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第2章 エクスプロラトリー・ビヘイビア ~ Exploratory Behavior

 八月七日、月曜日。人美が白石会長宅に入居する日がやって来た。

 人美は両親の旅立ちを見送るために、成田空港の第二旅客ターミナルビルにやって来ていた。彼女の両親は、午後三時三十分発マレーシア航空九三便にて、ロサンゼルスへと旅立つのだった。所要時間は約十一時間。そして、旅のパートナーを務めるのは、ボーイング747400S、SFOSを実装した機体である。

 時刻は午後二時を少し回ったところ。見山一家はターミナルビル内のとんかつ屋で、遅い昼食をとっていた。

 哲司は噛み砕いた食べ物を、お茶で喉の奥に流し込んだ後につぶやいた。

「いまさら言うのも何だが、やはり人美も連れて行くべきだったかな」

「なーに言ってるのよー、ほんとにいまさらね」

 人美はそう言った後に、とんかつを口にほうり込んだ。そして、屈託のない笑顔で口をもぐもぐ―

 母、泰恵が言った。

「人美の言うとおりですよ、あなた。それに、高校はきちんと卒業するべきだと言ったのはあなたじゃないですか。今はもう、人美を信頼してさえいればいいんですよ」

「そうだな、確かにそうだ」

 哲司は心の中で続けた。

 そして、白石夫妻と、あの沢木という男を信頼するしか……

「お父さん。私はしばらくの間、お父さんやお母さんと離れることになるけれど、彩香や白石のおじさんやおばさんもいるし、決して一人じゃない。それに、私、心配をかけるようなことはしないわ。だから、安心して行って来てちょうだい」

 人美は何も案ずることがなかった。むしろ、初めて親元を離れて生活することへの期待に、胸を膨らましていた。

「まったく人美ったら、ちょっとぐらいさびしがってくれたっていいんじゃないの」

 泰恵がおどけた口調でそう言うと、母と娘は笑った。それは、まったくもって明るい平和な家庭の一場面として、他人の目には映ったことであろう。しかし、哲司の脳裏には、その二人の笑い声、人美の輝く瞳、娘を信頼しきっている妻の笑顔、それらが自分だけが知っていることへの当てつけのように思えた。

 俺だって人美を信じてるさ。でも、人美…… いや、それを考えるのはやめよう

 哲司の脳裏に今度は沢木の顔が浮かんだ。

「どうしたの、お父さん」

「んっ、いやぁ、何でもない。お前はしっかりした子だからな、いまさら心配することなんてないな」

「うん! そのとおりよ」

 心配ない、心配なんてすることない。心配なんか……

 哲司は人美にぎこちない笑みを見せながら、胸の奥に何か異物を詰められたような圧迫感を感じていた。




「出て来ました」

 ガラス張りの壁の向こうに見える、駐機中の旅客機を眺めていた渡辺は、その声に振り返った。その声の主は渡辺の部下の一人、進藤章であった。

 進藤は二十八歳の見た目は精悍な男であったが、実際の彼はやや精神的に弱いところがあった。彼がSOPに採用されなかったのも、おそらくその辺なのだろうと渡辺は思っていた。彼の身長は一七五センチ、体格は中肉で、灰色のスーツを着込んだそのこざっぱりとした姿には、元機動隊員の匂いなど少しも漂ってはいなかった。

 そんな進藤と渡辺は、今朝、見山一家が自宅を出発した時点から、人美の監視を始めていた。

 とんかつ屋から出てきた見山一家は、エレベーターで階下に下り、出発ロビーへと向かった。渡辺たちは彼らの後を追う。

 見山哲司は旅客サービス施設利用料のチケットを自動販売機で二枚買い、そのうち一枚を妻に渡した。そして、一家三人のしばしの別れの儀式が始まった。

 出発ロビーの中央に据えつけられたたくさんのソファ群。その一つに腰を下ろして彼らを見つめていた渡辺は、この時初めて気がついた。人美のバックパックに、小さなスヌーピーが―それはキーホルダーだった―ぶら下がっていることを。

「スヌーピーね」

 渡辺はつぶやいた。



「それじゃ、先に行っているからね。くどいようだが、くれぐれも体に気をつけて、白石さんに迷惑をかけることのないように。いいね」

 哲司の言葉に人美は静かにうなずいた。

「人美、何かあったらすぐに連絡するのよ」

 人美は泰恵の言葉に答えた。

「うん、その時はそうする。お父さんとお母さんも、何かあったらすぐに連絡するのよ」 人美の冗談めかしの言葉に、哲司は自分が励まされた気になった。

「秋には一度帰ってくるから、その時会うのをお互い楽しみにしよう」

「それじゃ、人美。しばらく会えないけど元気でね」

「うん。お父さんも、お母さんも」

 見山夫婦は出国審査カウンターに向かって歩き、その前まで着いた時に後ろを振り返った。そして、二人そろって人美に向かい大きく手を振った。人美も両手を一杯に伸ばし、思いっ切り手を振った。

 人美の両親は旅だった。それは人美の旅立ち―親元を離れての新しい生活への旅立ちをも意味していた。そして、沢木たちにとっても……




 葉山の本部で待機している沢木たちのもとへ、渡辺からの電話連絡が入った。その声はスピーカーで皆が聞けるようになっていて、こちら側で発せられたすべての声は、マイクを通して相手に聞こえるようにもなっていた。

「今、両親と別れたところです、引き続き監視します。ところでコードネームのことですが、スヌーピーはどうでしょう」

 まさか渡辺の口からスヌーピーなどという言葉が出てくるとは思ってもいなかった沢木たちは、思わず笑ってしまった。

 昨日、沢木たちは今日に備えての最終的な打ち合わせをした。その時、渡辺から出された提案は、電話及び無線での通話の際に、“人美”などの固有名詞を出さないほうが機密保持に適し、それらはコードネームで呼んだほうがいいだろう、ということであった。

 沢木たちが今回使用する携帯電話機及び無線機には、特製の周波数変調装置―それは沢木組で作られたもの―がつけられているので、万が一盗聴されても、「ピーガラガラガラ」という、周波数変調独特の信号音が聞こえるだけなのだが、渡辺は念には念を入れたほうがいいと主張した。

 さまざまなネーミング案が出されたが、どれもぴったりとせず、その案は宙に浮いた形となっていた。

 沢木は笑みを浮かべながら尋ねた。

「どうしてスヌーピーなんですか?」

「目標のバックパックにぶら下がってるんですよ。スヌーピーが」

 秋山が楽しげに言った。

「それなら、スヌーピーを監視するのはウッドストック、こちらはチャーリーにしましょう」

 沢木は秋山にうなずきながら、渡辺に言った。

「よし、そうしましょう」

 渡辺が答えた。

「了解。チャーリーへ、ウッドストックは引き続きスヌーピーを監視する」

 秋山たちの間からまたしても笑いが漏れたが、沢木にはその笑い声がある種の歓声に聞こえた。エクスプロラトリー・ビヘイビア計画が開始されたことへの―





 人美は両親の姿が見えなくなった後、しばらくの間出発ロビーに設置された巨大な航空ダイヤの電光表示盤を眺めていたが、突然くるっと回れ右をして、意気揚々と歩き始めた。それはまるで―どんな困難でも克服してやろう、私の行く手には輝かしい未来が待っているのだから―とでも主張しているような、そんな威風堂々の行進だった。渡辺と進藤は人込みにうまく紛れ込みながら、その行進に続いた。

 第二旅客ターミナルビルの地下一階にある、JR空港第二ビル駅には、午後三時発の横須賀線直通逗子行きの快速電車、エアポート成田が待機していた。人美はそれに乗り込むと、四人掛けの対座席の窓側に、進行方向に向かって座った。

 逗子までの所要時間はおよそ二時間半ある。人美はこの間を、本を読んだり、新しい生活の構想を練ったりして過ごそうと思っていた。そのために、人美は二冊の本―それはイルカについて書かれたものと、彩香が面白いといって貸してくれた小説だった―を用意していた。

 電車が発車してからしばらくの間は、車窓から見える外の景色を眺めていた。すると、ジャンボジェット機が人美の真上を飛んで行く姿が飛び込んできた。「うわぁー」と小さな歓声を漏らし、初めて見るジャンボの真下からのアングルに心を躍らせた。彼女の感受性は、見聞きするあらゆるものに反応するのだった。

 ややあって、人美は彩香ご推薦の小説を読み始めた。しかし、うとうと―

 車窓から差し込む夏の陽光と、クーラーから吹き出す冷たい風は、絶妙のハーモニーとなって人美を睡魔に導いた。


 人美はマウンテン・バイクに乗り、海岸沿いの道を走っていた。舗装されていない土の道の右側には海と砂浜が、左側には森があった。

 突然、どこからともなく―

「あー急がし急がし、早くしないと遅れちゃうよー!」という声が聞こえてきた。人美は辺りを見回した。すると、海の上をジャンプしながら凄い勢いで泳ぐイルカの姿があった。「そんなバカなぁ」

 人美はそうつぶやいた。なぜなら、そのイルカは赤いチョッキを着て、大きな懐中時計をせびれからぶら下げていたからだ。

「急がないと、急がないとー。急がないと遅れちゃうー!」

「待って! イルカさーん! 何でそんなに急いでるのー!」

 イルカはちらっと人美を見たが、返事もせずにさらに加速した。

 よーし、後をつけてみよう

 人美はマウンテン・バイクのギアをトップに入れ、最大スピードでイルカを追った。

 イルカと人美の競争がしばらく続くと、前方には砂浜に突き出た絶壁が出現し、その波打ち際には洞窟が見えはじめた。イルカはその中へと入って行った。人美も後に続いた。「よーし、もう少しで追いつくぞ!」と人美が言った瞬間、イルカの姿がすっと消えた。「あれっ」と声を漏らすと、突然ペダルが軽くなった。そして浮遊感―「わぁー!」人美は穴の中に落ちて行った。

 気がつくとそこは、イルカの人々が行き交う町の中だった。

 ああ、なんてことなの。ここは、ここは―そう、イルカの国だわぁ。でもこんな話し、どっかで聞いたことある。えーと、えーと―そうだ! 不思議の国のアリスだ!ふふっ、それならきっとこれはイルカの国の人美ね

 人美はそんなことを考えながら一人笑っていた。すると―

「お嬢さん、何がそんなにおかしいのかね」

 一頭のイルカが尋ねてきた。

「だって、イルカの国の人美なんですもの」

「これこれ、間違ったことを言うではない。それを言うなら不思議の国のイルカだぞい」

「イルカ?」

「そうじゃ。イルカがお嬢さんのような生き物のいる世界に迷い込むお話ぞい」

 人美はくすくすと笑った。

「ところであなたの名前は何ていうの?」

「イルカじゃ」

「それは分かってるわ。名前よ、名前、あなたのな・ま・え」

「だからそれがイルカじゃ」

 そこへもう一頭のイルカが通りかかった。

「こんにちは、イルカさん」

「よう、イルカ君、元気かね」

「おかげさまで元気です」

「ほう、それはなにより。奥さんや子供たちも元気かね」

「ええ。妻のイルカも、娘のイルカたちもいたって元気です」

 人美は首をひねりながらその会話を聞いていた。ややあって、通りがかりのイルカが去って行った後に人美は尋ねた。

「ここのイルカたちはみんながみんなイルカという名前なの?」

「そうじゃよ」

「それでよく混乱しないわね」

「何を混乱するのじゃ。イルカはイルカ、イルカ以上でもなくイルカ以下でもない、あくまでもイルカじゃ」

 人美は声を出して笑った。

「ははははぁ。そうね、あなた―いえ、イルカさんの言うことはもっともだわ」

「ところでお嬢さん、お主は何の用でここへ参られた」

 人美は追いかけていたイルカのことを思い出した。

「あっ、そうそう、私はイルカを追っていたの。赤いチョッキを着て、大きな懐中時計を下げたイルカよ」

 すると、またあの声が聞こえてきた。

「あー急がし急がし、早くしないと遅れちゃうよー!」

 赤チョッキのイルカは、猛然と人美たちの横を通り過ぎて行った。

「私、行かないと。イルカさん、さようなら」

「おい、おい、待ちなされ。行くのは危ないぞ」

 イルカの制止の声も聞かずに、人美は赤チョッキイルカの後を追って走った。

 原っぱの中にたたずむ赤チョッキイルカにようやく追い着くと、人美は尋ねた。

「ねえねえ、赤チョッキのイルカさん。なぜあんなに急いでいたの?」

「これから僕は決闘をするんだ」

「決闘?」

「そうだ。僕らの町を侵略しようとするサメ族の戦士と、一対一の真剣勝負だ」

 赤チョッキのイルカは胸を張って答えた。すると、三頭のサメが現れた。

「卑怯者! 一対一の勝負のはずだぞ!」

 赤チョッキイルカはサメ戦士に向かって叫んだ。

「へへへへ、戦いというのはなぁ、勝ちゃいいんだよ」

 三頭のサメはほくそ笑んだ。人美はイルカに言った。

「大丈夫よ、私も闘うわ」

「君が?」

 見つめ合う人美とイルカには、それ以上の言葉は必要なかった。

 やがて戦いが始まり、幾時間かが過ぎた後―

「畜生、覚えてやがれ」

 頭に絆創膏をつけたサメ戦士は、負け惜しみを言いながらも後退りしていた。「なによ!」と人美が一歩足を前に踏み出すと、サメたちは尻尾を巻いて逃げて行った。人美と赤チョッキイルカは勝ちどきをあげた―

 気がつくと、そこはイルカの女王陛下の前だった。女王陛下が言った。

「皆の者、よく聞け。ここにいる赤チョッキのイルカと、人美という人間の勇気ある働きにより、我らの国に再び平和が訪れた。私は、この二人の勇気をたたえるとともに、国民を代表し、そなたたちに感謝の意を表するものである」

 人美の後ろにいるたくさんのイルカたちから大歓声が沸き起こった。そして、イルカのオーケストラによって『威風堂々』が演奏された。

 女王陛下が人美に小さな声で言った。

「お主、何か持っていないか?」

 人美は戸惑いながらもジーンズのポケットの中を探った。

「こんなものしかありませんけど」

 それはくしゃくしゃになった、二枚のブルーベリー・ガムだった。女王陛下はそれを取ると、今度は大声で言った。

「今ここに、二人の勇気をたたえ、ブルーベリー・ガムを進呈する」

 赤チョッキのイルカが深々と頭を下げながらそれを受け取った。人美もそれに習った。そして、二人は回れ右をして、観衆のほうを向いた。

 目の前にいる何万ものイルカの群衆が、人美たちに熱い拍手と歓喜の声を送った。それは人美の頭にこだまし、深い感動を誘った。

 拍手と歓声はなおも続く―


 旅の出だしは実にあっけなかった。人美が眠りから覚めると、電車は北鎌倉の駅を出るところだった。

 なんだぁ、寝ちゃったんだぁ

 がっくりきた。しかし、旅立ちの第一歩など、案外あっけないものかも知れない―

「イルカの国の人美かぁ…… ふふふふっ」

 人美は思い出し笑いを浮かべながら、不本意な旅の出だしを、楽しい夢を見たことで帳消しにした。




 そのころ、吹き出る汗をハンカチでぬぐいながら、海水浴場を歩く男の姿があった。その男はスーツの上着を肩に引っ掛け、折り目のないズボンを履いた冴えない中年男だった。 彼の名前は相馬雄介、渡辺の部下の一人である。彼は今、三戸海岸で溺死した男たちの足取りを探るべく、地道な聞き込み調査をしているところだった。これまでの調べで、溺死した男たちの車には、濡れた水着があったことが分かっている。ということは、どこかの海水浴場に立ち寄った、と予想できる。彼は男たちの残したわずかな手がかり(衣笠インター、ファミリー・レストラン、コンビニの各領収書)と顔写真をもとに、その足取りを調査していたのだ。それは、五十二歳という年齢の彼には、決して楽とはいえない仕事だった。

「畜生、よりによって何でこんなに暑いんだ。バカ野郎」

 彼はそう毒づきながらも、革靴を砂に汚しながら調査を続けた。

 相模重工情報管理室は現在十五名のスタッフにより運営されているが、創設当時は渡辺と相馬の二人しかいなかった。彼ら二人を相模に導いたのは、某政治家秘書を務める人物であった。政治家秘書は白石会長からの要請を受け、司法関係者から適性人物を選定し、これにより渡辺と相馬が相模に招かれたのである。渡辺は元SOPの精鋭、相馬は新宿警察署捜査四課の敏腕刑事だった。

 相馬は相模への誘いがある前に、既に警察を辞めていた。いや、辞めさせられたのだ。その成り行きはざっとこんなものだった。ある情報屋からの垂れ込みで、マンションの一室に出向く。そこには肌もあらわの女が一人いて、突然叫びながら彼に抱きつく。そこへカメラを持った男が入って来て写真を撮る。それが警察署へ送られる。彼は懲戒免職処分となった。相馬は、彼を敵視する香港マフィアの陰謀に、ものの見事にはまってしまったのだ。それは彼にとって一世一代の不覚であった。

 渡辺と相馬以外のスタッフは、その後彼らにより元警察官を中心に集められた。例えば進藤は、SOPを志願したものの、厳しい訓練の前に挫折し、国へ帰ろうとしたところを渡辺に声をかけられたのだ。




 午後五時二十五分。定刻より一分遅れて、人美を乗せた電車は逗子駅に到着した。ホームに降り立った人美は、「ふわぁー」とあくびとも背伸びともつかない動作をした後、改札口に向かって歩き始めた。

「あの娘、かわいいですよね。室長はどう思います」

 渡辺は進藤の顔を見たが、冷めた視線を送るとすぐに人美の後を追って歩き出した。

 まったく、どうしたらああいう無愛想な人間ができるんだか

 進藤はそう心の中でつぶやいた。

 渡辺たちが改札口を抜けると、人美は既に葉山行きのバス停の列に並んでいた。渡辺は改札口の横に立ち、ショートホープを一本取り出すとそれに火をつけた。そして、通話距離に入った無線機のマイクに向かい、沢木たちに逗子到着の連絡をした。

