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第3章 ブラッド・アンド・サンダー ~ Blood And Thunder

 八月十六日、水曜日、午前十時少し前。テレビ画面ではギターを持ったエディがにこにこと微笑み、画面の外では彩香がギターのリフに身体を揺らしながら、ワープロのキーを叩いていた。彼女はバン・ヘイレンの、中でもギターリストのエドワード・バン・ヘイレンの大ファンであった。彼女は今、彼らのライブ・ビデオを横目で見てはワープロを打ち、また見ては打つという、ながら作業の真っ最中だった。

 彩香がワープロで打っているのは小説であり、去年の誕生日に父親にねだってやっと買ってもらったワープロは、彼女の夢への掛け橋だった。なぜなら、彼女の将来の夢は小説家であるからだ。幼いころから空想好きな少女であった彩香は、童話の中のしゃべる動物たちやテレビ・アニメの魔法が使える女の子、ミッキーマウスにトムとジェリー、さらにはテレビゲームのRPGなど、そうした創造物に恋い焦がれ、夢中になりながら育ってきた。

 そんな彩香が初めて出会った小説は、小学四年の時に読んだ『赤毛のアン』であり、彼女はこの作品に感銘し、主人公に共感を抱いた。そして、想像するということがどんなに素晴らしいことかを発見し、自分はものを創る人間になろう―そうだ! 小説家になろう!―と夢見るようになったのだ。中学生になってから恋愛感情という未知の心と出会った彼女の創造力はさらに増強し、大学ノートにたくさんの短編小説を書きまくった。ファンタジー、メルヘン、SF、ホラーなど、どの作品にも彼女のユニークな発想と独特の恋愛観が存在し、人美曰く、「彩香には才能があるわ」と言わしめる作品群だった。また、そうした作品の多くは、彼女自身の精神世界を反映した“一人称で語られる主人公の私的世界”が印象的なものだった。ワープロを手に入れた去年の十二月十三日からは、初の長編の創作にとりかかっているのだが、なかなか思うようにはかどっていない。「これだっ!」と思って勢いに任せて書き始めたストーリーも、プリントして客観的に読むと短編の時のような冴えがなく、「これじゃぁ、ただ長いだけだわ」と迷い悩んでいるのだった。しかし、彼女はそれを楽しみ、心はいつも創作欲に満たされていた。

 曲と曲との合間を縫って、愛犬のエディの鳴き声が聞こえてきた。窓から外をのぞき込むと、人美が門のところに立っている姿が見えた。

 艶やかな毛並みを持つゴールデンレトリバーのエディに吠えられていた人美は、何度も訪問した親友の家にも関わらず、中に入るのをためらっていた。エディがこんなに激しく彼女に吠えるのは、これが初めてだったからだ。

 もう! どうしちゃったのよ。私のこと忘れたの?

 人美がそんなことを思いながらまごついていると、「エディっ! 静かになさい!」という彩香の叱り声が飛んできた。見上げると、窓から身を乗り出した彩香が手を振りながら「おはよう」と笑顔で迎えてくれた。主人に叱られたエディはやっと静かになったのだが、その目は人美のことを警戒するかのような鋭い眼差しのままだった。もしもエディが口を利けたなら、親しい彩香にこう語っただろう。

〈あの娘には怖いくらいの力があると思うんだ。どんな力かって? それは僕にも分からないさ。でもね、彩香や普通の人たちにはない力なんだよ。僕の直感に間違いない、動物的感ってやつさ。そして、その力はあの娘の知らないところでいろんなことを引き起こしてる。もうじき目覚めるよ、彼女の力が、きっと……〉

 エディが何を考えているのか人美には知る由もなく、おずおずと玄関へと進み、家の中へと入って行った。

 彩香の部屋に入った人美は電源の入っているワープロを見て、「小説書いてたの?」と言いながらベットに腰掛けた。

「よくできるわよね、ながら作業」

 彩香はテレビとビデオの電源を落としながら答えた。

「だって、このほうが集中できるんだもん」

「変なのー」

「そう言われてものねー、長年やってきたことだから」

「それで、今度はどんなお話なの?」

「今度はSFよ。ちょっと自信あるんだ」

「この前ホラーを書いてる時もそう言ってたわよ。一体いつになったら初の長編は完成するの?」

 彩香はおどけた口調で答えた。

「んんー、難しい問題ね。私も完成品を早く読んでみたいんだけど、何せ書いてるのは私だから、とほほほだわ」

 人美は笑みを漏らした。

「ところで彩香。エディ、今日機嫌悪いのかなぁ?」

「ああ、そうみたいね。利口そうに見えても結構おバカさんだから、人美のこと忘れて吠えたのかもよ。最近来てなかったじゃない」

「ひどい言い方。でも、そうなのかなぁ? 私に敵意を持ってたみたいだけど」

「気にしない気にしない―」

 言いながら彩香は悪夢の件を思い出した。

「気にしないと言えば、夢、どうなったの?」

 人美の顔はたちまち不安げな表情へと変わり、うつむきながらぼそぼそと答えた。

「それなのよ、問題は…… また始まったの、同じ夢の上映が……」

 彩香は人美の横に寄り添うように座って尋ねた。

「全く同じ夢なの?」

「ええ、同じよ」

「不思議、何でだろう?」

「白石のおばさまに話したらね―ほら、長浜に遊びに行った時、変な人たちに襲われたじゃない。あれが原因なんじゃないかって」

「んー、そうね。突然怖い夢を、しかも同じ夢を繰り返し見るなんて、何か原因があってもいいものね」

「んん。ほかに思い当たることもないし、自分でもそうかなって思うんだけど…… でも、彩香はそんな夢見てないでしょう?」

「うん。でも、おかしなものよねー。だって、私はあの時人美より遥かに怖がってて、それに比べたら人美は勇敢だった。なのに人美は悪夢にうなされて―最もそれが原因とは言い切れないだろうけど」

 彩香はふさぎ込む人美を何とか元気づけようと言葉を続けた。

「ねえねえ人美、悩んでたって始まらないんだし…… もしも不安だったらまた泊まりに行ってあげるから、ねぇ。とにかくなるべく楽しいことを考えることよ。それでだめならカウンセリングを受けるとか、とにかく解決の方法はきっとあるだろうし、永遠に悪夢が続くなんてあり得ないでしょう?」

 人美は顔を上げ、視線を彩香に合わせて答えた。

「うん、ごめんね心配かけて」

「いいのよ、そんなこと」

「ねえ。じゃあ、今日泊まりに来てくれる?」

「うん、いいよ。実をいうとね、私会長の家気に入ってるの」

 彩香は白石会長のことを“会長”と呼ぶ。

「それに、会長も私に会いたいだろうからね!」

 人美は彩香の心配り―何とか元気づけようと努めて明るい口調でものを言い、笑顔を浮かべる姿―に答えるべく、笑顔を作ろうとした。その時、もう一つのテーマを思い出した。

「ああ、それとね。もう一つ気になることがあるの」

「何?」

「昨日違う夢を見てね―男の人と話しをしている夢」

「やっぱり怖いの?」

「んーん、逆。ほっとする感じなの」

「へぇー、知ってる人?」

「んーん、知らない。でも、優しそうな顔で、話し方が柔らかくて―会話の内容は覚えてないけど…… でも、名前は分かるの」

 彩香は不思議そうな顔をして尋ねた。

「どうして?」

「その人が名乗ったから、そこだけ覚えてる」

「ちょっと不気味ね。で、なんていうの?」

「サワキサトシ」

「サワキ? どっかで聞いたことがあるような気がするなぁ」

「本当?」

「んん。芸能人じゃないし、小説家でもないし、スポーツ選手? 違うなぁー。でも聞いたことがあるような…… ないような……」

「……」

「ああっ!」

 彩香は叫び声とともに本棚の前に滑り込み、一番下に入れてある雑誌を物色し始めた。人美もその横に座り込み「分かったの?」と声をかけたが、彩香は思い当たった人物の捜索に忙しく、その心当たりを彼女に披露している暇はなかった。何冊めかの雑誌のページを開いた時、彩香の手は止まった。彼女が今手にしているのは、高名な物理学者のニールス・ボーアにちなんで名づけられた科学情報誌『ボーア』であり、彼女は小説のアイデアを得る資料と銘打って、それを毎月買っていたのだ。

「もしかして、この人?」

 彩香はページを開いたまま『ボーア』を人美に手渡し、そして見て取った。人美が一瞬息を飲むのを。開かれたページには、『制御システムの未来―EFCの可能性』と題した沢木のインタビュー記事と、彼の写真が掲載されていた。

 人美はぽつりと言った。

「そうよ、間違いないわ」

「人美、この人のこと会長から聞いたことあるの?」

 人美はいぶかりながら答えた。

「どうして? ないわよ」

「だって、この人は会長の会社の人よ」

「ええっ! そうなの!?」

「んん、とっても賢い人でね。そうね…… そうそう、ジャンボジェットの制御装置とか、んーと…… とにかく機械を操る仕組みを作ってる人なのよ。この道じゃ世界的に有名なのよ」

「そうなんだぁ。でもなんで私の夢に……」

「本当に聞いたことないの?」

「ない」

「そうか、聞いたことあるなら夢に出てきてもよさそうだと思ったんだけど」

「でも、顔までは分からないじゃない」

「んん」と彩香は考え込み、ややあってから言った。

「じゃあさあ、こうゆう推理はどう? つまり、この人は有名な人で、結構マスコミにも登場してる人なのよ―NHKの技術もののドキュメンタリーとか。きっと、そういうのを何気なく見ていて、顔もはっきり見ていたの―意識はしてなかったけど。そして、相模重工の会長のところに居候した。それと潜在意識の中の記憶とが重なって夢の中に現れた―んん、完璧!」

 彩香はパチリと手を打ち言葉を続けた。

「これで一件落着よ」

「そうね、それならつじつまが合うかもね」

 彩香は誇らしげな表情をしてうなずいた。

「でもさあ彩香? 私、今の今までこの人のこと知らなかったのよ。本当なのかな?」

「本当も何も、それ以外説明のしようがないじゃない。夢って突拍子ないとこあるから」 人美は深い溜め息を一つ吐き、一応の納得をしようとした。と、突然彩香がまた叫んだ。「ああっ!」

「今度は何!?」

「人美の怖い夢に男の人が出てくるじゃない、その人の顔分かる?」

「分からないわ、はっきりと見えるのは腕だけなの」

「声は? 振り向いちゃだめだぁー! っていう声はこの人とは違う?」

「どうだろう、それも分からない」

 彩香は想像力に身を任せるがままに口を動かした。

「私はね人美、今閃いたのよ。その人は沢木っていう人じゃないかって。人美を怖い夢から救ってくれるのはきっとこの人なんじゃない」

「まさか、ちょっと突飛過ぎない」

「そんなことないわよ。正夢とか予知夢とかっていうのもあるんだし、私がこう思ったこと自体がその兆しなのよ」

「小説家っぽい発想ね」

「私は真面目よ」

「ごめん、ごめん」

「だってさあ、怖い夢に登場する人は人美を助けようとしてるじゃない。そして、現実にも人美は悪夢に怯えている。そこへ今度はほっとする夢。しかもそれは優しそうな男の人が現れる夢。男の名は沢木聡、会長の会社の人。ばっちりだわ」

「そう言われるとそんな気もするけど……」

 すっかり自分の世界にいってしまった彩香は、人美の両肩を掴んで言った。

「あのね、人美。この世の中には“共時性”というものがあるのよ。共にする時間と書くんだけど、それはね、それぞれが別々に思える事柄も、つきつめてよく考えていくとある一つの答えに向かって行ったりとか、互いに関連し合ったりしながら存在するということなの。しかも、ただ単にそうなんじゃなくて、なんて言ったらいいかなぁ?」

 彩香は再びパチリと手を打った。

「そう! ミラクルなのよ。それを“共時性”というの。人美の悪夢、会長の家への居候、沢木さんの夢。これは“共時性”で説明できるわ」

「“共時性”ねぇー」

「もっとも、これはクライブ・バーカーが小説に書いたことの受け売りなんだけどね―正確には私の解釈かな」

「彩香」

 人美はぼそりと言った。

「今日の彩香はいつにも増して冴えてるわ。段々そんな気がしてきたもの」

「でしょう」

「で、“共時性”があるとして、その答えは何なのかしら?」

 人美の質問に対して彩香は「んー」と考え込んだ後、「どうしたらいいかな?」と疑問を投げ返し、「私ってだめよね、詰めが甘いのよ。長編が完成しないのもきっとこのせいね」と口を尖らせて反省した。それを受けた人美は笑わずにはいられなく、「だめな人」と言って吹き出した。

