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第1章 フィジオグノミック・パーセプション ~ Physiognomic Perception

人の可能性とはどこまで広がるのだろう。

あるいは、

人の能力とはどこまで掘り下げられるのだろうか。

人の心の奥底には、何が棲み何をさせようとしているのか。

善なのか、悪なのか。

知あるところには希望が満ち、

勇気あるところには道が開かれるだろう。

人は生まれた瞬間から命が尽きるまで、

知と勇気を携えながら、人生を冒険し、探究し、

歩んでいかなくてはなるまい。

―― Exploratory Behavior ――

それは、未知なるものへの探索行動である。


 うだるような暑さの中、全身ににじみ出る汗をぬぐおうともせず、彼はベットに座りながらある一点を見つめ、思索を繰り返していた。開け放された窓からは塩気を含んだ海からの生ぬるい風と、神経を逆なでするような無数のセミの鳴き声がなだれ込んできていた。彼の視線の先には、壁に画鋲で留められた一枚の写真があり、そこには十八歳の少女が一人写っていた。ショートカットの栗色の髪、シャープな顔の輪郭、見つめられたら凍りついてしまいそうな瞳、余計な脂肪などただの一つもついていないようなスレンダーな身体、かわいらしくも妖艶な雰囲気、そんな少女の写真だった。

 彼の名前は沢木聡。相模重工の主席研究員として、総合技術管理部に籍を置く技術者である。彼にその少女の写真を渡したのは、同じ相模重工の白石会長だった。

 昨夜、沢木は白石の自宅に呼び出された。彼は白石からいたく信頼され、期待されていた。この晩も、現在進行中のプロジェクトの件で話があるのだろうと思っていた。しかし、展開は全く意表をついた―

 白石はいきなり写真を机に置くと、沢木に感想を求めた。

「この娘をどう思う」

 沢木はしばらく写真を見つめた後に答えた。

「独特な雰囲気のある少女ですね、誰なんですか」

 白石には子供が一人いるが、とっくに成人し、現在相模重工の副社長の椅子に座っている。

「わしの古い友人の娘でな、今度海外に赴任することになったんだが、高校卒業まで後七カ月ということで、それまでの間、わしのところで預かることになったんだよ」

「そうですか。でも、なぜ私に写真を? まさかお見合いでもないでしょう」

 白石は笑みを漏らしながら答えた。

「君には若過ぎる相手だろう」

 沢木は三十二だった。白石は話を続けた。

「実は、わしも半信半疑なのだが、この娘には何か不思議な力があるらしいのだよ」

「不思議な力ですか。超能力とでも?」

 沢木は冗談っぽく言った。

「よく分からん」

 そう言いながら白石は机のところまで歩いて行き、引き出しの中から数枚の便箋を取り出した。

「これを読んでみてくれ、友人がわしに相談するために送ってきた手紙で、これまでの不可解な出来事のいくつかが書いてある」

 沢木は便箋を手に取り読み始めた。


 白石 功三殿

      一九九五年七月十三日  見山 哲司


 前略。ここ一年あまりご無沙汰しております。貴兄並びにご家族の皆様、お変わりなくお過ごしでしょうか。私は来月七日からアメリカに赴任することが急に決まり、その準備に追われる毎日を過ごしています。

 さて、お手紙を差し上げたのは、貴兄に相談したいことがありましたからです。その相談とは人美のことです。

 お陰様を持ちまして、人美もこの五月で十八歳になりました。友人にも恵まれているようで、高校生活を謳歌しております。しかしながら、私は最愛の娘である人美を、とても恐ろしく思うことがあるのです。貴兄にはおそらく信じられないことと思いますが、人美には何か恐ろしい力、不思議な力があるように思えてならないのです。一言で言えば、超能力とでもいいましょうか。

 このような相談を一体どこにすればいいのかと悩んだ挙げ句、貴兄のことを思いついたのです。現在、貴兄の相模重工は世界でも屈指の重工業メーカーにまで成長し、さまざまな研究機関があると聞いております。貴兄に力をお借りすれば、人美の持つ力について、何か答えが出せるのではないかと勝手に想像した次第です。

 まずはこれまでに起こった、人美がしでかしたであろう出来事を、いくつかご紹介します。どうか、バカげた妄想と思わずに最後まで読んでください。そして、お力を貸して頂ければ、たいへん幸せと思います。

 最初の出来事は人美が七つの時、小学校に入学した年のことでした……


 沢木は手紙を読み終わると、Yシャツの胸ポケットからタバコを取り出し、その煙を深く吸い込んだ。

「感想は?」

 白石が尋ねた。

「非常に興味をそそられますね。ここに記された出来事は、単なる偶然にしては話しができ過ぎています。何か…… 何かあるのかも知れませんね」

 白石は期待どおりの沢木の反応に満足しながら言った。

「思ったとおりだ。好奇心旺盛の君のことだ、きっとそんな反応をすると思ったよ」

 沢木は苦笑しながら答えた。

「とはいうものの、見山氏の推測を手放しに受け入れるつもりはないですがね」

 沢木はタバコの灰を灰皿に落とした。

「で、会長は私に何をやれと言いたいんですか」

 白石はいつになく真剣な眼差しで沢木を見つめながら言った。

「ずばり言おう。真相を究明してくれないか」

 沢木は深い溜め息を吐いた。

「会長、確かにこのことは興味を引かれるテーマではあります。ですが、私の専門は制御システム工学ですよ。超自然的現象の有無を確かめるなどというものは専門外です」

 沢木はその好奇心とは裏腹に、慎重にことを構えた。

「それはよく分かっているよ。しかしな、沢木。この手紙を寄越した見山という男は、娘と過去の出来事を関連づけて、真剣に悩んでおるのだ。わしとしてはなんとか力になってやりたいのだよ。偶然でも超能力でも原因は何でもいい、とにかく見山君を安心させてやりたいんだ」

「ですが会長。そういう趣旨ならば興信所なり何なりに、調査を依頼したほうがよいのではありませんか」

「ああ、そういった選択も見山君と考えたよ。だが、ことは娘さんに関わるデリケートな問題だ。仮に原因が人美さんの能力によるものだった時のことを考えてもみろ、やはり信頼できる者に調査をさせるのが一番だ。そうは思わんか」

「ええ、それには同感ですが……」

 白石は腰かけたソファから身を乗り出して尋ねた。

「沢木。君は超能力をどう思う。そんなものは存在しないと思うかね」

「いいえ、ないとは思いません。しかし、あるとも思いません。つまり、私の既知の範囲では、存在云々は語れないということです」

 白石は声を若干張りあげた。

「ならば沢木よ。この機会にそのことの有無を確認しようではないか。はたして人美さんに超能力があるのか、あるいは偶然とはいくつも重なるものなのかを」

 沢木はタバコを揉み消しながら言った。

「会長。会長はあくまで、この件を私にやらせたいのですか」

「ああ、そうだ。君は信頼できると同時に、頭の切れる男だ。なにがしかの策を必ず講じられるはずだ。考えてみろ、あるだろう、切り口が」

 沢木はしばし考えた後、白石の言わんとしていることが分かった。

「なるほど、確かにASMOSを使えば、ある程度のことはできるかも知れませんね。しかし、それはあくまで見山人美という少女に特異な精神的能力がある場合に限定されます。真相究明となると、人員、時間、資金も必要になります」

「すべては君に任せる。君が思いどおりにことを進められるよう、取り計らおう」

 白石は一息おいてから言葉を続けた。

「もしもだ。もしも、超能力なるものを発見できたなら、そのメカニズムを解明できたなら、これは間違いなくある種の革命をもたらすぞ。そうなれば、我が相模の可能性もますます広がるというものだ」

 白石はしたたかな笑みを浮かべた。沢木はその笑みを見ながら、白石の商魂たくましさを改めて知ったと同時に、彼の本心がどこにあるのか、それが気になった。

「会長、正直におっしゃってください。会長は、見山親子のためにことの究明を図りたいのですか、それとも、相模の利益のためですか。はっきり言っておきますが、私は一人の少女を利潤追求と結びつけるような考え方は受け入れられません」

 そう語る沢木の目は、白石に威圧感さえ与えるほど鋭かった。白石はその目を見ながら思った。

 やはり、この男に限るな

 そして言った。

「両方だよ、沢木。わしは見山親子のことを心から心配している、と同時に相模の未来も考えている―技術屋の華は新しいものを発見すること、すなわちチャレンジだ。常識や手垢のついた知識にしがみついていては何もできん。沢木、君ならそれができるはずだ」

 沢木は白石に相模重工への誘いを受けた時の言葉を思い出した。

 〈技術者はあらゆる可能性にチャレンジせねばならない。私は君に冒険の舞台を用意しよう〉

 沢木はYS‐11を創った男に敬意を込めて答えた。

「分かりました、可能な限りのことをやってみましょう」




 沢木はやっとエアコンのスイッチを入れた。

 この土曜日は、読みかけの本を片付けたり、じっくりとピアノを弾いたりして、久し振りの休日らしい休日をのんびり過ごそうと思っていた。しかし、昨夜の白石会長の話しを聞いて以来、頭の中は見山人美のことで一杯だった。

 エアコンから吹き出される涼しい風は、彼の頭を冷やし汗を乾かした。その風を頭に受けながら、再び考えを巡らした。

 超能力とは存在するのだろうか? いやいや、超能力とは限らない。それ以外の超自然的な力―心霊現象なのかも知れない。それとも、奇妙な偶然の一致?