 数分後、人美が並んだ列の前にバスが止まり、彼女は一番後ろの席に座った。渡辺と進藤も、それぞれバスに乗り込む時間をずらして、素早く前側の席に座った。

 さらに数分が経過した後、人美と渡辺たちを乗せたバスは、黒々とした煙を噴き出しながら発車した。




「私は田宮さんの思想の共感し、できる限りの援助をしてきたつもりです。しかし、もう余裕がないのです。ご存じのように、相模の技術力は群を抜いています。私の会社よりも優れた製品を、より安く提供でき、さらに、政治力もかなりのものを持っています。このままいけば、相模にすべて食いつくされてしまいます」

 男は落胆の表情を浮かべ、溜め息混じりの声で胸の内を語った。

 白髭の老人は答えた。

「君らしくもない、そんな弱気でどうすんだ」

「私も努力はしています。開発部門への増資、営業の強化、それにリストラ―ですが、根本的なところで力が足りないのです。今日ではあらゆるものにマイクロプロセッサーが搭載され、ソフトウェアで制御されるのです。家電製品から軍需製品にいたるまで、何もかもすべてです。つまり、ソフトの開発技術がないメーカーに、未来などないのです」

「では君の会社はどうなる?」

「メカの技術は大手に負けない自信があります。しかし、ソフトの技術がない限り、いずれは下請けに成り下がってしまうでしょう……」

 男は「はぁ」っと深い溜め息をついた後に心の中でつぶやいた。

 あの時沢木を獲得できていれば……

「何とか挽回できんのかね? 君の会社は建設機械に強いはずだ」

「ええ。ですが、秋には相模の新製品が登場します……」

 白髭の老人は立ち上がると男に歩み寄り、肩を叩いて言った。

「君の言いたいことはよく分かった、私に任せなさい」




 午後六時を過ぎたころ、人美は葉山公園前停留所でバスを降りた。渡辺たちはバスを降りずにその場を離れ、それから先を交代要員に任せた。

 ウッドストックの任をこの先引き継ぐのは、渡辺の部下である森田雄二と篠原久美の二人だった。森田は四十一歳になる小太りの男で、元は厚生省の麻薬取締官。篠原は二十六歳になる小柄な女性で、元は科学警察研究所の研究員だった。

 脇道の路肩に駐車された、ガンメタリックパール塗装のサニー4ドアセダンから降りた森田は、人美との距離を約三〇メートルほどおいて歩き出した。サニーの運転席に座る篠原は、ゆっくりと車を動かし始めた。

 白石邸に行くには、バス通りである国道一三四号線から、細く急な坂道を登っていかなくてはならないが、人美の足取りは軽快で、急な坂道は大した障害ではないようだった。しかし、森田には息切れの原因となった。

 約一〇〇メートルも坂を登ると、人美の視界に白石邸が映り始めた。それは、青い空に栄える真っ白な壁とブルーの屋根を持つ、家というよりは西洋風のお屋敷という印象だった。お屋敷の周りは石壁で覆われ、その壁の上には人の背丈くらいの植木が透き間なく植えられていた。石壁を繰り抜くように造られた大きなガレージには、黒いベンツと白いシビックが駐車してあり、もう一台分のスペースには、人美のマウンテン・バイクが置かれていた。

 人美はガレージ脇の門に据え付けられたインターホンのスイッチを押した。

 居間のソファに腰を下ろして、今か今かと人美の到着を待っていた白石は、家政婦の橋爪から人美の来訪を知らされると、一目散に外へと飛び出した。

 バタバタバタというせわしない足音とともに、人美の前に白石が現れた。

「やあやあ、人美君。さあさあ、中にお入りなさい」

 白石はニコニコしながら門を開け、人美を中に通した。

 門を入るとすぐに石造りの階段があり、それを数段昇りきると、道路より一段高くなった前庭に出て、そこから真直一〇メートルほど歩くと、玄関にたどり着いた。

 白石は玄関のドアを開けるなり、家の中に向かって叫んだ。

「千寿子! 千寿子!」

「はいはい、そんなに大声を出さなくてもちゃんと聞こえてますよ」

 和服姿の千寿子が姿を見せた。そして、人美の姿を認めると、品のある笑みを浮かべながら歩み寄って来た。人美は白石夫婦に向かって言った。

「白石のおじさま、おばさま、しばらくご厄介になりますが、どうぞよろしくお願いします」

 人美はペコリとを頭を下げた。

 おじさまか、悪くないな

 そんなことを思いつつ白石が言った。

「今日からはここを我が家と思ってもらっていいぞ。何の遠慮もすることはない。どうせわしらはこの家では食べることと寝ることくらいしかせんからなぁ」

「ええ、そのとおりよ。私たちは人美さんが来てくれて、心から嬉しく思うわ。仲よくしましょうね」

 千寿子は優しく言った。

「ありがとうございます。おじさまも、おばさまも、私に何か問題があればすぐにおっしゃってください。すぐに改めるよう努力しますから」

「人美さんは本当によくできた子だわ。ねえ、あなた」

「ああ、そうだな。まあ、堅苦しいあいさつはこのぐらいにして―とにかく、楽しくやろうじゃないか。はははははは……」

 白石の豪快な笑い声にまみれて、黒のワンピースに白いエプロンをした二人の中年女性が現れた。千寿子が言った。

「このお二人は、家の中のことを面倒みてもらってる方たちで、こちらが橋爪京子さん、こららは紺野啓子さん。二人ともとっても楽しい人たちよ」

 人美は家政婦の二人と簡単なあいさつを済ませた後、千寿子に連れられて新しい生活の場を一通り見て回った。

 玄関の右側には十六畳もある大きな居間があり、少し高くなったダイニングルームへと階段でつながっている。ダイニングルームの床はフローリングで、カウンターを挟んで広々とした明るいキッチンへと続いている。また窓からは、日本庭園風の裏庭と、横庭にあるプールを眺めることができた。キッチンを抜けたその先の廊下には、バスルームやトイレがあり、家政婦たちの居室やピアノを置いた部屋に通じている。半地下室には立派なシステム・コンポと大きなテレビなどが置いてあり、それは和哉がホビールームとして使っていた部屋だった。階段から二階に上がると、二階を真直に突き抜ける長い廊下へと出る。二階には白石の書斎、白石夫婦の寝室、客間が数室あり、西側の一番端の角部屋が人美の部屋となる場所だった。人美の部屋の近くにはバスルームとトイレがあり、それらは今後、人美専用として使われることになる。


 白石邸の近くにサニーを止め、車中での監視に入った森田と篠原からの連絡により、沢木たちが動き出した。

「よし、システムのほうの準備はいいな」

 沢木は岡林に言った。

「はい、問題ありません」

「よーし、いよいよだ。サンプリングを開始しよう」

「了解」

 CRTの画面には、PPSがとらえた電磁波の波形が映し出されていた。それは秩序正しく揺らめいていたが、しばらくすると波形が乱れだした。

「部屋に入ったようだな」

 沢木はそう言うと、固唾を飲んで揺らめく光の線を見守った。


 部屋の真ん中に立った人美は「うわぁー」と声をあげて喜んだ。なぜなら、人美が前に見た時と、部屋の内装が一変していたからだ。

 人美は父と一緒に白石家へあいさつに訪れた時、一度だけこの部屋を見ているのだが、その時の印象は決してよいものではなかった。部屋の壁には染みが点々とあり薄気味悪く、元はアイボリーと思われる絨毯は茶色くくすんでいた。白石のおじさんは確かに改装しておくとは言っていたが、まさかここまで変わっているとは思わなかった。

 まず、床の絨毯は取り払われ、美しい木目のフローリングになっていた。壁は真っ白く塗装され、二つある出窓も木製のものからアルミ製のものに変えられていた。エアコンも据え付けられていたし、部屋の照明は無表情な蛍光灯から、おしゃれな白熱球のシャンデリアへと衣替えされていた。沢木組建築工学部門のスタッフの技術力は、少女を感動させるに十分過ぎるほどだった。

 この部屋は十二畳半もある大きな真四角の部屋で、入り口の正面北側の壁には一間(約一.八メートル)の横幅の出窓、その左側の壁には同じく一間幅の西向きの出窓があり、右側の壁には一間の押し入れと、三尺(約九〇.九センチ)の収納戸があった。そして、西向きの出窓からは、葉山の海と横庭のプールを眺めることができた。

 出窓を開け外の景色を興味津々と見渡す人美に千寿子が言った。

「ここからはね、とっても美しい夕日を眺めることができるのよ。富士山だって見えるんだから」

 だいぶ低くなった太陽を見ながら、人美は富士の裾野に沈んで行く太陽の姿を想像しながら言った。

「素敵な出窓ですねぇ」

「それから、下に見えるあのプール。人美さんのために奇麗にしておいたから、思う存分使ってちょうだいね」

「はい! ありがとうございます」

 人美の瞳はきらきらと輝いていた。千寿子は人美がそんな目をするのが嬉しくてたまらなかった。




 長者ケ崎―人美が降りたバス停の一つ先―でバスを降りた渡辺と進藤は、タクシーで本部へと戻って来た。二人は沢木らに初めて見た人美の感想を語り終えると、本社へと引きあげた。沢木は二人の感想を興味深く聞き入っていたが、中でも特に印象に残ったのは、渡辺のこんな言葉だった。

〈今日一日で私が見たものは、両親と楽しげに会話をする姿、軽快に歩く姿、かわいらしい仕草などです。それから思うに、彼女は一般的な女子高生とは違う―理由を聞かれても困るのですが、とにかく違う、ということを強く感じました。そして、もしも彼女にサイ・パワーなるものがあるのなら、彼女はそれに気づいていないような気がします。なぜなら、あの表情や雰囲気、明るさというのは、本物だという気がするからです。心に陰のある人間に、あんな雰囲気は出せませんよ、きっと……〉

 沢木は次ぎなる作業をしながら考えていた。

 違う、そう渡辺さんに思わせたものは何だろう? 確かに写真からでも彼女の独特の雰囲気は伝わってくる。少女の顔と女の顔、大人と子供の境目、そんな言葉がぴったりの顔立ちをしてる。そういうところなのか? それとも、内面からにじみ出てきているのだろうか? 特異な力を持つという内面から…… しかし、彼は人美さんが自分の力に気づいていないようだとも言った。あー、彼女に会ってみないなぁー

 リビングルームに置かれた折り畳み式の机の一つには、六台のCRTと、それに接続されたパソコンなどが載っていた。沢木はテプラでラベルを作り、そのCRTへ左から順に、PPS検知波、フーリエ分解後、抽出波、制御用、汎用1、汎用2、とラベルを貼り付けていった。このうち人美の脳波を示すものは、〈抽出波〉のラベルが貼られたCRTであるが、そこに映し出される波形は、波の形や大きさをひっきりなしに変えているだけであり、それはASMOSが学習を行っていることを示していた。

 ラベルを貼り終わり満足げな沢木のもとに、秋山が近寄って来て言った。

「相変わらず几帳面ですこと」

 言いながら彼女は沢木の横の回転椅子に座った。

「こうしないと落ち着かなくてね。やはり物事の基本は整理整頓だよ」

 秋山は「ふふっ」と笑った後に、〈抽出波〉のCRTを見ながら言った。

「振幅がだいぶ大きいですね」

 沢木はタバコに火をつけながら返事をした。

「んん、そうだね」

「でも、脳波の観測だけでは…… どうなのかしら?」

「まあ、僕らも一つ一つ経験を積んでいくしかないね」

「人美さんって、どんな娘なんでしょう?」

「興味ある?」

「沢木さんだってそうでしょう?」

「そうね、会ってみたいよ、彼女に直接。どんな話しかたをするのか? 何を考えているのか? 将来の夢は何なのか? そんなことをサイ・パワーの有無に関わらず、ぜひ知りたいね」

「随分お熱なんですね」

「まあね、若い人って、いいだろう」

「沢木さんには若すぎるわ」

「そういう意味じゃなくてさぁ。つまり、若いということは、僕らよりも多くの可能性を秘めている、ってことじゃない」

「ああ、そういう意味ですか」

「うん」

「私にはどんな可能性があるんだろう……」

 秋山は思った。

 沢木さんと結婚する、何て可能性、あるのかなぁ

 そしてつぶやいた。

「ないかなぁ」

「あるさぁ」

 沢木は元気よく答えた。

「本当!?」

「ああ。プロメテウスを契機に僕たち総合技術管理部も本格的に宇宙開発事業に進出する。そうなった時には君に活躍してもらわないとね。夢だったんでしょ? 宇宙が」

 何だぁ

 秋山はがっかりし、それを見て取った沢木は思った。

 嬉しく、ないのかなぁ

 秋山は気を取り直すかのように言った。

「ええ、楽しみだわ。でも、今の仕事に不満はありませんよ。何せ、世界でも屈指の技術者のアシスタントを務めてるんですから」

「誉め過ぎだよ」

 沢木はタバコの灰を落とした。

「ところで沢木さん。プロメテウスのほうが最近お留守になってますけど、いいんですか?」「そうね、あっちにも顔を出さないと。でも、スタッフはみんな有能だから、ちょっとぐらい僕がサボってたって大丈夫でしょう」

「のんきですね」

「忙し過ぎるのはよくないよ。創造力にかけてしまうからね」

「で、今は人美さんに夢中なわけですね」

「そういうこと」

 それからの一週間は特に変わったこともなく過ぎていった。そのことは沢木の手帳に次ぎのようにメモされていた。


   八月八日(火曜日)晴れ

   ○チャーリー担当 片山、岡林

    ASMOSに変化なし。

    人美は夕方海に散歩に出る。

    会長から電話あり(人美部屋の整理、見山氏から人美に国際電話)。


   八月九日(水曜日)晴れ

   ○C 秋山、松下

    ASMOSに変化なし。

    人美は一日中部屋の整理。ASMOSにとっては都合がいいが退屈だ。

    家政婦の橋爪が足を捻挫したとのこと。彼女のおてんばぶりを思えば、

    人美のせいではないだろう。

    秋山が夕食を作ってくれた。


   八月十日(木曜日)晴れ 暑い

   ○C 桑原、岡林

    抽出波に若干の変化あり、脳波成分を理解し始めたらしい。

    人美の友達が訪れる。会長により泉彩香と判明(学籍簿より、

    住所 神奈川県横須賀市林……、ウッドストック写真撮影)。

    岡林がTVゲームを持ち込み、そのことで岡林と桑原、喧嘩になる。


   八月十一日(金曜日)晴れ 今日も暑い

   ○C 片山、秋山

    人美は午前中、自転車で近所の散策。その間、抽出波を映すCRTには

    何も出ず。予定よりも早く学習が進んでいるようだ。

    秋山の作った夕食は今日もおいしかった。

    秋山の帰宅後、片山と二人で酒を飲んだ。今の恋人と結婚する決心が

    ついたらしい。


   八月十二日(土曜日)晴れ あつい、あつい、あつい

   ○C 松下、桑原

    抽出波の周波数が〇.五~四〇ヘルツの間に収束してきた。松下さんが

    検討するも、特に異常なし。

    人美は午後から自転車。かなりの時間と距離を走り回り、ウッドストック

    を困らせた。本屋で本を買ったらしいが、何の本かは不明、残念。

    それにしても自転車の機動力には車では対応できない。明日から

    ウッドストックにはスクーターも使ってもらおう。

    松下がゲームがうまいのは意外だった。聞けば子供たちの相手を

    させられているとのこと。ご苦労なことだ。

    午後から久しぶりに本社へ。幕張でのシンポジウム用の資料作成。

    夕方には本部へ。突然寿司が食べたくなり出前を三人分取る。


   八月十三日(日曜日)暑さで気が狂いそうだ

   ○C 久しぶりに全員そろう

    松下さんによる脳波講習会が行われた。

    松下さんの分析によると、若干ノイズが混入しているようだ。

    念のため岡林と二人で位相補正プログラムをチェック。

    人美は外出しなかった。

    岡林に寿司を食べたことが発覚。おごらされることになってしまった。




 八月十四日、月曜日、午前九時三十分。フリー・ジャーナリストの木下賢治は、都内のアパートの自室でワープロのキーボードを軽快に叩いていた。

 彼はこれまでに多くの記事を書いてきたが、それらは軍事技術に関連したものが多かった。ある一部の人間たちは、彼のことを軍事評論家と呼んでいたが、彼はそれを嫌い、自分はあくまでもジャーナリストである、と主張していた。

 彼が記事を書いて生計を立てられるようになったきっかけは、中南米諸国の一つであるエルサルバドルの内戦を克明に記したことによる。今を去ること一九七九年、エルサルバドルでは軍事クーデターが起こり、それまでのロメロ政権が倒された。以来、革命評議会による暫定政権と、FMLN(民族解放戦線)との激しい内戦が展開された。彼は、そうしたエルサルバドルで一九八三年から一九八五年までの二年間を過ごし、自分の目で目撃した事実を衝撃的につづったのだ。帰国してからの彼は、ジャーナリストとしては一流の部類に仲間入りし、自らの取材で掴んだ、軍事、刑事事件、科学技術に関連した記事を、精力的に執筆していった。

 ちぇっ、乗ってきたところなのによ

 彼の仕事を邪魔したのは、訪問者の到来を告げるドア・チャイムだった。彼は口にくわえていたタバコを荒っぽく揉み消すと、玄関に向かって歩き出した。再びドア・チャイムが鳴る。「今行くから!」と彼はいらいらした口調で言った。「どなた」と言いながらドアを開けた瞬間、彼の左頬を激しい衝撃が襲った。彼は後ろに吹っ飛んだ―訪問者に殴られたのだ。殴った男はドアを閉め、仰向けに倒れた木下の前に近づくと、仁王立ちをして薄く笑った。その男は一八〇以上もありそうな背丈と、筋骨隆々の肉体を持っていた。 木下は叫んだ。