 荒崎で初めて悪夢のことを打ち明けた時もそうだったし、今までに何度か遭った辛いことを話した時もそうだった。いつも最後は彩香に笑わされてしまう。彼女と話すと元気が湧き出て笑みがこぼれてくる。だから、人美は彩香のことがとっても好きだった。

「もう、だめな人はないでしょ!」

 言いながら彩香も一緒に笑い、やっと出た人美の笑顔に少しほっとした。

 人美には“元気”という言葉がよく似合う。ボーイッシュで活力に満ち、夢や創造について語る彼女はきらきらと輝いて見え、それは彩香のファンタジックなものの考え方を刺激し、創造力を掻き立てる原動力となっていた。それは例えばこんなことだ。自分の書いた小説を誰かに読ませると、「面白いね」とか「つまらない」という言葉がまず返って来る。まあ、これは初歩的感想であるからよいとして問題はその先だ。どう面白いのか? どうつまらないのか? それをはっきりと自分の言葉で語ってくれるのは、彩香の知る限り人美しかいない。彩香が自分の作品について知りたいことは、単なる賛否や評論家気取りの感想ではなく、わたしはこう感じました? ということなのである。創造により生み出されたものには普遍的な価値はなく、個々人の価値観が存在するのみだ。だからこそ、“あなたが感じたこと”を、言い替えれば“あなたの価値観”を知りたいのだ。彩香が人美を好きな理由、“心の友”と賛美する理由はここにある。

 その笑いをきっかけに、二人の話題は先のテーマを離れ、無邪気な少女の会話へと変わっていった。もちろん二人の脳裏の不安や疑問、恐怖が吹き飛ばされたわけではなかったが、特別意識するでもなく明るい話題へと自然に転じていった。少女たちの精神は、傷ついたり、怯えたり、戸惑ったり、苦しんだりしても、それらを自然に打ち負かそうとするだけのエネルギーに満ち溢れていた。




 午前十一時半ごろ、沢木と秋山、松下の三人は、横浜市戸塚区にある国立横浜病院を訪れていた。この病院には松下の医師時代の後輩―友人でもあり教え子でもある―が勤めているため、秋山の精密検査を依頼したのだった。

 松下は医師免許を所持し、なおかつ現役時代はかなり優秀な医師として名を馳せていた―だからこそ沢木の目に留まったのだ。したがって、秋山の検診を彼が行うこともできるのだが、そのための設備というものが今の彼にはなかった。しかし、初歩的なチェックは彼にも行うことができた。病院に向かう赤いハイラックス・サーフの車中―それは沢木の車であり、彼が運転し、秋山は助手席に、松下は後部席に着いていた―で、松下は秋山に以下のことを質問した。めまい、耳鳴り、手足の冷え、震え、動悸息切れ、食欲不振、睡眠障害など、精神的ショックを一原因とする自律神経失調症の症状が出てはいないかと。ほかにもいくつかの質問を秋山に浴びせたが、彼女の答えはいずれもノーだった。

 秋山は昨夜沢木と寿司屋に行った時の会話の中で、自分は大丈夫だからと検査を拒み、愛らしい笑顔とそれに似合わぬ旺盛な食欲で身の健全さをアピールしたのだが、「念のため、ねっ」という沢木の一言で、検査を受けることを承知したのだった。

 彼女が受けた検査の主なものは、CTスキャンによる頭部断層撮影と、脳波賦活法といわれる脳波の検査である。脳波賦活法とは、脳波を採るための電極を左右対称に取り付け、横になり安静を保った状態で刺激(光や音による)を与え、それに起因して発生した脳波の種類や発生頻度を観察することにより、脳内部に潜む異常を発見しようとするものである。脳腫瘍、脳の損傷、脳内出血などの病気は、異常な脳波となって現れる。

 神経外科の診察室が並ぶ廊下のソファに腰掛けて、検査の終了を待っていた沢木と松下のもとに、後輩医師が結果を持ってやって来た。松下は診察結果が記されたカルテを後輩から受け取り、それをぱらぱらとめくり切った後、異常はどこにもないと沢木に伝えた。ほっとした沢木が思わずタバコに火をつけようとして、医師に「ここは禁煙ですよ」と注意されている時、秋山は彼らのもとに会心の笑みを浮かべながら戻って来た。大丈夫と思ってはいても、やはり一抹の不安は彼女にもあった。何しろ、過去には精神錯乱を起こした者もいるのだから、多分、人美の力で……

 松下は、「私は彼と昼飯に行くから、君たちは二人で仲よくしてくれ」と意味ありげな笑みを浮かべながら二人に別れを告げた。残された沢木と秋山は、何となく気まずいような、そんな心境でしばらく黙って立ち尽くしていた後、沢木のワンパターンの誘い文句で状況を打開した。

「よかったね、何ともなくて。さて、僕らも食事に行こうか」

 秋山は自分を誘うことに関して芸のない沢木のことを、この人は私に食べ物さえ与えておけばいいと思ってるのかしら、と少しばかり不満の気持ちも持っていたが、それでも彼女にしてみれば、彼と一緒に過ごせる時間―しかも仕事以外で―は、幸せを感じる時の一つだった。

 秋山が沢木に好意を持つことは、沢木組では周知の事実であり、多くの者が、何で二人の関係はいつまでたっても今以上の発展をしないのだろう、といぶかしんでいた。岡林が今年四月に入社した新人の女性に語った解説によると、「あの二人の関係は中学生レベルの恋愛関係だよ。いやー、違うな。今の中学生はもっと進んでるから、小学生レベルだな」とのことだった。また片山は、「問題は沢木にあるんだよ。あついがいつまでも過去の出来事を引きずってるからいけないんだ。中途半端じゃ秋山がかわいそうだよ」と同棲中の恋人に語っていた。さらに白石会長は、「男と女はなるようにしかならん。わしは賭けてもいいが、あの二人はいずれは結婚するぞ。わしの目に狂いはないんじゃ」と妻の千寿子に語っていた。

 こうした周囲の意見の信憑性はともかくとして、沢木と秋山の微妙な関係―互いに好意を持ちつつも、沢木には過去の悲しい出来事がトラウマとなり、自分自身の気持ちを素直に表現できなく、秋山には自分からアプローチするだけの勇気がなかった―は、彼らが出会った五年前の春からずっと続いているのだった。実に歯がゆい、ある意味ではプラトニックな、しかし、切ない恋の物語かも知れない。もうほんの少しの勇気を二人が持てば、今以上の幸せを築くことができるだろうに……

 沢木は秋山をハイラックスに乗せ、国道一号線を一路西へ―彼女の住むマンションがその方向にあるため―走らせた。

「さて、何が食べたい?」

 ハンドルを握りながら沢木がそう尋ねると、秋山は「んー、何がいいかなぁ」といつものように顔をほころばせながら思案した。なんだかんだと思ってみても、やはり彼女は食べ物に弱かった。そして、それが彼女の人生における楽しみの重要部分であることを、沢木はよく心得ていた。

 沢木組の七不思議の一つは、食通の秋山がどうやってプロポーション―身長一六三センチ、体重四五キロ―を維持しているのだろうか? ということだった。

 平日、秋山は午前六時半に起床する。彼女は独り暮らしだったが、自分のためにしっかりと朝食―もちろんパンではなくご飯である―を作り、それを食べてから七時四十分ごろに家を出る。会社に着くと、始業の鐘が鳴るまでの間はコーヒーを飲みながら新聞を読んで過ごし、仕事の合間にもよくお茶を飲んでいた。昼食は必ずといっていいほど沢木と一緒に社員食堂へ食べに行くのだが、食の細い沢木と比べると、彼女はその倍も食べているような印象を受ける。そして残りの昼休みは、お茶を飲みながら沢木か秘書室の女性たち―二十五歳と二十三歳の女性。秋山を含め三人の女性が沢木の秘書を務めている―とおしゃべりし、午後三時の休憩時間にはお菓子をつまんだりしていた。五時半に終業の鐘が鳴ると退社して、帰宅途中で晩ご飯の献立を考えながらスーパーで買い物をする。そして、再び自分のためにご馳走を作り、それを時間をかけてゆっくりと食べる。さらに、九時ごろにはビデオで映画を見たり、本を読んだりしながらケーキや〈ミスタードーナッツ〉などをつまみ、十一時ごろベットに入るという生活だった。

 出無精である秋山は、休日も自宅で過ごすことが多かったが、こと食べ物に関してはその限りでなく、友人と“おいしい店”の探索に出掛け、気に入った店を発見するとそれとなく沢木に報告し、「じゃあ、行ってみようか」と彼が誘ってくれるのを期待していた。また、食べ物の研究にも余念がなく、料理関係の本を買っては“料理の腕”を磨いていた。

 そんな彼女自身が述べた七不思議への回答は、「私は食べても食べても太らない体質だから」と、多くの女性がうらやむような答えだった。

 秋山の希望によりそば屋に入った二人は、ともに天ざるを食べながら会話をしていた。「それにしても、今年の夏の暑さは異常ですよね。沢木さん、暑いの弱いから、身体には気をつけてください」

 沢木は毎年夏になると、ただでさえ細い食がさらに細くなり、冷たいものばかりを口にして体調を崩すことが多かった。

「んん、ありがとう。この夏は忙しいからね、君も気をつけないと―」

 沢木はそばをつるつると食べる秋山を見て、にこりと微笑み言葉を続けた。

「もっとも、その食欲が途絶えない限りは心配ないか」

 言われた彼女は「ええ」と微笑み、天ぷらに箸を伸ばした。

「君は本当に食べるの好きだね」

 彼女は箸を止めて答えた。

「だって、食べることは人が生きていくための基本ですよ。沢木さんももっと食べないと―今より痩せたら骨だけになっちゃいますよ」

 沢木は身長一七〇にして体重五三キロという、かなりスリムな体形だった。八年前まで六三キロあった体重は、ある出来事をきっかけに一〇キロ減り、以来そのままの体形が維持されていた。

「大丈夫、これ以上は痩せないよ」

 この何気ない一言には、もう最悪のことは起こりはしないだろう、という沢木の考えが含まれていた。なぜなら、自分はもう人を愛することはないだろうから、愛した人を失いはしないだろうから…… しかし、今目の前にいるこの女性―秋山のことを想うと、失った勇気と力と情熱―彼は人を愛するためにはこれらのものが必要だと考えていた―を取り戻さなくてはいけないのかも知れない、とおぼろげに思うのだった。

 沢木は視線を秋山の顔からそばの載ったざるに移し、強引と思われる量のそばを箸で掴むと、それを口の中にほうり込んだ。が、むせた。

「そんなに頬張るから」

 秋山はけらけらと笑いながらそう言い、沢木は口にハンカチをあてがい堰き込みつつも、彼女に笑みを返した。

「ところで沢木さん、これからどうするんですか?」

 沢木はハンカチをズボンのポケットにしまいながら答えた。

「人美さんのこと?」

「ええ」

「そうだねー、んー」

 沢木はしばらくの間を開け言った。

「実はね、直接行動に出てみようかと思ってるんだ」

「直接行動? まさか人美さんに会ってみよう、っていうんじゃ?」

「そのとおり」

 秋山は溜め息を一つ漏らした後に尋ねた。

「会ってどうするんです?」

「具体的なことはまだ考えてないんだ。でもね、彼女のもっと内面に迫らなければ、彼女の持つ力の確信は見えてこないと思うんだ。それに、彼女自身がどう考えているのか。つまり、サイ・パワーの存在を自覚しているのかいないのか、その辺のところは彼女に聞かないことにはどうしようもないだろう」

「そうかも知れないですけど、危険度は高まるんじゃ…… 第一、沢木さんに心を開いてくれるかどうか、難しいことですよ。何しろ女の子は微妙ですからね」

「大丈夫、君のアドバイスがあれば」

「警告されたというのに、随分楽観的なんですね? 彼女の力に太刀打ちできますか?」「さあ、どうだろう。しかし、一つだけ言えることは、彼女は悪魔でも魔女でもない、十八歳の女の子なんだ。同じ人間ならば理解し合うことができるはずだ」