 沢木は窓を閉めるために歩きだした。

 ある意味では俺も超能力を信じる。でもそれは、いわゆる超能力というものとは少し違う。スプーンを曲げたり、ものを体にくっつけたり、そんなくだらないものが超能力だなんて思えない。俺の考える超能力とは、人間の奥深くにある精神的な作用―例えば、何かを愛する気持ちや信じる気持ち、そういう心が、精神が、自分や他人に影響を及ぼした時に現れるようなもの―そう、そんな精神作用により、病気が回復に向かったりするようなことだ。しかし、案外超能力なんてくだらないものなのかも知れない

 窓の前まで来ると、セミの声は一層けたたましく頭に響いた。

「うるさいセミだなぁ」

 沢木は窓をぴしゃりと閉め、ガラス越しに見える海を見つめながら思考を続けた。

 昔から言われる言葉の中には結構不思議なものがある。袖振り合うも多生の縁―これは仏教思想からきている言葉だが、つまりは輪廻転生のことだ。同じく仏教にまつわる以心伝心は、現代風にいえばテレパシーだろう。虫の知らせや正夢は、一種の予知能力―こんな言葉が何の根拠もなしに生まれ、使われてきたとは思えない。超自然的現象といわないまでも、何かそれに近いことがあるからこそ、そう人々に感じさせる何かがあるからこそ、こうした言葉が生まれたに違いない

 沢木は愛好のセブンスターを取り出し、それに火をつけた。

 きっと何かあるんじゃないだろうか。それとも人類の想像の産物なのだろうか。数々の事象の出来事から巧みに物事を関連づけて想像する。そんな人間の想像力のせいなんだろうか

 さらに沢木は、少女の能力を確かめるためにはどうすればよいのか、それが確かめられたとして、どう対処するのか。また、それらを一切少女に悟られることなく進めるにはどうすればよいのか、そんなことを考え頭を痛めた。しかし、久し振りに刺激的なテーマに出会ったことに、ある種の興奮を抱いているのも事実だった。

「とにかく真実を」

 沢木はそうつぶやくと、心の中で続けた。

 超能力云々を信じる信じないの前に、まずは事実関係を明らかにしていかなくては。まずはそれからだ




 夏休みに入った見山人美は、毎日のように友達と近くの海に遊びに行っていた。もうじき両親はアメリカに行ってしまい、自分はしばらくの間一人で、父親の友人の家に居候しなければならないことなど、少しも気にしていなかった。

 人美の家は神奈川県の横須賀、居候先は葉山だから、高校へはちょっと遠くなる程度で通えるし、当然、友達とも今までどおり会うことができる。白石のおじさんはちょっと怖そうに思えたが、それでも全く知らない人ではないし、奥さんは対照的にとても優しそうな人だという印象がある。卒業してからアメリカに行ってしまい、友達と別れるのは少しさびしいが、アメリカでの生活への期待は、そんなさびしさを吹き飛ばすに十分だった。 人美がこの夏夢中になっているのは、岩場付近を素潜りすることである。海中の光景はとても美しく、小さな魚たちはとても愛らしく、時折出くわすクラゲの隊列は愛敬たっぷりだった。中でも彼女が特に気に入っているのは、海中から見た海面の光景である。それは上から見るのとは全く違う光景で、差し込む日の明かりがゆらゆらと揺らめき、吸い込まれてしまうような、何かとても気持ちを落ち着かせてくれるものだった。人美は水中眼鏡越しに、その光景を息が続くまで見続けていた。

 日も落ちてきて、友達がもう帰ろうと言った。人美を含めた二人の少女は、夕暮れの中を家路についた。

 日中は大勢の人でにぎわう海岸も、夕日に照らされるこの時間になるとその数は一気に減ってしまう。このため、浜辺からバス通りに出るまでの細い道には、人美たち以外の人の姿はなかった。

 ちょうど公園の前に来た時に、人美たちの前に突然二人の若い男が現れた。彼らは人美たちをにらんでいる。よく見ると、先ほど自分たちに声をかけてきた二人だった。人美はひるむことなく前進し、友達は人美の後を恐る恐る着いて行った。男たちも彼女たちのほうへ直進して来た。約一メートルほどまでに両者が接近した時に、人美は男の一人と目と目が合った。その目は悪意に満ちた冷たい目だった。彼女の直感はこの場を早急に離れなければならないことを告げていた。人美は後ろの友達のほうを振り返り声をかけた。

「急ごう!」

 そう言いながら見た友達の目は、既に恐怖の瞬間を捕らえていた。男の腕が人美の首に巻きつき、もう片方の手が口を押さえた。友達も男に捕まり、二人は草むらのほうに強引に連れ込まれ、人美は男に押し倒された。その時、口を押さえていた手が外れた。人美は渾身の力を振り絞って叫んだ。

 運がよかった。ちょうど海の家から引き上げて来た、三人の中年男がその悲鳴を聞きつけた。彼らは一目散に草むらに駆け込むと、若い男たちを蹴り飛ばして人美たちを救った。彼女たちを襲った二人は大慌てで駐車場のほうへ走って行き、止めてあった車であっという間に逃げて行った。

 人美たちはその後の帰り道で、先ほどの事件のことを冗談混じりに話し合っていた。少女たちには、ついさっきまでの恐怖を、笑いに変えてしまうエネルギーがあった。




 次の日の日曜日、昼近くになってやっと目を覚ました沢木は、テレビのスイッチを入れるとニュースにチャンネルを合わせ、コーヒーを入れるためにやかんを火にかけた。その時、アナウンサーは次のようなニュースを読みあげていた。

「昨夜の午後七時半ごろ、神奈川県三浦市の三戸海岸で、二人の男性の溺死体が発見されました。警察のこれまでの調べによりますと、二人の男性の遺体からはかなりの量のアルコール分が検出されており、酔った勢いで海に入ったために、溺れたものと考えられています」

 沢木はつぶやいた。

「バカな連中だ」




 七月三十一日、月曜日。沢木は幾分重い足取りでいつもより早く本社に出社した。といっても、それは普通の社員ならとっくに仕事に取りかかっている午前九時だった。彼には特に定められた出社時間などないのだ。相模重工において、このようなことが許されているのは、重役たちと沢木のみであった。

 沢木は東京工業大学の工学部制御システム工学科を卒業した後、アメリカのマサチューセッツ工科大学に留学し、機械をいかにして制御するか、ということの研究にさらなる磨きをかけていた。その研究過程で、彼は経験を反映することができるコンピューター・システムの基礎論理を構築した。EFC論理と呼ばれるこのアイデアに、最初に飛びついたのはアメリカの航空機メーカーのボーイング社だった。

 当時ボーイング社では、ボーイング747-400型(最新型ジャンボジェット機)の飛行制御システムの再検討を進めていた。400型は機関士を必要とせず、機長と副操縦士の二名で運行するように設計されている。しかし、機関士を搭乗させないことは危険だと、有益な市場である日本の航空会社の労働組合が、400型導入に対して猛反対していた。400型の飛行制御システムの見直しは、これへの対応の一環として検討されていた。そんなボーイング社に、沢木の研究論文が舞い込んで来たのだ。

 ボーイング社は十分過ぎるほどの環境を沢木に与え、そして、SFOS(Sawaki's Flight Operating System)が完成された。

 このシステムは、あるパイロットが行った離陸から着陸までの操縦手順と実際の機体の動作、気象データ、機体のトラブルとその対処方法などを記録し、それがある程度蓄積されたところでパターン化(学習)する。このパターン・データ(経験)を次のフライトに反映させて、パイロットの負担や事故を減らそうとする制御システムである。

 例えば、離陸の際に蓄積されたパターン・データと違う操作をパイロットがしたとする。するとSFOSは直ちに与えられた条件(機体のコンディションや気象データなど)を検討し、その操作がふさわしくないと判断した時、自動的に誤操作を修正するのである。また、これらパイロット特有のパターン・データ(癖など)は、直径五インチの光磁気ディスクに保存し持ち運ぶことができるので、SFOSを搭載した別の400型に搭乗した時にも、データを読み込ませれば扱い慣れた機体に変身させることができる。しかも、SFOSはメモリーの許す限りパターン化を繰り返す。したがって、SFOSは使えば使うほど、経験を積めば積むほどに、より信頼性が向上するという画期的なシステムであった。

 このSFOSにより沢木の名は世界中の関係者に知られることとなり、さまざまな企業が彼の才能を欲しがった。そんな中で彼を射止めたのが、当時の相模重工社長・白石功三だった。

 沢木は鳴り物入りで相模重工に入社するやいなや、SFOSの汎用版であるSMOS(Sagami Multiple Operating System)を完成させた。現在、SMOSは原子力発電所や船舶、F-15Jイーグル戦闘機など、ほとんどの相模製品に実装されている。

 沢木が籍を置く総合技術管理部は、通称“沢木組”と呼ばれている部署で、相模重工内で開発されたさまざまな技術を、相互に応用できるように管理運営することを目的としている。もちろん、SMOSの強化改良型であるASMOSなど、沢木組独自の研究開発も行っている。また、通称に彼の名の冠が付いていることから分かるように、この部の部長には沢木が着任している。沢木組のスタッフ数は一二〇名で、皆、沢木自身により選ばれ、白石会長の鶴の一声により集められた、精鋭中の精鋭だった。それだけに、相模内のある勢力からは強い反発もあった。

 沢木は朝のあいさつをしながら自分のオフィスに入って行き、皮張りの茶色い肘掛け椅子に座ると、早速今日行うことの準備に取りかかった。

 相模重工本社は横浜市中区の官庁街の一角にある。港と高速道路に囲まれたこの辺りは、横浜ベイスターズのホームグラウンドである横浜スタジアムや、山下公園、中華街などがあることで知られているが、それと同時に多くの官庁施設や公共施設が点在している。神奈川県庁、横浜地方裁判所、神奈川県警察本部、横浜税関、県立博物館、県民ホールなどなどである。そしてすぐ近くの西区では、横浜市が進めている都心臨界部総合整備計画“みなとみらい21”の名のもと大規模な開発が進められ、その一つのシンボルとして、日本最高の高さを誇るランドマークタワーがそびえ建っていた。この街は神奈川県の中枢であり、シンボルであると同時に、そこで生まれ育った相模重工のホームタウンでもあった。

 山下公園道り沿いにある相模重工本社ビルは、地上三十六階建て、高さ一四七メートルの超高層ビルであり、その二十三階に沢木のオフィスはあった。この階とその下の二十二階は総合技術管理部に独占されており、例え相模の社員であっても部外の者は立ち入ることができない。といっても、規則や警備員により規制されているわけではない。部外者の行く手を阻むものは、エレベーターを降りてすぐにある鋼鉄の扉のアイID識別式電子ロックである。これにより、あらかじめ眼球の虹彩パターンが登録された人物以外は、ロックを解除することができないのである。

 沢木組の中枢であるこのフロアを構成するのは、部長室―すなわち沢木のオフィス、部長秘書室、スタッフ用の広いオフィス、会議室、開発室七部屋、電算室、休憩ラウンジなどである。内装はほとんどが白で統一されているが、これは部長秘書室長の秋山美佐子の趣味により決定された。

 沢木のオフィスはおよそ二十畳くらいの広さがある。ドアを入った正面には大きな机があり、その脇にはIBMのコンピューターが置いてある。机の後ろには腰の高さから天井くらいまでの窓があり、そこからは横浜港が一望できる。その窓に沿って右手奥のほうに目を移すと、皮張りのソファに囲まれたガラス板のコーヒー・テーブルがあり、その近くには三十二インチのテレビとビデオデッキなどが置かれていた。

