを。しくじった奴のことなどほうっておけ、しょせん奴は消耗品だ」
橋本が自動車電話の受話器を置くと、彼の運転手兼ボディーガードの男が尋ねた。
「どうします、戻りますか?」
「いや、このまま出港時間まで待とう」
橋本は心に決めた。例え鮫島が来なくても、大和丸が出港するまではここで待とうと。
鮫島が橋本に連絡するために事務室を出ている時、長髪の男の獣のような目は人美の身体に注がれていた。そして、男は人美に近づいて行った。
沢木は人美をかばうようにして立ち上がり、男に向かって言った。
「何だ」
男は沢木に「どけっ!」と怒鳴りながら彼の脇腹に足蹴りをいれた後、人美の腕を掴むと「こっちへこい! かわいがってやる」とにやけながら言った。人美は男の手を振り解こうと「放してっ!」と言いながら抵抗したが、男の握力は異常なまでの強さだった。沢木は男に体当たりし、転んだ男の傷口を足で踏みつけた。男は「うわーっ!」と叫びながら猛烈な勢いで立ち上がり、沢木をソファに突き飛ばすとMP5を構えた。引き金は引かれる寸前だった。その時―
風が吹いた―
それは、静かな流れだった―
人美が「だめーっ!」と叫んだ瞬間、空気が動き出した。そして―
「うわぁーっ!」―長髪の男は喉が張り裂けるかのような叫び声をあげると銃を落としてその場に立ち尽くし、身体全身を小刻みに震わせ始めた。顔は真っ赤になり血管が浮き出て、傷口からは「シュッ、シュッ」と時折微量の血しぶきが上がった。
沢木は人美を見た。それは始めて見る怒りの表情だった。そして、彼女の前髪は風によって小さくなびいていた。
「人美」
人美は沢木の呼び声に怒りを静めた。
風が止んだ―
鮫島と傭兵たちが駆けつけて来ると、長髪の男は身体を硬直させたまま後ろに倒れた。「てめーら、何しやがった!」
太った男がそう怒鳴ると、鮫島が叫んだ。
「やめろ!」
眼鏡の男が長髪の男の脈を取る。
「生きてる」
「手当してやれ。デブ、お前は外を見張ってろ」
鮫島はこの時思っていた。
さっきの風は何だ
コンピューターのモニターを見ていた里中は、今起こった事務室の中の出来事をつぶさに見ていたと同時に、笠谷小隊長に突入のゴーサインを出した。しかし、事態の収集を見て取るとそれを中止させ、鮫島に電話した。
「里中だ。飛行機の手配ができた、午前五時十五分に着陸させる」
「よし、分かった」
「人質は無事だろうな。取引のルールは守れよ」
「当然だ」
切れた電話機を耳に当てたまま、里中はしばらく考えた。
男の動きが止まったのはなぜだ。倒れたのは?…… 何があったんだ
沢木と人美は寄り添うようにして再びソファに座っていた。
「ごめんね、怖かったろう。私がもっと強ければ……」
沢木がそう言うと、人美は遠くを見据えたまま答えた。
「私が怖いのは、いつだって自分自身よ」
「どういう意味だい?」
「見たでしょ。さっきのは私がやったの」
ついに告白を受けた沢木の心臓は高鳴った。
「どうやって?」
「超能力、っていうのかしら。私には特別な力があるの」
「なぜ怖い? 身を守るために使った力じゃないか」
「ええ、確かに。でも、殺してしまうかも知れない。自分ではコントロールできないの」「いつから力を?」
「最近、だと思うけど」
人美は沢木を見つめて言った。
「ねえ、沢木さん」
「なんだい」
「私のことが、怖い?」
沢木は笑みを浮かべながら首を横に振り、優しい声音で答えた。
「君のことが怖いわけないだろう」
人美は笑みを浮かべると、沢木の胸に顔を沈めた。
「沢木さんは彩香と同じことを言うのね」
「誰だい? 友達?」
「ええ、親友よ」
多くの特殊部隊では、隊員たちに射撃や格闘技などの戦闘技術のほかに、特殊技能を最低一つは身につけさせるように訓練している。例えばSOPには、爆発物、化学兵器、情報分析、通信、医療のスペシャリストが存在し、これにより部隊全体の能力値を高めている。
鮫島と行動をともにする三人の男たちは、皆かつては何らかの特殊部隊またはゲリラ部隊にいた人間たちであり、眼鏡の男は医療技術を、太った男は爆破技術を、長髪の男は通信技術を修得していた。
荒い息をしながら事務机の上に横になっていた長髪の男は、眼鏡の男から治療―止血とモルヒネの投与―を受けていた。鮫島は、長髪の男がこの処置により、脱出までの間生きながらえることを望んでいた。そして、どうせ死ぬのなら、自分が脱出するために役立って死んでもらわなければ、支払った報酬の元が取れないと考えていた。