「沢木さん」

 秋山は真剣な顔をし、沢木のほうに身を乗り出して言った。

「十八の女の子だから怖いんですよ」




 午後四時ごろ、白石邸の門が見える場所に止まった黒いスカイラインの中に、人美の帰りを待つ二人の男の姿があった。

「いいでんすか? 本当に」

「何が?」

「だって、沢木さんは計画の一時中断を指示してるんですよ」

 運転席に座っていた渡辺は隣に座る進藤のほうを向き、この場にいる理由をもう一度言って聞かせた。

「いいか進藤。俺たちは鮫島から白石会長を守るためにここにいるんだ。決して人美を監視するためじゃない、分かるか」

 進藤は呆れ顔で質問した。

「そんな理屈が通用しますかね?」

「するさ」

「沢木さんにもしものことが遭ったらどうするんです?」

「人美にもしものことが遭ったらどうするんだ?」

 渡辺はショートホープに火をつけてから言葉をつなげた。

「世の中、二つのことを同時に満足させることは難しいんだよ。つべこべ言わずに少し黙ってろ」

 その時、人美が彩香と一緒に歩いて来る姿が進藤の目に映った。

「あっ! 帰って来ましたよ。彩香ちゃんも一緒だ」

 それを確認した渡辺がつぶやいた。

「やれやれ、やっと帰って来たか」

 進藤は思った。

 やっぱり目当ては人美じゃないか、嘘つき




 この夜、自宅に戻った沢木がシャワーを浴び終え、ビールを飲みながらタバコを吹かし、人美のことを考えているころ、人美もまた沢木のことを考えていた。彼女はパジャマ姿でベットに横になり、彩香が風呂からあがるのを待ちながら、『ボーア』に載った沢木のプロフィールを読んでいた。


 沢木聡。一九六三年、東京生。

 東京工業大学卒業後、マサチューセッツ工科大学に留学し、同校の人工知能分野の指導者、マービン・ミンスキー氏に師事、制御システム工学の研究に精励する。

 一九八七年、エクスペリエンス・フィードバック制御論理(経験帰還制御論理)を構築、翌年、EFC(Experience Feedback Control) プロセッサーからなるシステムを開発した。その後、ボーイング社の研究チームに参加し、一九八九年、今日では航空機制御のスタンダードともいえるSFOSを生み出す。

 現在、相模重工主席研究員兼総合技術管理部部長。次世代SMOSの開発に取り組んでいる。


 プロフィールを何度となく読み返し、沢木の写真を見ているうちに、人美は夢の中での会話の雰囲気を思い出し、この人はどんな人だろう、会ってみたいなぁ、と強く思うようになっていた。雑誌に載った沢木の表情には優しい笑みがうっすらと浮かび、淡いブルーのシャツに深い茶のネクタイ、黒のジャケットを着ていた。髪の毛は短くさらさらで、タバコを挟んだ人差し指と中指は、まるで女性の手のような細長さだった。

 一度も会ったことのない人、意識したことのない人、そんな人がなぜ夢に現れたのだろう? 彩香の説にもうなずけるところはあるが、それだけじゃない何かが―やはり“共時性”というのだろうか? そんなものの存在を感じつつ、本当に夢で感じたとおりの人なのか、外見から察するとおりの優しい人なのか。無性に会ってみたいと思う衝動、ただその一心から写真を見つめ続けていた。

 沢木と人美は会ったことはなかったが、いくつかの手がかりから互いの人間像の輪郭を知り、何よりもまず会ってみたい、と時を同じくして願っていた。それは単なる好奇心に起因する欲求のようなものではなく、ある種の運命―二人が出会うことがあたかも宿命づけられているような―を感じさせる崇高な願いだった。しかし、二人のその願いが、今、まさに目覚めようとしている人美の力を刺激して、彼女の意志とはまるで方向が違うところへ力を及ぼそうとしていた。もちろん今の二人には、これから起こることなど、想像すらしていないことだった。

 風呂からあがってきた彩香は沢木の写真を見つめる人美を認めると、長い髪を丁寧にバスタオルでふきながら声をかけた。

「ずいぶん熱心ね。まるで恋人の写真を見てるって感じじゃない」

「そんなんじゃないけど。でも、この人ってどんな人なのかなぁ、と思ってね」

 彩香は人美の横になるベットに腰掛けて言った。

「きっと、いい人だと思うよ」

 人美はその言葉が嬉しくて、少し大きな声で「本当に! そう思う!」と言った。

「うん。だって、優しそうな人じゃない。第一ハンサムだわ。私の好みとはちょっと違うけどね」

 人美は視線を写真に戻して納得するかのようにつぶやいた。

「そうよね、優しそうだよね」

「まあ、そのうち会えるよ、きっと。何せ“共時性”があるからねー。ところで人美、人美はさあ、こうゆう人はどう思う。つまり、男の人としてはどう?」

「んー、分からないわ。だって、そうゆう興味とは違う興味の人だもん」

「でもさあ、タイプかタイプじゃないかくらい分かるでしょう。自分のことなんだから」「そうねー、外見的には好きだよ。インタビューの受け答えも、このとおりにしゃべってるとしたら凄く知的で、想像力のある人だと思うし……」

「んん、想像力はあるに越したことはないわ。想像に乏しい人はつまらないからね」

 人美はにっこりと微笑んで彩香に言った。

「ねえ、私もう眠くなちゃった。今日は安心して眠れそうだし、私先に寝るね」

 時刻が午後十一時を回ったころ、人美はそう言って眠りについた。彩香は目を閉じた人美に、にこっと微笑みかけて、鏡の前に座りドライヤーで髪を乾かし始めた。

 彼女は右手にブラシ、左手にドライヤーを持ち、バン・ヘイレンの『ホエン・イッツ・ラブ』を鼻で歌いながら全身でリズムをとり、丹念に自慢の黒髪を乾かしていた。

 と、突然ドライヤーが止まってしまった。何度かスイッチを入れ直したが何の反応もない。どうしたんだろう? ああ、コンセントかなぁ、と思い当たり、鏡台とタンスの間にあるコンセントを、床にひざまずいてのぞき込んだ。しかし、プラグはきちんとコンセントに差し込まれている。おかしいなぁ、といぶかしんだ時、「ううっ、うーん」というかすかなうめき声を聞き取った。彩香は上半身を起こし、ベットで眠る人美のようすをうかがった。見ると、さっきまで穏やかな表情で眠りについていた人美の顔は歪み、夢にうなされているかのように頭を左右に振りながら、低いうめき声を発していた。彩香は「人美、人美」と呼びかけながら彼女の側に歩み寄り、「どうしたの? 夢なの? 起きて、人美。ねえ、起きてよ!」と彼女の身体を揺すりながら起こそうとした。しかし、目覚める気配は一向になく、むしろうなされる度合いは激しさを増し、呼吸は荒くなり額から脂汗を浮かべ始めていた。

「人美、起きてよ。起きて起きて起きてーっ! お願だから目を覚ましてよ!」

 彩香は必死に叫び続けたが、それでも効果は現れない。

 どうしよう、人美。どうしよう、どうしよう。あー、落ち着くのよ彩香

 人美はさらに激しくうなされ始め、それはもはや苦しんでいる状態だった。

 そうだ、とにかく会長に知らせなきゃ。急がなくちゃ

 彩香はドアに駆け寄りノブを掴むと、ぐいっと押した。しかし、ドアは開かない。もう一度押す―開かないっ!―今度は引いてみたがやはり開かない。押したり引いたり、何度か繰り返したがドアはピクリともしなかった。

「何よ! どうなってんの!」

 彩香はさらにドアと格闘を続けた。その時―バシャーン!―鏡台の上に置いてあった化粧水のビンがドアのすぐ横の壁に激突して木っ端微塵に砕け散った。「きゃあーっ!」と悲鳴をあげながら彩香はしゃがみ込み、恐る恐る後ろを振り返った。

 スヌーピーの縫いぐるみが宙を舞っていた。ドライヤーもブラシも、本、CD、鞄、そうしたものがまるで宇宙空間に投げ出されたかのごとく宙に舞っていた。そして、人美は青白い光に包まれていた。

「何よ、何なのよ!」

 彩香は目の前で繰り広げられている異常な光景に畏怖しながらも、光に包まれながら悶え苦しむ人美を見て悟った。

「人美だ、人美がやってるんだ。人美、人美…… ひとみー! 起きてー!」




 沢木はベットの上に寝転んだが、蒸し暑さのためになかなか寝つかれずにいた。二つある窓は両方とも開け放されていたが、なぜか今夜に限って、いつもの涼しい風はひと吹きたりともしなかった。彼は何としてでも寝てやろうと、暑さを意識から切り離すことに努めていた。しかし、頬と枕の間のじめじめとした感触が、それを許さなかった。

 暑さに耐えきれなくなった沢木は、ようやくエアコンのスイッチを入れた。そして、二つの窓を閉め、鍵をかけた。

 素直に冷房を入れるべきだったな

 しばらくすると寝室は心地よい室温に落ち着き、沢木はいまさらながら技術に感謝した。さっきまでの我慢は一体何だったんだろうか? と自問自答しているうちに、彼は眠りへと導かれていった。そしてしばらくすると、まぶたに埋もれた眼球が、ピクピクとせわしなくうごめき始めた。額には脂汗がにじみ出て、右へ左へ、あるいは一回転と、寝返りをうった。

 彼は夢を見ていたのだった。


 沢木は、さらさらとした、ほんのりと焼けて暖かい白い砂の上に立ち、迫り来る波を眺めていた。青く晴れ渡った大空からは、太陽の光がさんさんと降り注がれ、数羽のカモメたちがまるで彼をからかうかのように、つかず離れず、彼の周囲を飛び回っていた。

「いい天気だぁ。空も、海も、いつもよりずっと素晴らしい青だぁ」

 彼はそうつぶやいたが―突然、強烈な閃光が彼を襲った。

 あまりのまぶしさに、彼は両目を腕で覆った。そして、その光は彼の体をじわっと暖めた。やや遅れて激しい風、爆風―

 彼は脚を踏ん張り、なんとかそれをしのいだ。

 風が止んだ―

 沢木は腕を下ろし、遥か沖合を見つめた。そこには黒々としたキノコ雲が、もくもくと立ち昇っていた。

 あれは一体?

 その後を考える暇もなく、彼は足の裏に不快感を感じた。見ると、白い砂はヘドロのようなどろどろの物質に変わっていた。

 彼は思わず片脚を上げて叫んだ。

「何だこれは!?」

 軸となった足がぐにゅっと沈み込んだかと思うと、足の指の間にその不快な物質が、にゅるにゅると入り込むのが感じられた。

 彼はバランスを崩し倒れた。今度は体のあちらこちらに不快感―彼は素早く立ち上がった。背中の皮膚とシャツの間を、ヘドロがたらりたらりと流れ落ちていくのが分かった。その流れに沿って、首筋から入った冷気が背骨伝いに体を貫いていく。

 彼は身を震わせながら周囲を見渡した。そこは、見渡す限りをヘドロの荒野とどす黒い雲に覆われた空間だった。

「ここは一体どこなんだ。あの、あのキノコ雲は何だ!」

 彼がそう叫ぶと、それに答える声があった。

「原子力発電所が爆発したんだよ。何しろ、あの原発は相模重工製で、しかもSMOSを使用してるからねぇ。爆発したって何の不思議もありゃしない」

「何だって、そんなバカな!」

 ばりっとした紺のスーツを着た長身の中年男は沢木に言った。

「バカなのはあんただよ。あれを見てごらん」

 沢木は紺のスーツの男が指差すほうを見た。霧が掛かってよく見えなかったが、何かが積み重なってできた丘のように見えた。見つめるうちに霧は次第に晴れていき、何が積み重なっているかが見て取れるようになった。それは、焼けただれた死体が積み重なった―そう、死体の山だった。