「お前は誰だ! 相模の人間か! 情報管理室か!」

 男はまた薄く笑うと、スーツの懐からサイレンサー付きのオートマチック・ピストルを取り出し、スライドを引き発砲できる状態にすると、銃口を木下に向けた。

「質問するのは俺だ」

 男は冷淡な響きの声音で言った。次の瞬間、シュッ―という小さな鋭い音と同時に木下の叫び声―「うわぁー!」―男が木下の太腿を撃ったのだ。

「貴様が調べていることについて言え」

「う…… な、何のことだ」

 再びシュッ―「あぁー!」―反対側の太腿を撃たれた。

「あー、分かった、話す。相模だよ。相模重工についてだ」

「もっと具体的に言え。きちんと整理して、原稿を書くようにな」

 男はまた笑った。

「プロメテウス計画だ。政府、防衛庁、そして相模重工の三者により立案実行された―相模は地球環境観測や衛星通信のための技術試験と銘打って、独自に人工衛星を打ち上げた。プロメテウスだ。ところがこの衛星には公に明かされていない極秘事項があった。高解像度衛星写真システムだよ。相模は画像解像度は十メートルと発表しているが、実際には一メートルなんだ。なぜ相模は撮影解像度を偽ったか。つまりプロメテウスは、日本初の軍事スパイ衛星何だよ」

 木下は苦痛に顔を歪ませながら必死に答えた。

「なるほど、貴様はなぜそれを知った」

「最初は単なる衛星の取材だった。ところがある時、プロメテウス計画の相模のトップが、白石副社長であることを知ったんだ。本来ならばそれは航空宇宙事業部長の管轄だ。にも関わらず軍需部門のトップである白石副社長が―そこに目をつけたんだ」

「そうか、君の着眼点は実にすばらしい」

「まだあるさ。沢木聡、相模の技術部門の最高頭脳で、総合技術管理部の部長だ。奴もまたプロメテウス計画に参加している。これも引っ掛かった」

「なぜだ」

 木下は息を切らしながら、脂汗を垂らしている。男は無情に言った。

「言え!」

「沢木は優秀な技術者だが、衛星などの宇宙関連技術に関しては奴の専門外だ。なのに沢木がいるということは、奴の技術が必要だということだ。沢木の最も得意な分野は制御システム工学であり、そして、SMOSの産みの親だ。SMOSという制御システムは、基本的な動作は毎回同じだが、動かす度に微妙に動作が異なる、というような機構の制御に適している。つまり、経験を反映させられるものでなければだめだ、ということだ。これに対しロケットは一度で終わりだし、衛星制御も現有の技術で間に合うはずだ。そんな時、ある極秘レポートの存在を知った。牧野レポートだよ。新防空戦略について書かれた。そしてそれはプロメテウス計画と結びついている。そこで俺は考えた。その防空システムの開発を沢木にさせているのだと」

「その確証は得られたのか?」

「ああ、もちろん。最近になって俺は、プロメテウス計画の中枢にいる相模社員との接触に成功した。そして、そいつから情報を聞き出した。それによると、沢木は現在、川崎工場で管制センターのシステム作りを指揮しているそうだ」

 男は深々と感心げに首を縦に振った。

「実に見事だ。君は一流のジャーナリストだよ。ところで、お前はこのことを誰かにしゃべったか」

「いいや、それより俺にも質問させてくれ。お前は誰だ」

 男はまたしても笑い、木下が生涯最後に聞くこととなった言葉を口にした。

「それは死に逝く人間が知ることではない」

 男は木下の書斎を物色した後に去って行った。頭を打ち抜かれた木下の死体を残して。




 午後二時四十分。進藤はプールで泳ぐ人美と彩香を双眼鏡で眺めていた。渡辺と進藤は、白石邸の裏にある小高い山の頂上付近で、それを監視していたのだった。

 進藤の口調はやけに陽気で明るかった。

「なかなかいー眺めですよ。室長も見ます。人美もかわいいけど、あの彩香っていう―

あっ!」

 進藤がそこまで言いかけた時、渡辺は双眼鏡を強引に取りあげると言った。

「いい加減にしろ。俺たちの仕事はのぞきじゃないんだぞ」

 進藤はふて腐れた顔をして渡辺を一瞬見たが、すぐに顔をそらした。

 まったく、進藤といい、岡林といい、この世代はきっと不作だな

 渡辺はいぶかりながら、白石邸の周囲を双眼鏡で見渡した。

 本当は自分だって見たいくせに

 進藤は手の甲に止まった蚊を思いっ切り叩いた。が、蚊は逃げて行った。

 その時、進藤のズボンのポケットに入っていた携帯電話のベルが鳴った。

「室長。本社の倉田さんからです」

 それは、本社情報管理室からだった。

「もしもし、渡辺だ」

「室長、木下賢治が殺されました」

「何だって!」

「今日の午前十一時ごろ、自宅で死んでいるところを愛人に発見されました」

「手口は?」

「拳銃で頭と両脚の太腿に一発ずつ、計三発食らってます。致命傷はおそらく頭でしょう」「プロの仕業か? 警察の見解は?」

「今のところは特にはありませんが―室長、どうしますか!?」

「とにかく情報を集めろ、詳しいことが分かったらまた連絡してくれ」

「こっちには戻れませんか、せめて相馬さんだけでも」

「すぐには無理だ。悪いがこっちも重要なんだ。何とかやってくれ、頼むぞ!」

 渡辺たち情報管理室は、プロメテウス計画の情報漏洩の可能性を察知し、プロメテウス計画に参加者した社員数人と、フリー・ジャーナリスト木下賢治の内偵を進めていた。

 現在、プロメテウス計画の一部は、相模重工の最高機密に指定されており、その詳細までは情報管理室の人間たちにも知らされていなかった。

 渡辺は険しい顔をしながら、進藤に電話機を突っ返した。

「どうしたんです」

「木下賢治が殺された。拳銃でな」

 渡辺は思った。

 雲行きが怪しくなってきたな。沢木さん、あんたにも話しを聞かせてもらわないと




 午後六時十三分。森田、篠原の両名と、ウッドストックの任を交代した渡辺と進藤が本部に帰って来た。渡辺は沢木の前に来るなり、厳しい表情と口調で言った。

「聞きたいことがあるんだが」

 ただならぬ雰囲気を悟った沢木は、「上に行きましょう」と言って歩き出した。渡辺はそれに続いた。二階の和室にたどり着くと、渡辺が重々しい口調で切り出した。

「プロメテウス計画の全貌を知りたい」

 沢木は窓の脇の壁に寄りかかりながら、腕組みをして言った。

「理由を言ってください。正当な理由があればお話ししましょう」

 渡辺はいらついているようだった。

「今日、木下賢治というフリーのジャーナリストが何者かによって殺された。アパートの自室で、拳銃の弾を三発食らって―殺された男は我々情報管理室がマークしていた男だ。その理由は―」

「プロメテウス計画の情報漏れ?」

「そのとおり。我々は相模の社員数人がある人物と密会しているとの情報を入手し、調査を開始した。その相模社員はいずれもプロメテウス計画の参加者。そして、密会の相手は木下賢治だ。ここまで突き止めた。しかし確証を得るまでには至らず、内偵作業を進めていたんだ。とこがだ―奴が殺された。沢木さん、一体プロメテウス計画には何が隠されているんだ。それは人殺しまで誘うような計画なのか? あんたなら知っているはずだ!知らないなんて言わせませんよ、沢木さん」

 沢木は渡辺に対して最初に思ったことを思い出した。この男をメンバーに加えてよかったのだろうか―彼は渡辺の真意が知りたかった。

「とぼけるつもりはありませんよ。ただ、それを知ってどうするんです。その木下という男に情報を漏らした相模社員は分かっているんでしょう。ならば、その社員たちを取り調べればいい。それだけの権限が情報管理室にはあるんだから。それに、その男の殺された理由がプロメテウス計画と関連しているかどうかも、現段階では定かじゃない。違いますか?」

「おっしゃるとおりだよ」

 渡辺は皮肉っぽく言った。

「しかしねぇ、沢木さん。あなたはテロの驚異というものを分かっていない。実は、私が信頼できる筋から聞いた情報によると、テロ対策法により解体された過激派組織が、水面下で再び結集し活動を再開しようとしている。彼らは手段を選ばない。彼らなりの大義名分のもと、テロ行為を再び繰り広げるつもりだろう。そうなった時、この相模重工も標的にされる可能性は十分にある。私が危惧するのは、今日の木下殺しが、その第一歩かも知れないということですよ! 私は情報管理室の室長として、相模の企業秘密保全に努めるとともに、そうした驚異から相模を守ることも自分の仕事だと考えている。そのためには、相手が何を考え、何を狙っているのか、それを十分に理解する必要がある。そうでなければ相模を驚異から守ることはできない!」

 沢木は渡辺の表情と言葉に、その内に秘めるものを感じ取った。

「なるほど、よく分かりました」

「それじゃ、聞かせてもらいましょうか」

 沢木はタバコに火をつけた。そして、立ち上る煙を見つめながら言った。

「ええ、それもいいんですがね。その前にちょっと確かめたいことがあるんですよ」

 渡辺はいぶかりながら言った。

「何を?」

「一つはSOP第二セクションに動きがあるかどうか、ということ」

 警察の特殊部隊であるSOPには、第一セクションと第二セクションがある。第一セクションは、かつて渡辺が所属していた武装警察隊だが、第二セクションのほうは、公安関係の捜索活動を主な任務としている。

「いや、ないと思う。あればとっくに情報が入ってくるはずだ。SOPが絡むようなことなのか?」

 沢木は渡辺の質問を無視した。

「もう一つは、木下賢治がなぜ殺されたのか? そして、どこまで知っていたのか? ですよ」

「何だって!」

 沢木は淡々とした口調で言った。

「あなたに情報管理室長としての責務があるように、私にも相模社員として、プロメテウス計画の参加者として、守秘義務というものがある。私は決して組織に執着した人間ではありませんが、それを破るのには、それ相応の条件というものが必要なんですよ」

「その条件が殺しの理由か?」

「そうです。殺害理由がほかにあるならば、あるいは情報漏れの程度が軽症ならば、私は何も守秘義務を犯さなくてもいいはずだ。そうでしょう?」

「まあ、確かにそうともいえるが……」

 沢木は渡辺の真ん前に移動しその顔を見つめると、弾んだ口調で言った。

「行きましょう」

「どこへ?」

「木下は自宅で殺されたんでしょう。そこへ行くんですよ」

「何だって!」

 渡辺は意外な言葉に驚いた。そして、思った。

 何て奴だ! どういう頭の構造をしてるんだ! 好奇心もいい加減にしないと怪我するぞ!

 沢木は襖を開けるとすたすたと階段を下りて行った。

「お、おい、待て!」

 階段の途中で立ち止まった沢木が振り返って言った。

「あっ、そうそう。自宅の場所、知ってますよね?」

「あ、ああ」

 沢木はにっこり笑って言った。

「では、参りましょうか」

 もはや何を言ってもこの男は行くつもりだろうと渡辺は思った。が、一応言ってみた。「行ったって何にもありゃしないさ! 警察だってバカじゃない。重要なものは見つけて持って行ってるさ」

 沢木は階段の残り三段を飛び下りると、再び渡辺を振り返り答えた。

「そうですかね? まあ、とにかく行ってみましょうよ」

 沢木の声はパソコンに向かって作業をしていた秋山まで届いた。

「行くって? どこに行くんですか?」

 秋山が沢木に歩み寄りながら尋ねた。

「ちょっと、いや、しばらく留守にするがよろしくお願いします」

 沢木の勢いは止まらない。吸いかけのタバコを秋山に渡すと、機材の脇に置いてあった自分の鞄を引っ掴み、玄関で靴を履き始めた。あきらめた渡辺が言った。

「秋山さん、あなたの上司には困ったもんだよ―進藤! 俺は出かけるがお前は帰っていいぞ! あばよ!」

 事情が分からずポカンとする秋山と進藤を残して、二人は外へ出て行った。




 沢木と渡辺の乗った黒いスカイライン4ドアセダンは、横浜横須賀道路を北上していた。ハンドルを握る渡辺は、法定速度をはるかに越えるスピードで、東京足立区にある木下の自宅を目指していた。

 二人の乗る黒のスカイラインは情報管理室用の車両で、無線機、電話機、端末機などを搭載しているほか、エンジンやサスペンションなどにも改造が施されていた。渡辺はこのスカイラインを気に入っていて、車を使う時にはいつもこの車を指名していた。

 沢木が言った。

「警察関係者なんていないですよね?」

 渡辺はちらっと時計を見た後に答えた。

「多分な。しかし、警備の警官ぐらいは立っているかも知れん。まあ、その時は沢木さん、あなたがぶちのめすんだな」

 沢木は肩をすくめておどけて見せたが、渡辺は前方を見たままだった。

「ところで渡辺さん。SOPにいたっていう噂は本当なんですか?」

「ああ、本当だ」

「どの小隊に?」

「第三小隊だ。そこで小隊長をやってた」

「第三小隊っ! すると、東京サミットの時のアメリカ大使館人質救出作戦はあなたが?」「ああ、俺が指揮した」

 沢木は驚かずにはいられなかった。まさか、渡辺がそこまでの人物とは……

「驚いたなぁ、凄い実績じゃないですか。でも、なぜ辞めたんです?」

「聞きたいか?」

 それは三年前、渡辺がSOPを辞める二週間前の出来事だった。渡辺率いるSOP第一セクション第三小隊の精鋭たちは、テロリストにより拉致された某石油会社社長の娘を救出すべく、テロリストのアジトを急襲した。人質奪還作戦は極めて正確に、かつ敏速に実行され、テロリストは次々とSOPの放った銃弾の前に倒れていった。

 最後の一人を撃った渡辺は、六歳の少女を抱き抱え、「もう大丈夫だよ」と優しく声をかけ、少女はそれに涙で答えた。が、その時それは起こった。渡辺により倒されたはずのテロリストが、銃口を彼と少女に向けた。渡辺はそれに素早く反応し、短機関銃を構えテロリストに六発撃ち込んだ。しかし、それでも遅かった。テロリストは死んだが、少女もまた死んだ。腕の中でぐったりとした少女を床に寝かせると、彼のボディ・アーマーには少女の鮮血がべっとりと染みついていた。それは渡辺にとっても、“栄光の第三小隊”と賛美されたSOP第一セクション第三小隊にとっても、初めて経験する耐え難い敗北の瞬間だった。

「俺はミスをした。最初の銃撃でテロリストを撃ち損じたんだ。あの時ミスさえしなければ、少女は死なずに済んだ。俺のミス、間違いなく俺のミスだ」

 渡辺は今でも自分を責めているようだった。沢木にもその気持ちはよく理解できた。守るべきものを守れなかった悔しさは、状況こそ違えど同じだった。

「俺はねぇ、沢木さん。もう二度とミスはしたくない。人の生死に関わるようなミスはしたくないんだよ。そして、今回の計画に関わるうちに、死んだ少女と人美とが重なって、何が何でも人美を守ってやりたい、と思うようになったんだよ」

 沢木は何も言い返しはしなかった。ただ、人それぞれにいろいろな過去があるものだ、と思い、自分の過去を振り返っていた。

 ピピピピピッ、ピピピピピッと電話が鳴った。

「ん、ん、そうか。分かった」

 渡辺は電話を切った後に言った。

「木下の家からは犯人を特定できるようなものは何も見つからなかったそうだ」

「そうですか」

「無駄骨になりそうだな」




 午後九時を少し過ぎたころ、黒いスカイラインは木下のアパートの近くに止まった。木下の部屋の前には、幸いにして人の姿はなかった。

 木下の部屋の前まで来ると、渡辺はドアの前にしゃがみ込み、車から持って来た鞄の中から細長い金属の棒を取り出し、それを玄関ドアの鍵穴へと差し込んだ。

「そんなものを持ち歩いている何て、穏やかじゃないですね」

 沢木が小声でそう言うと、渡辺はむっとした顔をして答えた。

「ここへ来ようと言ったのは、どこのどいつだっけ」

 渡辺はカチャカチャという音をしばらく鳴らした後、やや大きめのガチャリという音をさせた。ドアが開き、二人は中へと入って行った。

 玄関を入ってすぐの居間につながる廊下には、生々しい赤い染みが懐中電灯の光に浮かび上がっていた。渡辺は居間のほうへと進み、沢木は赤い染みをよけながら彼に続いた。「さあ、お望みの場所ですよ、沢木さん」

 沢木は居間を見回した。正面の窓の側には大きな机があり、その上にはデスクトップ型のワープロが置いてあった。机と反対側の壁際には本棚があり、軍事関係、技術関係の本がずらりと並んでいた。

「とにかく調べてみましょう。私はこの居間を調べますから」

「よし、俺はほかの部屋を見よう」

 渡辺は寝室へと入って行った。

 沢木はワープロが置かれた机に歩み寄り、その上を眺めた。普通ならば置かれているはずの資料やフロッピー・ディスク、打ち出された原稿など、そのようなものは机の上にはなかった。三つある引き出しの中も全部調べてみたが、やはり何もない。

 空振りだったかなぁ

 沢木はそう思いつつ、本棚のほうへと移動した。

 それにしても熱転写プリンターなんかでよく仕事が間に合うなぁ

 ジャーナリストという仕事柄を想像した沢木は、印字速度の遅い熱転写プリンターは非合理的だと思った。

 待てよ、熱転写プリンターだと

 沢木はすっと回れ右をして、再びワープロに近づいた。そして、ワープロと一体型になったプリンターの内部を懐中電灯で照らし、そこをのぞき込んだ。

「ようし」

 沢木はそうつぶやくと、プリンターの用紙挿入口の蓋を開け、さらに透明のカバーを外し、インクリボンカセットを取り出した。

 熱転写プリンターは、オーディオ・カセットテープのような構造をした、インクリボンカセットにより印字を行う。この際、印字した文字は白抜け文字となってインクリボンに残り、カセット内に巻き取られている。つまり、そのインクリボンカセットで印刷されたすべての文章が、カセット内に残っているのだ。