 ノックが聞こえて扉が開くと、コーヒーの香ばしい香りが部屋の中に広がった。秋山がコーヒーを持って入って来たのである。

「今日は珍しく、お早い出社ですね」

 秋山は沢木をからかうように言った。こんな時、いつもの沢木なら気の利いた冗談で言い返し、彼女を笑わすのだが、今日の彼は真剣な顔をして言った。

「これから厄介な仕事に取りかかることになる。秋山さんもたいへんになると思うからそのつもりでいてね」




 沢木はスタッフを集めることから始めた。まず、沢木組の中からは部長秘書室長の秋山美佐子をはじめ、“センサーの魔術師”と異名を取る片山広平。プログラマーの岡林敦。東京大学付属病院の脳神経外科師から相模に転身した松下順一郎の四人。

 外部からは、相模重工総合研究所の人間工学研究室に所属し、人間が機械に関わる時に生じるストレスの研究を専門としている桑原久代。相模重工が保有するさまざまな機密情報の外部流出を、独自に防ぐために設置された情報管理室の室長、渡辺昭寛の計六人であった。

 沢木は以上の六人に連絡を取ると、午後五時から自分のオフィスで会議を行うことを告げ、皆それに同意した。

 そして、午後四時五十分。沢木のオフィスに人が集まり始めた。

 最初にやって来たのは松下順一郎であった。彼は五十五歳で、身長は一七〇くらい、眼鏡をかけ、ヒョロっとした風貌は、神経質そうな印象を周囲に与えた。彼は沢木が抱えているプロジェクトのひとつ、ASMOS計画を推進する上で重要な人物である。

 ASMOSとは Advanced SMOSの略であり、その名の示すとおり、先進的なSMOS、次世代SMOSとして現在開発中のものである。このASMOSは、従来のSMOSに比べて処理能力が大幅に向上されていて、それだけでも十分な“売り”になるのだが、沢木はこれに思考検知システムを加えようとしていた。人が思考した命令をセンサーで検知し、それをコンピューターで処理し、機械を制御するという試みである。松下の仕事は、思考を検知する際の医学的な分野での技術開発を進めることである。

 笑いながら入って来たのは岡林敦だった。秘書室にいる秋山をはじめとする女性たちでもからかって来たのだろう、と沢木は思った。岡林は童顔で、背丈は一六〇と小柄なため、一見すると頼りなさそうな、おとなしそうな印象を与えるが、実は非常におしゃべりで、人を笑わそうとすることばかり考えている男である。しかし、彼はその性格によらず、地道な作業をコツコツとするタイプで、沢木の無理難題な注文をいつも鮮やかに切り抜けてきた。彼は二十七歳。プログラマーとしては一番油の乗った年齢かも知れない。

 油が染み込みよれよれになったオレンジ色の作業着、それを着て入って来たのは片山広平であった。“センサーの魔術師”と異名を取る彼は、沢木組のナンバー2であり、沢木のよきパートナーであった。また、沢木と同じ年齢ということもあってか、私的部分で彼と馬が合った。片山は松下よりも少し背が高く、細面の顔はクールな印象を人に与えた。彼は今、松下と協力してASMOSの思考検知用センサーの開発に没頭している。

 何で俺がこんなところに呼び出されるんだ、という顔をしてやって来たのは、渡辺昭寛であった。三十六歳の彼は、一八〇近い背丈とたくましい肉体を持つ屈強そうな男だった。 今から三年ほど前、SMOS関連の機密情報を奪取せんと、産業スパイが相模重工に送り込まれる、という事件が起きた。相模重工にはSMOS以外にも、同業者が喉から手が出るほど欲しいような先進技術がたくさんある。これらの技術の不正流出を防ぐために、事件後情報管理室が設置された。

 渡辺に関して沢木はある噂を聞いていた。その噂とは、彼がかつてSOPの隊員であった、というものだ。

 SOPとはSpecial Operation Policeの略で、テロ犯罪の抑止、鎮圧を目的として警察機構内に創設された特殊部隊であり、その監督は首相や法務大臣をはじめとするSOP総括委員会により行われている。SOP創設の理由は、八〇年代後半から相次いで起こったテロ犯罪への対抗である。外国人労働者が大量流入したことによるナショナリズムの高まりと右派勢力の拡大、それに対する国内極左及びアジア諸国の反抗。西側先進諸国の思惑を顕著に表す、日本の経済支援に対する発展途上国の反感。国内外を問わずテロの動機はいくつもあった。事態を重く見た政府はテロ対策法を制定し、その実践部隊として近代兵器と先進技術により武装されたSOPを配備した。

 今回の計画では、情報管理や事件、事故の詳細な調査活動が必要になると判断し、沢木は渡辺に声をかけた。

 続いて桑原久代が入って来た。彼女は沢木を見つけると歩み寄り、初対面のあいさつを始めた。彼女は若くは見えるが、おそらく四十代後半くらいの年齢だろうと沢木は思った。美人とはいえないまでも、きりりと引き締まった顔立ちは、賢そうな、いかにもキャリアウーマンといった感じだった。身長は一五五くらい、ほっそりと小柄な女性だった。

 沢木は彼女と関わるのは今回が初めてだが、彼女の書いた研究報告書はいつも興味深く読ませてもらっていた。今回の計画では、人美の心理面からの考察が非常に重要になるだろうと考え、心理学を専門とする彼女に迷わず声をかけた。

 最後に人数分のコーヒーを持って入って来たのは秋山美佐子である。彼女は大学で航空宇宙工学を学んだ後に相模重工へ入社し、宇宙関連事業に技術者として携わることを夢見ていた。しかし、配属されたのは期待に反して秘書室だった。彼女の夢は入社と同時に破れたのだ。だが、相模重工の重役秘書ともなれば、技術関連の知識も無駄にはならないだろうと自分を励まし、新しい目標に向かって歩み出した。その一年後に沢木が入社してきて、秋山は彼のアシスタントに抜擢された。沢木の仕事は非常に高度かつ大きなプロジェクトばかりで、当然彼女の仕事も楽しくなった。総合技術管理部創設の際にも彼女の意見は積極的に採用され、沢木のもと彼女の才能は開花された。

 長い髪をバレッタで後ろに束ねた髪型と、あどけない顔立ちが印象的な彼女は現在二十八歳、聡明かつ美しい女性だった。


「それではそろそろ始めようか」

 全員がコーヒー・テーブルを囲んだソファに着席すると、沢木は切り出した。

「初めに言っておくが、これから話すことは今まで我々が出会ったことのないような不可解な事柄だ。それと同時に非常にデリケートな部分も合わせ持っている。したがって、この件は一切部外秘とする。また、各自この件を最優先事項として仕事に取り組んで欲しい。その保証は白石会長がする」

 沢木は用意してあった資料を配った。白紙の表紙をめくると、カラーコピーされた人美の写真があった。

「その少女の名前は見山人美といい、年齢は十八歳。横須賀市の県立高校に通っている。その娘の父親の見山哲司氏は貿易会社に勤めていて、来月の七日からアメリカのロサンゼルス支社に赴任することになっている。本来ならば娘を一緒に連れて行きたいところなのだろうが、高校卒業までの残り七カ月間は―正確には来年三月十五日までは、友人である白石会長のもとに預けることにした」

 ここで沢木はタバコに火をつけた。

「ところが見山人美には、ほかの人間にはない特殊な能力があるらしいんだ」

 皆が沢木の顔に注目した。

「見山哲司氏はその疑問を一人抱えて悩んでいたのだが、そこへ海外赴任の話しがきた。娘を一人残すのは心配だが高校も卒業させてやりたい。そこで、白石会長に相談を持ちかけ、会長は疑問解明を約束するとともに、見山人美を預かることにした。というのがことの粗筋だ」

 秋山が尋ねた。

「特殊な能力って、何なんですか?」

 岡林が間髪入れずに言った。

「超能力だよ! それとも心霊現象とか」

 沢木は岡林を軽くにらむと話しを続けた。

「では本題に入ろう。三ページめをめくってくれ。そこにあるのは見山氏が会長宛に送った手紙のコピーだ。まずはそれを読んでくれ」

 沢木も手紙を読み返した。


 最初の出来事は人美が七つの時、小学校に入学した年のことでした。そのころの人美は人見知りが激しくて、友達を作るのに苦労していました。

 そんなある日、学校から帰って来た人美が延々と泣き続けていたという話しを妻から聞きました。どうやら同じクラスの女の子にいじめられていたようなのです。私も妻も一時の出来事と思い、人美を励ますこと以外には何もしてやりませんでした。しかし、いじめは数カ月に渡って続いていたようで、ついに人美は登校拒否という手段を選びました。私は怒りに震えながら、ひとまず担任の教師のところへ相談に出向きました。ところが、人美をいじめていた女の子が、相談に行った前の日から行方知れずになっているということを聞かされました。

 事情はどうであれ、いじめの心配がなくなった人美は再び学校へ行くようになり、ひとまず安心しました。

 ちょうどそのころ、貴兄もご記憶のことと思いますが、三浦半島地区では奇怪な幼女連続誘拐事件が起こっていました。確か九月の初めごろにようやく犯人が捕まり、誘拐された少女たちの遺体が発見されました。その被害者の中には、人美をいじめていた少女もいたのです。もちろんこの時は、たまたま不幸にして人美の同級生が悲惨な目に遭ったとしか思いませんでした。


 次は人美が六年生の時です。

 人美がとても仲よくしていた女の子が、担任の教師にいたずらされるという事件が起こりました。教師は警察に捕まり新聞にも取り上げられ、たいへんな騒ぎになりました。

 その教師の話は幾度となく人美や妻から聞いていましたが、人美をはじめ生徒皆から好かれ、また父兄の間からも教育に対する熱心さに好感を持たれていました。

 まさに、魔が差したとしかいいようのない事件でした。しかも、事件を犯したのは、人美たち生徒全員が見ている目の前だったのです。

 数日後、被害者の女の子と家族はどこかへ引っ越してしまいました。人美は親友を失ったことと事件のショックが重なって、しばらく口を利かなくなりました。

 それからまもなくして、留置場に入れられていた教師は精神錯乱を起こして、しかるべき施設へと送られました。


 人美が中学三年生の時に、妻から人美の初恋話しを聞きました。同じクラスの男の子に恋心を持ったらしいのです。その話を聞いた私は、時の過ぎることの早さを実感するとともに、ある種の嫉妬心を覚えたのを記憶しています。