 その死体の山からは、屍からはがれ落ちた肉と血が赤紫色の泥となり、とくとくとした流れを造っていた。そして、その流れは沢木の足下に続いていた。

「こっ! このヘドロは…… うわぁあー!」

 絶叫と同時に、沢木は身体にこびりついたヘドロを、血と肉の泥を振り払おうと狂喜乱舞した。

「ひぃっひひひひ…… 愉快、愉快。あんたはダンスの才能があるよ」

 紺のスーツの男は続けた。

「しかしねぇ、まだ見せ―ちょっとあんた。ダンスはそのくらいにして人の話しをお聞き。まったくどうしようもないバカたれだね」

 沢木は制止した。しかし、顎と首と肩が、小さく細かく震えていた。

「こんなことで取り乱したりするんじゃないよ、大バカ者が。ほら、あそこも見てごらん」 紺のスーツの男が指し示した場所には、めらめらと燃え上がる巨大な炎があった。そして、その中には白い円筒状のものがあった。

「大バカ野郎の沢木さん、あれが何だか分かるかい?」

 沢木は震える声音で答えた。

「いいや」

 すると紺のスーツの男は溜め息を一つ吐き、呆れ顔で言った。

「やれやれ困ったもんだねぇ、あんたは正真正銘のバカだよ。バカで、あほで、まったく手の施しようのない愚か者だよ。自分が造ったものも分からないとは、とほほほほほ…… あれはボーイング747だよ。墜落したんだ。何しろ、あれにはSFOSが使用されているからねぇ。ひぃっひひひひひ……」

 そんなぁ、747が落ちるなんて

 沢木は呆然としていた。すると、747の残骸から小さな男の子が這い出て来た。その目は異様に血走り、白目が赤目になっていて、左右の目は別々の方向を見ていた。髪の毛はちりちりに焦げ、服はところどころに穴が開きぼろぼろだった。また、皮膚やぼろ服は、焼けたのか煤がついたのか、原因は分からぬが黒ずみ、右腕の肘から下はプラプラと不自然に揺らめいていた。

 男の子はゆっくりと、確実に沢木へと迫って来た。男の子が近づくごとに、彼はなんともいえぬ威圧感を感じ、男の子の歩調に合わせて後退りしていった。

 男の子が何歩めかに脚を踏み出した時、その振動でプラプラの腕がドサリと落ち、血肉の泥の中に溶けていった。

 男の子は血の色の涙を浮かべながら叫んだ。

「お前のせいだぁ! お前のせいで、お父さんも、お母さんも、お姉さんも、みんな、みんなぁ! みんな死んだんだよ。この大バカ野郎!」

 沢木の目からも涙が溢れ出てきた。

「そんな、そんなはずない。俺のせいなんかじゃない…… 俺のせいじゃないよぉ!」

 彼は喉がはち切れるほどの大声で叫んだ。

 男の子はいつの間にか現れたテレビのスイッチを入れた。

「未来を切り開く先進技術の相模重工……」

「未来を切り開く先進技術の相模重工……」

「未来を切り開く先進技術の相模重工……」

 それは、相模重工のPRコマーシャルだった。そして、その言葉を画面の中でしゃべっているのは、あの、紺のスーツの男だった。

「未来を切り開く先進技術の相模重工……」

「未来を切り開く先進技術の相模重工……」

「未来を切り開く先進技術の相模重工……」

 沢木はぼろ雑巾と化していた。目は腫れ上がり、涙が絶え間なくこぼれ落ち、全身には汗と血肉の泥とがこびりつき、強烈な悪臭を発していた。

 なんてことだ。俺の技術は、何の役にも立たなかったというのか

「そうだよ、当たり前じゃないか」

 男の子が言った。

「お前のようなバカでも、それに気づくことがあるんだな」

 男の子は沢木に一歩、また一歩と、徐々にその距離を詰めて来た。歩く度に、顔や腕、脚の肉がはがれ落ち、次第に白い骨が見えてきた。

 突然、男の子はうめき声をあげながら、今では白骨化した左手で、半ズボンの中からTシャツの裾を引っ張り出した。と同時に内蔵が―まるで満水になったダムが崩壊し、蓄えられた水が一気に流れ出るかのごとく―ザーっと流れ落ちた。

「おゎえぇー」

 沢木は嘔吐した。胃の壁面が収縮し底が激しく波打った。口から飛び出した流動物は、やがて乳白色の液体へ、さらに透明の液体へと変化した。

 なおも男の子は近づいて来る。そして、かがみ込んだ沢木の前にまで来た時に、男の子は崩れ落ちた。まるで、ビルの爆破解体のように。

 男の子の体は消え、その破片がヘドロの中に沈み込もうとしていた。しかし、頭が残った。頭は沢木をにらみつけていた。

「お前を殺してやぁぁぁぁぅ……」

 その言葉を最後まで言い終わらないうちに、頭は口を境にぱっくりと割れ、崩れ、そして血肉の泥に溶け合わさった。

「わあぁぁぁぁ……」

 沢木は叫び声とともに号泣し、それはむせび泣きへと変化した。

「お若いの、あんたも随分と無駄なことをしてきなすったのう。今ではみんなが死んだよ」 いつの間にか、沢木の隣には年老いた白髪の紳士が立っていた。

「原発が吹っ飛び、みんな死んだ。おっきな飛行機が落ちて、みんな死んだ。おっきな船も沈んで、みんな死んだ。あんたのせいで、みんな、みんな死んでしもうたよ」

「父さん」

 沢木は白髪の紳士に呼びかけた。

「貴様などから父さんなどと呼ばれる覚えはないっ!」

 それでも必死に訴えた。

「みんなじゃない! まだ残ってる! プロメテウスが! プロメテウスが残っているよ!」「この世に及んでまだそんな戯言をぬかすかぁ! 上を見てみっ!」

 沢木は言われるままに天を仰いだ。そこには、赤々と燃えるまばゆい光の塊が飛来して来ていた。それを見た彼の思考は、これまでの人生においてかつてなかったほど目まぐるしく働いた。

 この世に生を受けてから今日まで、さまざまなことを経験し、多くのことを学び取ってきた。ある時は喜び、ある時は悲しみ、希望と絶望とを垣間見てきた。その中で彼は、ものを創ること、創造すること、知を身につけることに精励し、それを咀嚼することを自己のあるべき姿と信じてきた。また、彼は深い自信を持っていた。自身の思想、行動、結果、それらがすべて正しいと―いや、正しいとはいわないまでも、かなり真理に近いと確信していた。事実、人は彼を指導者として、識者として、尊敬と羨望の眼差しを持ってこれまで見つめてきた。だが、それは今をもって崩壊した。これまで築きあげてきたすべてのものは、虚構であり、過ちであり、裏切りだった。何もかもが失われ、残ったものは虚しくもはかない己の身一つだった。

「ああ、そんなぁー。すべてが失われるなんて。そんな、そんな…… 俺の真実の姿が破壊神だなんて。嘘だぁ、嘘だぁ。嘘だ!嘘だ!嘘だぁー!」

 空気の摩擦で真っ赤に焼けたプロメテウスは、今、地表に向けて、ゆっくり、ゆっくりと落ちて来る。

「俺のしてきたことは一体なんだったんだ…… 一体…… 何だったんだよぉー!」


 沢木はばさっと上半身を起こした。心臓はどくどくとのたうちまわり、呼吸は荒く窒息しそうだった。

「はあ、はあ、はあ、ゆ…… はあ、夢か……」

 安堵の気持ちに包まれた。気が緩んだせいか、頭の中の血がすうっと落ちていき、頭蓋骨の中に冷水を入れられたような感覚の後、じわっと脂汗がにじみ出た。

「なんてひどい夢だ」

 膝が笑い出した―

 歯がかちゃかちゃと音を出した―

 鳥肌が立った―

 恐怖に怯えた―

 しかし、まだ終わらない―

 バシャーン!

 突然、窓ガラスが割れた。

 すさまじい炸裂音とともにガラスが飛び散り、突風がなだれ込んだ。タオルケットが舞い、枕が転がり、額が落ちそのガラスが割れ、机の上の本のページが勢いよくめくれた。「うわぁー!」

 沢木はベットから飛び降りたが、枕を踏みバランスを崩しガラスの破片の上に倒れた。「あぁー!」

 激しい苦痛が体中を駆け巡った。腕や脚―露出した部分にガラス片が食い込んだ。それでも構わず、夢中で立ち上がりドアまで走った。足の裏にめりめりとガラス片が突き刺さった。足が着地するごとに激痛―

 ドアを開け寝室を出たところで、風で押し戻されそうになるドアのノブを両手でしっかりと握り、渾身の力を振り絞って閉めた。

 風が止んだ―

 沢木はドアの前にへたり込んだ。

 何だ! 何がどうしたっていうんだ! まだ夢なのか!?

 すると、荒い呼吸音の合間を縫って、ピアノの音が聞こえてきた。しばし聞き入る―「サティだ」

 その曲は、サティの『ジムノペディ第一番』だった。彼は立ち上がってピアノのほうを見たが、それを弾く者の姿はなかった。

 静かに、穏やかに、優美に流れるサティの曲―

「美和の好きだった、サティ。よく弾いていた、サティ」

 彼は血のにじみ出た足の痛みも忘れて、美和が愛した、いつかプレゼントしてあげると約束した、スタインウェイのピアノに近づいて行った。

 沢木の目に映るハンブルグ・スタインウェイには、うっすらと靄が掛かり、境面の黒いボディは冷たく光り、白い鍵盤は曲に合わせて浮き沈みしながら、怪しく輝いていた。

 ヒタッ

 彼の頬を不意に柔らかく冷たいものが触れた。振り向くとそこには―

「み…… 美和」

 柔らかく冷たいものの正体は、かつての婚約者、水野美和の手のひらだった。

「久し振りね。元気だったぁ、聡」

「どっ、どうして君が」

「いいのよ、何も言わないで。さあ、帰りましょう」

「帰るって、どこへ」

「決まってるじゃない、私たちのお家よ」

「おうち?」

「そう、子供たちが待つ、私たちのお家」

「子供?」

「そう、最初の子は女の子、次ぎは男の子、最後の子は女の子。聡の望みどおり、女、男、女の順で生まれた私たちの子供よ」

 彼は顔をほころばした。

「そうか」

「そうよ、そしてルースンのいるお家」

「ルースン?」

「犬よ、ベタールースンアップ。聡が飼いたがっていたシェパードじゃない」

 彼の顔は完全に笑みに覆われた。

「そうか、そうかそうか」

「さあ、行きましょう」

 美和は満面に笑みを浮かべ、沢木の手を取り導いた。彼はその導きのままに歩いて行った。

 サティはまだ奏でられている―

 いつしか二人は、まぶしい光に満ち溢れる霧の中を歩いていた。そこは、白く、真っ白だった。

 そうか、美和は生きていたんだ。美和が死んだ―あれは夢だったんだ。子供たちとルースンのいる、何より美和のいる家

 彼は幸せな気持ちに包まれていた。

 夢が、望みが、やっとかなったんだ。どんなにこの日を待ち望んでいたことか―子供たちとルー……

 その時、沢木は冷たい美和の手の感触を新たに感じた。さっきよりもさらに冷たく、今では氷のようだ。

 待てよ、待て、待て。なぜ子供たちの名前が分からないんだ。犬の名が分かって、なぜ自分の子供の名が分からない。顔は? どんな顔だっけ? だめだ、思い出せない……いや、違う。思い出せないんじゃない。そんなもの、そんなもの存在しないんだ

「そうだろう、美和」

「えっ、何か言った」

 なぜ美和の手はこんなに冷たいんだ。俺の知っている美和の手はもっと、もっともっと温かかった。これはきっと

「嘘だ」

「何が?」

「これは嘘だ。なにもかもでたらめだ! 子供も犬も、そして美和、君もだ」

「いやだわぁ、どうしてそんなことを言うの?」

「君は死んだんだ、八年前の飛行機事故で。死んだ人間が生き返るなんて、僕は信じない」「まーた始まったぁ」

 美和の口調はとても明るく穏やかだった。

「それが聡の悪い癖よ」

 美和はそう言いながら、人差し指を彼の唇に当てた。

「この世の中にはねぇ、聡。不思議なことがたくさんあるのよ。科学や技術では分からないこと、解明できないことがたくさんあるの。聡は何でも論理的に物事を考えようとするけれど、それはいけないことよ。そして、死んだ人間が生き返るようなことも、聡には不思議なことかも知れないけれど、そうしたことのほとんどは、いちいち人が知らなくていいことなの。不思議なこと、知らないこと、知らなくていいこと、そういうものが世の中にはたくさんあるのよ。分かって、聡」