 沢木は懐中電灯をワープロの上に置き、その明かりのもとでインクリボンを引き出し始めた。しばらくリボンを引き出すと、沢木はほくそ笑んだ。

「渡辺さん! 渡辺さん!」

 小さな叫び声に気づいた渡辺が、小走りに沢木の脇にやって来た。

「どうした?」

 沢木はインクリボンを指差した。渡辺がのぞき込むと、“軍事衛星プロメテウス”の文字が見えた。

「やれやれ、立派なもんだよ沢木さん。あんたはきっといい警官になれる」

「話しを整理しましょう」

 沢木が言った。

「木下はプロメテウスに関する極秘事項を知っていた。そして、このワープロで記事を書いていた。なのに印刷物もフロッピーディスクもない。ということは、誰かが持ち去ったことになる。警察じゃないとしたら、それは木下を殺った奴だ」

「そうだな。そして、殺しの理由がほかにあるならば、プロメテウスに関連するものを持ち去る必要はない。つまり、犯人はプロメテウスについて知りたかった。そして、それを他の人間に知られたくなかった」

 沢木は大きくうなずいた。

「渡辺さん、条件はそろいましたよ。お話ししましょう、プロメテウスについて」

「ああ、だがその前に……」

 渡辺は険しい表情をして言った。

「今度は渡辺さんですか、何です?」

「腹が減ったよ」

 沢木は笑って答えた。

「私もです」




 空腹感を満足させることのできる場所を探して、渡辺は車を走らせた。その間、沢木はワープロ・リボンの中身を夢中になって読んでいた。

 環七通り沿いにあるファミリー・レストランに入った二人は、何よりもまず空腹感を満足させることに努めた。沢木はもろみソースのかかったチキンソテーのセットを、渡辺は大根おろしが乗ったビーフステーキのセットを注文し、お互いビールを口に運びつつそれを食した。食後のコーヒーを飲みながら、沢木はセブンスターを、渡辺はショートホープを吹かした。

 沢木が切り出した。

「それではお話ししましょう」

 渡辺は周囲を見渡し、近くに人がいないことを確認すると小さくうなずいた。

「一九九二年二月、相模重工に衛星写真技術研究室が設置されました。これは国需製品企画部(軍需部門を担当している部署)と、航空宇宙事業部共同の研究開発チームです。これを指揮したのは白石和哉副社長兼国需製品企画部長です。当時、国際的な軍縮気運が起こる中、日本でも防衛事業の縮小が叫ばれ始めました。これを懸念した白石副社長は、新たな利潤目標を模索する中で、偵察衛星に目をつけました。また、宮本誠航空宇宙事業部長は、二〇〇〇年には国内で三百億、世界では八千億円と推定される、衛星画像データ市場に興味を抱いていました。今でいうプロメテウス計画は、この両者の思惑の一致によりスタートしたのです。その翌年の五月、一つの事件が起こりました。北朝鮮による日本海への弾道ミサイル発射実験です。このことは国防関係者に大きな衝撃を与え、これまでにない偵察衛星論議を呼び起こしました。ここに第三の人物が登場します。時の防衛事務次官、牧野将明です。彼は白石副社長からプロメテウス計画を聞かされると、それに大きな関心を示すと同時に、後に牧野レポートと呼ばれる報告書を作成しました。それは……」

 それはこのような報告書だった。


『包括的多重層防衛戦略構想―弾道ミサイルからの防衛と装備近代化について―』

                一九九三年十一月  防衛事務次官  牧野 将明

 構想提起にあたって

 今年五月。北朝鮮により弾道ミサイル「ノドン一号」が日本海に試射された。この件に関し我が国は独自に事態を知るに至らず、在日米軍からの情報提供により、初めてこれを知るところとなった。これは日本の防衛体制を根底から揺るがす問題であり、なおかつ、非常に憂慮すべき問題である。それは、これが試射でなかった場合、着弾地点が日本海でなかった場合を想像してみれば、一目瞭然のことと推察される。

 近年、北朝鮮の核開発疑惑が叫ばれる中、その弾道ミサイル―より具体的にいうならば、核を搭載した弾道ミサイルが、万が一にも日本に放たれた場合、我が国の防衛体制の現状では、その迎撃はおろか迫り来る危機すら察知することなく、惨憺たる光景を目の辺りにすることにより、初めてその事実を知ることとなるのである。これでは一体何をもってして防衛というのだろうか。また、これまでの防衛政策とは何だったのか……

 四方を海に囲まれた我が国の領土特性を考慮すれば、敵なるものが我が国に対してその武力を行使するルートは、間違いなく空と海である。現在の国防体制でも、通常兵器(航空機や艦船など)によるものならば、それを早期発見し撃破することも可能である。しかし、弾道ミサイルについてはどうか。もはやいうまでもないであろう。

 今我が国にとって最も驚異となるものは、弾道ミサイルである。今日の国際社会においては世界的規模の戦争や、我が国に対する侵略行為などは起こり得ないであろう。だが、弾道ミサイルについては例外である。なぜなら、弾道ミサイルの発射は、ほんの少数の人間の意思により可能であるからだ。特に、独立国家共同体の国々が保有する核弾道ミサイルについては、どこまで政治的・軍事的統制が保たれているかは疑わしいものであり、少数の無知なる者や悪意ある者が、その力を行使せんとする可能性は大いなる驚異である。しかるに、弾道ミサイルに対する防空システムの確立は……

 このような防衛戦略を実現するためには、偵察衛星の存在が不可欠である。敵に知られることなくその戦力を把握し、また、早期のうちにその手のうちを見て取れるものは、偵察衛星をおいてほかに皆無であろう。しかしながら我が国には、一九六九年に衆議院で採択された、「宇宙開発及び利用は平和目的に限る」とする国会決議がある。また、偵察衛星運用開始には約一兆円(詳しくは後述)規模の莫大な予算が必要とされる。さらに、我が国の憲法上の問題などもあり……では、我が国はこのまま目と耳をそがれたままの、盲目的かつ粗略な防衛体制でいいのであろうか。

 米ソの冷戦終結、ソ連邦の解体、これらの影響により、今年、ロシアは衛星写真の販売を発表し、これを受け米政府も衛星写真の商業販売を解禁した。また、米国を中心とする外国企業により、商業衛星もいくつか打ち上げられる予定である(資料七)。このことは、我が国が特に「偵察衛星」と称する目耳を持たずとも、高解像度衛星写真(解像度一メートル=軍事的に価値のある写真)を入手することができることを示唆している。そして、実際にこれらの衛星写真を購入することは可能であろう。が、しかし、ことは国防に関わる事柄である。諸外国や外部機関に依存するような形態で、はたして即戦力となる情報を入手することができるのだろうか。またここに大いなる懸念が生ずる。やはり、我が国防衛機関独自の「目と耳」を持つことが必要なのである……

 我が国において衛星技術を有する企業は、相模重工、東芝、日本電気、三菱電気の四社である。その中でも相模重工は、打ち上げのためのロケット技術を有するとともに、衛星写真を提供する商業衛星の開発に最も意欲的である。信頼できる筋からの情報によると、相模重工は既に解像度一メートルの衛星写真技術を獲得し、また、実験衛星打ち上げの準備を推進中である……


「……というようなものです」

 沢木は続けた。

「牧野レポートは政府と防衛庁を動かす原動力となり、昨年六月、相模重工と自衛隊により、それは具体的な方向へと動き出したんです。そして、牧野レポートの確信部分とは、偵察衛星、早期警戒衛星、AWACS(早期警戒管制機)、レーダーサイト、そしてABM(弾道弾迎撃ミサイル)などによる、彼の言葉を借りれば“包括的多重層防衛戦略”なるもので、簡単にいえば日本版SDI、あるいはTMD(戦域ミサイル防衛)ということになるでしょう。まあ、このようにしてプロメテウス計画は、いつしか壮大な防空計画へと変貌していったわけです。そして、プロメテウスは完成し、今年の四月に打ち上げられ、地球の周りを高度七〇〇キロで二日周期に回っているんです。プロメテウスに搭載された高解像度衛星写真システムは、十五キロメートル四方を、解像度一メートルという鮮明さでとらえることができます。現在日本が保有する商業衛星〈ふよう〉の能力が、解像度十八メートルといえば、いかにプロメテウスのシステムが優れているかがお分かりになるでしょう」

 渡辺は二本目のタバコに火をつけながら尋ねた。

「で、沢木さんはプロメテウス計画のどの部分に関わっているんだ?」

「仮に国家防空戦略システム、といわれているコンピューター・システムの開発です」

「なんだい、そりゃ?」

「偵察衛星、早期警戒衛星、各種レーダー網からの情報を包括的に分析し、その結果から最も適した迎撃作戦を立案する。さらに、必要な情報をABMに転送し発射。その結果を判定し、必要ならば次ぎなる作戦を立案する。これらのことをすべて自動で行えるコンピューター・システムの構築です」

 渡辺は首を横に振りながら言った。

「まるでSF映画だな」

「実現可能なシステムですよ。ただし、実際にそこまでやるとなるととても相模一社の技術力ではカバー仕切れません。いずれは日本のほとんどの重工業メーカー、及び研究機関が参加することになるでしょう」

「俺にはとても信じられんよ。そんな国防上の極秘事項を知る―いや、その計画自体に関わっている人間が目の前にいるなんてね」

 沢木は軽く微笑んで冗談っぱく言った。

「まあ、こうみえても私は相模の最高頭脳ですから」

 それはそうだろう、と渡辺は思ったが、からかってみたくなった。

「俺はそんなこと始めて聞いたぞ。一体誰が言ってるんだ?」

「木下ですよ。彼の原稿が世に出てれば、渡辺さんもそれを目にしたでしょうに……」 とぼけた沢木の言いように、渡辺の心は笑っていたが、それを顔には出さなかった。沢木はこの手の冗談は通じないのだろうと思った。

「ところで沢木さん。これは私の個人的興味からの質問なんだが、そういうことに関わることに対してどう思っているんだ」

「兵器開発、などにですか?」

「ああ」

 沢木は唇を噛み締め小さく唸ると、火のついていないタバコを両手でいじりながら話し始めた。

「かつて、マンハッタン計画の指導者である核物理学者ロバート・オッペンハイマーは、“罪を知った科学者”という言葉を口にしたと伝えられています。私にもいつの日か、そんな言葉を口にする日があるのかも知れません―今、私の胸のうちにはさまざまな思いがあります。それを一口に説明するのはなかなか難しいことでして…… それは……例えば、渡辺さん、あなたもSOPにいたのなら、人を撃ったたことがあるでしょう。例えテロリストとはいえども。その時、あなたはいろいろなことを考えたはずだ。例えばそういうことです。何が正しいのか、あるいは何が正義なのか―いや、この話しはまた今度にしましょう」

 沢木は手に持っていたくしゃくしゃのタバコに火をつけた。

 渡辺には沢木の考えが、あるいは迷いというものが分かったような気がした。いみじくも沢木が言ったように、正義という名の殺人をSOP時代何度も行ってきたのだから―「なるほど、非常に参考になったよ」

 沢木と渡辺はともに感じ取っていた。お互いに共通な思いを持っているを―

 守るべきものを守れなかったこと―

 自分の行為に対する葛藤―

 しばらくの沈黙の時間が過ぎた後、沢木が言った。

「渡辺さん、プロメテウスに関連してもう一つ言っておくことがあります」

「何だ」

「プロメテウスの管制センターはどこにあると思います?」

「種子島か? いや、自衛隊施設のどこかか?」

 沢木はかぶりを振った。渡辺はいぶかりながら―

「じゃあ、どこにあるんだ」

「相模重工川崎工場ですよ。就業者数六千人の……」

「何てこった! そこをテロの標的にでもされたら―六千人もいるのに!」




 午後十一時四十分。観測機材の前に置かれた回転椅子に座り、うとうととしていた岡林は、薄く開かれたまぶたの隙間から、ちらつく光が入ってくるのに気がついた。

「たたたたたたっ、たいへんだぁー!」

 岡林は階上の仮眠室へ駆け込むと、簡易ベットの上で休んでいた松下の体を揺すりながら叫んだ。

「松下さん! 起きて起きて! たいへんなんだから!」

「うーう、なんだぁ岡林、また寿司でも食い損なったか」

「いいから早く早く! 早く下に来て!」

 松下は目をこすりながら立ち上がった。それを確認した岡林は今度は階下ヘ駆け降りて行き、ちらつく光の源を横目でにらみながら電話機を引っ掴むと、短縮ダイヤルのスイッチを押した。

 ちょうどその時刻、沢木を乗せた横須賀線の電車は、東戸塚の駅を出るところだった。月曜日の遅い時間の電車とあってか、彼の周囲には人影はなく、その車内は閑散としていた。沢木と渡辺は東京駅で別れ、沢木は電車で葉山の本部へ、渡辺は車で本社へと、それぞれ戻ることにしたのだ。

 携帯電話機を耳に当てた沢木は、そこから発せられた大声に思わず耳を背けた。

「岡林か? どうした」

「たたたたたたっ、たいへんなんですよ!」

「何が、何が起こった!」

 その答えをしたのは松下だった。彼は外部スピーカーとマイクのスイッチを入れ、動転した岡林に変わって答えた。

「抽出波に変化が現れてる。周波数は―」

 松下は目を凝らし、ちらつく光の源―人美の脳波を映し出すCRTに表示された数値を読み取った。

「およそ六〇ヘルツ、振幅は激しく増減している」

 沢木は腕時計に目をやった。この時間人美はおそらく寝ているはずだ。

「夢? 夢でも見てるんですか?」

「おそらくそうだろう。しかし、この脳波は異常だ」

「分かりました。とにかく観測を続けてください。私は今横須賀線の車中です。後一時間ぐらいでそちらに行けると思いますので」

「分かった。状況が変化したらまた報告する」

 沢木は通話スイッチをオフにすると、すぐにオンにしてウッドストックに電話した。

「沢木です。何か変わったことはありませんか」

 答えたのは森田だった。

「いえ、何もないですが。どうかしましたか」

「こちらの観測状況に変化が現れています。どんな些細なことでも構いません、何かあったらすぐにチャーリーに連絡してください」

 沢木は次ぎに白石邸に電話した。沢木の耳元で呼び出し音が何回、何十回と鳴った。それは永遠に続くかのごとく、長い長い時間に感じられた。

 これだから年寄りは困るんだ。早く出ろ

 沢木はいらつき、毒づいた。

「もしもし、白石だが」

 安眠を妨げられたその声も、幾分いらつき気味だった。

「沢木です。人美さんの脳波に変化が発生しました」

「何だって、どういうことだ」

「今は何とも、それより会長に確認してもらいたいことがあります」

「何だ」

「人美さんの部屋にそっと近づいて行って、中のようすをうかがって欲しいんです。ただし、どんな状況であっても、こちらの指示があるまでは絶対に部屋の中には入らないようにしてください」

 人美はうなされていた。激しく寝返りをうちながら、全身に汗をかき、呼吸も荒かった。それはうなされてるというよりも、苦しみ悶えているといったほうが適切だった。人美にあの悪夢が再び襲って来たのだ。

 ワイヤレスホンを右手にしっかりと握り締めた白石は、人美の部屋のドアの近くまでたどり着いた時、その苦痛に歪んだ声を聞いた。彼は思わず後退りをしながら、小さな声で沢木に言った。

「苦しんでるようだ」

「ええ、私にも聞こえました」

「どうする、うなされてるのか? いや、何かの発作―もしかしたら怪我をしたのかも。だったら待ってはおれんぞ!」

「もう少し待ってください。部屋を離れて待機していてください。いいですね」

「ああ、だがなるべく早くしろ」

 沢木はチャーリーに電話した。

「松下さん、人美は声をあげて苦しんでるようです。何か予測はできませんか!?」

 沢木は車窓の外を流れる陳腐な夜景を見ながら遅い電車を呪っていた。電車は今、大船駅のホームに滑り込もうとしている。時刻は午後十一時五十二分。横須賀線は定刻どおりに運行されていた。

「何とも言えない。何しろこんな脳波を見たのは生まれて初めてだ。エネルギーが大き過ぎる! こんなエネルギーは脳波にはないはずなんだ!」

 松下は自分の目に飛び込んでくるちらつく光に当惑されていた。

「人美の身体や精神に対して危険ということは?」

「分からん! 沢木君、一度この状態にストップをかけよう。ゆっくりとこれを分析し、対処法を考えるべきだ!」

「分かりました」

 再び白石に電話する。

「会長。人美の部屋に入ってください!」

 白石はその言葉を最後まで聞き終わらないうちに電話機を放り出すと、人美の部屋に突入した。人美は苦しんでいる、悶えている、苦しみ悶えている。

「人美君! 人美! 大丈夫か! おい、しっかりしろ!」

 白石は人美の両肩を掴み、激しく揺すりながら叫んだ。

「もうだめだ! 終わりだ!」

 人美は泣き叫んだ。

「あなたは誰! 誰なの! 助けてー!」

 人美は激しく口を開け閉めしている。

 舌を噛む

 白石はとっさにそう判断し、人美の頬を思い切りひっぱたいた。

 ピシャッ!―叫び声が止んだ。

 人美はぐったりとしながらも、徐々にまぶたを開けていった。

「人美君、大丈夫か」

 白石はそっと声をかけた。

「ああ、おじさま。怖かった。私とても怖い夢を見たの」

 人美は鼻を鳴らしながら静かに涙を流した。

「もう大丈夫だ。夢は終わったよ」

 白石は人美の頬にそっと手を寄せると、その頬を流れる滴をぬぐってやった。




 日付が変わったころ、沢木を乗せた電車は鎌倉駅を出たところだった。いらいらと落ち着かない沢木のもとに、やっと連絡が入った。

「ああ、会長。心配しましたよ」

「悪い夢にうなされていたようだ。しかも、かなりの激しいうなされようで、わしは舌でも噛み切るんじゃないかと思ったほどだよ」

「そんなにですか」

「ああ、しかしもう大丈夫だ。今家内と一緒に居間でココアを飲んでいるよ。落ち着きを取り戻してる」

 沢木は深い溜め息を吐いた。彼をずっといらだたせていたもの―守るべきものを守れないこと―その懸念が溜め息とともに吹き出した。

「そうですか、安心しました。何だか偉く疲れてしまいましたよ」

「何を言っとるんだ、いい若いもんが。はははははは……」

 白石は豪快な笑い声を発していた。その声に沢木はより安堵の気持ちを深くした。

「ところで会長、明日―いえ、もう今日ですね。午前七時三十分にお迎えに参りますのでそのつもりでいてください。詳しい話しはその時にまた……」

 一方、本部では早くも松下によるデータの解析作業が始まっていた。岡林は今だ興奮冷めやらずといった趣で、盛んに松下に向かって口を動かしていたが、手だけは松下に命じられたとおり―データの検索やプリント・アウトをすることなど―に着実に動かされていた。