 しかし、その恋は実のりませんでした。初恋の相手は、隣のクラスの女の子に奪われてしまったのです。

 時が過ぎ、受験の時が人美にもやってきました。元々成績のよかった人美は、それほど苦労もせずに、県下でも有数の県立高校に合格しました。

 ある日、仕事から帰って来た私に妻が言いました。人美と同じ中学の生徒が、受験失敗を苦に自殺したというのです。その生徒とは、人美の初恋相手を奪った女の子でした。


 そして、いよいよ人美に対する疑惑を持つことになった出来事は、昨年の秋、人美が高校二年生の時に起こりました。

 その秋、人美の高校では文化祭が行われました。人美たちは打ち上げと称して街に繰り出し、居酒屋で大人気取りの時を過ごしたようです。飲み慣れない酒を口にした人美は酷く酔ったようで、駅前まで迎えに来て欲しいと家に電話をしてきました。私は叱るのを後にして、急いで車で迎えに出かけました。

 駅前に着くと、人美の同級生らしき男子数人と、大学生風の男たち数人との激しい喧嘩の真っ最中でした。そして、人美は喧嘩を止めようと盛んに大きな声を出していました。 私は必死の思いで殴り合う若者たちの間に入りました。幸い、私より遥かにたくましい、誰かの父兄と思われる男性がいてくれたお蔭で、その場は何とか治まりました。

 私は、帰る方向が同じ同級生数人と人美を車に乗せ家路につきました。道中、人美は酔いと疲れからぐっすりと眠っているようでした。

 しばらくして、辺りがさびしい道を走っている時に、突然後ろの車がけたたましくクラクションを鳴らしたかと思うと、私の車の横を並走し、空き缶などを投げつけてきました。その車に乗っていたのは、先ほど人美たちが喧嘩をしていた相手でした。どうやら、私たちをつけて来たようなのです。後ろの席に乗っていた男の子もそのことに気づき、「てめえら死んじまえ」と、大声で怒鳴りました。そのすぐ後の人美のつぶやきが、私には確かに聞こえました。「そうよ」と。その瞬間、隣を走っていた車は突然加速すると、急なカーブの入り口にあるガードレールに向かって一直線に突っ込んで行き、激しい音とともに激突し炎上しました。私は人美を守らなければならない、という考えで頭が一杯になり、そのまま走り去りました。

 翌日の夕刊の地方欄に、そのことは小さな記事で載っていました。車に乗っていた男性三人は、全員死んだそうです。

 私は身が凍りつくような思いをしながらも、人美がそのことを眠っていて気がついていなかったことにほっとしました。


 以上がこれまでに起こった出来事です。最後の出来事のことを考えているうちに、その前の三件の不可解な出来事を思い出し、それらがすべて人美と関わっていることに不安を抱きました。人美は何か不思議な力、恐ろしい力を持っているのでは、これらの出来事はすべて人美が起こしてのでは、と疑問を持つようになったのです。

 どうか白石様……


 沢木はそこまで読み終わると、全員をゆっくりと見まわして口を開いた。

「皆、読み終えたかな」

 黙ってうなずく六人の姿を確認すると、桑原が切り出した。

「これが人美という少女により本当に引き起こされたものならば、いわゆる超能力、と考えてよさそうですね」

「心霊現象かも知れないよ。何かに取り憑かれているとか」

 岡林は特に普段と変わらぬ口調で言った。再び桑原が発言した。

「いずれにしても、超自然的な現象ということになりますね。そう、サイ現象ということに」

「偶然と想像力の産物だ」

 松下がけげんそうな顔でそう言うと、岡林はがっかりした顔をした。松下はさらに続けた。

「沢木君。君は我々をここに集め、一体何を始めようというのかね。まさかこんな絵空事に取り組もうというんじゃないだろうね。こんな寄り道をすることよりも、我々はASMOSの開発に全力を尽くすべきだ。だいたい、我々に何ができるというんだ!」

 桑原が言った。

「しかし、松下さん。サイ現象の研究は立派な学問として認知されているものなんですよ。超心理学とか、意識科学とかの名で」

「そんなことは私だって知ってるさ。要は、この手紙の内容をどう判断するか、そういうことだろう」

「沢木さんはどう考えているんですか?」

 秋山が言い、片山が続けた。

「沢木の考えが聞きたいな」

 渡辺は視線をじっと下に向けて渋い顔をしていた。

 沢木はゆっくりと座り直すと、髪の毛を一度掻き上げ口を動かした。

「まず何よりも大切なことは、真実がどこにあるのか、それを確かめることだと私は思う。過去の出来事一つ一つをできる限り詳しく検証し、それらの実体が何なのかを見極めることが必要だと…… みんなそれぞれにいろいろな考えがあるだろうが、今現在、このことについてはっきりとした答えを出せる者はいるか? 確かに松下さんの言うように、偶然と想像の産物かも知れない。しかし、例えそうだとしても、彼らにとってはある種の現実なんだ。精神世界における“現実”とは、事象の出来事とは異なる。見山氏が誤った現実を作り出しているのなら、それは取り除かれるべきだろう―娘さんのためにも。そしてもう一つの可能性―もしも、過去の出来事が見山氏の推測どおり、見山人美により引き起こされたものならば、驚異と同時に少女の今後の人生を、未来を不安に思う。結果的がどう出るのかは分からない。だが、万に一つの可能性で超自然的現象の発見と少女の未来がかかっているのなら、私は十分にやる価値があると思うんだ。そして、新しいチャレンジに不毛はないと私は信じる」

 沢木はそう言うと、ソファに深く身を沈め皆の反応を見守った。しばらくの沈黙の後、秋山が言った。

「ASMOSの完成にはまだまだかなりの時間がかかります。その間にちょっとだけ好奇心を持って寄り道してみても、大した害にはならないと思います。やってみましょう、見山人美という少女のために」

「そうそう、何だかわくわくするなぁー」

 岡林はそう言った後に松下の顔を見た、思ったとおり自分をにらみつけている。

「反対意見は」

 沢木の問いに口を開く者はいなかった。

「ありがとう。では具体的な仕事の話に移ろう」



 見山家では、人美の白石会長宅への引っ越し準備と、両親の海外赴任の準備が同時進行で行われていたため、そこは戦場と化していた。人美の両親は八月七日の午後にアメリカに向けて出発する。人美は両親を空港で見送った脚で、所帯道具一式がすっかり運び込まれた白石会長宅に行き、それから約七カ月間をそこで過ごす予定になっている。

 自分の荷物を丁寧に段ボール箱へと詰めていた人美は、ふと窓の外の空を見上げた。すると、紫色の美しい夕暮れ時の光景が広がっていた。彼女は慌てて一階に下りて行き、母に向かって叫んだ。

「ちょっと行って来る!」

 人美は赤いフレームのマウンテン・バイクに飛び乗ると、夕日に向かってこぎ出した。自転車はいつになくスイスイと心地よく前進し、いつもより余計に走る気分にさせてくれた。薄いピンク色の綿の半袖シャツは風になびき、スリムのジーンズに包まれた細い脚は軽快なペダルリングで、疲れることを知らないかのようだった。

 三戸海岸まで行ってみよーっと

 人美はその心地よさに身を任せ、自宅から三キロほど離れた海岸まで行ってみることにした。

 三戸海岸まで来ると、紫色の空と海と赤い太陽が人美を迎えてくれた。

「奇麗だ」

 人美はそうつぶやくと、砂浜近くの駐車場に自転車を止め、波打ち際に向かって歩き出した。

 目を覆うばかりのまばゆい光は富士山の後ろに回り込み、まるで巨大な影絵のように、そのシルエットを浮かびあがらせ、海は鏡の絨毯のように、赤々とした光りを照り返していた。それはいつ見ても飽きることのない美しい光景だった。しかし、感動の時間は短かった。突然の寒気が人美を襲う。

「何だろう?」

 人美には分からなかった。自分が二人の男の溺死体が発見された場所に立っているということが。




 沢木は計画の概要を説明し始めた。

「まずは過去の出来事の調査だ。そして事件、事故の詳しい情報を入手次第、見山人美の心理面からの考察が必要だろう。また、手紙に記されたこと以外の出来事も彼女の周辺で起きている可能性があるので、過去から現在に至るまでの身辺調査も必要だ。さらに、彼女が会長宅に入り次第、リアルタイムでの観測も試みたい。これらの作業を進めれば、確証を得られないまでも、偶然か、あるいはそれ以外の何かなのか、おおよその見当はつくはずだ。取り敢えずはこれらの作業を行おう」

「話は分かった。で、俺は何をすればいいのかな」

 渡辺が初めて口を開いた。沢木は答えた。

「渡辺さんには過去四件の出来事の詳細をできる限り詳しく調べてもらいたいんです。しかも早急に。見山氏の手紙がすべてを語っているとは思えないので」

「なるほど」

「その後は見山人美の身辺調査をお願いします。特に彼女の周辺に類似したことが起こっていないかということを」

「了解した」

 沢木は次に秋山に指示をした。

「秋山さんは取り敢えず、白石邸の近くに空き家があるかどうかを調べてくれ。そこに計画本部を設営する」

「分かりました」

 片山が言った。

「沢木の家を使うのが手っ取り早いんじゃないか。会長宅にも近いんだし」

 沢木の自宅もまた葉山にあり、白石邸から一キロほど離れたところに位置していた。

 沢木は苦笑しながら答えた。

「それは勘弁だな。短期間ならともかく、今回は長くなるかも知れないし、第一、みんなだって私の自宅じゃ気を使うだろう」

 秋山が言った。

「明日早速、不動産屋をあたってみます」

「お願いします」

 沢木は続けて言った。

「片山は八月六日までに、つまり見山人美が入居する日の前日までに、白石邸の彼女の部屋にPPSを設置してくれ」

「PPSを!」

 片山は驚いたように言った。

「PPSとソフトに細工を施せば、現時点でのPPSの完成度でも成果を期待できるはずだ。つまり……」

 沢木がそこまで言いかけた時に、桑原が口を挟んだ。

「あの。お話の途中すいませんが、PPSとは何なのでしょうか?」

「ああ、すいません」

 沢木はPPSの説明を始めた。

「人間の脳が活動する時、そこには電流が発生し、決まったリズムの電位変化が起こります。つまり、交流電気信号が発生するわけです。ただし、これは非常に微弱なもので、具体的には五〇〇万分の一から五〇〇〇万分の一ボルトという大きさです。これがいわゆる脳波というもので、脳波は意識の状態と密接に関係しています。ここまではご存じですね」

 桑原はうなずいた。

「さて、次は電気のお話です。一本の電線に交流電気を流すと、その周りには電磁波が発生します。電磁波とは、電波や可視光線、赤外線、紫外線、X線などの総称と考えてください。そして、人間の脳からも非常に微弱ながら、この電磁波が出ているのです。PPSはこの電磁波をとらえるためのセンサーであり、PPSとはPsychological Pulse Sensorの略です。したがって、PPSを使えば見山人美の意識の状態を観察することができるわけです」