「ああ、そうだね」

 美和は優しく微笑んだ。

「でも……」

「でも、なあに?」

「やっぱり君は死んだんだよ。そして、死んだ人間は生き返りはしない。決して、絶対」 沢木はきっぱりと言い切った。

 サティが止んだ―

 その瞬間、美和の手のひらが沢木の手を振り払ったかと思うと、彼の頬に強烈な平手打ちを浴びせた。彼女は目をつり上げ、きばをむき出し絶叫した。

「なんて聞き分けのないの人なの、あんたなんか死になさい!」

 美和のようなもの、それは沢木を突き飛ばした―

 まぶしい光がよろめく彼に近づく―

 けたたましいクラクションの音―

 車が彼を跳ね飛ばす―

 沢木は宙を舞った―


「沢木さーん!―」




「―死なないでー!」

 人美は絶叫した。その途端―ガシャーン!―二つある出窓のガラスとシャンデリアの白熱球が割れた。

「きゃあー!」

 悲鳴をあげパニック状態になった彩香は闇の中で方向感覚を失い、「人美! 人美!」とわめきながらやみくもに部屋の中を歩き回った。本棚の近くにまで来た時に、そこから飛び出した何冊かの本が彩香の身体に激しく当たり、さらに地震のような揺れを感じた後、彼女は頭に激しい衝撃を受け倒れ込んだ。そして、今度は全身に衝撃―倒れた本棚が彼女の頭を襲い、次ぎに床に倒れた身体を襲ったのだ。

 意識が段々遠のいていく。

 人美、起きて、お願い……


 渡辺と進藤はガラスの割れる音に素早く反応し、車から飛び出すと一目散に白石邸を目指した。門を抜け石段を駆け上った渡辺は、庭を照らすライトの光に浮かびあがった人美の部屋の出窓を見て、ガラスが割れているのを認めた。彼は「人美の部屋だ!」と進藤に叫び、走りながらズボンのポケットから鍵を取り出した。その鍵は、いざという時のために預かっていた白石邸の玄関の鍵だった。玄関を抜け階上への階段を上り、二階を貫く長い廊下に二人が着いた時、「人美君! 泉さん!」という叫び声と、バンバンという音が鳴り響いていた。白石会長が人美の部屋のドアを叩きながら、中の二人に呼びかけていたのだ。そして、千寿子は白石の後ろで戸惑い立ちつくしていた。

 渡辺は白石に走り寄ると、「どいてっ!」と言いドアに体当たりした。二回めには進藤と二人で体当たり―しかし、ドアはあくまで強情に、微動だにしなかった。

「外だ! 窓から入るんだ!」

 渡辺がそう叫びながら廊下の突き当たりの窓を開けると、そこから進藤が先に飛び出した。進藤は屋根伝いに進み人美の部屋の出窓に着くと、その下にあるエアコンの屋外機に登り、割れたガラスの間から手を差し込み鍵を開けた。そして、中に入ろうと出窓のサッシに手を掛けた瞬間、強烈な突風が進藤を吹き飛ばした。彼は後ろに大きく舞い上がり、庭にあるプールへと落下した。

「進藤!」

 渡辺は宙を舞う彼の姿を目で追った。水しぶきが高々と上がり、それが収まった時、進藤は水面に顔を出し「ぷはぁっ!」と息をした。彼の無事を見て取った渡辺は、やはり屋外機の上に登り、突風により開かれた出窓から注意深く中のようすをうかがった。その途端、彼は血の気が引く感覚を覚えた。室内は電気が消えていて暗かったが、庭の照明が差し込み、中のようすは十分見ることができた。その光景は、これまで暴力と血しぶきが飛び交う戦いの場面を見てきた渡辺にとっても、壮絶にして信じられない光景だった。

 目覚まし時計、本、スヌーピー…… さまざまなものがまるでメリーゴーランドのように回りながら宙に浮かび、倒れた本棚の下には額を真っ赤に染めた彩香が倒れていた。そして、人美は息絶え絶えにもがき苦しんでいた。百戦錬磨の戦士である渡辺といえども、驚愕に立ちすくまずにはいられなかった。

 なぜ、どうして!

 渡辺を我に返らせたものは、彼の頭に当たって庭に落ちていったスヌーピーの縫いぐるみだった。彼はすぐさま出窓から部屋の中に入り、彩香の上に倒れた本棚を起こした。


 白石は物置から持って来た大きなハンマーで、閉ざされたドアのノブを叩き続けた。何度めかの打撃でドアのノブは壊れたが、それでもドアは開かない。彼は蝶番を叩きのめし破壊すると、今度はドアそのものを狂ったように連打した。彼の全身から汗が湧き出て手の皮がむけ、息がもうこれ以上は続かないというところまでハンマーを振った時、ドアは観念したのかようやくドスンと前に倒れた。廊下の明かりが部屋の中に差し込み、部屋の中の光景が白石と千寿子の目にも飛び込んできた。白石は手の力が抜けハンマーを床に落とし、渡辺が受けたのと同じ衝撃を味わった。そして、千寿子は大声で泣き崩れた。


 渡辺が本棚を起こした直後、部屋の中はぱっと明るくなった。彼はその理由を悟り、「会長! 人美を頼みます!」と叫び、すぐさましゃがみ込み彩香を見た。渡辺の目に映った彩香には、彼女本来の愛らしい姿はどこにもなく、額から血を流し、髪は乱れ、顔は青白く、唇は凍えそうな紫色だった。彼は彩香の額の傷を確認すると、こうした時のために常備している清潔なハンカチを取り出し、不用意に頭部を動かさないように気をつけながら傷口を圧迫止血した。さらに開いている右手で腕や脚などを軽く掴みながら、骨折や外傷がないかどうかを確認し始めた。その最中、渡辺は苦しみ悶える人美を見た。依然として苦しんでいる彼女の表情は、あの空港の帰りの電車の中で見た、微笑ましい寝顔とは似ても似つかぬ形相だった。美しい少女たちがこれほどまでに変貌してしまうとは、何が起こったのか、誰の仕業なのか、やはり人美なのか。渡辺は彩香の傷口を押さえる手が震えているのに気がついた。


 白石は、「会長! 人美を頼みます!」という声を合図に我を取り戻し、部屋の中に浮かぶさまざまなものに身体をぶつけながら、人美のいるベットの脇にたどり着いた。大声を出し、彼女の身体を揺すり、正気を取り戻すことを祈った。

 一方、渡辺は携帯電話を取り出して一一九番に通報し、救急車を手配した。その時、彩香はおぼろげな意識の中で弱々しい声音を発した。

「人美、やめて……」

 その途端、宙を舞っていたものがすとんと下に落ち、人美のうなされ声は静まった。

 人美が目を開けると、白石の疲れ切った顔があった。そして、見知らぬ男の話し声が聞こえる。どうしたのだろうと思い上半身を起こすと、目の前の床に血を流し倒れている彩香の姿が飛び込んで来た。

「彩香?」

 しばし呆然―人美は彩香のもとへと近寄りひざまずいた。そして、彩香の額に流れた赤い液体に触れ、それが確かに血だと見て取ると、絶叫とともに泣き崩れた。

「どうして、何でなの! 彩香! 彩香!」




 午後十一時五十分。彩香は人美と白石千寿子が同乗した救急車で、葉山から国道一三四号線を南下し、白石邸から約七キロのところに位置する横須賀市民病院に運び込まれた。ただちに救急治療室に運ばれ治療を受けたが、出血こそ多かったものの頭部の外傷は軽傷で、応急処置後のCTスキャンやレントゲン撮影でも、頭蓋骨や脳内部、及びその他の箇所に何ら異常は認められなかった。額の髪の生え際にできた約二センチの切り傷は縫合され、病院到着から約一時間後には一般病室―千寿子の配慮により一人部屋に入れられた―に移され、白石からの連絡で駆け着けた両親と、人美と千寿子に見守られながら、すやすやと穏やかな表情で眠りについていた。

 この夜、横須賀市民病院にはもう一台の救急車が、彩香が運び込まれるおよそ五分ほど前に一人の男性を運び込んでいた。交通事故に遭ったその男性は、これといった致命的外傷が見当たらないにも関わらず、心臓の鼓動は弱まる一方で、身体の内部に重大な損傷があるのではと医師たちを当惑させた。医師たちはあらゆる可能性を考慮して治療に全力を尽くしたが、男性の心拍数は徐々に減少していき、日付が変わった八月十七日、午前十二時五分、ついに命の鼓動は鳴り止んだ。

 男の名は沢木聡。彼の心臓と呼吸は活動を停止した。




 これより前の午後十一時三十五分、彩香が救急車で運び出された後の白石邸では、白石会長が彩香の両親に連絡し、移送先の病院が分かり次第また連絡すると告げた。

 また、渡辺は沢木の自宅に電話をしたが、これに答える声があるはずもなく、沢木の携帯電話、葉山の本部と順にダイヤルしていらいらしていた。そして、もしやと思い秋山の自宅に連絡すると、「沢木さんとは夕方別れたきりですけど、自宅にいないんですか?」と逆に質問を返された。渡辺は胸騒ぎを覚え、ずぶ濡れの進藤とともに白石邸を飛び出しスカイラインに乗り込んだ。渡辺の指示を受けた進藤は、車に搭載された端末機を操作し沢木の住所を検索すると、それを相模製のサテライト・クルージング・システムに入力した。ディスプレイに映し出される葉山の地図を参照しながら沢木の家に向かう車の中で、渡辺は秋山に白石邸での出来事をかいつまんで説明し、それを聞いた彼女はすぐさま片山、岡林、松下、桑原の四人に連絡した上で、白石邸に集合することを決めた。

 渡辺たちが海岸沿いの道を走っていると、前方から赤と青の光が飛び込んできた。パトカー一台と警察の事故処理用のバン、それに事故車と思われる乗用車が一台止まっていた。渡辺はそれを気にとめるでもなく、事故現場の手前を山側にハンドルを切り、数秒で沢木の家の前に到着した。

 沢木の家の電気はすべて消えていたが、なぜか玄関のドアは開けっ放しになっていた。渡辺と進藤は玄関から家の中へと進み、荒れ果てた寝室をみつけた。窓ガラスが割れその破片が床に散乱し、タバコの吸い殻や本、枕などが床に転がり落ちていた。そして、赤い液体が床のところどころについていて、よく見ると、それは寝室を抜けピアノのある居間へ、さらに玄関へと続いていた。渡辺の直感は叫び声をあげさせた。

「さっきの事故だ!」

 渡辺は進藤を残して車に飛び乗り、海岸通りの事故現場に舞い戻った。そして、警官に事故の状況を聞くと、車に跳ねられたのは男の背格好からして沢木に違いないと確信し、運ばれた病院を聞きつけると直ちに確認に向かった。

 沢木の家に残った進藤は、白石に状況を報告した後、家の中や外を隈なく調査した。しかし、寝室が荒れ果てた理由を説明をしてくれるような物的証拠はどこにもなく、寝室に彼の目を引く一枚の写真が落ちているだけだった。壊れた額の中に納められたその写真には、幸せそうな一組の男女が映っていた。長い髪をまとった美しい女。その表情は幸せに包まれていることを雄弁に物語る笑顔を浮かべ、そして、その肩は同じように微笑む沢木に抱かれていた。

 渡辺がスカイラインで時速八〇キロ近いスピードを出し、国道一三四号線を南下しているころ、白石のもとには千寿子からの電話があった。それを受けた白石は直ちに彩香の両親に連絡し、知らせを受けた両親は急ぎ娘のもとへと向かった。

 横須賀市民病院に渡辺が到着したのは、翌十七日の午前十二時九分だった。渡辺は受け付けカウンターの前にいた警官に沢木と思われる人物の居場所を尋ねた。警官は、心臓が停止し現在手術室で蘇生中だと告げた。渡辺は死にもの狂いで走り出し、手術室の前に着くと、看護婦の制止の声も聞かずにそこへ走り込んだ。彼は己の目を疑った。そして、その場に呆然と立ち着くし、しばらくして看護士と看護婦の二人によって担ぎ出された。彼はその間、ベットの上に横たわり除細動器(電気ショックにより停止した心臓の活動を促す装置)を胸に当てられ、「バンッ!」という激しい音とともに身体を舞いあげる男を見つめながら、「沢木! 死ぬなー!」と絶叫した。


 心臓と肺の機能が停止した沢木だったが、彼にはまだ蘇生により命の火を取り戻すという希望が残されていた。医師たちは彼に心臓マッサージと人工呼吸を施し、さらに心臓の活動を促進するホルモン剤を注射して、彼の心臓が自ら動き出すのを待った。

 二分経過―心臓は動かない。

 医師たちは心臓マッサージから除細動器へ切り替えた。

 ブーン、バンッ!