里中は当初、鮫島たちが飛行機に乗り込むために外へ出て来たところを急襲しようと考えていた。しかし、決戦の時はそれより早まるかも知れない、という直感から、13部隊にいつでも作戦行動に移れる体制を指示した。これにより、星がいる第一班と第三班は資材倉庫の屋上に身を潜ませ、第二班は一階の階段下に、第四班は非常階段の下に、第五班は事務室の真下に、それぞれ移動した。
そんな中、午前三時四十分、秋山の乗ったインテグラが追浜工場に到着した。正門の前には何人かの警官が立ち、パトカーと救急車が回転灯を輝かせながら停車していた。彼女が警官に声をかけてからしばらくすると、西岡が出迎えにやって来た。そして、彼の案内でSOPの指揮車へと向かった。
指揮車の中に入った秋山に渡辺が声をかけた。
「やっぱり来たか」
「ええ、心配で」
里中が言った。
「渡辺さんが育てた優秀な部下たちが問題の解決にあたっています。どうか彼らを信頼してやってください。期待を裏切ることはないはずです」
秋山は取り敢えずうなずいた。そして、渡辺の横に座ると闇の中に浮かぶ資材倉庫に目をやった。
沢木さん、戻って来てね
おそらく自分は死ぬのだろう。男が目覚めて最初に思ったことがそれだった。しかし、恐怖を感じることはなかった。このままずっと動かずに、死の時を待つのもいいだろう―そんな思いになりかけた。だが、自分は一体何をしてきたのだろう、という疑念が浮かんだ途端に、なぜか強烈な怒りが込み上げてきた。
長髪の男は人美のサイ・パワーに翻弄された後、事務机の上に横になっていた。多くの血液が体外に流出した彼の命が尽き果てるのは、もはや時間の問題だった。
この怒りを持ったまま死ぬことなどできない。絶命間近に狂気の頂点に達した長髪の男は、その行き場のない怒りを銃に委ねた―ぶっ殺してやる!
男はMP5を握り締めると事務机の上に立ちあがり、獣のような叫び声とともに銃弾を撃ち放った。蛍光灯が割れ、窓ガラスが割れ、壁に穴が開き、書類の束が吹き飛んだ。
太った男は事務室を出たところで階段を見張っていたが、突如始まった銃声にSOPが突入して来たと思い、仲間を援護すべく事務室に戻った。だがその途端、彼の内蔵は数十発もの弾丸を浴び、すべての臓器が混ざり合い、吹き飛ぶ結果となった。
沢木と人美は凶行が開始された直後、ソファの後ろに転がり込むように身を隠した。だが、一発の銃弾が人美の左腕をかすり、さらに太った男の断末魔の叫びを聞いた時、とてつもなく大きな恐怖感が表出し、彼女の自己防衛本能は猛烈な勢いでサイ・パワーを開放させた。
風が吹いた―
それは、猛烈な流れだった―
MP5を乱射し続ける長髪の男は、風によってバランスを崩したために銃口を自分の足首に向けてしまった。彼は吹き飛んだ足とほぼ同時に、事務机の上から床に落下した。
人美の起こした風は、書類や伝表を巻き込みながら次第に渦を形成し、窓ガラスと二つのドアを吹き飛ばし、ファイリングケースや本棚を次々となぎ倒していった。
長髪の男による銃声が轟いた瞬間、里中はSOP13部隊に強行突入を指示した。
資材倉庫の屋上に待機していた第一班―星たちは非常階段から、第二班は屋内の階段から、それぞれ事務室を目指して走った。
一方、長髪の男の位置を赤外線照準器で明確に捕捉していた第五班の狙撃手は、五〇口径の銃口を天井に向けて発砲した。その途端、床に転がって悶え苦しんでいた長髪の男の身体は、強烈な爆音とともに宙に舞い上がった。資材倉庫一階から撃たれた五〇口径の弾丸は、二階の床を貫通し長髪の男を即死させた。
五〇口径を構える狙撃手たちは、鮫島と眼鏡の男にも照準をセットしていた。が、引き金を引こうとした時、一人の隊員が叫んだ。
「天井が落ちるぞっ!」
この時、天井には無数のひびが入り、コンクリート片がパラパラと落ち始めていた。
眼鏡の男の位置からは、非常階段を駆け下りる星たちの姿を確認することができたが、人美によって起こされている暴風を避けるために腹這いになり、銃を構えるどころではなかった。それでも何とか体制を立て直そうと床に手を突いた時、手の下の床にひびが走るのを感じ取った。そして、何とも不気味な金属音。
沢木は床に転がっていた人美の側に這って進み、「人美、人美!」と叫んだ。一種のトランス状態に入っていた人美は、沢木の声により常態に戻された。