「なるほど」

「ところが問題がありまして、我々の普段いる空間には電磁波が無数に飛び交っているのです。例えば、人間の体から放出される赤外線、家電製品から漏れる電波など、その数は計り知れません。しかも、それらの電磁波は脳波のそれよりも遥かに強力で、脳の電磁波などはマスキングされてしまうのです。今までは、PPSをそれらから隔離された実験室の中で使用してきました。電波暗室といわれる電波を遮断する部屋にさらに改良を加えてです。しかし、今回は普通の家にPPSを設置しなければなりません」

 片山が言った。

「どうするんだ」

 沢木は桑原に尋ねた。

「桑原さん。フーリエ分解というのを御存じですか」

 岡林はその沢木の発言から予想される自分への指示を察して悲鳴をあげた。

「ええー! それ俺がやるの……」

 桑原は一瞬岡林を見た後、沢木に視線を戻して言った。

「いいえ」

「では、これもご説明しましょう。我々が耳にする音、これはなにがしかの振動が、空気を伝わって鼓膜を振動させることにより知覚されます。例えば、ピアノの音は弦の振動が耳に伝わります。つまり音の実体とは波であり、同じく波の性質を持つ交流電気信号や電磁波と性質は同じなのです。ですから音を例にして説明します。ピアノの音の波形は非常に複雑な形をしていますが、実はサイン波という単純な波形の集合体なのです。サイン波の音は、ピアノの調律などに使う音叉の音を想像して頂ければいいと思います。この世に存在するすべての音は、サイン波の合成によりできているわけです。ですから、サイン波を出力する発振器を複数用意し、それぞれの周波数と音の大きさを変えてやれば、さまざまな音を理論的には作れることになり、その発振器の数が多ければ多いほど、より複雑な音が作れるわけです。実際に一部のシンセサイザーには、この加算合成方式と呼ばれる音作りの方式が使われています。そして、音を複数のサイン波に分解すること、すなわち波の構造を分解することを、フーリエ分解と呼びます。この技術を利用すれば、複数の音の中から一つの音だけを抽出することが可能になります。さて、これをPPSにどう用いるかですが。まず、PPSでとらえたさまざまな電磁波を、一定時間単位でサンプリングし、このサンプルをフーリエ解析します。これを繰り返していけば、いくつもあるサイン波の内どれが脳波成分かを判断することができます。後はそれを再合成し、見山人美から放たれた脳波として観測すればよいのです」

「はあ。大体のことは理解できました」

 桑原がそう答えた後、岡林が桑原に向かって言った。

「まあ、口で言うのは簡単なんですけどね、それを行うためのプログラムを新たに組むのはたいへんなんですよ」

 沢木は岡林を諭すように言った。

「岡林、俺もできる限り手伝うから何とか今度の日曜日までにやってくれないか。ゼロからとは言わない。手本は船舶事業部から潜水艦のソナー用のものをもらってくるから」

 岡林は渋々うなずいた。この瞬間、今度の週末から予定されていた岡林の夏休みは消滅した。

「松下さんと桑原さんは、サイ現象の事例をそれぞれの見地から考察しておいてください。渡辺さんが詳しい情報を持ってき次第、心理面や医学面からの分析をしていただきたいと思いますから」

「はい」と桑原が返事をし、それに合わせて松下がうなずいた。

「それから桑原さんは、この計画が進行中の間は総合技術管理部に一時籍を置いてもらいます。いろいろお仕事を抱えているでしょうがよろしくお願いします。手配は私のほうでしておきますので、明日からはこちらに出社願います」

「たいへん興味あることですので、願ってもないです」

「ありがとうございます。秋山さん。桑原さんの仕事場を用意しておいてください。それから夏季休暇のことだが、しばらくは各自見合わせて欲しい。どうしても無理なようならその限りではないが。みんな大丈夫だろうか?」

 岡林以外は全員うなずいた。

「では、最後にもう一度言っておくが、このことは一切部外秘だ。また見山人美に我々の行動が悟られることのないように、特に渡辺さんと片山は慎重に行動してください」

「言われるまでもない。この道のプロだ」

 渡辺はやや不愉快そうに言った。

「失礼」

 沢木は渡辺の目を見ながら軽く詫びた。その時彼は一瞬思った。この男をメンバーに加えてよかったのだろうかと。

「さて、質問がなければ今日の会議はこれで終了したいと思うが」

 言いながら沢木は全員を見まわした。

「では、これにて終了します。ご苦労様でした」




 沢木は皆が去った後のオフィスの窓際に立ち、すっかり暗くなった外の景色を眺めていた。眼下に広がる黒い海―横浜港の彼方に見える横浜ベイブリッジには、何台もの車が光の粒となって走り、ランドマークタワーは点々とした光を灯しながらシルエットを闇に浮かべ、その近くには巨大な観覧車がネオンを輝かせていた。それは現実そのものであり、また、日常だった。それに比べ、今自分が探究しようとしていることは、非現実、非日常の最たるものであり、自分はそれに有能なスタッフを従え取り込もうとしている。そこまでやってどうなるのだろう? 彼は好奇心という名の欲求をいぶかしく思いながらも、その先にある答えとは何なのか、そんなことを考えていた。

 そこへ、秋山がコーヒーを持って入って来た。

「コーヒー入れました」

 秋山はそう言いながらコーヒー・テーブルにカップを置いた。

「ありがとう」

 沢木はソファに腰掛けコーヒーを口にした。秋山も近くに座り口を開いた。

「何て言ったらいいのか。まさか相模でこんな仕事をすることになるとは」

「そうだね」

 沢木は優しく答えた。秋山はうつむき加減に言った。

「人美という女の子、もしも自分に特殊な能力があり、犠牲者が出ていることを知ったら、一体どうなるんでしょう?」

 沢木はしばらくの暇を空けてから答えた。

「僕には想像もつかないよ」

「そうですね」

「でもね、それは何としても回避しなくてはならないことなんだ。そのために、我々は知恵を絞らなくては……」

 秋山は作り笑いをしながら言った。

「沢木さんならきっとできますよ。でも、私は偶然の産物であることを祈ります」

「僕もその意見に賛成だ」

「ところで沢木さんは何をするんですか?」

「見山哲司氏に会ってみようと思ってる」

「見山氏に」

「ああ。見山家の事情をもう少し知りたいからね。何かヒントがあるかも知れない―」

 沢木はそこまで言うと、突然口調を変えて言った。

「ところで秋山さん、もう夕飯時だよ。何かおいしいものでも食べに行こうよ」

 秋山は心からの笑みを浮かべ、涼しい声で答えた。

「はい。お供します」




 白石会長の自宅は、葉山町と横須賀市の境に近い海沿いの山の中腹にあり、そこへは国道一三四号線から続く、細い急な坂道を登って行かなくてはならない。その家はとても老夫婦二人で住むには広過ぎる大きさで、二人の中年女性の家政婦がいることが、せめてもの救いだった。しかし、夜にはにぎやかな二人の女性も帰ってしまうため、家の電気はところどころしかつかず、近所の子供たちはお化け屋敷と呼んでいた。芝生が敷き詰められた庭の一角にはプールもあったが、これを利用する者はこの家にはいなかった。

 プールの見える居間のソファに座り、白石夫婦は話しをしていた。

「来週の今ごろには、もう人美さんがこの家にいるんですね」

 白石の妻である千寿子が、そう言って話しかけた。

「そうだな。わしは女の子が欲しかったから楽しみだよ」

「あら、父親気取りをしようというおつもりなの」

「それじゃいかんか?」

「誰がどう考えても、十八の娘さんは孫ですよ。まぁーご」

 白石は憮然たる表情で言った。

「余計なことは言わんでいい」

 千寿子は苦笑しながら視線を暗闇の中に浮かぶプールに移すと、溜め息混じりに言った。「あのプールも使われなくなって何年になるでしょうね」

「んん、和哉が家に遊びに来てくれれば、孫たちが使うだろうになぁ」

 和哉とは、白石夫婦の一人息子の名であった。父と息子は対立し合い、家族としての交流もあまりなかった。

 白石は千寿子を見つめてつぶやくように言った。

「やはり、わしが悪かったのだろうか?」

「誰も悪くなんてありませんよ。ただちょっと、二人に辛抱がなかっただけです」

「お前にもすまないと思っているよ」

 千寿子は静かにうなずくと、声を明るい調子に変えた。

「あのプール、掃除しとかなくちゃね。人美さん泳ぎが得意だそうだから、きっと夏の間中使ってくれるでしょう。あなた…… あなたそれを眺めてばかりいてはだめよ」

 二人は声を出して笑った。そこへ電話がかかってきた。千寿子は電話を受け白石に告げた。

「あなた、沢木さんからお電話です」

 白石は千寿子から受話器を受け取り答えた。

「もしもし、わしだ。どうした」

「今日、例の件で会議を開き明日から動き始めますので、まずはその報告を」

「そうか。メンバーは誰だ」

「秋山、片山、岡林、松下、それに総合研究所の桑原久代と情報管理室の渡辺昭寛の六人です」

「んん、申し分ないな」

「ところで会長、見山氏にお会いする機会を出発前に一度作って頂けないでしょうか。直接お伺いしたいことがあるんです。できれば早急に」

「そうか。それならちょうど明日の午後四時に見山君が家に来ることになっているから、そこへ君も来ればいい。彼にはこの後電話で伝えておくよ」

「助かります。では、明日お伺いしますので、詳細はその時に」




 八月一日、火曜日。沢木はやはり午前九時に出社した。いつものように秋山がコーヒーを持って入って来たが、今日は片山と一緒だった。

「おはよう。こんなに早く出社して、体を悪くするなよ」

 片山がからかうと、沢木は答えた。

「昨日も秋山さんに同じようなことを言われたよ」

 秋山が笑いながら言う。

「誰だって言いますよ。いつもはお昼近くになってやっと来る人が、いきなり早く来るんですもの」

 沢木はここ半年あまり、まともな時間に出社したことは一度もなかった。

「まあ、そう言うなよ。一応普段だって早く来ようとは思っているんだから……」

 片山が突っ込んだ。

「思ってるだけじゃなぁ。まあ、いつまで続くか見物だな」

 口をへの字に曲げる沢木を見ながら、秋山と片山が笑った。

「それはそうと沢木さん。私たちはこれから葉山に行ってきます。私は不動産屋さんをあたりますので」

「俺は白石邸の下見をしてくる」

「分かった。実は私も午後から葉山に戻るんだ。四時に会長宅で見山氏と会うことになっているんでね」

 秋山は考えながら言った。

「そうなんですかぁ…… 沢木さん、私も一緒に行っていいですか?」

「それは構わないが、何かわけでも」

「特別なわけはないんですが、ただ、人美さんのことがとても気になるので、見山氏の話しに興味があるんです」

 沢木は秋山の不安げな表情を見ながら、昨日の会議の後で秋山が言ったことを思い出した。

「そうか、いいよ。どこかで落ち合って一緒に行こう。場所と時間は後で僕のほうから連絡するよ」




 時計の針がそろそろ午前十一時を指そうという時刻になって、人美は母の呼び声で目を覚ました。

「人美、人美、彩香ちゃんから電話よ。人美、起きて!」

 人美はしばらくの間ベットの上で呆然としていたが、状況を理解すると急いで一階に下りて行った。そして母から受話器を受け取ると、息を切らしながらしゃべった。

「はっ、はい。人美ですけれど」

「何だー、今起きたの。相変わらずねぼすけね」

 その声の主は人美の親友の泉彩香だった。人美と彩香は中学校時代からの付き合いで、進学する高校も一緒に決めた仲だった。

 彩香は外見も性格も、人美とはほとんど正反対であった。彼女の髪は肩から腰の中間くらいまで伸ばされた黒く艶やかなストレートで、日本的な、なおかつ幼さの残った顔立ちをしていた。人美をボーイッシュとするならば、彩香は女の子らしい女の子といえるだろう。