 除細動器の蓄電と放電の音が鳴り響き、放電のショックで沢木の胴体は宙に跳ねた。心電計は軽く波うった後、再び直線に戻った。

 もう一度―バンッ!

 さらに―バンッ!

 すると、心電計は「ピ、ピ、ピ」という電子音を心臓の鼓動に合せて発し、光の波を描き始めた。医師たちは安堵した。沢木は蘇ったのだ。


 手術室の出入り口の前を行ったり来たりしながら数十分間を過ごしていた渡辺に、手術室から出て来た医師はこう告げた。助かりましたよ、と。

 秋山が自分の車で白石邸に到着したのは午前十二時二十五分のことだった。既に渡辺からの報告を受けていた白石は、沢木が死の瀬戸際から生還したことを彼女に告げた。しかし、沢木の顔を見ないことにはどうにも安心できない秋山は、取って返すように病院へと向かった。

 その後、片山、岡林、松下、桑原の四人も順を追って白石邸に到着し、沢木までもが危機に陥ったことを知りおののきの悲鳴をあげた。そして、人美の部屋の割れたガラス、床に滴り落ちた彩香の鮮血、それらを見て平常では考えられない出来事が起こったのだと確信し、恐怖した。

 こうして慌ただしい夜は明けていった。沢木は死の縁から生還し、彩香は傷つき、人美は親友を心配しつつも、自分には何か得体の知れない力があるのでは、といぶかしんでいた。渡辺は惨憺たる光景を一晩に何度も垣間見て、精神的疲労感に包まれ、また、沢木組の面々も、白石邸に集まりはしたものの、なす術もなく時が過ぎることにいらだちを感じ、状況を整理し分析するどころの状態ではなかった。一方、秋山は沢木の意識が戻り、戸惑う自分を力強く導いてくれることを期待し、彼が眠るベットの横で一夜を過ごした。

 後に沢木により〈ブラッド・アンド・サンダー〉と名づけられたこの壮絶な一夜は、人美のパワーが恐ろしいまでのサイ現象を引き起こすことを裏づける決定的事件となったのだが、完全なる力の開放を間近に控えた人美の真の力から比べれば、まだほんの小さな力でしかなかった。




 徐々に光が差し込んできた。少しずつ、また少しずつ、彼はまぶたを開けていった。後ろ姿の女がおぼろげに見える―シニヨンと白いリボン。沢木はやっと悪夢から開放されたことを知った。そして、安堵の気持ちとともに再びまぶたを閉じ、安らかな眠りについた。

 秋山は沢木の眠るベットの横で、花束を花瓶に挿していた。そして、それを沢木の枕元に置くと、彼の額に慈しむように手を当てながら、優しくささやいた。

「沢木さん、お大事に」

 彼女はそう言った後、病室を出ようと一歩足を踏み出した。と、その時、彼女の手を握るぬくもりがあった。彼女は沢木のほうに向き直り言った。

「沢木さん?」

 沢木は眠っていた。しかし、その手は秋山の手をしっかりと握り締めていた。彼女はもう片方の手で彼の手を包み込み、ベットの横の椅子に腰掛け、ずっと見守っていてあげよう、と思った。

 ―数時間の後、沢木は再び目を覚ました。彼の右手は柔らかく温かな感触に包まれていた。そして、ほのかに香るシニヨンと白いリボンの香り。見ると、秋山は沢木が横になるベットに顔を突っ伏して眠っていた。

 かわいい人だ

 沢木はそう心の中でつぶやくと、点滴の管がつながれた左手の人差し指で白いリボンをはじいた。「ふわぁー」と大きなかわいらしいあくびをしながら目覚めた秋山は、「あっ!」と目の前にある沢木の顔に驚きながら、慌てて大きく開いた口を手で覆った。沢木が笑みを浮かべ、か細い声で「おはよう」とささやくと、秋山はほっとして笑みを浮かべた。だ

が、笑顔は長続きせずに泣き顔へと変化し、彼女は涙ぐみながら沢木の手を頬に当てた。彼の手の甲にはひと滴の冷たくも温かな水滴が流れた。

「よかった、本当によかったぁ」




 こうして沢木が意識を取り戻した八月十七日、木曜日の午後一時過ぎ、病室のベットに横たわる彩香は、軽い頭痛を感じながらも徐々に彼女本来の姿に戻りつつあった。顔の血色はよくなり、唇も愛らしいピンク色に染まってきた。そして、ベットに横たわりながら手鏡で自分の顔を映し、包帯に巻かれ頭の髪型を、盛んに気にするまでに精神も安定してきていた。午前中まで側についていた父と二人の姉、白石千寿子は既に帰宅し、母と人美の二人が彩香に付き添っていた。

 彩香は母に「ちょっと二人で話しがしたいんだけど」と言い、それを受けた母は外へと出て行った。

「人美、もっと側においでよ」

 病室の隅で小さく固まって座っていた人美に彩香は優しく声をかけた。人美はそれに従い、ベットのすぐ横の椅子に腰掛け不安げな表情で言った。

「彩香、大丈夫? 痛くない?」

「平気よ。このくらいの怪我なんて、大したことないわ」

「本当?」

「ええ」

「一体何があったの?」

「私にもよく分からない…… とにかく、見た事実だけを話すと……」

 彩香は自分が目撃したことを話して聞かせた。

「どうしてそんなことが!?」

「さあ? でも、一つの可能性としては―人美、あなたには何か特別な力があるのかも知れない」

 人美は一呼吸の間を開けてから言った。

「超能力とか?」

「そうかも知れない。昨日起こったことは普通のことでは説明できないもの」

「だとした、彩香が怪我をしたのは私のせい」

 彩香はかぶりを振りながら言った。

「そんなことないわよ、悪いほうにばかり考えちゃだめ」

「だって……」

「人美、“共時性”の話しだけどさあ、まんざら的外れでもないような気がしてきたの。そして、この不可思議な出来事の謎を解く鍵は、あの沢木さんという人にあると思うの」「会ってみるべき?」

「うん。そうすれば何か道が開けるんじゃないかなぁ」

「そうね、そうかもね」

 それは心細げな声音だった。

「人美、一人で平気?」

「ええ」

 彩香は人美の手をしっかりと握り締め、今言える精一杯の言葉を口にした。

「人美、しっかりね。勇気を出して」

「ありがとう、彩香」




 臨死状態から蘇生により蘇り、およそ十四時間に渡る意識喪失状態から目覚めばかりの沢木だったが、意識は徐々にしっかりとした状態へと回復していった。しかし、昨夜ベットに入ってから目覚めるまでの記憶は空白状態にあり、自分が現在いかなる状況に置かれているのかを、把握するまでには至っていなかった。だが、不安な気持ちはなかった。なぜなら、自分の手をしっかりと握り締め、頬の温かなぬくもりを伝えてくる女性―秋山の存在が、彼に深い安堵の気持ちを与えていたからだ。

 秋山は涙をハンカチでぬぐった後、沢木の意識が戻ったことを医師に伝えるべく、ナース・ステーションへとつながるインターホンのスイッチを押した。

 しばらくすると、沢木の蘇生を担当した外科医が看護婦を伴ってやって来て、彼の診察を開始した。秋山は気を利かせて病室を出ようとしたが、手を握り合う二人の姿を見た医師は、「どうぞ奥さん、側にいてあげてください」と彼女に言った。その言葉は秋山に戸惑いを与える一方、胸をときめかせるものでもあった。意識が回復したとはいえ、何らかの後遺症や精神的障害が危惧される状態にある沢木を目の前にして、自分は一体何を考えているのだろう。そんな思いがすぐさまその“ときめき”を打ち消したが、その時秋山は、この一瞬のときめきこそ、何にもまして自分の気持ちを素直に表しているという実感を覚えたのだった。愛してる―単純な言葉だが、しかしこれ以外に言葉はない。今まで想っていたようなある種のあこがれや夢、そうした幻想的なものではなく、実感としての愛情を、彼女はこの時初めて沢木に感じたのだった。

 医師は沢木に簡単な質問を始めた。

「話しはできますか?」

「ええ」と沢木は息のような声音で答えた。

「あなたのお名前は?」

「沢木聡」

「生年月日は?」

「六三年五月、二十五日」

「こちらにいる女性はどなたですか?」

「秋山さん」

 医師は自分の勘違いに気づいた。そして秋山に、「あっ、失礼。奥さんじゃないんですか。でも……」と、そこで言葉をやめにやりと笑った。秋山は無言でうつむいた。

 医師は質問を続けた。

「下の名前は?」

「美佐子さん」

「そうですか、お奇麗な人ですね。恋人ですか?」

 余計なことを言う医師の言葉に、秋山は火を吹きそうになった―恋人っ!

「同僚です」

 沢木の答えに秋山はがっかりした。しかし、それが事実だから仕方がない。でも、沢木さんは私のことをどう思っているのだろう? 彼女の思考回路は混沌としていた。

「そうですか、意識ははっきりしているようですね。ところで、昨夜何があったか覚えてますか?」

「いいえ、覚えてない……」

 医師は交通事故に遭って病院に運ばれたこと、危機的状態から蘇生により蘇ったこと、怪我の状態などを沢木に話して聞かせた。沢木はその説明を受けながら、医師の胸元でキラリと反射している聴診器、海から吹く強い風によりガタガタと音を発する窓ガラス、これらから車のサーチライトや寝室のガラスが割れたことなどを断片的に思い出していった。 医師はさらにこう続けた。

「実に不可解なんですよ、あなたが病院に運び込まれた時の容体は。まず、車に跳ね飛ばされたにも関わらず、それにより負ったと思われる外傷は右大腿部の打撲のみで、CTスキャンやレントゲンによる検査でも、骨や内臓器、脳の損傷は全くありません。唯一外出血を伴う外傷は、何とも不可解なガラスの傷のみ。少々深めの傷ですが、さほど長くはかからず完治するでしょう。まあ、そんな容体なのですが―つまり、心臓が停止するような状態とは思えないのですが、あなたの心臓は停止し蘇生を要した。これは非常に―いや、何とも奇妙でして―まあ、事故のショックからということもあるのかも知れませんが、何ともはや、実に不可解です……」

 医師は説明の最中でいくつかの質問を沢木に浴びせたが、彼の答えは首を横に振るか「記憶にない」の一言だった。医師はいぶかしんだようすをみせながらも、質問が尽きたところで病室を後にした。

 この時、既に沢木の断片的な記憶は全体像を知ることができるまでに復活していた。そして、彼の思考回路も徐々に本来の性能に戻りつつあった。

 沢木は秋山に言った。

「僕の家の寝室の状態を見て来て欲しい」

 これに応じるまでもなく、秋山は渡辺からの報告を聞いていた。

「既に渡辺さんが立ち寄っています。寝室の窓ガラスが割れて、部屋の中もかなりの散らかりようだったそうです」

 沢木は天井を見つめながら「そう」と一言言い、そして思った。

 人美だろう、きっと。手加減してくれたようだ

 秋山は沢木に何があったのかを尋ねたかったし、昨夜の白石邸での出来事も話したかった。だが、今に見て取れる沢木の状態は、それに耐えうるものではないと判断し、ひとまず白石邸に戻り、沢木の状態を皆に報告する一方、今後をどう対応するかを検討しようと考えた。

「私は一旦みんなのところに戻ります。沢木さんの無事を報告しないと。それと、自宅のほうの後片づけもしておきますから。夕方にはまた来ます」

 秋山はそう言い、沢木のか細い「ありがとう」という返事を聞くと、彼とつないでいた手をそっと放し病室を出て行った。

 沢木は誰もいなくなった一人部屋の病室で、昨夜の悪夢を最初から順番に思い出していった。

 なんて夢だろう。でも、見事だった。あそこまで俺の潜在的な恐怖を引き出すなんて。もう怖いものなど何もないと思っていたのに

 そして、今は亡きかつての婚約者、水野美和のことを想い始めた。


 沢木は自分の隣に座る少女のことを、とてもかわいらしい人だと思っていた。この時、高校二年だった沢木は、四月の進級時に同じクラスになり、隣の席に座ることとなった水野美和という少女に恋していた。シャイな沢木は、既に“彼女”がいる友人たちのように振る舞うことができず、自分の気持ちをどう伝えたらよいのかと悩んでいた。