 人美は千寿子の腕に肩を抱かれながら、ココアをすするようにしてゆっくりと飲んでいた。頬には涙の跡がつき、目は今だに真っ赤だった。人美を抱いた千寿子の腕には微弱な振動が伝わり、まだ悪夢から完全に覚めきっていないことを知らせていた。

 沢木を乗せた電車は午前十二時九分に逗子駅に到着した。ホームに降り立った沢木はすかさずセブンスターを口にくわえ、その煙を深く深く吸い込むと、「ふぅー」と溜め息混じりに吐き出した。彼は日に二十本弱のタバコを吸うが、そのほとんどは思考の手助けをするものである。彼は物事を考える時にはタバコの煙をまとわせる。しかし、今くわえたタバコは、ただ単にほっとしたいがためだった。

 今日は忙しい一日だった。人美、そしてプロメテウス。だが始まったばっかりだ

 ゆっくりと歩く沢木を尻目に、タクシーの順番を争う人々が、彼の横を慌ただしく駆け抜けて行った。




 八月十五日、火曜日、午前六時十二分。閑静な住宅街の一角に位置するある一戸建ての家では、その家の主婦により朝食の準備が着々と進められていた。また、その夫はダイニングルームに置かれた円い木製のテーブルに座り、熱心に新聞を読んでいた。

「あなた、幸子を起こしてきてくれませんか」

 夫は妻の声には見向きもせず、相変わらず新聞を読んでいる。夫を釘づけにしている記事は、『軍事評論家殺される』という見出しの記事だった。妻は仕方なく、フライパンの上に載ったハムエッグを気にしながら階段のところまで歩いて行き、「幸子! 朝よ、起きなさーい!」と大声を出した。妻はすぐさま耳を澄ましたが、返事も物音も一向にしなかった。もう一度声をかけようと思い、最初の一言―「さち……」まで言いかけた時、その声は悲鳴に変わった―「きゃぁー!」

 夫は驚きのあまり新聞を引きちぎって、「どうした!」と叫びながら妻のいる階段の下に駆け込んだ。階段の上を見上げた夫は声も出ずに硬直した。愛しいの七歳の娘はパジャマ姿で、口にガムテープを張られ、腕と脚をロープに縛られていた。そして、何よりも夫婦を畏怖させたものは、ナイフを持った巨人の腕に抱き抱えられていることであった。その巨人は、夫が熟読していた記事の当事者、つまり、ジャーナリストの木下賢治を殺した男だった。

 木下を殺った男は、まず、彼と手を組む組織のところへ行き、木下の所有するワープロと互換性のある機種を用意させ、フロッピー・ディスクの中身を頂戴した。そして、そのほかに持ち去った手帳や資料などと照らし合わせ、その内容をじっくりと吟味したのだった。その結果、木下に情報を提供した相模重工社員、大平勇一の存在を知るに至ったのだ。 大平は相模重工本社にある衛星写真技術研究室に所属する技術者であり、その地位は研究主幹であった。年齢は四十三歳、三十七歳の妻と七歳の娘を持つ男である。また、彼の自宅は東京世田谷区の駒沢オリンピック公園の近くにあった。

 男はある計画を立案し、その前段階として、寝静まる大平家へ一階の勝手口から侵入し、その時を待っていたのだった。

 黒い目開き帽で顔を隠した男は、鋭く大きなナイフを娘の頬にあてがいながら、ゆっくりと階段を下りて来た。大平と妻はそれに押されるかのように、ダイニングルームとリビングルームがつながる部屋へと後退りして行った。

「なっ 何なんだ。娘をどうするつもりだ!」

 大平は妻をかばいつつ叫んだ。

「心配するな。俺の言うとおりにすれば、娘と女房、そしてお前にも、危害を与えるつもりはない」

「目的は何なんだ!」

「まあ、そうあせるな。ゆっくり話してやる。だがその前に―」

 男はたすき掛けにした黒いナイロン製の鞄の中から、ロープとガムテープを取り出すと、大平の前に投げつけた。

「これで女房を縛り、口をテープでふさげ。話しはそれからだ」

 大平は床に落ちたロープを見つめながら言った。

「まさか、木下を殺したのは……」

「つべこべ言わずに早くしろ!」

 男は娘を抱く腕の力を強めた。少女の顔が歪む―「んーう……」

「わっ! 分かった」

 大平は床からロープを拾い上げると、妻を縛り始めた。妻はがたがたと震えながら、黙ってされるがままに従った。

「大丈夫。何とかなるさ」

 大平は小声で妻に呼びかけながら、ロープを妻の身体に巻いていった。

「しっかりときつく縛れよ。足首にもガムテープを巻いて、済んだらそこのソファに座らせろ」

 男は夫婦から二メートルほど離れたところから、その作業を注意深く見守った。大平は作業を終えると、妻をリビングルームに置かれた陶製のソファに座らせた。

「よし、お前も隣に座れ―いや、その前にあのガスコンロの火を止めろ」

 ハムエッグはジュージューと悲鳴をあげていた。大平は言われたとおりガスコンロの火を止め、妻の隣に腰掛けた。男は彼の着席を確認すると、自分の後ろにあったキッチン・テーブルの椅子を引きずり寄せ、そこに腰掛けた。娘は男の膝の上に座らされ、相変わらずナイフをあてがわれている。

「さて、それでは自己紹介といこう。俺は昨日、木下を殺した人間だ。お前の対応いかんによっては、この娘も殺すことになるかも知れん、それをよく肝に銘じておけ」

 大平はブルブルっと身体を震わせながら、首を縦に何回も振った。妻はしくしくと涙を流し始めた。男は続けた。

「お前は相模重工の社員であり、衛星写真技術研究室の一員だな」

「ああ、そうだ」

「よし、では俺の望みをかなえてもらおう」

「何だ」

「川崎工場及びプロメテウス管制センターの見取図が欲しい」

「そっ、そんな。一体何に使うんだ」

「余計な干渉は命取りになるぞ。イエスかノーか、どっちだ」

 大平は必死に訴えた。

「そんなのは無理だ。川崎工場の見取図ならともかく、管制センターのほうは総合技術管理部の管轄だし、その部の部長の許可が必要だ」

「では、お前では用意できないと?」

「ああ、無理な注文だ」

 男はうつむき、もの悲しげな口調で言った。

「そうか、残念だ。非常に残念でならない」

 そして娘を見つめながら続けた。

「こんなかわいい娘が、この若さにして人生を終えなければならないとは、無能な父を恨むがいい」

 男は娘に当てたナイフを頬から外し、喉もとへと移した。そして大平に視線を移すと、少しずつナイフの刃を娘の首の皮膚にめり込ませていった。

「やめてくれー!」

 大平は立ち上がりながら叫んだ。男がナイフを娘の首から離すと、そこには一本の赤い筋ができていた。

「何てことを」

 大平はそうつぶやき、妻は激しく首を振りながらもがいた。娘は涙を滝のように流している。

「では、再び聞こう。俺の望みをかなえてくれるかな」

「分かった、何とかする。だが、すぐというわけにはいかない。しばらく時間をくれ」

「どのくらいだ」

「川崎工場への往復の時間と、見取図を入手するのに必要な時間…… 半日以上かかる―嘘じゃない、あそこはガードが堅いんだ。特に、プロメテウスに関するものは―分かるだろう」

「よし、そのくらいの理解は示してやろう。ただし、妙な小細工をしてみろ、娘と女房の身体は血と肉の塊となり、その判別すらつかないほどになるだろう。分かったな」




 午前八時三十分。始業を告げる鐘が相模重工本社内に響き渡るころ、最上階の大会議室には十二人の男性と一人の女性が、大きなドーナツ状の机に座っていた。まず、白石会長、その左に海老沢社長、右には紅一点の矢萩専務。海老沢の隣に白石副社長兼国需製品企画部長。以下、航空宇宙事業部長の宮本誠、衛星写真技術研究室長、川崎工場長、厚木工場長、相模総合研究所所長、富士総合試験場管理部長、防衛庁の実務代表者であるプロメテウス研究部会座長などが白石会長を囲むように着席し、白石の真向かいの席には沢木が、その横には渡辺が座っていた。渡辺を除く十二人は、プロメテウス計画実行委員会のメンバーであり、実行委員長には白石副社長が着任していた。

 司会進行役の白石副社長が口火を切った。

「本日は早々からのお集まり、ご苦労様です。さて、本日緊急に委員会を招集いたしましたのは、会長からの火急の要請によるためです……」

 沢木は今朝の七時三十分に車で白石会長を迎えに行くと、本社に向かう車内で木下殺しの一件などを話して聞かせた。白石は息子である白石副社長に電話をし、プロメテウス実行委員会の招集を促したのだ。

「では会長、ご趣旨を説明願います」

 白石会長は軽くうなずくと、沢木を見やり言った。

「沢木」

 まったく、不精者だなぁ

 そう思いつつ沢木は答えた。

「では、私からご説明いたします。昨日、木下賢治というジャーナリストが殺害されました……」

 沢木はことの経緯を説明し、さらに―

「そこで入手したのが、これからお配りする木下の草稿です」

 ここで配られたものは、渡辺が徹夜で仕上げたものだった。彼は昨夜沢木と別れた後、ワープロリボンを持って本社へ戻り、そのリボンをカセットから引きずり出し、A4の用紙に切り貼りしたのだった。

 二十八ページにもなる草稿を読み終えた各委員からは、口々に困惑の声があがった。

 白石副社長が衛星写真技術研究室長に向かって怒鳴った。

「何ということだ! これ程までに情報が漏れていたなんて。君は部下にどういう教育をしているんだ! 管理能力に疑問があるぞ!」

 やれやれ、また始まったか

 火の粉はそんなことを思った沢木と渡辺にも降り掛かった。

「それに渡辺室長、君も君だ! こういう事態を招かないために、情報管理室は存在しているんだぞ! 聞くところによると君は最近沢木部長と―」

 渡辺は白石副社長の言葉を遮り言った。

「お言葉ですが副社長。我々にすら秘密にしておきながら―」

 さらに海老沢社長が割り込んだ。

「まあまあ、お互い大きな声を出すのは止めたまえ。副社長、実は沢木君には別件で動いてもらっているんだ。そして、渡辺君はその手伝いをしている。これは私も会長も承知していることだ。それに、いまさら責任云々を言ったところで―まあ、情報を漏らした者については処分を考えるにしても―結局は後の祭りだ。それよりも、今我々にとって重要なことは、何をなすべきか、ということだ。違うかね」

 この言葉に怒れる二人は静まった。

 矢萩専務が言った。

「それで、我が社がテロを受ける可能性はあるのですか? 犯人は情報を公開することが目的なのかも……」

 渡辺が答えた。

「その程度の腹づもりなら、殺しまではしないでしょう」

 川崎工場長が声を震わせながら言った。

「では、やはりテロを? 川崎が狙われるんですか?」

「断言はできませんが、その可能性は大です」

 渡辺がそう言うと、白石会長が判断をくだした。

「うむ、分かった。早速政府側へ事態を説明し、警備の要請をしよう。また、相模の各施設並びに全社員に対し、細心の注意を勧告する。以上でいいかな」

 再び川崎工場長が懸念を表した。

「会長。お分かりのこととは思いますが、川崎工場には六千人の従業員と、育児施設には十八人の子供や赤ん坊がいます。ぜひとも十分な警備体制をひいていただきたいと思います」

 白石会長はその言葉にうなずくと、渡辺に尋ねた。

「渡辺君、君の専門家としての意見は?」

「SOPの出動を要請するのが最も適切かと」

 渡辺の答えに矢萩専務が質問した。

「そんなことが要請できるんですか?」

「テロ対策法第三十四条の三項、及びSOP法第七条の四項に該当するケースです」

「よし。わしは早速官房長官を尋ねる。後のことは海老沢、頼んだぞ」

 白石会長は足速に会議室を出て行った。

 沢木は思った。

 ふう、どうやら説明係で終われそうだ

 この会議が重要であることは分かっていたが、沢木は早く本部に帰りたい一心だった。

 人美さんは大丈夫だろうか?





 都内のとあるホテルの一室で白石会長を待ち構えていた内閣官房長官は、政府のプロメテウス委員会及びSOP総括委員会のメンバーである。白石から事態の説明を受けた官房長官は、すぐさま首相官邸へと向かい対応を協議した。その結果、SOP総括委員会が緊急招集されたのは、白石が会議室を出てから約一時間半後の午前十時二十分だった。

 SOPの指揮監督権を持つSOP総括委員会を構成するメンバーは、内閣総理大臣、副総理(現在の副総理は大蔵大臣)、内閣官房長官、法務大臣、国家公安委員長の五人の国務大臣、及び警察庁長官、警視総監、公安調査庁長官、SOP本部長の九人である。

 会議は迅速に進められ、約二十分で終了した。ここで決定されたのは次ぎの三点―一つ、相模重工へのテロ行為警戒のため、相模重工施設が所在する各警察本部へ警備体制を執るよう命令する。二つ、特に川崎工場については、SOP第一セクションを持ってこれにあたり、その法的根拠はテロ対策法及びSOP法の該当条項による。三つ、木下殺害事件については、SOP第二セクションへ捜査が引き継がれる―以上である。

 この二つめの指令を受けたのは、アラート5体制(五分後に出動できる体制)で待機していた、SOP16部隊(SOP第一セクション第六小隊)の総勢二十五人である。

 戦術部隊であるSOP第一セクションでは、四人編成の班が六班集まり一個小隊を形成する。小隊には小隊長がいるために、一個小隊の人員は二十五人ということになる。また、小隊は全部で六隊あるので、SOP11部隊からSOP16部隊まで、総勢百五十名の隊員がいる。第一セクションを率いるのは隊長(階級は警視)であり、その下に副隊長(階級は警部)がいる。

 また、三つ目の指令を受けたのは、SOP第二セクションの二つの班である。

 捜査部隊であるSOP第二セクションでは、六人編成の班が十班集まり捜査部を形成する。つまり、六十人の捜査官がいるのだ。捜査部を率いるのは捜査主任(階級は警視)であり、その下に捜査補佐官(階級は警部)がいる。

 さらに、第一セクションと第二セクションを統括するのがSOP本部長(階級は警視監)であり、その上に内閣直属のSOP総括委員会が置かれている。

 SOPは警察庁のもと、警視庁、北海道警察本部、各管区警察局と同列に位置する組織であり、その機能はアメリカのFBIに類似している。SOP法のもと、強力な権限が与えられている彼らは、テロ対策法に基づく諸事項を実践するための組織である。

 近代的な兵器で武装した第一セクションは、ほとんどの行動がSOP総括委員会の意志により決定されるが、いざ出動となれば、一般警察や行政機関への指揮権すら発動でき、その戦術の多くはイギリス陸軍のSAS(特殊空挺部隊)を規範にしている。

 一方SOP第二セクションは、特にSOP総括委員会の判断を仰がなくとも、SOP本部長の意志により捜査活動が行える。また、その捜査権には制限がなく、日本国内のどこであろうと、一般警察より優先して活動することができる。公共の安全と秩序を守ることを目的とする第二セクションの具体的な活動内容は、テロ事件の捜査と防止、学生運動及び労働運動の過激行動の防止、右翼と左翼の監視、諜報活動の防止などである。




 午前十時五十五分。墨田川の河口に近い晴海埋め立て地にあるSOP本部から、ヘリコプターでやって来たSOP16部隊は、既に川崎工場に展開していた。

 相模重工川崎工場は、横浜市川崎区の千鳥町と名づけられた埋め立て地にあり、その隣には東京電力の川崎火力発電所がある。千鳥運河、大師運河、塩浜運河、京浜運河に囲まれた、川崎港に浮かぶこの埋め立て地への地上からの侵入路は、国道一三二号線が通る千鳥橋と、東扇島へ続く川崎港海底トンネルの二経路だけである。なお、この工場での主な生産品は、産業用ロボット、土木建築機械、鉄道車両、特殊車両、小型船舶などである。

 つい最近二十六歳の誕生日を迎えたばかりの彼は、SOPの制服を着、手にはドイツ製のMP5SD3(短機関銃)を構える自分の姿に、強い誇りを抱いていた。彼は、厳しい関門と半年間に渡る激しい訓練に耐え抜き、ようやく正式隊員と認められ、SOP16部隊に配属されたのだ。今日は彼にとって初めての、出動を経験した日であった。

「何だよ。せっかくの初出動が警備とはなぁ……」

 彼にはどんな戦闘の中においても、冷静かつ敏速に行動できる自信があった。そんな彼にとって、一日のほとんどを棒立ちして過ごすであろう警備任務は、このうえなく退屈な仕事であった。彼は持ち場から離れ、一人ふらふらと歩き出した。