「ああ、彩香か。どうしたの?」

 彩香はいらいらした口調で言った。

「もう、どうしたのじゃなくて。今日は荒崎に遊びに行こうって、人美のほうから誘ってきたんじゃない」

 この日、二人は荒崎海岸に遊びに行く約束をしていたのだが、人美はそれをすっかり忘れてしまっていた。その原因は、土曜日の晩から見始めた夢のせいであり、昨夜も人美はその夢を見たのだった。眠りにつきしばらくするとその夢が始まり目を覚ます。再び眠りにつくとまた同じ夢を見る。朝になるまでこれの繰り返しで寝た気がしなかった。これが土曜の晩から昨晩まで、もう三日も続いているのだった。

「ああ、そうだったね。ごめんごめん。お昼食べたらすぐ迎えに行くよ」

「だから、お昼はサンドイッチを私が用意するって―人美、変よ。何かあったの?」

 彩香の感情はいらだちから心配に変わった。なぜなら、人美は今まで約束を守らなかったことなどただの一度もなかったし、ましてやそれ自体を忘れてしまうということは、考えられないことだったからだ。彩香は思った。

 何かあるんだ、絶対に

「んーん、大丈夫よ、何でもない。寝惚けてただけよ。じゃあ、今すぐ行くから、待っててね」

 人美は電話を切った後に、夢のことを脳裏に描きながら思った。

 とはいったものの、やっぱり彩香に聞いてもらおうかな。何で同じ夢ばっかり見るんだろう。こんなこと今までなかったのに……




 そのころ、渡辺昭寛は相模重工本社の近くにある神奈川県警察本部で、ある人物と会っていた。その人物とは、十一年前の幼女連続誘拐殺人事件の捜査本部長を務めていた神村県警副本部長で、当時は県警本部の捜査課長だった。渡辺はかつてのつてを通じて、彼への面会を求めたのである。

 神村が言った。

「お噂はかねがね聞いてますよ。SOPの中でも相当の凄腕だったそうじゃないですか。例の東京サミットの時も作戦に参加していたんでしょう、あれは鮮やかだった。聞くところによると、米軍は特殊部隊まで出動させようとしたそうじゃないですか。何で辞めてしまったんです。SOPも惜しい人材をなくしましたよね……」

 渡辺には過去の栄光を語る気はなかった。

「まあ、そこのところは勘弁してください。今は相模の番犬ですから」

 渡辺は今の職場を歓迎してはいなかった。SOPを辞めた後に相模重工に拾われ、情報管理室室長の肩書と二倍近い年収を得たが、要は相模の番犬でしかないと悲観的になっていた。SOPにいたころは、自らの命をかけてテロと戦い、多くの要人や市民、仲間の命を救ってきた。それは知恵と勇気、挑戦に満ち溢れた、危険だがやりがいのある仕事だった。それに比べて今の仕事は何の緊張感もなく、ただ過ぎていく時間に溺れながら過ごしているだけだと考えていた。しかし、そうかといってほかに仕事のあてもなく、もう自分の人生は半ば終わったかのごとく、彼は日々を過ごしていた。

「相模重工とは、また変わった再就職先ですな」

「自分でもそう思いますよ。さて、そろそろ本題に入りたいのですが」

「ああ、そうですね。えーと、十一年前三浦半島地区で起きた幼女連続誘拐殺人事件のことでしたね」

 神村は、まるで昨日起きたことを話すような鮮明な言葉で、事件のことを語り始めた。




「いい眺めですね。こんな景色のいい部屋に住んでみたいですよ」

 片山は窓から見える海を見ながら、白石会長に向かって感想を漏らした。二人がいるのは人美がまもなく入居する二階の角部屋だった。

 片山広平が相模重工に入社したのは今から九年前、早稲田大学理工学部を卒業してすぐのことだった。入社当時の彼が籍を置いていたのは、船舶事業部システム開発室であったが、上司との馬が合わず、二年後には航空宇宙事業部飛翔体研究室に転属した。しかし、ここでも上司と折り合いがつかず、その後メカトロニクス事業部、エネルギー事業部と、まるでジプシーのように社内をさ迷い歩いた。歴代の上司たちに言わせれば、彼はトラブル・メーカーであり、協調性に欠ける人間だった。だが、彼の実績は確かなもので、その証拠に、“センサーの魔術師”という異名を同僚たちからつけられたいた。

 そんな彼に目をつけたのが沢木だった。沢木はSMOS開発のスタート当初から片山をスタッフとして招き入れ、二人の協力関係のもとSMOSが完成された。なぜ二人の馬が合ったのか、それは彼らにも分からないだろうが、おそらく片山は、沢木の技術者としての類稀な創造力や緻密な思考、虚勢や見栄をはらない人間性に引かれたのではないだろうか。その後、総合技術管理部が沢木のもとに創設され、その一員として片山の新たなる創造の歴史が始まった。

 白石は言った。

「ならば君もせいぜい仕事に励むことだな。わしなどは君の年齢のころには寝食を忘れて設計に励んだものだ。しかも、CAD設計などという小生意気なものがない時代にだぞ。それに比べれば今は随分と便利になった……」

 片山は白石を尊敬していたが、この説教癖だけはやめてもらいたいと常々思っていた。 今年で七十二歳になった白石功三は、沢木をはじめとする若い人間たちと接するのが好きで、何かと理由をつけては沢木たちを家に招き持て成していた。彼にとって、若い世代の夢や想像力に触れることは、大きな楽しみの一つなのだ。

 そんな彼は、技術の分野では“YS‐11を創った男”の一人として知られている。

 相模重工は彼の父が起こした会社であり、戦前は軍艦や戦闘機の製造を行っていた。少年時代の白石は飛行機が好きで、戦闘機の製造部門に出入りしているうちに、自然と技術者を目指すようになった。そして、一九五九年に国産初の旅客機開発プロジェクトが発足すると、彼は機体設計の責任者に抜擢された。一九六二年に就航し、一九七三年に一八三機の製造を持って生産を終えたYS‐11は、夢や情熱を飛行機に捧げた男たちの手によって生み出されたのだ。しかし、その後の旅客機開発はさまざまな要因のために進展せず、国内の航空機業界は冬の時代を迎えることとなる。

 父が急死し、四十三歳の若さで社長に就任した彼は、相模の生き残りの道を求め、次第に兵器製造部門の比重を増やしていくこととなる。しかし、敗戦と戦後日本の移り変わりを垣間見てきた彼にとって、それは厳しい選択でもあった。

 片山は、白石の説教はごめんだが、そうかといって話しを中断させるわけにもいかず困り果てていた。そこに助け舟が現れた―千寿子だった。

「お話中ごめんなさい。片山さん、お昼食べていかれるでしょう。用意しましたから、召し上がってってくださいね」

「ああ、奥さん。お手間をかけさせてしまってすみません。遠慮なくご馳走になります」 その返事を聞いた千寿子は、ニコニコしながら去って行った。

「ところで会長。この部屋にはエアコンがないですね」

「確かに、エアコンはない。何か問題があるか?」

 白石は不思議そうな顔をして言った。

「ええ、少しばかり。見山人美にはなるべく体温を低く保ってもらいたいんです。それと、部屋の室温も低いほうがいいので―エアコンは私のほうで特製のものを用意しますから、それを取り付けさせてください」

「うむ、それは構わんが。なぜだ?」

「赤外線の放射量をなるべく抑えたいんですよ。つまり、ノイズを少しでも減らして、聞きたい音を聞こえやすくしたいんです」

 白石はしばし考え込んだ後に言った。

「その音とは…… つまり、人美さんの心の声のことだな」

「そうです」

「で、実際PPSはどれだけやれるんだ」

 片山は薄い笑みを浮かべながら答えた。

「PPSの能力はいつだって最高ですよ。問題なのは、PPSが拾った信号をどう処理するか。つまり、沢木や岡林がどこまでやれるかにかかっています。まあ、彼らのお手並み拝見といったところですね」

「そうか、どうも最近のこじゃれた技術は分からんのう?」

「それから、会長。明後日辺りに技術スタッフを連れてまた来ますので。承知しておいてください。その時にPPSとエアコンの取り付けを行いますので」

「うむ、承知した。ところで片山」

 白石は満面に笑みを浮かべてその後を続けた。

「ついでにこの部屋の改装もやってくれんか。きっと人美さんも喜ぶと思うんだが……」




 荒崎海岸は三浦半島中央部の相模湾側に位置している。そこは砂浜が広がった普通の海岸とは異なり、岩が切り立つ絶壁と岩場により形成されていた。荒崎海岸の特徴は、波などの海水の運動により、この海岸を形成する貢岩と凝灰岩が浸食されてできた海飴台や海飴洞にあり、海飴とは海水の浸食作用のことを示す。

 人美と彩香はそれぞれ自転車に乗り、約三十分ほどかかって荒崎海岸に到着した。時刻は予定より遥かに遅い、午後一時ごろを示していた。二人は海岸へとつながる道の入り口にある駐車場の一角に自転車を止め、景色のいい場所に向かってテクテクと歩き始めた。