「沢木さん、私……」
そう言いかけて人美は息を飲んだ。額から血を流した鮫島が、沢木の首を閉めあげたからだ―「沢木さーん!」
最初に窓側の壁が吹き飛んだ―
そして、事務室の床は蟻地獄のように中央からくぼんでいった―
絶え間なく続く資材倉庫からの破壊音に、渡辺は倉庫に向かって走り出した。秋山も同様に走り出そうとしたが、里中に腕を掴まれ阻まれた。
「彼らに任すんだ」
吹き飛んだ壁の破片を辛うじて避けることができた星は、爆薬? と思いながらもすぐさま暗視装置を装着し、瓦礫の山となった倉庫一階を、非常階段の踊り場から見渡した。「みつけたわ」
鉄骨に足を挟まれてしまった眼鏡の男は、もはやこれまでと観念し、腰のホルスターから短銃を抜くと自分の頭に当てた。が、銃は衝撃とともに彼の後ろへと弾かれた。彼が顔の近くにあった右手に目を映すと、手の甲には小さな赤い光が当たっていた。彼は両手を挙げ降伏の意を表した。赤い光は、星の構えるMP5のエイミング・ポイント・ジェネレーターからの光だった。
沢木の身体には傷一つできることはなかった。落ちたという感覚はまるでなく、ふわっと舞い降りた、そんな印象だった。
沢木は起きあがるとうつぶせに倒れた鮫島を見たが、その背中からは細い鉄骨が突き出していた。「死んだか」と小さくつぶやき、後ろを振り返り人美を捜した。
人美もまた、床が崩れた際に怪我を追うことはなかった。彼女のサイ・パワーは、彼女自信と沢木の身を守ったのだ。
人美は言った。
「終わったみたい」
「そうだね」
だが、鮫島は生きていた―
鮫島は両腕を踏ん張り、身体を串刺しにした鉄骨を抜きながら立ちあがった。
「貴様ら、ぶっ殺してやる。それで、本当の終わりだ」
沢木と人美に逃げ道はなかった。一方には積みあげられた自動車部品の山があり、後は崩れた床の瓦礫の山だった。両手を手錠で拘束された二人には、それらは乗り越えられない壁だった。
鮫島はじわりじわりと二人に近づいて行った。
沢木は言った。
「人美、逃げろ、早く」
人美は首を横に振りながら言った。
「無理よ、どうすればいいの!?」
沢木は側にあった鉄パイプを両手で持ち、間近に迫った鮫島に挑んだ。しかし、鮫島は鉄パイプを受けるとそれを奪い取り、沢木を突き飛ばした。そして、強烈な力で彼の首を締めあげた。
使わなきゃ。今力を使わなければ……
人美は念じた。しかし、何も起こらない。
「どうして!? どうすればいいの!」
沢木は必死の思いで鮫島の腹の傷を膝で蹴りあげた。「うっ」という低いうめき声、それとともに首を締める力が弱まった時、沢木は叫んだ。
「人美、自分を信じろ! 君の持つ力なんだ!」
そうなのだろうか? でも、沢木さんが死……
「そんなのいやーっ!」
人美は目を閉じ、沢木を救う、ただそれだけを念じた。すると、頭の中にイメージ見えてくる。鮫島が沢木を放し、そして身体が動かなくなるところが。人美はこの時確信した。
できる、きっとできる
人美は静かに目を開き鮫島を見つめた―
静かに風が吹き出し、人美の前髪をなびかせた。そして、彼女のサイ・パワーは彼女の意のままに開放された。それはとても静かな、穏やかな力だった。
鮫島の身体からは力が抜け、沢木を放すと身体をぶるぶると震わせながら後退りした。並の人間ならこれで動くことができなかったであろうが、鮫島の執拗なまでの執念は、人美のサイ・パワーに抵抗するだけの力を発揮させた。
鮫島は震える右手を動かし、腰のホルスターから短銃―ブローニング・ハイパワーを抜くと、人美に狙いを定め引き金を引いた。
この時、人美の目の前に渡辺が飛び出した。彼は人美を抱き抱えるようにして自らの肉体を盾とし、その結果、彼の左大腿部に弾丸が命中した。
「渡辺!」
沢木がそう叫ぶ間にも、鮫島は二発目の狙いを沢木の頭部につけようとしていた。
渡辺は人美を見やりながら言った。
「目をつぶってろ!」
渡辺は人美が自分の胸元に顔を沈めたのを確認すると同時に、鮫島の額に銃口を向け、そして撃った―
二発の銃弾が飛び交った。しかし、命中したのは一発だけだった。
仰向けに倒れた鮫島の耳には、ジェット機の飛行音が聞こえていた。それは、彼が乗るはずのエアステーションだった。
終わりとは、こんなものか? あっけない
渡辺の撃った銃弾を眉間に受けた鮫島は即死に近い状態だったが、死に至るまでのごく僅かな時間に、こんな言葉をつぶやいた。