 ある五月の放課後、沢木は教室に一人残り、友人から頼まれた作業を行っていた。その作業とは、エレクトリック・ギターのピックアップを交換することだった。機械や電気の知識に長けている彼は、この種の作業をよく友人たちから依頼されていた。今日のようにピックアップを交換することやエフェクター(楽器の音にさまざまな効果を加える音響機器)の製作、あるいはバイクの修理や改造など、こうした技術を有する彼は、ロック少年やバイク少年たちからちょっとしたヒーローとして崇められていた。

 ハンダごてを片手に持ち、ピックアップから伸びるリード線をハンダ付けしていると、沢木に語りかける声があった。

「何してるの?」

 手元から顔を上げると、そこにいたのは美和だった。教室の窓から差し込む午後の陽光は美和を背後から照らし、沢木の目には逆光の中に浮かぶ彼女のシルエットが映し出されていた。光の中にたたずむ少女―それはとても美しい光景であり、美和の持つかわいらしさをより美しいものへと演出していた。ポニーテールの髪型、くりっとした二重の瞳、細くとがった顎、華奢な身体つき。沢木はしばしその光景に目と心を奪われた。

「修理?」

 その問いに我を取り戻した。

「えっ! ああ、ピックアップを交換してるんだ」

「それって、なーに?」

「弦の振動を拾うんだ。つまり、マイクみたいなものだよ」

「んんー」

 美和は感心したような素振りをみせ言葉を続けた。

「沢木君って、そういうこと得意なんだってね。友達が言ってたよ、修理や改造でひと財産築いたって」

 沢木は照れ笑いをしながら答えた。

「そんなでもないよ。でも、バイトをしなくても小遣いに困らないくらいは稼いでる」

 それを受けた美和はにこりと微笑みながら、沢木の横の椅子に腰掛けた。

 日の光が徐々に赤色に染まり始めた二人だけの教室で、沢木は作業を続けながら美和との時を楽しんだ。今までにも話しをしたことは何度かあった二人だが、会話らしい会話はこれが初めてだった。そして、沢木の仕事に対する苦情―ギター少年は言った。「おい、音が出ねえぞっ!」―が初めてきたのは、この次の日のことだった。

 こうして二人の恋の物語は始まった。この日を境に二人の会話は日を追うごとに多くなり、また、二人そろって帰宅することも多くなっていった。

 美和は帰宅の途中に沢木の家に度々立ち寄り、彼にピアノのレッスンを行った。彼女は幼いころからピアノを習っていて、その腕前はかなりのものだった。一方、沢木も音楽や演奏への興味は深く、家にあるピアノで独学ながら演奏を楽しんでいた。美和は、そんな沢木に正しい運指やペダリングの技術、音楽理論などを手解きしていたのだ。

 二人を結びつけるものはピアノのほかにもう一つあった。それは、飛行機―

 エジソンもどきの少年時代を過ごしてきた沢木のこの当時の夢は、自分一人の手で飛行機を造りあげ、大空を飛ぶことだった。彼はハングライダーと廃車になったスクーターのエンジンをもとにして、その夢をかなえるべく試行錯誤を繰り返していた。

 ある日、沢木は自分の飛行機を美和に披露した。それは、父が営む沢木自動車修理工場の片隅に置かれていた。

「これが沢木君の作ってる飛行機?」

「そう」

「凄いね。もう飛ばしてみたの?」

「いや、まだなんだ。この辺じゃ場所がないし…… もう少し勉強して工夫しないと、飛べないと思うんだ」

 そして彼はこう続けた。

「それにね、これを二人乗りに設計変更しようと思ってるんだ。君と一緒に飛べたらいいなぁと思って……」

 美和は満面に笑みを浮かべて答えた。

「沢木君と空の散歩かぁ……? 素敵ね。でも、私は十分な安全性が確かめられてからにするわ」

 美和は沢木をからかった。しかし、彼女自身が後に沢木に語ったところによると、この言葉が何より彼女の心を掴んだそうだ。豊かな創造力と夢を持つ沢木に、美和は共感と親しみを覚え、それは愛情へと変化していったのだ。

 そして、三カ月の月日が流れた一九八〇年の夏は、二人にとって忘れられない思い出となった。幾度かのテスト飛行の末、遂にフライトらしいフライトに成功した沢木は、いよいよ美和とのフライトを決行し、そして夢を一つ実現した。

 飛びながら沢木は美和に言った。

「僕は君といつまでも飛んでいたい」

 美和は答えた。

「ええ、私も」

 それは僅か三分間のフライトだったが、この時二人は永遠のフライトを誓い合ったのだ。 二人が出会ってから別れが訪れるまでの間には、いくつかのエピソードがあったが、最も大きなものは沢木の父が亡くなったことだろう。彼は父から多くのことを学んだが、最も感謝していることは、父の与えてくれた環境により、創造することの喜びと有意義さを知ることができたことである。

 彼は父の死を悲しむ中で、大学進学を断念し父の工場を継ぐことを考えた。だが、その考えを美和に言った時、彼女はこう答えた。

「私、聡君にはもっと大きな舞台で活躍して欲しい。聡君にはそれだけの素質があるもの。夢はあきらめないで欲しい」

 そう願ったのは彼女だけではなかった。母も、姉も、そして、父の片腕として沢木自動車修理工場を支えた柏木という初老の男も、彼が大学に進学し、専門的かつ高度な教育を受けるべきだと主張した。彼はそうした周囲の励ましのもと、父の死のショックから立ち直り、その翌年の春、東京工業大学に合格した。一方、美和も自分の夢をかなえるべく、音楽大学へと進学した。

 沢木の創造者としての非凡な能力は大学時代に頭角を現し出し、後にEFC論理へと発展する基礎理論をこの時既に構築していた。また、その成果は口コミを通じていくつかの企業や研究機関に伝わり、これを聞き及んだ当時相模重工社長の白石功三は、沢木獲得を人事部長に指示していた。

「相模重工!」

 沢木の話しを聞いた美和は驚きの声をあげた。

「相模重工って、あの相模重工!?」

「そう。相模には相模総合研究所っていう部署があるんだけど、そこへ来ないかって」

「すごーい! 相模重工っていったら日本最大手の重工業メーカーでしょう」

「うん。飛行機、船舶、ロボットに建設機械、宇宙開発にも参入してる」

「聡の夢をかなえるにはもってこいの環境じゃない」

 相模重工人事部長じきじきの誘いを受けた沢木と美和の最初の会話がこれだった。しかし、美和はもう一度驚くことになる。沢木の恩師の一人といえる大学教授が、MITへの留学の話しを持って来たのだ。

「MITって、マサチューセッツ工科大学のことだよねぇ?」

「そう。教授が言うにはね、今は就職することよりも僕の論理を完成させることのほうが大切だって言うんだ。研究機関といえども相模総研は企業の一部所であるわけだし、そこには当然経済論理が働いてる。そういうところよりも、純粋に研究に専念できる環境のほうがいいだろうって。それに、MITで学んだとなれば技術者としても箔が付くし、将来の選択肢も増えるだろうってね」

「うーん、それもそうね。でもさぁ、相模重工にMITでしょう。聡の論理ってそんなに凄いの?」

「どうだろう? でも、これからの時代は制御システムの発達が、技術全体の発達に大きく影響してくると思うんだ。僕の頭の中にあるものが実現できれば、画期的であることは間違いないよ」

「経験を反映する、って奴ね」

 美和はそこでしばし考えた後、いたずらっぽく言った。

「凄いねー。そうなったら聡はにはたくさん仕事が来るだろうから、私にピアノをプレゼントしてね。スタインウェイのコンサート・グランドよ」

 沢木は笑いながら答えた。

「いいよ、約束するよ。でも、そのためにはアメリカに行かないと…… 美和としばらく離れ離れにならなきゃ……」

「そうね、それが問題ね。でもさあ、聡大事なことを忘れてるわよ」

「なあに?」

「だって、聡は英語しゃべれないじゃない」

 こんなやり取りの後、沢木は美和といろいろなことを話し合い、そして、世界最高峰の理工系教育機関、MITへの留学を決意し、英会話の猛勉強を開始した。

 アメリカへの旅立ちが一カ月後と迫ったある日、沢木はあることを心に決め美和を呼び出した。世田谷公園をふらふらと散歩しながら話しをし、今日起きたことをそれぞれが語り終えた後、二人は広場のベンチに腰掛けた。

 沢木は言った。

「スタインウェイのピアノだけどさ」

「ええ」

「あれだけのピアノなんだから、置く場所だって選ぶよね」

「そうね。専用の部屋かなんかあったら最高だね」

「うん。だからね、僕は頑張って家も建てるよ。そしたら、そこにスタインウェイを置いて、そして…… そして美和と一緒に住もうと思うんだ。ずっと、いつまでも」

 これが沢木のプロポーズの言葉だった。美和は笑みを浮かべながらも瞳を潤ませ、こう答えた。

「ピアノがなくったって、私は聡と一緒に暮らすわ。だって、聡の飛行機で飛んだあの夏に、私はあなたとずっと一緒に飛び続けると約束したもの」

 こうして二人の婚約は、一九八六年の三月に成立した。だが、運命の日はこの一年後にやって来たのだ。

 アメリカに渡ったばかりの沢木は、何より英語をマスターすることに追われていた。しかし、一年の月日が流れた時には、ほぼ言葉の障害は取り除かれていた。技術系の専門用語は元々英語のものが多いし、それに留学とはいっても、一般の学生たちのように授業を受けるといった形式のものではなく、人工知能分野で世界的に高名なマービン・ミンスキー氏の主宰する研究チームでの活動が主だった。そして、彼の論理も着々と具体化しつつあった。

 一九八七年四月。スタジオ・ミュージシャンとしてレコード会社と契約し、ピアノやシンセサイザーの演奏をする仕事―主にレコーディングで―をしていた美和は、沢木のもとへと遊びにやって来た。

 沢木が留学したMITは、アメリカ東海岸北部に位置するマサチューセッツ州のケンブリッジという街にある。州都ボストンとチャールズ川を挟んで隣接するケンブリッジは学術都市として知られ、MITのほか、アメリカで最も歴史の古いハーバード大学など、大小約六十校にものぼる大学が軒を連ねている。また、先端技術関連企業も実に七百社近く点在し、アメリカで最も進んだ学問と研究、技術開発が行われている地域といっても過言ではなかった。

 この当時沢木が住んでいたアパートは、チャールズ川河口付近の街、チャールズ・タウンという住宅街にあった。赤茶けた壁を持つ古びた五階建てアパートの住人は、沢木を含めそのほとんどが周辺の大学に通う学生たちで占められていた。そのアパートでの一週間に渡る美和との生活は、やがて訪れる夫婦としての生活を、より期待させるような幸福感に満ち溢れたものだった。

 沢木は美和の来訪に合わせて一週間の休みを取り、彼女と二人でボストンを毎日探索して回った。MITやハーバードのキャンパスを見学し、ダウン・タウンのクインシー・マーケットでのウィンドウ・ショッピングやストリート・パフォーマンスを楽しんだ。そして、アメリカの歴史を物語る数々の事物―オールド・サウス集会場、オールド・ノース教会、バンカーヒル記念碑など―を見て回った。

 美和がボストンという街で楽しみにしていたものは、ボストン交響楽団とボストン・ポップス(映画音楽で活躍している作曲家、ジョン・ウイリアムズが主宰する楽団)の公演を鑑賞することであった。ボストン・ポップスの人気は非常に高いため、チケットはなかなか手に入らないのだが、沢木と同じ研究室に属し、なおかつその筋にコネのあったアルバートの活躍により、彼は美和の望みをかなえてやることができた。念願かなった美和は終始笑みをたたえ、深い満足感を覚えるとともに創作欲を刺激され、「レコーディング・ミュージシャンでは終わらないわ」と沢木に何度も繰り返し夢を語った。

 こうして二人で過ごした最後の時は終わった。二人は再会を喜び、そして愛し合い、ボストンを探索する中でそれぞれの思いも新たにした。


 日本に向かっていた二機のジャンボジェット機は、太平洋上空を緯度にして一度の距離を置き並行に飛行していた。だが、この内の一機のINS(慣性航法装置)の入力データに誤りがあったため、二機は空中で接触してしまった。入力ミスを犯したほうの機はそのまま飛行を続け、ロサンゼルス空港に引き返すことができたが、もう一方の機は水平尾翼の片方と垂直尾翼を破損したために、太平洋に墜落した。