 彩香が言った。

「あの場所、取られてないといいけどね」

 二人は以前にも何度となくここを訪れているために、景色の奇麗な場所を知っているのだった。そのお目当ての場所には、絶壁沿いの細い獣道のような道を通って行く。しばらく登り道が続くと木々のトンネルに入るが、その内部は決して暗くはなかった。木々の葉の間からこぼれる白い光線は、葉の揺らぎに合わせて一緒に揺らめき、絶壁の一〇メートルくらい下にある海面からは、キラキラとした光の粒が飛び込んできていた。そして、そのトンネルを抜けると登り道も終わり、絶壁の頂に出る。その瞬間景色は一変し、青い空と青い海が一面に広がるのだった。

「やっぱり、ここの景色が一番奇麗だよね」

 彩香が言った。

「うん。ほら見て、開いてるよ。行こう」

 二人のお目当ての場所は、先客もなく二人を迎えてくれた。その場所は、今二人のいる位置から少し海側に下りたところにあり、そこは岩場に突き出した大きな岩の頂上が平になっているところだった。ここからの眺めはまさに絶品で、前方の海の奥には伊豆半島が、右手には江の島、左手には大島を一望でき、視界のよい日や日没時には、遥か彼方にそびえ立つ富士山を見ることができた。

 二人は背負っていたバックパックを下ろすと、その岩の頂に“お店”を広げ、彩香が腕によりをかけて作ったサンドイッチの遅い昼食を食べ始めた。眼下に広がる岩場の波打ち際には激しい波が打ち寄せられ、白い水しぶきが延々と立ち上り、夏の強い陽光と青い空が二人を覆っていた。




 沢木は計画を進めるために必要な事務手続きを終えると、自分のオフィスから秋山の持つ携帯電話にダイヤルした。

「もしもし、沢木ですが。いい家は見つかったかな?」

 その時、秋山は不動産屋に連れられて物件の下見をしているところだった。

「ええ、今ちょうど家を下見しているところなんですが、これなら重役も気に入ってくれそうです」

 重役? ああ、そういう設定にしたのか

 沢木は答えた。

「そうか、よかった。今どの辺にいるの?」

「森山神社の近くです。分かります?」

「ああ、僕の家の近くだよ。それじゃ、悪いけど一度逗子まで戻ってくれるかな。二時半にJR逗子駅の近くの喫茶店で落ち合おう。喫茶店の場所は……」

「分かりました。では二時半に」

 沢木は京浜急行の日ノ出町駅まで社の車で送ってもらい、そこから新逗子駅までを電車で移動した。日ノ出町から新逗子までは、新逗子行きの急行に乗ればおよそ三十分で到着する。

 新逗子駅に降り立った沢木は、逗子にあるもう一つの駅―JR逗子駅近くにある喫茶店に向かって歩き、二時半少し前にその待ち合わせ場所に到着した。

 沢木が店に入ると、既に秋山は本を読みながら彼の到着を待っていた。

「お待たせ、暑い中ご苦労だったね。早速だけど、家の件を聞かせてもらえる」

「はい。見て来たのは三軒です」

 秋山はそう言いながら、読んでいた本を鞄にしまい、替わりに葉山町の地図を取り出した。その時、沢木には秋山が読んでいた本の題名が見えた。

 ファイア・スターターか

 それはスティーブン・キングの小説で、超能力を持つ少女の話しだった。

 特別な思い入れを持たなければいいんだが

 沢木は秋山の顔をじっと見つめ、ふと、そんなことを思い不安な気持ちになった。が、次の瞬間、強い化粧の匂いを感じた。

「ご注文は?」

 喫茶店の若い女の店員が沢木に注文を聞いてきた。匂いの源はその店員だった。歳はおそらく二十歳前後なのだろうが、厚い化粧のために老けて見えた。髪はやや茶色く、ピンクの口紅と、真っ赤なマニキュアで飾り立てていた。化粧さえ取ればそれなりにかわいい娘だと思うのだが、装いとはその人間の精神を反映しているものだ。

 沢木はこういうタイプの女性が好きではなかった。彼はもっと清楚な感じの―そう、秋山のような飾らない女性が好きだった。秋山はいつも髪を後ろに束ね、うっすらとした化粧で、服装も地味なものが好みのようだった。

 今日の髪型、何といったっけ?

 彼女の長い黒髪は奇麗に編み込まれ、後頭部のところで団子状に束ねられていた。そしてその団子の上には、真っ白い柔らかなリボンが花咲いていた。

 確か前に聞いたんだけど―そうだ、シニヨン

 秋山の髪型の基本形は後ろで髪を束ねることである。最も多いのは束ねた髪をバレッタで止めること。次いでポニーテール。そして今日のように、たまにシニヨンと白いリボンになる。

 そういえばぁ、髪を下ろしたとこ見たことないなぁ

 沢木はそんなことを思った。

 元々技術者を目指していた秋山は、普段の事務的な仕事よりも、“現場”での仕事が好きだった。沢木と一緒に工場で作業するような時には沢木組カラーのオレンジ色の作業着を着て、油にまみれて仕事をすることもあった。彼女は常に生き生きと仕事をしていたが、好奇心旺盛な少年のように瞳を輝かせるのは、やはりその時だろう。そして、種子島の宇宙センターに、人工衛星プロメテウスの打ち上げを見学しに行った時などは、もう完全に子供に戻ってしまっていた。沢木はそんな秋山の顔を見ていると、彼女の両方のほっぺたを思い切り、ぐにゅーっと、つねってやりたい衝動に駆られるのだった。彼にとって秋山は、常に安らぎと清涼感を与えてくれる女性であった。

「まだお決まりにならないんですか?」

 店員のいらいらした声に、沢木ははっとして答えた。

「ああっ。えーと、アイスコーヒー」

 秋山はテーブルに地図を広げ、場所を指で示しながら説明した。

「三軒の場所は、ここと、ここと、ここです。どれも一軒家です」

 沢木の頭の切り換えはいつでも光速だった。彼は地図をのぞき込みながら尋ねた。

「んーん、どこも白石邸から約一キロくらいの距離か。二階建ての家はある」

「すべてそうです」

「周辺が開けているのは?」

 沢木は電波の通り道を考えていた。

「そうですね。この二軒でしょうか」

 秋山が示した場所の一つは、先ほどの電話で言っていた森山神社の近く、もう一軒は小学校の近くだった。

「駐車場はある?」

「どちらもありますが、森山神社側の家はそこまでの道が狭いので、軽自動車しか入れないかと」

「そうか、では決まりだな。ここにしよう」

 沢木は小学校に近いその場所を指差して言った。

「はい、分かりました。でも、ちょっと残念だなぁー。森山神社側の家の方がおしゃれな作りで気に入ってたのに」

 秋山は無邪気な笑顔を浮かべながら言った。その表情は、沢木が先ほど一瞬思った不安を忘れさせてくれた。

 アイスコーヒーがテーブルに来ると、沢木は腕時計を見ながら言った。

「さて、まだ時間もあることだし、話しでもして時間をつぶすそうか」

「すいません。気を使っていただいて」

「何で?」

「だって、沢木さん一人ならこんなに早く逗子に来ることなかったでしょう。私の暇つぶしに付き合ってもらっちゃって」

 秋山は沢木のことを尊敬すると同時に、一人の男性として好きだった。しかし、その気持ちを沢木に言ったことはなかったし、それを匂わせるようなことも一度も言ったことがなかった。彼女は、沢木がいつか自分に振り向いてくれることをただ切々と願っていた。一方、沢木は秋山をパートナーとして信頼すると同時に、彼女の能力を高く評価していた。そして、彼女のことがとても好きだった。しかし、その気持ちは恋愛感情というまでには至っていない。なぜなら、恋愛感情を抑制する記憶が彼の脳裏にあるからだ。沢木はその記憶から逃れたかったが、逃れようとすればするほど、その記憶が蘇ってくるのだった。

 沢木は思った。

 君と一緒にいたいから…… 何て言えたらなぁ。ああ、また思い出してしまった。美和、なぜ君は……

「沢木さん、どうしたんです?」

 沢木はその声に我を取り戻した。

「ええ、何に」

 秋山は、沢木が時々物思いに耽ることが気になっていた。




 ドンドンドンドン

 白石会長の書斎のドアがせわしなくノックされると、家政婦の一人の橋爪京子が入って来た。

「ノックは静かにしてくれといつも言っているだろう」

 白石は呆れた顔で言った。

「申し訳ありません、旦那様。あのー、見山様がお越しになりましたが」

「そうか、ここへ通してくれ」

 しばらくすると、橋爪に案内されて見山哲司が入って来た。

「どうも、こんにちは。少し早かったでしょうか」

 見山は遠慮がちに言った。時刻は三時四十五分を示していた。

「いやいや、別に構わんよ。暇を持て余す隠居の身だからな」

「ご謙遜を」

 橋爪は二人がソファに腰掛けたのを確認すると見山に尋ねた。

「コーヒーでよろしいでしょうか。それとも何か冷たいものにいたしますか」

「すみません、コーヒーで結構です」

「わしにも同じものをくれ」

「かしこまりました」

 橋爪は二人にお辞儀をした後、書斎を出て行った。

「ところで、例の件なんですが。昨日電話で言っておられた沢木さんというのは、どんな人なのでしょうか」

 見山は不安げな表情をして言った。

「心配するな。沢木は我が相模重工の頭脳と言ってもいいほどの優れた技術者であると同時に、わしが女房の次に信頼する人間だ。彼に任しておけば、必ず何か掴んでくれるはずだ。まあ、まもなくここへ来るから、本人を見れば安心するだろう」

「そうですか。すると人美に関する調査も、その沢木さんが行うのですね」

「まあ、どこまでできるかは分からんが、沢木は一度やると決めたことはとことんやる男だ。決してあきらめず、弱音を吐かず、自分の知を武器に難問に挑む男だ。だたし、今度ばかりは彼も苦労するだろうがね」

 見山は深々と頭を下げながら言った。

「本当に、何と言ったらいいのか。感謝してます」

「おいおい、見山君、礼を言うのはまだ早いぞ、我々はまだ何もしていないんだから―ところで、出発の準備はもうできたかね」

「ええ、後は出発を待つばかりです。できればこのまま人美の側にいたいのですが……ああ。それと、人美のほうの荷物は今度の日曜日に運送屋に運んでもらいますが、それでよろしいでしょうか?」

「ああ、結構だ。人美さんが入る部屋は改装する予定だし、女房は妙に張り切ってる。こちらの受け入れ準備は万全だよ。ところで、人美さんは今日はどうしているかね?」

「ええ、友達と荒崎海岸に遊びに行っています」




 人美と彩香は海の家の座敷を陣取り、かき氷を食べていた。

 人美たちのお気に入りの場所から海のほうへ下って行くと、ほんの僅かだが砂浜がある。そこにはテントがいくつか張られ、日光浴をする人やバーベキューをする人たちで、若干のにぎわいをみせていた。二人が今いる海の家は、その砂浜にポツンと一軒だけたたずむ、こぢんまりとした海の家だった。