「ドゥルジの開封を……」
鮫島守の三十八年間の人生は終わった。
午前五時八分。大和丸の停泊する埠頭にじっと立ち、海から昇る朝日を見つめていた橋本は、彼の運転手が持ってきた受信装置に耳を傾けた。
「……作戦終了。人質は無事救出、犯人は共犯者一名を除き全員死亡、鮫島守も本隊により射殺された。繰り返す、SOP13より神奈川県警本部へ。作戦終了……」
橋本はこの時朝日に誓った。
「鮫島、敵は必ずとってやる」
彼の頭上を調布飛行場へ帰還するエアステーションが通過していった。
沢木と人美はSOPの隊員に手錠を外してもらい、資材倉庫の外へと出て行った。二人が並んで歩いていると、秋山が沢木に走り寄り、そして抱きついた。沢木が両手で秋山を受け止めると、彼女の髪の毛が頬に当たり、彼女の匂いがし、彼女の体温を感じることができた。そして、彼女の胸の膨らみから伝わる命の鼓動を感じ取った時、沢木はこう彼女に囁いた。
「よかった。君に会えて」
人美は少し離れたところから、抱き合う二人を笑みをたたえながら見ていた。
だから言ったでしょう。沢木さんには想ってくれる人がいるって
そこへ、担架に載せられた渡辺が通りかかった。彼は人美と目が合った時、何も言葉をかけはしなかったが、にっこりと満面に笑みを浮かべると、人美に向かって拳を突き出し、そして親指を立てた。その笑顔は、渡辺がこの夏初めて見せた笑顔だった。見つめ合う二人に言葉などいらない―人美も同じようにして親指を立て、そして笑みを返した。
里中は鮫島の死体に向かって言った。
「散々暴れた割にはあっけない最後じゃないか。一体お前は何を考えていたんだ。できればそれを聞かせて欲しかったよ」
里中が振り向くと、星と西岡の二人が立っていた。星は瓦礫の山を見回しながら言った。「里中さん、これは一体どういうことかしら? 爆薬を使った形跡は今のところないし、不思議だわ」
里中は答えた。
「疑問はいつか解決されるさ」
「いつかって?」
「さあ? いつかだよ」
西岡が言った。
「沢木さんと見山さんの事情聴取はいつにする?」
「先に眼鏡をつるしあげたいから…… そうだな、明日にするか。ただし、沢木さんだけな」
「どうして?」
「あの娘のことは記録から削除する」
今度は星が言った。
「どうして?」
「そりゃ、分かるだろう。普通じゃないからさ」
「でも」
「それもいつか分かることさ。でも、今は知らなくていい、というより、別にしておいた方がいいよ。多分、あの娘のために」
二人は首を捻りながらも、取り敢えず里中の言うことを承知した。
「ああそれとさぁ」
里中が言った。
「渡辺さんがサメを撃ったこともなしな。いろいろ不都合だから」
星が尋ねた。
「じゃあ、誰が撃ったことに?」
「誰でもいいけど、そうねぇ、恵里さんにしとこうか」
救急隊員に傷の手当を受けた人美は、黒いスカイラインの後部席に座っていた。そこへ沢木がやって来た。
「やあ」
沢木が声をかけると、人美は尋ねた。
「さっきの女の人は誰?」
「職場の同僚だよ」
人美はにこっと笑いながら言った。
「奇麗な人ね」
「ああ、そうだね。ところで、大丈夫かい?」
「私は全然平気よ。傷もかすり傷だもん」
「そう、よかった。精神的には?」
「それも大丈夫」
「本当かい?」
「ええ。私ね、自分の力がこの先どうなるのか、って考えると正直言って不安なの。でもね、沢木さんがさっき言ったでしょう。自分の力なんだから信じなさいって。そう思って力を使ったら自分のイメージどおりに使うことができたの。だから私、もう落ち込んだりしないわ。いつかきっと、この力を思いどおりに操ってみせる。それに、大人になったらなくなってしまうかも知れないし…… とにかく前向きに考えるようにするわ」
それははつらつとした少女の姿だった。
「そうか、それを聞いて安心したよ」
「だからね、沢木さんも、過去の夢の惰性で生きてる、なんて思っちゃだめよ」
「ああ、そうだね。私も前向きに生きることにしよう」
二人は微笑み合った。
「沢木さん、一つお願いがあるの」
「なんだい?」
「ずっと友達でいてね。そして、力になって」
「ああ、もちろんだとも」
こうしてこの夏芽生えた沢木と人美の友情は、この先二人に訪れる冒険の数々を乗り越えるための原動力となるのだった。そして、二人はいつでも助け合い、信頼し合うことで、無敵ともいえるパワー―知恵と勇気を手に入れるのだった。