 ダメージを受けたジャンボジェット機の機長は、自機がコントロール不能であることを知ると同時に国際救助信号を発する装置のスイッチを入れた。この信号を最初にとらえたのはアメリカの軍事衛星ネプチューンだった。ただちに近海を移動中のアメリカ海軍第七艦隊所属の機動部隊(航空母艦を軸に二隻の巡洋艦で構成されていた)に救助命令が出されたが、航母から発進したヘリコプターが現場に到着した時には、ジャンボの破片が海を漂うのみであった。

 沢木の婚約者である水野美和は、海の藻くずとなったほうのジャンボジェット機に乗っていた。数日間に渡る捜索活動のかいもなく、彼女は行方不明者から死亡者へと変更された。

 沢木に事故の第一報が入ったのは、彼がMITの研究室で作業をしている時だった。ボストン・ポップスのチケットを取ってくれたアルバートが、泡を食って駆け込んで来たのだ。

「アル、冗談だろう」

 これが沢木の第一声だった。しかし、アルの表情は真実を雄弁に物語っており、それを見て取った沢木の脳裏には混沌とした感情が沸き起こった。

 アルがテレビをつける。すると、アナウンサーは行方不明者のリストを読みあげていた。何人かの名が読みあげられた後、「ミワ・ミズノ」とアナウンサーは言った。沢木はただ呆然と、うつろな目でテレビの画面を眺めているのみだった。

 信じられない。美和は生きている! きっと助け出される

 沢木はかすかな望みを持っていた。しかし、その望みも虚しく、捜索活動は一週間後に打ち切られた。

 アパートのテレビでそのことを知った沢木は、夢遊病者のように街へと出て行った。チャールズ川に掛かるチャールズ・ブリッジを渡り、灰色の雲が立ち込める薄暗いボストンの街を歩き続けた。目に映るボストンは―摩天楼も、歴史ある教会も、行き交う人々も、今ではくすんで見えた。ついこの間までの活力や希望、夢、そんなものが街からも自分自身からも抜けてしまったかのようだ。そして、沢木はただ歩き続けた。

 日が沈み暗闇がボストンを包み始めていたころ、沢木はウォーター・フロント公園のベンチに海を眺めながら座っていた。しばらくすると、二人の警官が彼の前にやって来て、「どうかしたのかね?」と尋ねた。しかし、沢木は答えなかった。同じ質問を警官が繰り返す。彼は、どうもしません、と答えるつもりだった。だが、警官を見つめ、口を動かした途端、顎が激しく震え出し、顔はくしゃくしゃとなり、涙がとめどもなく溢れ出し、号泣した。これまで一滴の涙も見せなかった彼は、この時ついに崩れたのだ。警官たちはただ困惑し、彼を見続けていた。

 日本に戻った沢木は、亡骸のないまま行われた美和の葬儀に参列した。彼は葬儀の間中、誰とも口を利かなかった。美和の両親とも、美和の死をしのんで集まった高校時代の同級生たちとも、誰とも、一言も話しをしなかった。口を動かせばまた泣き崩れ、深い悲しみの谷底へと落ち、二度とは上がってこれないように思えたからだ。

 葬儀が終わると、沢木は真直に実家に帰った。そして、工場の片隅に置かれた、あの夏の日の思い出が詰まった飛行機の椅子に腰掛けた。いくつかの光景が彼の脳裏を駆け巡った。初めて会話をした放課後の教室、ピアノと飛行機、父が死んだ時の励ましの言葉、世田谷公園でのプロポーズ、ボストンでの一週間。沢木は思い出しながら微笑んだ。しかし、それらが過去のものであり、もう二度とはやって来ない時間だと知ると、彼は鼻をすすりながら涙をにじませ、静かに、静かに、ずっと泣き続けたのだった。

 沢木は美和を失った悲しみの中で、自らも死ぬことを考えた。二人の思い出の飛行機に乗り、ひたすら水平線を目指して飛び続け、いつか燃料が尽きた時、彼女と同じように海に落ちて死ぬことを考えたのだ。しかし、彼は死ねなかった。死を選ぶことは自分自身の夢を放棄することに等しい。今ここで自分が夢を諦めてしまうことは、彼女との楽しかった過去を捨ててしまうように思え、なおかつ、彼女はそんなことを望みはしないだろうという想いが勝ったからだった。沢木はそう考え、美和の分までも生き、自分自身の夢を、そして美和との約束を果たそうと、ボストンへと引き返したのだった。

 絶望の中から己の生きる道を再認識した沢木は、ひたすら研究に没頭した。そして、ついにEFC論理は完成し、SFOSが誕生した。これを期に彼は世にいう地位と名声、さらは財産をも手に入れた。沢木のこうした活躍を端で見ていた人々は、彼はもう悲しみを乗り越えた、と思っていただろう。しかし、彼の心の片隅には八年という歳月をへた今も、美和の思い出が潜んでいた。普段は明るく振る舞う彼も、ふとしたきっかけで彼女のことを思い出し、ふうっと深い溜め息を吐く日々を送って来たのだ。そして、その度に美和を守れなかったという思いに無念さを抱くのだった。


 どのくらいの時間がたったのだろう―ベットに横たわりながら自分の過去を振り返っていた沢木は、来訪者により“現在”に呼び戻された。

「思ったより元気そうだな」

 その声は片山だった。時刻が午後五時を過ぎた今、白石邸での討議を終えた片山は、親友の身を案じて見舞いにやって来たのだった。

「とても一度死んだ人間には見えないよ」

 片山の言葉に、沢木は小さな笑みを返した。

「沢木、一体何があったんだ?」

 沢木は悪夢の一部始終を片山に話して聞かせた。聞き終わると、片山は悪夢のことでも人美のことでもない、こんな質問を口にした。

「お前は今でも水野さんのことを想っているのか?」

 尋ねられた者は深呼吸を一つ吐き答えた。

「ああ、そうだよ」

「そうか。それはそれで立派なことだと思うよ。水野さんもさぞや幸せだろう」

 片山は以前から沢木に言いたかった言葉を口にした。

「で、秋山のことはどうなんだ?」

「どう? って」

「好きなのか? 嫌いなのか?」

「そりゃ、好きさ」

「だったら! なぜ彼女に好きだと言ってやらないんだ。彼女の気持ちが分からないほど鈍感じゃないだろう」

「嫌なんだよ」

「何が?」

「愛する人を失うことだよ」

 片山は呆れた顔で答えた。

「随分悲観的なものの考え方だな」

 言われるまでもない、そんなことは沢木にもよく分かっていた。しかし、愛する人を失った時のあの虚無感を、もう二度とは味わいたくない。そんな想いが意識的とも無意識的ともつかぬうちに働き、これまで秋山に対して一定の距離を置いてきたのだ。

「なあ、沢木。それじゃあ、仮に今秋山が死んだらどうする?」

「ええ」

「お前にとって秋山は、既にかけがいのない存在なんじゃないのか? その気持ちを押さえ込み、失うのが怖いの何のと言ってみたってしょうがないじゃないか」

「……」

「もしも今、俺の彼女が死んだとしたら―そう考えれば沢木の気持ちも何となく分かるよ。でもなぁ沢木、俺は思うんだが、人間死んじまったらおしまいだろうが。水野さんのことをどんなに想ってみても、その人はもういない人なんだ。愛情とか、友情とかっていうものは、生きている人間にこそ注ぐべきものなんじゃないのか? 今を一緒に生きる人こそが、自分を想ってくれる人こそが、なにより惜しみない愛情の対象になるんじゃないか。沢木、そうは思わないか?」

 沢木は黙っていたが、その目は心なしか潤んでいるように片山には見えた。

「すまんなぁ沢木、勝手なことを言って」

「いや、君の言うとおりだよ。そうだね、生きてる人間にこそだね……」

 片山はその言葉を聞くと、病室を静かに出て行った。そして、病院の廊下を歩きながら思った。

 沢木、早く元気になれよ。お前を待ってるのは秋山だけじゃない。俺も、みんなも、そして、あの娘も待ってるんだから




 少女は唇を噛み締めながら海を眺めていた。海岸に流れ着いた大きな流木に腰掛け、自分の胸を抱き小さく丸くなり、水平線に向かってゆっくりと落ちていく太陽を眺めながら、物思いに浸っていた。

 男は、その少女を遠く離れた場所から見守りながら、やはり物思いに浸っていた。

 人はなぜ海に来るのだろう? 悩みや悲しみがあった時、海を見ながら一人時間を過ごすのはなぜなのだろう? 物語の中でこんなシーンはいくつもあるが、現実の人間もまたそんな行動をする。生命を生み出した巨大な母性は、悩める人間たちを包み込むだけの慈悲を持っているのだろうか?

 今、人美と渡辺は夕暮れ迫る葉山の大浜海岸にいた。

「沢木さんかぁ」

 人美は溜め息のようなつぶやきを漏らした。

 沢木さん、あなたはどうして夢に出てきたの? 私にあるかも知れない力と関係があるの? でも、ほんと? そんな力があるなんて?

 太陽から視線を下に移すと、砂に半分埋もれたコーラの空き缶が光っていた。

 ものを浮かべたりガラスを割ることができるんだったら、コーラの缶ぐらいつぶせるよね

 人美はそう思い、「つぶれろ」と缶を見つめながら念じた。しかし、何の反応もなかった。

「ばっかみたい」

 そんなわけないよ。私が超能力者なんて

 人美はすくっと立ち上がり、白石邸に戻ろうと歩き始めた。が、その時、後ろで「キュキュキュキュキュッ」という音が聞こえた。振り返ると―

「つぶれてる」

 人美の心臓は高鳴り、全身に鳥肌が立った。

「そんなぁ、こんなのって……」

 辺りを見回し別の缶を探した。そして、今度はビールの空き缶を両手の手のひらに載せ、再び念じた。

 反応は早かった。缶はみるみるつぶれ、彼女の手のひらですっぽりと覆えるほどの大きさにまで小さくなった。

 私は…… 私は一体何なの!?

 渡辺は思わず双眼鏡を足元に落とした。

 とうとう、自分の力に気がついたか


 秋山は白石邸に集まった沢木組の面々との討議―といっても大した話し合いはなく、参加したそれぞれの人間の憶測が空転するだけだった―を終えた後、沢木の家へと出向いた。

 家には午前中に見舞いに来ていた沢木の母がいた。荒れ果てた寝室は既に奇麗に片付けられ、割れた窓ガラスも白石会長の手配により新しいものがはめられていた。

 秋山は寝室に置かれた机の上に、一枚の写真を見つけた。それを手に持ち見つめていると、沢木の母が話しかけてきた。

「聡は、まだそんな写真を持ってたんですね」

「どなたですか、この女性は?」

「聡の婚約者だった人です。もう、八年も前に亡くなりました」

 えっ! そんな人が

「どうしてお亡くなりに?」

「飛行機事故です。大きな事故でしたぁ、たくさんの方が亡くなって……」

「そうですか。沢木さんにはそんな過去が……」

 秋山は謎が解けたような気がした。沢木が過去の恋愛に関することを話したがらないこと、時々ぼうっと物思いに耽っていること、自分との距離を今以上に近づけようとしないこと。きっと、きっと今でもこの人のことを想っているのだろう。

 秋山はそう思うと、沢木の顔を見たくてたまらなくなり、再び病院へと向かった。

 彼女が病室のドアを開けると、沢木はベットの上に腰掛けながら、窓の外に広がる夕焼けを眺めていた。

 秋山は沢木の側に歩み寄って尋ねた。

「起きてて、平気ですか?」

 沢木は秋山に向き直り、「んん、大丈夫だよ」と答えた。彼のそれは、思いもよらぬにこやかな表情だった。秋山はその笑顔に答えるかのように言った。

「奇麗な夕日ですね」

「んん」と返事をした後、沢木は再び夕日に目を移し、「秋山さん」と切り出した。

「何です」

 しばしの暇があった。

「ああ、いや、何でもない。今度にするよ」

 秋山には沢木が何を言おうとしたのか分からなかった。しかし、「はい」と一言返事をした。

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