「あれっ」

 彼はそうつぶやいた。大きな書類ケース―A3サイズくらいあった―を抱え込むように持った男が、周囲を盛んに気にしながら建物の隅を歩いたいたからだ。彼はその男に走り寄って職務質問をした。

「あーそこの人、ちょっと待ってください」

 ケースを持った男、それは妻と娘を人質に獲られた大平だった。

「なんですか?」

「私はSOPの者です」

 彼は誇らしげに言った。

 言わなくたって分かるよ、タコ

 大平はそう思いながらも―

「SOPが何の用でしょう。私は急いでいるんですが」

「お手間はとらせません。ただ、ちょっとそのケースの中身を見せていただきたいのですが」

 大平は毅然として答えた。

「これは設計図です。部外者には見せられません」

 新米隊員の彼も負けじと言った。

「そうはいきませんよ。残念ですが我々SOPには特権があるんですよ。それにあなた、急いでいると言ったわりには、やけに周囲に目配りしならがら歩いてましたよね」

「どんなふうに歩こうが勝手でしょ」

「まあ、とにかく中を見せてもらいます」

 大平はどうしようか迷っていた。この中にはプロメテウス管制センターの設計図と川崎工場の見取図が入っているが、見たところでこのバカには分からないだろう―いや、大きく書かれた文字は、こいつにだって“プロメテウス”と読めるだろう。それを問い合わされたら一巻の終わりだ。自分にはこれを持ち出す必要性も命令もないのだから……

 大平はこれより少し前、プロメテウス管制センター内に侵入した。彼は、管制センターで働くかつての部下に頼んで中に入れてもらい、LANコンピューター・ネットワークのデータ・バンクから必要な図面をプリント・アウトしたのだ。

 新米隊員の手がケースに伸びてきた。

「分かりましたよ。今見せますから」

 大平は隊員の手を振り払い、ケースのチャックを少し開けた。この時である。新米隊員がミスを犯したのは―

 大平は、ケースをのぞき込むようにして近寄って来た隊員の顔めがけて、渾身の力を込めてそのケースを振りあげた―「ボカ」―鈍い音がした。さらに、不意の衝撃のためにのけ反った隊員に向けて素早く二発目―「うう……」―今度は隊員のうめき声のほうが大きかった。大平のケースは彼の急所に見事命中したのだ。

「やった!」と大平は思わず叫んだ。新米隊員は彼の前にうずくまっている。

 SOP何てちょろいもんだぜ

 大平は走り去って行った。

 ややあって、うずくまる新米隊員は四人の同僚―それは第五班の隊員たちで、彼らは持ち場の移動をしている途中だった―に発見された。

 第五班のコマンダーは新米に走り寄って尋ねた。

「どうしたんだ!」

 新米は涙目で答えた。

「男が、何かを持って逃げました」

「何を」

「分かりません。しかし設計図か何かじゃないかと思います。A3サイズぐらいの薄いケースを持ってました。特徴は……」

 それを聞いた第五班のディフェンマンは、直ちに無線で本部に連絡し、男を手配した。まだ構内にいるはずである。

「それにしても、何だって一人なんだ。第一、丸腰の人間にやられるなんて……」

 コマンダーは新米を叱責した。SOPの隊員であることの鉄則は、何よりも単独行動を自重し、互いに協力し合い難局を克服することにある。そのために四人編成の班が設けられているのだから。

 SOPの班を構成する四人の隊員には、厳格な役割分担がある。それは、班を指揮するコマンダーと、家屋などへの侵入や戦闘をリードするポイントマン、ポイントマンの安全を確保するディフェンスマン、後方の警戒と散弾銃、爆薬などの追加装備をするバックアップである。

 新米隊員を取り囲んだチームメイトのもとに、後からゆっくりと歩いて近寄って来たのは、ポイントマン―実際にはポイントウーマンだが―を務める、星恵里だった。

 彼女は二十七歳の一見か弱そうな女性に見えるが、実はCQB(近接戦闘)の腕は超一流であり、エースと呼ばれるにふさわしい手腕を持っていた。エースの称号は、SOPを辞職した渡辺と、彼の右腕だった現第三小隊長である男、そして星恵里を除いてほかにはいない。

 星はふと見たコンクリートの地面の上に、きらりと光るものを見つけた。それを拾い上げた彼女は新米隊員に尋ねた。

「あなたが見たのはこの男?」

「そ、そうです。そいつです」

 ディフェンスマンは星からそれを取りあげると無線機に向かって言った。

「賊の正体が分かりました。名前は大平勇一、相模の社員です。所属は航空宇宙……」 大平は胸にクリップで付けられた身分証明書を落としていってしまったのだ。しかし、構内で彼は発見されなかった。彼は不測の事態に備えて、川崎工場からの脱出経路を調べてあったのだ。それは、産業廃水を浄化する施設から下水道へとつながる経路だった。

 信号待ちで停車していたトラックの荷台に飛び乗り、千鳥橋に設けられた検問を彼が無事突破したのは、午前十一時六分のことであった。




 人美はうたた寝から目を覚ました。昨夜はあの恐怖に襲われて以来、また悪夢を見るかも知れないという脅迫観念に駆られて一睡もできなかったが、やはり身体は睡眠を必要としている。気分転換に本を眺めていた人美は、知らず知らずのうちに机に突っ伏して寝いってしまっていたのだ。

 机の上に置いてある小さな鏡に映った自分の顔を見た時、思わず笑ってしまった。なぜなら、彼女の頬には腕枕の跡が、きっちりとついていたからだ。しかし、その笑顔は長くは続かなかった。悪夢の記憶がすぐに蘇えってきたから―「はー」と溜め息混じりの声を発しながら、両手で髪の毛をくしゃくしゃにしながら考え込んだ。

 あーあ、一体どうすればいいんだろう。あんな夢、しばらく見ていなかったのに…… そうだ! また彩香がいてくれたら、変な夢は見ないかも…… 彩香に来てもらおう 人美は足で床を蹴って回転椅子を回し、身体をドアのほうに向けた。その時―

 スーっと音もなくドアが開いた。

「あれっ」誰だろう? と思い、「誰かいるんですか?」と小声で言った。しかし、返事は返って来なかった。彼女はドアに歩み寄り廊下をのぞき込んだ。

「おかしいなぁ」

 だーれもいないのに

 彼女はそれをいぶかしく思ったものの、きっときちんと閉まってなかったのね、と片付け、居間にある電話に向かって歩き出した。彼女が階段にさしかかった時、ドアは静かに閉まった。誰もいないのに、独りでに―

 居間に入った時、タイミングよく電話が鳴った。しかも、それは彩香からだった。

「人美が電話に出るなんて珍しいわね。いつもお手伝いさんが出るのに」

「ちょうど彩香に電話しようと思ってたところだったの」

 人美は明るく努めた。

「やっぱりね」

「何が?」

「何となくそんな気がしたの―人美が連絡して来るような。以心伝心って奴ね」

「ふふっ、そうね。ところで彩香―」

「おーとっ、残念でした。悪いけど今日は家族でお出掛けなの。お姉さんの誕生日でね、一家でお食事なのよ。一種の家庭サービスね―三人そろわないとお父さんがごねるから」「そうなんだ。どっちのお姉さん」

 彩香は三姉妹の末っ子だった。

「二番目」

「そう。じゃあ、たのしくね」

「うん、明日なら遊びに行けるから。バイバーイ」

 人美は受話器を置いた後にふと思った。

 兄弟かぁ、いいなぁ。私ならお兄さんが―ないものねだりしてもしょうがないよ―でも、弟か妹なら可能性あるかなぁ

 人美は兄弟のいる自分を思い浮かべてみた。が、すぐに悪夢のことを思い出し、不安な気持ちにさいなまれるのだった。




 葉山の本部に戻った沢木と沢木組の面々が、昨夜の人美に現れた現象についての分析を試みているころ、渡辺は晴海埋め立て地にあるSOP本部にいた。相模重工の警備及び木下殺害事件の捜査を命じられたSOP本部長の田口謙吾警視監は、相模に渡辺がいることを知っていたので、彼に連絡し、細かい情報を得るために本部へ招いたのだった。

 本部長室には、渡辺、田口本部長のほかに、もう二人の男がいた。どちらも渡辺とは知り合いで、SOP第二セクション捜査第七班に所属する捜査官である。この二人はコンビを組んで仕事をしているのだが、体格も性格も何もかも、まったく対照的なコンビだった。 一六〇と背が低く、優しそうな顔の男は里中涼といい、SOP第二セクションきっての切れ者でとおっている。彼は国家公務員採用試験Ⅰ種に合格し、警察庁に入庁したいわゆるキャリア組である。警察官としての彼の非凡な才能―その明晰な頭脳は、警部補として渋谷区の渋谷警察署捜査一係での研修中に既に発揮されていた。不可解な一つの難事件と、二つの殺人事件、そしてテロ工作を一件、彼はほぼ彼自身の手で解決した。これは極めて異例のことである。なぜなら、キャリア組として“現場”に研修に来る者など、その目的は“現場”の見聞であり、実質的な捜査に携わること、ましてや事件を解決するなどということは皆無に等しいからである。その後、彼の捜査力は高く評価され、出世街道をひた走る土台が構築されたのだが、SOP創設と同時に第二セクションへの参加を志願し、今日に至った。SOPに入隊して八年、これまでに数多くのテロリストを摘発し、二つのテロ組織を壊滅に追い込んだ現在の彼は三十四歳、階級は警部である。

 里中の相棒を務めるのは、一八〇強の背丈とタフな肉体、たいていの子供なら怖がってしまうような顔、そして、妻と三つになる娘を持つ西岡武信、三十二歳である。

 彼は里中とは対照的に、高校を卒業してから警察官になり、交番勤務から始めたノンキャリアの代表のような男である。彼の武器はその鍛え抜かれた肉体にあり、空手、柔道、剣道において“段”を有し、射撃の腕前も極めて優秀であった。外勤警察官をへた後、機動捜査隊の一員として長らく活躍していた彼は、本来SOP第一セクションに志願したのだが、あろうことか上司の不手際により、第二セクションに配属されてしまった。しかし、上司の不手際は思わぬ幸運を彼にもたらした。それは、里中との出会いである。

 誰もがおっとりとした頭脳派の里中と、気短にして肉体派の西岡とのコンビなど、うまくいくわけがないと信じていた。だが、それは思い違いであった。コンビを組んで八年、二人は常にSOP第二セクションの功績の担い手であった。

「なるほどね、やっと全体像が見えてきたよ」

 田口本部長が渡辺からの説明を聞いた後に言った。

「まったく上の連中ときたら、いつも肝心なことは秘密にしてやがる」

 西岡がSOP総括委員会をいぶかしく思いながらそう言うと、そのメンバーである田口本部長は苦笑しながら言った。

「そう言うな、私だって知らなかったことなんだ」

「とにかく、木下を殺った奴を一刻も早く捕まえてください。八〇年代後半の、あの悪夢のようなテロ活動の復活などごめんですからね」

 渡辺の要求に田口本部長が答えた。

「捜査は里中率いる第七班に担当させる。加えて第二班、計十二人の捜査官を投入する。まあ、我々を信用しておけ」

 その言葉を受けた里中は、いつもと変わらぬのんきさで「えー、何とかしますよ」と言った。

 渡辺はSOP時代、里中とは何度となく共闘している。例えば、里中が突き止めたテロ計画を、渡辺が阻止するというような形で。したがって、渡辺は里中の実力を熟知しているのだが、里中の発する独特の声音は、いつ聞いても頼りないものであった。

 渡辺は里中に尋ねた。

「で、どこから手をつけるんだ?」

 その問いに里中が答えようとした時、本部長室の電話が鳴った。電話を取った本部長が里中に向かって言った。

「里中、お前にSOPの女戦士様からだ」

 それは川崎工場に展開中のSOP16部隊の女性隊員、星からの電話だった。

「やあ、恵里さん。どうしたの? 今川崎にいるんでしょう」

「もう、名前で呼ぶのやめてって言ってるでしょう。それより、伝えておきたいことがあってね。里中さんに直接」

「何?」

「木下殺しの一件、里中さんが担当するんでしょう。実は、ついさっきここに賊が侵入してね。設計図か何か、はっきりとはしないんだけど、何かを持ち去ったらしいの」

「おやおや、SOP第一セクション一個小隊が出張っていながら、とんだ大失態だね」

 星は声を大きくして言った。

「大失態はないでしょう! 人がせっかく正規の連絡前に、少しでも早くと思って連絡してあげたのに。大体ね、16部隊は経験の浅い隊員が多いんだから、文句があるなら本部長に言ってよ!」

「はいはい、そんなぁ怒らないで。で、賊に関して何か分かってることはあるの?」

「名前は大平……」

「はーい、分かりました。それじゃ、へましなでね。バイバーイ」

 里中は電話を切るとすぐに渡辺に向き直り尋ねた。

「大平勇一って社員、知ってますか」

「ああ、木下に情報を漏らした社員だ」

「なーるほど」

 里中はにっこりと微笑んで言った。

「渡辺さん、どこから手をつけるか決まりましたよ。まずは、大平の家へ案内してください」

 渡辺はこの時強く思った。沢木といい、里中といい、インテリとされる部類の人間はどうも苦手だと……




 居間のソファに座り、ただぼうっとして時を過ごしていた人美は、響き渡るサイレンの音にはっと我を取り戻した。時刻は八月十五日の正午ちょうど。サイレンは第二次世界大戦の犠牲者をしのぶものであった。ふと見ると、千寿子がダイニングルームのテーブルの側に立ち、黙祷をしている姿が映った。人美もそれに習い、黙祷を捧げた。

 サイレンが鳴り止み、人美は目を開けた。と同時に、千寿子の呼び声がした。

「人美さーん、お昼ですよ」

「はーい」と答えて食卓に着いたものの、食欲はあまりなく、食べ物を箸で突っ突くのが精一杯だった。

 向かいの席に着いていた千寿子が心配そうに尋ねた。

「食欲ないみたいね。まだ、昨日の夢のことを気にしてるの?」

 人美はうつむいたまま答えた。

「ええ、何だかとても気になって」

「そのようすじゃ、睡眠もろくにとってないんでしょう」

「ええ」

 千寿子はどうしたらよいのやらと思案しながらも、話しをしていれば少しは気分も変わるだろうと思い、「今までにも怖い夢を見たことがあって?」と尋ねた。

「はい、何回かはありますけど。こんなに続くのは初めてです」

「続く?」

「そうなんです。この家に来る前にも、昨日と全く同じ夢を何回か見ているんです。でも、彩香が心配して泊まってくれてからは、しばらく見てなかったのに……」

 人美は今にもべそをかきそうな顔をしていた。

「そう、それなら彩香さんに遊びに来てもらうといいわ。泊まってもらってもいいのよ、遠慮しないでね」

「ありがとうございます。でも、彩香、今日は用があって出掛けてしまって」

「あら、心細いわね…… それにしても、いつからそんな夢を見るようになったの?」

「七月の二十九日、日曜日の夜からです」

「まあ、よくはっきり覚えているわね」

「ええ、ちょっとやなことがあって」

「なーに、やなことって? もしかしたらそれが原因なんじゃないの、よかったら話してみて」

 人美は彩香と一緒に長浜海岸に遊びに行った帰り道、二人の男に襲われそうになったことを話して聞かせた。

「まあ、何てことでしょう。でも、大事にならなくてよかったわ、本当に」

 千寿子は人美の話しに驚きつつも、自分の推測を言ってみた。

「よほど怖かったでしょう。それがきっかけかも知れないわね」

「でも、そのこと自体はそれほど気にしてなかったんです―もちろん怖かったけれど、その後、彩香と一緒に笑い飛ばしてしまったくらいですから……」

「そう。でも、ほかに原因らしいものもないわけだし、専門的なことは分からないけど、トラウマ(精神的外傷)っていうの? それかも知れないわ」

 千寿子は沢木にこのことを伝えようと思った。




 葉山の本部では、出前の麺類や丼ものの昼食を摂りながら、沢木たちによる討議が進められていた。議題はもちろん人美に関することであり、その焦点は、昨夜彼女を襲った悪夢とその時観測された脳波の解釈に絞られていた。

 松下が言った。

「どうにも分からんというのが正直なところなんだよ。ただ、脳波形には三サイクルの棘徐波や鋸歯状波がみられるんだ」

 沢木が尋ねた。

「それはどういうことなんです?」

「つまり、昨夜人美さんの身に起こったことは、“てんかん”の発作に類似しているということなんだ―あくまで、脳波からいえばだがね」

 秋山が言った。

「“てんかん”には昨夜のようなケースもありうるんですか? 夢にうなされるような」「んん、まあ、ないとはいえんと思うが…… “てんかん”と一口に言っても症状はさまざまでね、発作の形式だけだって、痙攣発作、失神発作、精神運動発作、精神発作、自律神経発作とあるんだ。例えば、覚醒時から発作が始まり夢を見ているような状態に移行する〈てんかん性朦朧状態〉は鋸歯状波を伴うんだ。それから考えれば人美さんは“てんかん”を起こしたといえなくもない。だが、例え“てんかん”だったにしても、昨夜観測された脳波の振幅は異常の一言に尽きる。一時的に記録された周波数だって六〇ヘルツだ。脳波というのは速くても四〇ヘルツぐらいまでだからね」

 沢木は一番心配していることを尋ねた。

「昨夜のようなことがまた起こった時に、精神的な障害や脳に損傷を及ぼすような可能性は?」

「んー、難しい質問だね。しかし、可能性はあるよ。精神的興奮などによって急激な血圧上昇があると、脳の血液循環に障害を引き起こすことがある。具体的な病名で言えば、脳卒中とか、脳出血とかね。だが、今現在分かっていることからでは、何とも判断しかねる。彼女を直接診察できればいいんだが、全くもどかしい限りだよ。せめて脳波の出現箇所を特定できればいいんだが」

「つまり、脳のどの部分から異常波が出力されているか、ですか?」

「んん」

「分かりました。ソフトの変更で何とかなるか、検討してみます」

「できそうか?」

「PPSは全部で八カ所設置されていますから、それぞれの位相差を解析すれば位置を特定できるでしょう。ただし……」

 ここで電話が鳴り、応対した秋山が沢木に言った。

「沢木さん。本社からの転送で、会長の奥様からだそうです」

「奥さんから? 何だろう」

 沢木は電話に出た。

「もしもし、沢木ですが」

「あーよかった。やっとつながったわ」

「すみません、今出先なものですから。それで、ご用件は?」

「実は、人美さんのことなんですけど」

「えっ」

 沢木は一瞬驚いた。千寿子にはこの計画に関することは内密にしてあるのだ。

「ああ、お預かりしているというお嬢さんのことですね」と一応とぼけながら、沢木は皆に会話が聞けるように外部スピーカーのスイッチを入れた。

「ついさっき人美さん自身の口から聞いたんですけど。七月二十九日に……私としてはそれが原因じゃないかと思って」

「そうですか、それにしてもどうしてそれを私に?」

 千寿子はくすっと笑った後に答えた。

「誰だって分かりますよ。うちに近寄らない片山さんが珍しく来たと思ったら、人美さんのお父さんが来た日に沢木さんと秋山さんが来る。そうかと思えば何人かの人たちが人美さんの部屋に出入りをする。最も、具体的に何をしてるかまでは分かりませんけどね」

 沢木は苦笑しながら答えた。

「それもそうですね。どうもありがとうございました、非常に参考になりました」

 千寿子は重々しい口調で言った。

「沢木さん、何をしてるかは知りませんが、くれぐれもよろしく頼みますよ。お願ね」

「はい、ベストを尽くしますので」

 沢木が電話を切ると、待ってましたとばかりに岡林が叫んだ。

「その男って! 例の溺死した……」

 沢木は短縮ダイヤルのボタンを押しながら言った。

「かもな」




 神奈川県の三浦海岸にある海の家の座敷で、情報管理室の相馬はふて寝をしていた。彼は先週の月曜日から今日を含めた九日間を、三戸海岸で溺死した二人の男の足取りを探るべく捜査に費やしてきたのだが、これといった情報は何も得られず、連日を炎天下にさらされて、いい加減嫌気がさしてきたところだった。彼のすぐ脇の卓袱台の上にはビールの空き缶が二缶と、食べかけの枝豆が置かれていた。

「お客さん、お客さん!」

 バイトの若い女性が言った。

「何か鳴ってますよ、電話じゃありません?」

 彼は目を覚まし、「ああ、すまない」と言いながら携帯電話機を耳に当てた。

「もしもし、沢木ですが」

「ああ、こりゃどうも。あいにくまだ何も掴めてませんよ」

「こちらで有力な情報が得られました。二人の溺死体があがった日、人美は長浜海岸に友人の泉彩香と遊びに行っています。その帰り道、海岸近くの公園で二人の男に襲われかけたところを三人の男性に助けられています」

 彼は沢木の説明を聞きながら、目を完全に覚ましていった。

「そうか! 分かった。すぐに長浜海岸をあたってみる」

 彼はおもむろに靴を履くと、勢いよく海の家を飛び出そうとした。しかし、行く手をバイトの女性に阻まれた。

「お客さん! お勘定、まだなんですけど」




 相馬が海の家で勘定を払っているころ、渡辺、里中、西岡の三人が乗った車は、大平の自宅にまもなく到着しようかというところだった。

 地図を見ながら助手席に座る渡辺が言った。

「次ぎの角を左に曲がって一〇〇メートルほど行った右側だ」

 西岡はハンドルを左に切り、その角を曲がった。その時、「止まれ」と渡辺が指示した。「どうかしました?」

 後部席にいた里中の問いに、渡辺が前方を指差しながら答えた。

「あのタクシー」

 見ると、タクシーから大きな書類ケースを持った男が、足早に近くの家の中に消えていった。

「大平?」と里中が聞くと、渡辺はうなずいた。

 西岡が言った。

「さてと、どうしますかね。あのようすじゃ、中に誰かいそうですよ」

 次いで渡辺が―

「木下を殺った奴かもな」

 里中は―

「可能性は大ですね。大平が川崎から何を持ち去ったかは知りませんが、自身の意思での行動ならば、もっと計画的に行動したはずだ。押し込み強盗よろしくSOP隊員をねじ伏せて、急いで自宅に帰って来たところを見ると―こりゃ、物騒なお客がいそうですよ」「大平には妻と娘がいる。人質に捕られているかも知れん」

 渡辺がそう言った後に、西岡が言った。

「お客は複数かも知れない」

 里中は頭に手をあてがいながら言った。

「まいったなー、第一セクションの連中を連れてくりゃよかった―ああ、忘れてた。ここに一人いる」

 里中は渡辺の顔を見ながら尋ねた。

「こういう場合、どういう戦術をとります?」

 渡辺は答えた。

「とにかく状況を把握しないことには。まずは偵察だな」

「そうですね」と言いながら、里中は懐からSOP正式採用銃であるベレッタM92Fを取り出し、それを渡辺に渡した。

「これは渡辺さんが持っててください。大丈夫ですね」

 この“大丈夫”という言葉には、里中の渡辺に対するある想いが込められていた。彼は渡辺がSOPを辞めた理由を知っている。あの敗北に喫した人質救出作戦の際、その舞台となったテロリストのアジトを突き止めたのは里中だったからだ。そして今、大平の娘が人質に捕らわれているかも知れないのだ。

 渡辺と目と目を合わせた里中は、やや口調を明るくして続けた。

「私はろくに射撃訓練も受けてないですから」

 西岡もそれは踏まえたうえで、「いいのか? 今は民間人だぞ」と言った。

「俺が持っているよりはましだ」

「しかし、万が一のことがあったら」

「その時はお前がやったことにするさ」

 西岡は苦虫を噛み潰したような顔を里中に見せながら、自分の銃のスライドをカチャリと引いた。

「心配するな、腕は衰えていないよ。多分……」

 そう言いながら渡辺は車を降りていった。

「聞いたか? 多分だぞ、多分」

 里中は西岡の言うことを無視して言った。

「ささっ、行った行った」

 三人は大平の家へと歩き始めた。




「ご苦労だった」

 木下を殺った男は満足げに言った。ダイニングのテーブルの上には大平の持って来た資料が広げられ、椅子に座らされた娘に覆いかぶさるようにして、男はそれを眺めていた。「約束は果たした。さっさとこの家から出て行ってくれ」

 男は薄ら笑いを浮かべて言った。

「よし、いいだろう。ただし、俺がここに来たこと、お前に資料を持って来させたこと。そういったことをサツにばらしてみろ。例え俺が捕まろうと、俺の仲間が必ずお前たちを殺しに来るだろう。分かったな」

「ああ、誰にも言わん、約束する」

「では、お前は女房の隣に座れ。娘は勝手口を出たところで放してやる。それまでそこを動くんじゃないぞ」

 男は娘を抱き抱えると、ナイフをその頬に当て、後退りをしながら部屋を出て行った。 その途端、大平と妻の座るソファの裏にある、庭につながる大きな窓は音もなく静かに開いた。気配を感じた大平は、振り向きざまに思わず声を発しそうになったが、それよりも早く、飛び出した里中が彼の口をふさぎ、SOPの身分証明書を見せ、じっとしているようにと動作で指示した。やや遅れて西岡も入って来た。西岡は銃を抜き、足音を消して男が出て行った廊下のほうへと進んだ。一方、勝手口近くの裏庭にいた渡辺は、里中からの無線により男の接近を知り、側にあった物置の陰に銃を構えて身を忍ばせた。

 勝手口の前にたどり着いた男は、そのドアを開け、外のようすをうかがった。人の気配はない。男は娘を下ろすと、口をふさいでいたガムテープをはがし、ロープを解いてやった。娘はしばらく男をじっと見ていた―それは憎しみが半分と、拘束から解放してくれたことへの感謝の気持ちが半分だった―が、「行け!」と怒鳴られると、父と母の待つ部屋に向かって駆け出した。男が外へ出ようとした時、「あぁー!」という娘の悲鳴と、「ドタッ!」という音が男に聞こえた。部屋の入り口に隠れていた西岡に、娘がぶつかり転んだのだ。西岡は娘の足を引っ掴むと強引に部屋の中に引きずり込み、銃を構えて「SOPだ! 動くな!」と叫んだ。しかし、男は既にイングラム(小型の機関銃)を構えていた。彼は胸にガムテープでそれを止めていたのだ。シュシュシュシュシュシュッ―とサイレンサー付きのイングラムは音を発し、「バキバキバキ……」と廊下の突き当たりの壁に穴を開けた。とっさに身を隠した西岡は、銃声がとぎれたのを期に、部屋から身を乗り出して銃を撃とうとした。しかし、男は勝手口から外に出ていた。

 男は渡辺の目の前に飛び出して来た。渡辺は物置越しに銃を構え「これまでだ!」と叫んだが、男の反応は極めて早く、彼に向けてイングラムを乱射した。彼も身を隠しながら二発撃ち、このうち一発が男の左腕に当たった。「ううっ」と身を屈めた男に、西岡が素早く飛び掛かった。渡辺もすぐに西岡に加勢した。だが、男の力は一八〇もの背丈と屈強な肉体を誇る二人を持ってしても制することができなかった。男は背中にまとわりついた西岡を背負い投げにし、近づいて来た渡辺に回し蹴りを放った。が、渡辺はこれを両手で受け、掴んだ男の脚を手前に思い切り引き、男の身体にしがみついた。そして男の目開き帽に手を伸ばし、それをはぎ取った。

 勝手口まで来ていた里中は、その男の顔を見た途端一瞬息が止まった―そんな!―が、すぐに叫んだ。「鮫島っ!」―木下を殺った男―鮫島は、ナイフで渡辺の腕を切りつけ、立ち上がろうとした西岡の顎に蹴りを入れ、さらに催涙ガスのスプレーを撒き散らしながら庭の弊を乗り越えて逃走した。渡辺も西岡もこれを追おうとしたが、催涙ガスによる涙と痛みで視界を奪われ、それを阻まれた。里中はやや遅れて―あまりにも意外な人物の顔を見たためにすぐに動けなかった―弊を飛び越え追跡を試みたが、鮫島の姿は既に消えていた。彼は拳を握り締め、怒りの表情をあらわにした。これほどまでに感情を高ぶらせたのは、鮫島という男が里中にとって、これまでで唯一取り逃がした獲物だったからだ。

 彼は無線で本部に連絡し、鮫島の手配及び鑑識を寄越すよう要請した。

 里中に近づいて来た渡辺は、ハンカチで目を押さえながら言った。

「あいつを知ってるのか」

「ええ。ちょうど渡辺さんが辞めたころから暗躍しだしたテロリストですよ。それも一流の……」

 よろよろと目と顎を押さえながら西岡も側に来て言った。

「奴は海外に脱出したんじゃ?」

「ひょっこり帰って来たんだろう。おふくろの味でも懐かしくなって……」

 里中は渡辺に向き直り続けた。

「渡辺さん、奴は非常に邪悪な男です。十分用心したほうがいい。それからお貸しした銃は、そのまま持っていて結構です。あなたの身を守るために」

「そんなに危険な奴なのか? 詳しく教えてくれ」

「ええ―しっかし、まいったなぁー」

 突然口調の変わった里中に西岡は尋ねた。

「何が?」

「鮫島を取り逃がしたことを恵里さんが知ったら…… 何て言うかなぁ……」

 川崎工場にいるSOPのエース、星恵里がくしゃみをしたのは午後十二時四十一分のことだった。



 鮫島守の頭は疑問で一杯だった。なぜSOPが? なぜあんなに早く里中が? 大平が刺したのか? いや、例えそうだとしても、一般警官ならともかく、やって来たのは里中だ。木下を殺ったのが俺の仕業とかぎつけたのか? それも違う、そんなはずない。だとしたら…… プロメテウスの情報漏れ―それならSOPが動いていることもうなずける。ならば、川崎工場は……

 鮫島は都内の雑居ビルに用意された自分の隠れ家で、そんなことを考えていた。撃たれた傷―彼にしてみればほんのかすり傷程度。事実軽傷だった―からは今も血がにじみ出ていたが、彼は長い間の経験で身に付けた精神力により、それを神経から切り離すことができた。肉体的な苦痛をコントロールすることなど、彼には容易いことだった。

 鮫島は高校を卒業すると陸上自衛隊に入隊し、そこで戦士としての基礎を学んだ。しかし、自衛隊での生活は、あらゆることに関して欲求不満のもととなった。駐屯地での生活、間抜けな上官の怒号、現実感のない戦闘訓練、不完全燃焼の肉体、愚痴ばかりこぼす同僚、あいまいな自衛隊の位置付け、偽りの平和に戯れる危機感に欠ける国民、政治の不誠実。そうした彼の不満は日を追うごとに累積し、ありあまる力を思い存分開放できる場所を求めさせた。

 数年の後、彼はフランスに渡り、そこで外人部隊への入隊を志願した。訓練を終え、初めて派遣されたのはアフリカだった。彼の戦士としての類稀なる才能は確実に開花され、水を得た魚のように生き生きと、活力にみなぎり、そして誰よりも強く勇ましかった。

 彼は戦いの中からある種の信念―政治的でもあり、宗教的でもあった―を見出した。それは、「この世の中には卑劣にして強大なる権力が存在し、多くの善良なる民を迫害、弾圧し、己の力と私腹を固持せんとしている」という観念であり、「間違った思想には力を持って対抗しなければならない」という答えだった。その確信を得てからは外人部隊を離れ、ある時は共産主義と闘う人々と、またある時は国粋主義と闘う人々と、そしてまたある時は迫害される少数民族とともに闘った。しかし、彼なりの理想の達成の道は険しく、多くの壁が立ち塞がった。また、行く度にも積み重ねられた狂気の世界―暴力と破壊、死、混沌、野心、憎しみに包まれた世界―での生活は、次第に彼の心を狂わせた。いつしか彼の信念は彼自身の手によってねじ曲げられ、金で動く殺人マシーンへと変貌していった。

 鮫島が日本に戻って来たのは四年前、一九九一年の十一月の寒い冬のことだった。久しぶりに日本を見た彼は思った。この世の中に、まだこんな陳腐な平和を携えた国があるなんて、と。

 彼が帰国したのは、日本のある組織に雇われたためだった。その組織は〈民の証〉と称する右派系テロ組織であり、“民族の独立”というスローガンのもと、天皇の立憲君主たる地位の改善、憲法の自主制定、左翼思想の非合法化、日米安保条約の解消と自衛隊の正規軍化、他民族の排除など、テロを持ってこれらを現体制に討ったえた。

 〈民の証〉を形成するのはテロリストだけではなく、政治団体、企業、マスコミ、新興宗教団体などの一部も加わっていた。中でも改元党と称する政党は、〈民の証〉の後押しを受けて誕生した政党であり、一九八五年から高まりをみせたナショナリズムの波に乗って、その年の総選挙で八議席を奪ったのを皮切りに、一九八七年には十五議席を得て、さらに一九九一年には二十六議席を有する野党第二党にまで昇りつめた。その間、テロに関与していること、〈民の証〉の支援を得ていることなど、黒い噂は絶えずささやかれたが、ナショナリズムをくすぐる彼らの問いかけに、多くの有権者が票を入れていったのだ。

 このような当時の背景の中、鮫島は金に操られるがままに、与党のリベラル派の旗手である代議士と共産主義政党の党首、現体制に影響力を持つ実業家二人、計四人を暗殺し、さらに在日米軍基地に対する爆破テロ(死者十四名、重軽傷者三十一名)、有力企業の社長の誘拐など、悪の限りをし尽くしたのだった。

 しかし、鮫島や〈民の証〉、改元党の栄華も長くは続かなかった。彼らに執拗に迫ったのが、SOP第二セクションの捜査官、里中涼だった。彼の追求は鋭く的確であり、一九八七年のSOP創設以来、一九九三年までの六年間に、〈民の証〉の指導者二名をテロ対策法違犯の罪で、改元党の代議士と大手出版社の週刊誌編集委員をテロ扇動の罪で、さらにテロの実行犯数名を逮捕した。また、SOP第一セクションの活躍もあいまって、国内右派系テロ集団は壊滅に近い打撃を被り、一九九三年の総選挙では、改元党は六議席と惨敗した。が、里中の最大の目標は鮫島だった。

 里中は、SOP第一セクション一個小隊を率いて、鮫島のアジトと目される場所に踏み込んだ時、思わず絶句した。鮫島はその時既に海外へ逃亡した後だった。

 それから二年、鮫島は再び帰って来たのだ―

 鮫島はベットに横たわりながらつぶやいた。

「確かめてみるか……」

 彼は銃による傷を自ら治療した後、かつら、口髭、眼鏡を用いて変装し、相模重工川崎工場へと向かった。途中で車を一台失敬し、千鳥橋から川崎海底トンネルへと抜ける道路を走る車の車窓から、川崎工場を守るSOPの隊員を確認したのは、午後六時過ぎのことだった。

 やはり獲物はばれていたようだな。どうやらどこかに切れ者がいるらしい




 そのころ里中はというと、西岡とともに大平勇一をSOP本部に連行し、数時間に渡る取り調べを行っていた。

 プロメテウス計画は国防に関する最重要機密であり、それを漏らした大平には、“国家の安全保障に関する情報を漏洩した罪”が適応されてしかるべきだった。しかし、SOP総括委員会の意向により、彼は夕飯時には自宅に帰ることが許された。なぜなら、大平を罰するための裁判が行われれば、プロメテウス計画が公になってしまうからだ。また、相模重工も、彼を企業秘密漏洩のかどで告訴することはなかったが、理由はこれと同じである。だが、彼はその日をもって相模を解雇され、その数カ月後には一家そろって彼の生まれ故郷である岩手県に帰ったと噂された。

 中途半端な正義感を持つ者ならば、大平に対するこのような措置を許しはしなかっただろう。しかし、里中はそれを黙認し、彼を自宅まで送り届けてやった。大平は車を降りる時、里中に向かって不安げに尋ねた。奴はまた私を狙うでしょうか、と。里中は、父を迎えに飛び出して来た少女に微笑みかけながら答えた。「もう大丈夫だよ」と。そして大平に向き直ると、「奴も私と一緒でね、小者には興味がないんですよ」と言いアクセルを踏み込んだ。

 里中と西岡を乗せた車は、鮫島の陰を追って夜の街へと走り去って行った。




 時がさかのぼること午後三時過ぎ、葉山の本部はひっそりと静まり返っていた。人美を巡る議論は底を突き、誰もが精神的疲労を感じ、口を開くことすら億劫というような状態だった。誰かがポンと答えを渡してくれたならどんなにか楽だろう。しかし、彼らは自分自身の手で答えを探さなくてはならないのだ。なぜなら、彼らは開拓者であり、冒険者であるから―

 その静けさを打ち砕いたのは電話のベルだった。

「もしもし、相馬です。分かりましたよ、ついに!」

 秋山の取った受話器から、相馬の勢い勇んだ声が飛び込んできた。

「ちょっと待ってください。沢木さんと替わります」

 彼女は沢木に「相馬さんからです」と告げ、外部スピーカーとマイクのスイッチを入れた。マイクに近寄った沢木が言った。

「沢木です。何か分かりましたか」

「つながりましたよ。見山と溺死体」

 スピーカーの前に集まって来た沢木組の面々がどよめいた。

「彼女を救った男の一人を見つけたんです。その人は海の家の経営者で、その時のことをよく覚えていましたよ。なんせ、少女を救うなんてことは、彼にしてみればちょっとした英雄伝ですからね」

「でっ! 確認は? 間違いないんですか!?」

 沢木が問い質した。

「ええ、写真で確認しました。見山のことも、友達の泉でしたっけ? それから溺死した男二人、すべて顔を確認できました」

 岡林が思わずつぶやいた。

「すっげぇー」

「念のため、その時いた別の二人にも面通ししてもらったんですが、結果は同じです。あの日見山人美を襲ったのは、海で死んだ男たちだったんですよ」

 沢木は唇を噛み締めた。なんてことだろう。予想していたこととはいえ、ショックは隠せなかった。これはもう偶然の域を越えている。偶然の域を…… やはり彼女は……

「もしもし、もしもし……」

 相馬の呼びかけに答える者はしばらくいなかった。皆、沢木と同じ衝撃を味わっていた。ややあって、ようやく沢木が答えた。

「ああ、すみません。どうもご苦労様でした」

「いえいえ。それじゃ、私の任務はこれで終わりましたから―ほかに何かありますか?」「いえ、もう十分です。元の仕事にお戻りください」

「分かりました。それじゃあ、本社に取り敢えず戻りますので、失礼します」

「はい。本当にお疲れ様でした」

 電話がとぎれた後も沈黙の時間は続いた。それぞれが思い思いの場所に座り、直面した事実をどう受け止めたらいいものか苦慮していた。ある者は単なる偶然と思っていた。しかし、偶然がもたらすことにも限界がある。もはやサイ・パワーは確実のものなのか? そういぶかっていた。またある者は最初からそれを信じていたが、いざ自分がそれに接しているのかと思うと、何ともいえぬ恐怖心が湧きあがってくるのだった。そしてまたある者は、偶然であろうとサイ現象であろうと、そのことを人美という少女が知った時、彼女は一体どうなるのだろう? あるいは彼女はそれを意図的に行使しているのだろうか?

そんな思いで不安になっていた。だが、誰の心にも、答えとなるべきものはみいだせなかった。そして心の中は曇り、不安、恐怖、疑問、迷いが駆け巡り、そうしたそれぞれの思いが、彼ら―沢木、秋山、片山、岡林、松下、桑原―を不思議な空間へと送り込んだのだった。

 そのころ、人美は自室のベットの上で服を着たまま眠っていた。彼女の意識下の恐怖心と、無意識下の眠りへの欲求が互いに激しくぶつかり合い、ついに欲求が勝利したのだ。安らかな寝息をたて、死んだように、深く、深くと眠りの中へ、自身の心の中へと導かれていくのだった。そして、彼女の眼球がピクピクとうごめくレム睡眠を迎えると、精神は肉体を離れ、自分を見つめている者のもとへと旅立った。

 沢木たちの沈黙はその声によって破られた。時間が止まり外の世界と隔離され、彼らのいる場所は現実世界から脱した異次元空間のごとく、異様な空気が渦巻いていた。音はなく、ただその声が聞こえるだけだった。

「あなたたちはだーれ?」

 秋山の口から発せられたその声音は、優しいそよ風のように繊細で、少女の純真な心を物語るかのような、甘く切ない問いかけだった。

「えっ!?」

 沢木は突然の問いかけにはっと我を取り戻し、声のほうを向いた。

「どうして私を見つめるの?」

 皆、息を飲んだ。彼らに問いかけるその声音は、秋山から発せられてはいるものの、彼女の声ではないことに既に皆が気づいていた。それは彼女に乗り移った何かだった。

「ねえ、誰なの?」

 秋山の身体を借りた何かは、執拗に彼らを問い質した。沢木は彼女に歩み寄ろうとしてて突き進んだが、その行く手を「話しかけないほうがいいわ、多分」という桑原の言葉に阻まれた。

「どうして答えてくれないの? 答えもしないのに、どうして私に構うの?」

 秋山は鋭い視線で沢木を見つめながらそう言ったが、誰も答える者がないと知ると、もの悲しげな表情を浮かべ涙を流し始めた。その表情にいたたまれなくなった沢木は、ついに言葉を投げかけた。

「人美? 君は見山人美さんだろう?」

 秋山の顔をした人美は答えた。

「ええ、そうよ」

 その瞬間、沢木を除く者たちは身震えした。もはや偶然という逃げ場はなくなり、サイ現象は実在する、という事実のみが示された。―ええ、そうよ―その一言が証明したのだ。それは、発見の喜びや遭遇の興奮という感情の前に、ただただ驚愕させるだけの事実であった。しかし、これは沢木には当てはまらなかった。彼の心の奥深くで固まりつつある探究心と人美に対する想いは、この事実と遭遇したことによってより増強され、彼の行動を支配した。彼女を知りたい、そして守ってやりたい……

 人美は暇なく言葉を続けた。

「やっと答えてくれたのね。あなたは誰?」

 沢木はソファに座った人美の前まで近づくと、その前にしゃがみ込んで名乗った。

「私は沢木聡」

 人美は涙を流すのを止め、頬を流れた滴を手のひらでぬぐいながら言った。

「そう、沢木さん。私をずっと見ていたのは、あなた?」

「そうだよ」

「そうだと思ったわぁ。ずっと前から意識してたの、あなたの視線を」

「ずっと前って、どのくらい?」

 彼女はかぶりを振りながら言った。

「だめよ、質問するのは私よ」

「そうだね」

 沢木はにっこりと微笑み答えつつも、何ともいえぬ不思議な気分に包まれていた。今、自分は何の抵抗もなく、こうして人美の精神と会話している。一度も会ったことのない彼女と、一度もしたことのない方法で。目の前で起こっているサイ現象を、これほど無垢な状態で受け入れている自分の心理とは何なのだろう。そんな気分だった。彼は自身の心の奥底にある、行動を支配するものを意識下で理解していたわけではなかった。

「なぜ私を見つめるの?」

「答えに困るな」

「どうして?」

「自分自身でもよく分からないんだよ、どうして君を見ているのか。でも、君には非常に魅力的な―そうだなぁ、一種の才能がある。それを見届けたいと思っているのかも知れない」

「才能? どんな?」

「……」

 答えに苦慮する沢木を見て取った人美は、もういいわ、と言うかのように微笑むと、新たなるテーマを彼に示した。

「ねえ、あなたが怖いものはなーに?」

「私に怖いものなんてないさ」

 決して嘘ではない答えだった。彼は八年前にとても愛していた女性を失って以来、自分は過去の夢の惰性で生きている、という観念が頭を支配し、もはや怖いものなど何もない、得るものはあっても失うものは何もない、とずっと思っていた。

「本当?」

「ああ。私はとても大切なものを既に失ってしまっている。そのことに比べれば、もう怖いものなんてないよ」

「それは違うと思うわ。だってあなたには…… 止めとくわ」

「気になるな」

「自分で考えるのね。他人が口を挟むことじゃないから。それと、あなたは多分私と一緒、自分自身が怖いと思うわ」

「自分? よく理解できない。なぜ君は自分が怖いの?」

「私の心の中には何か別のものが棲んでいるのよ。それがとても怖い夢を見せるの。もしかしたら、私の知らないところで悪いことをしているのかも……」

 人美は視線をふっと下に落とすと、息を深く吸い込みながら天井を見あげた。沢木はその仕草から、彼女が抱く恐れや不安に対する思い込みの程度を見て取った。

「ねえ、見山さん」

「人美でいいわ」

「じゃあ、人美さん。一緒に互いの恐怖を取り除こうよ」

「それは無理よ」

「どうして?」

「だって、あなたは恐怖を自覚してないもの」

「教えてくれないかい?」

「だめ、さっきと一緒。自分で考えるのね―とにかく、私に構うのはもうやめて。じゃないと…… じゃないとあなたはひどいめに遭うわ、きっと」

「どんな?」

「自滅するわ」

 沢木は十分に言葉を選んだつもりで尋ねた。

「死ぬ、ってこと?」

「そんな感じかもね―私、もう行くわ。二度と会うことはないと思うから…… さようなら」

 人美は去って行った。沢木は何度か彼女の名を呼んだが、答える声はなかった。彼女が抜けた秋山の身体は、彼に覆いかぶさるように倒れ込んだ。彼はそれを受け止め「秋山、大丈夫か!?」と叫んだ。すかさず松下が「そこに寝かせて!」と指示し、沢木は秋山をソファに寝かせた。松下は秋山の首に手を当て脈を取り、呼吸数を数え、ペンライトで瞳孔の動きを確認した。その間、こんな怒号が飛び交った。

「もう止めたほうがいいよ。彼女は悪魔だ!」

 岡林の叫びを受けて片山が言った。

「そんな言い方は止めろ!」

「じゃあ、なんて言うんだよ!」

「そんなこと知るか!」

「分からないで偉そうなこと言うなよ!」

「何だと!」

「無責任だよ!」

「じゃあ、ここでやめることが責任あるって言うのか!? ええ!」

 それを止めたのは桑原だった。

「うるさい! 黙って!」

 ペンライトの光を消しながら松下が言った。

「大丈夫、気を失ってるだけだ。だが念のため、明日にでも精密検査を受けさせたほうがいいだろう」

「上で休ませましょう」

 桑原がそう言うと、沢木は秋山を両腕で抱き上げ、二階に向かって歩き出した。

「どうするんだよ、一体?」

 岡林が震えながら、誰に言うともなくそう尋ねた。

「うろたえるんじゃない」

 片山にそう言われた岡林は、再び声を荒げた。

「うろたえて悪いのか! ただごとじゃないんだぞ! 人美は沢木さんが死ぬって言ってるんだぞ!」

 今度は松下が制した。

「止めろ! 二人が争うことじゃない。とにかく、秋山君が意識を取り戻したところで、みんなで今後のことを話し合おう」

 秋山を抱き抱えた沢木は、怒鳴り合った二人のほうを振り返って言った。

「片山、岡林、すまない」

「……」

「片山、観測機材の電源を切ってくれ。それから、ウッドストックを呼び戻してくれ」

 それだけ言うと沢木は二階へと上って行った。

 二階の仮眠室にたどり着くと、沢木は秋山を簡易ベットの上に寝かせ毛布を掛けると、彼女の顔が近くに見える位置にあぐらをかいて座った。そこへ桑原が入って来て、彼の隣に座ると尋ねた。

「終わりにするんですか?」

 沢木は秋山を見つめたまま答えた。

「いいえ、止めません。人美の顔、見たでしょう。彼女は誰よりも怯えてる。このまま放り出すわけにはいきませんよ、絶対」

「そうね、基本的には賛成よ。私もこのままでは引き下がれない思いだから。でも、あなたは彼女に警告されたのよ。これ以上は危険かも知れない……」

「私はねぇ、桑原さん。どんな問題にでも必ず解決方法があると確信しているんです。今はその方法を思いつきもしませんが、絶対にある、そう信じてるし、また、それを見つけなければいけないと思ってます。今ここで彼女を一人にしてしまったら、彼女のほうこそ自滅してしまうような気がするんです。私はそんなことは嫌なんですよ。彼女を守ってやりたい。もしも私に怖いものがあるとすれば、彼女がそうして自滅してしまうことですよ」 桑原はそれに対して何も言わなかった。しかし、心の中ではこんなことを彼に話しかけていた。

 あなたにとって怖いもの、人美がさっき言いかけたことは、多分そういうことじゃないと思うんだけど。もっと別のものを、あなたの深層心理は恐れているんじゃないかしら




 それから数十分の時がたち、渡辺が本部に帰って来た。彼は里中たちと別れた後、鮫島から受けた傷の手当てを病院で受け、それから本社に立ち寄り、テロ対策に関する指示や警察との協力体制を整えるための段取りをうっていたのだ。

 渡辺はリビングルームに入るなり、ウッドストックたち―進藤、森田、篠原―の顔を見て言った。

「どうしたんだ? 雁首そろえて」

 進藤が答えた。

「室長こそ、腕? どうしたんです?」

 渡辺は右腕に巻かれた包帯を押さえながら言った。

「ちょっとな、サメに噛まれたんだ」

「サメ?」と何人かが言ったが、彼は無視してウッドストックに尋ねた。

「それより、何でみんながここにいるんだ?」

 片山がここで起こったことについて説明しているころ、二階で沢木に見守られながら横になっていた秋山が目を覚ました。桑原は階下に降りていて、部屋にいるのは二人きりだった。彼女は目を開けてからしばらくはポカンと天井を見つめていたが、「秋山さん」という沢木の優しい呼び声に、やっと我を取り戻したようだった。

「ああ、沢木さん。どうして、私?」

「何も覚えてないの?」

「確かぁ、相馬さんから電話があって、それから…… 分からないわぁ」

「んん、そうか。具合はどう?」

「大丈夫です。ちょっと頭が痛いけど、それは寝てたせいで―ああ、そういえば夢を見てたわ」

「どんな?」

「沢木さんとずっと話しをしている夢。でも、変な夢。話してるのは私なのに私じゃないんです。誰かが勝手に私の口を動かして……」

「それはね…… それは人美さんだよ。君は見山人美の力によって、彼女のメッセンジャーを務めさせられたんだよ」

「メッセンジャー? 私を使って?」

「そう、彼女はもう私に構わないで、って警告してきたよ」

「警告?」

「うん、止めないと僕はひどいめに遭うそうだ」

 沢木はことの一部始終を秋山に話して聞かせた。

「沢木さん、私、怖いわ」

「大丈夫、何とかするよ。しなくちゃならないからね」

「でも、沢木さんの身に何か遭ったら…… 私……」

「心配しなくても平気だよ。僕らは彼女のためによかれと思ってやってるんだ。その気持ちはきっと彼女にも伝わるはずだ」

「でも、それは私たちのエゴかも知れないわ」

「そうかも知れない。でもね、僕は自分の信じる道を行くよ」

 秋山は沢木に優しい笑みを見せて言った。

「じゃあ、私も着いて行きます」

「ありがとう、君がいてくれることは何より心強いよ」

「そんな…… 私……」

 照れながらも秋山は起きあがろうとしたが、軽い頭痛に阻まれた。

「痛たたぁ」

 沢木は微笑みながら言った。

「もう少し休んでなさいよ。ご苦労だったね。夕飯、何でもご馳走してあげるから」

「本当ですか? それだったら、私もお寿司がいいなぁ」

 彼は鼻で笑って答えた。

「うん、いいよ。葉山で一番おいしい寿司屋に連れてってあげるよ」

「岡林君、行きたがるでしょうね」

「それを知ればね。でも、二人で食べに行こう」




 秋山が再び眠りについたころには渡辺もことの成り行きを聞き終わり、いくつかの答えを期待できない疑問を当事者にぶつけ、沢木はどうしたのかと思っていた。そこへ沢木がやって来た。

「ああ、渡辺さん、お帰りなさい。あれっ、腕どうしたんです?」

「ちょっとな」

「サメに噛まれたそうですよ」と岡林が口を挟んだ。

「サメねぇー、プロメテウスのほう、何か進展があったんですね」

「ああ、だがこっちのほうが先だ。終わりにするつもりなのか? どうなんだ?」

 沢木はかぶりを振り、全員の顔を見回しながら言った。

「一旦休みましょう。考えてみればこの二週間近く、ろくに休みもなくみんな働いて来たんだ。私もさすがに疲れてきましたよ。ゆっくり休んで、頭がリフレッシュされたところで今後のことをみんなで話し合いましょう」

 彼はカレンダーの前に歩み寄り、それを眺めながら言葉をつなげた。

「来週の月曜、午前十時に皆さん私のオフィスに集まってください。それまでの五日間はEBエクスプロラトリー・ビヘイビア)計画を一時中断します」

 それだけあれば、何か思いつくだろう

 進藤が沢木に尋ねた。

「でも、その間に何か合ったらどうするんです?」

 沢木はあっけらかんとして答えた。

「大丈夫。何かあるとすれば私の身に起こるだろうから……」




 人美は夕日の色に染まる部屋の中で目を覚ました。起きあがり窓のほうへと進み、まばゆい夕日に目をくらませながら、小さな声でつぶやいた。

「サワキさん、って誰?」

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