「彩香、受験する大学もう決めたの?」

「んーん、まだだよ」

 彩香はかき氷を食べるのに夢中だった。

「のんきね。普通の高校三年生は、今ごろは夏季講習なんかに出たりして、忙しい勉強の毎日を送っているものよ」

 人美がいたずらっぽく言うと、彩香はスプーンを動かす手を止めて答えた。

「それはそうなんだけどね。でも、受験は再来年でもできるじゃない。でも、でもね。人美とこうやって過ごせる夏は、この夏が最後になるかも知れないし……」

 彩香は少しさびしそうな顔をして続けた。

「だったら、私は人美といることのほうが大事よ。だって、人美は私の親友だもの。赤毛のアン風に言えば、心の友ってところね」

 人美はとても幸せな気持ちだった。目の前にいるこの少女は、彼女自身の大学進学のことよりも、自分といることのほうが大事だと言ってくれている。今までにも多くの感動をしてきたが、自分のことを気遣ってくれる友人が、今、確かに目の前にいるということは、最大級の感動となって人美の心を打った。

「彩香、ありがとう」

 人美の目からは涙が溢れ出ていた。

「やだ、人美。何も泣くことないじゃない。そんなに感動しちゃったの?」

 彩香は少しおどけてみせた。

 それもあるけど

 人美は思った。

 それもあるけど、それだけじゃない。それだけじゃない何かが。そのせいで涙が出てくるの。どうして、何でなの




 白石会長の書斎には既に沢木と秋山が到着していた。初対面のあいさつを済ませた彼らはそれぞれ席についた。見山の正面に沢木が座り、その横には秋山が。白石は少し離れた机のところにある、肘掛け椅子に腰掛けた。

 沢木は見山をじっと見据えてその風貌を観察していた。やや太目の体形と、薄くなった白髪混じりの髪の毛、眼鏡をかけた四角い顔。その顔は人のよさそうな、正直そうな印象を沢木に与えた。おそらく今までの人生を実直に、真面目に生きてきたのだろう。沢木はそんなことを思った。

 一方、見山も沢木の人物像を考えていた。何しろ、大事な娘の極めてデリケートな問題を扱う人物なのだから、その人物について強い関心を持って当然である。見山が最初に思ったことは、この男は一体いくつなのだろうか、ということだった。外見だけなら二十代後半くらいでも通用するような若々しい顔をしているが、そんなに若いとも考えにくい。いかにも賢そうな、頭脳明晰そうな顔をしている。白石があれほど信頼している人物なのだから、自分も信頼していいのだろうが、上辺のおとなしそうな外見とは違う、何か激しいものを持っているように思えた。それは何なのだろう……

「それではいろいろと質問をさせて頂きたいと思います」

 沢木が言った。

「分かりました。どうぞ、何なりと質問してください」

 見山は神妙な趣で答えた。

「では、まず人美さんについてですが、見山さんが手紙に記された四件の出来事以外にも、何か類似したような出来事は起こっているのでしょうか。どんな些細な出来事でも構いません、何かあればお話ししていただきたいのですが」

「いいえ、私の知る限りではほかには何もないです。私もいろいろと思い出そうとしたのですが、あれ以外には何も起きていないと思います」

「そうですか。人美さんはどんなお子さんですか」

「んーん、そうですね」

 見山の表情が心なしか明るくなった。

「人美はまず感性のとても豊かな子だと思います。そして、想像力の豊かな子だと。人美の好きなことは、読書にピアノ―これは小学校に上がる前から習わせてまして、ちょっとした腕前なんです。それから絵もたまに描いています。色鉛筆を使って淡い色彩の絵を描いていますね、主に風景画です。人美はそういった、空想とか、創作といった作業をするのが大好きな子です。後はテニス、硬式テニス部に入っていました。三年生の部活は夏までで終わりだそうで、とても残念がってました…… そうそう、この夏はいつになくよく海に遊びに行ってますね。何でも素潜りに凝っているとか。海の中で見た光景のことをよく聞かせてくれます」

「性格は?」

「明るくて、気持ちの優しい子です。人の悪口を言ったのを聞いたこともないですし、友達とトラブルを起こしたようなこともないと思います。人美はどうも同性から好かれるタイプのようで、きっと男の子っぽいところがあるからだと思うんですが、友達グループのリーダー的存在のようです。そう、今の人美を一言で表すのなら、男の子っぽい子です」「小さいころはどんなでしたか、手紙によると小学校のころは人見知りが激しかったとありますが」

「中学校に上がるまではとてもおとなしい内気な子でした。一人で本を読んだり、絵を描いたり、とにかく友達と遊ぶことよりも一人でいることのほうが好きな子でした。それでも六年生の時には、一人だけ仲のいい子がいたのですが、手紙のとおり、あの事件の後どこかへ行ってしまいました」

「そういうおとなしい性格は小学校に上がる前からですか」

「そうですね。いじめの原因もおそらくその辺にあるのでは? と思います」

「すると中学に入ってから、徐々に今の人美さんに変わっていったということですね」

「ええ。中学に入学してからは物事に対して積極的になってきました。友達を作ること、学校の勉強や部活動、このころからテニスを始めました。それからピアノ。実はそれまでは何度となく止めたいと言ったことがあったのですが…… いずれにしても、人美は中学から変わり始めました」

「何がそうさせたのでしょう。心当たりはありませんか」

「分かりません。私も妻も特別何かをしたわけではありませんから。ただ、未だに付き合っている友人ができたことが、一つにはあるのかも知れないです」

「参考までに名前をお教えいただけますか」

「その娘は泉彩香さんといいまして、家の近所に住んでる娘さんです。小学校も一緒だったんですが同じクラスにはならず…… 二人はとても馬が合ったようです。何しろ進学する高校も二人で相談して決めたようですから。実は、今日もその娘さんと荒崎海岸に遊びに行っているんです」




「やっと元気になったみたいだね」

 彩香は人美の肩に手を添えながら優しく言った。

「ごめんね。何だか急に悲しくなっちゃって」

 人美は彩香の顔を見た。彼女は黙って微笑んでいた。

「実はね、彩香に聞いてもらいたいことがあるの」

「なーに、急にあらたまっちゃって。さては恋の相談とか。好きな人でもできたの?」

 彩香はわざと見当外れなことを言ってみた。彼女には何となく予想がついていた、人美に何かが起きているということが。

「うーん、それならいいんだけど…… そうじゃなくてね。最近同じ夢を見るの、しかも一晩に何度も何度も」

「どんな夢なの。怖い夢?」

 人美は夢のことを話し始めた。


 少女は薄暗い浜辺の波打ち際に一人たたずんでいた。優しくも冷たい穏やかな波が素足の足に触れていた。少女の頬には、海から吹く生ぬるい少し湿った風が当たっていた。辺りの景色は霧がかかっていてよく見えなかったが、沖合の小さな灯台の小さな灯が、わずかに見え隠れしていた。

 少女は、そう、それは自分、人美だった。

「誰か、ねえ、誰かいないの。お父さん! お母さん! 彩香! 誰か、誰か返事をしてよ。私はここにいるのよ!」

 少女は耳を澄ました。だが、その返事に答える者はいなかった。不安、さびしさ、孤独、恐れ、そんな感情が沸き出してきた。

「帰りたい。早く家に帰りたい」

 少女は全力で走り出した―この感情から逃れるために。しかし、走っても走っても、少女の目に映る光景は変わらなかった。やがて少女は息を切らし、膝を突き、腕を突いた。「どうして誰もいないの。誰か返事をしてよ!」

 気が狂いそうだった。一体どうしたらよいのか、何をどうすれば状況を変えることができるのか、もはやその判断力は失われていた。

 その時、少女の背後から地響きのような低い枯れた声がした。

「私ならここにいる」

 少女には後ろを振り向く勇気はなかった。恐怖に体は震え、血の気が引いていくのが自分でも分かった。

「私ならここにいる。ここにいる。ここにいる」

 その声は徐々に少女の背後に迫って来た。

 もうだめだ、終わりだ。これで、これでもう終わりなんだ

 少女の心を絶望が支配していた。

「私はここにいる。さあ、振り向いてごらん。私はここにいる」

 その声はますます近づいて来た。少女はすべてをあきらめて振り向こうとした。

 その時、少女の前方から何かが近づいて来た。

 人? 誰、男の人

「振り向いてはだめだぁ! さあ、こっちへ来るんだ!」

 少女はその声の方に手を伸ばした。男も手を伸ばした。

 もうちょっと、もう少しで手を握り合うことができる。あの手を掴めば、私はここから逃げられる!

 穏やかだった波が急に激しく怒り狂い始めた。

「私はここにいる。さあ、振り向いてごらん。私はここにいる」

「振り向いてはだめだぁ!」

 少女は必死に手を伸ばした。

 後もう少し、ほんの僅か

 二人の手は触れる寸前だった。しかし―

 しかし、大きな波が少女をのみ込んだ。少女は波に翻弄されながら苦しみ悶えた。そしてほんの一瞬、波の隙間から背後に迫っていた声の主の姿を見た。

 それは…… それは人美だった。


 彩香はじっと人美の話しに聞きいっていた。そして彼女が話し終わり、プルプルと震え出すと、その肩を強く抱き締めて力強く言った。

「大丈夫よ、人美。何も心配しなくても大丈夫。ただの夢よ、夢。人美、想像力豊だから、怖い夢を見たのよ」

 自分が何の説得力もないことを言っているということが、彩香には分かっていた。しかし、怯える人美を目の前にして、今はこれ以外に言葉がみつけられなかった。




「それでは、今度は四件の出来事についてお聞きしたいのですが」

 沢木は質問を続けた。

「最初の出来事の発端は、人美さんがいじめられることに始まるわけですが、この加害者について、人美さんは何か言っていましたか」

 見山は当時のことを思い出そうと考え込んでいた。

「んんー、そうですね。確か、怖い、と言っていました」

「こわい」

「そうです。人美はなぜ自分がいじめられなければならないのか分からない、彼女のことが怖い、そう言ってました」

「憎しみを表すような言葉を言ったことはありませんでしたか」

「それはないです。先ほども言ったように、人美は人のことを決して悪く言う子ではありませんから。ただ、いじめをする女の子のことを恐れ、怯えていました」

「いじめの具体的な内容については、何か聞いてますか」

「ええ。いじめは最初、人美を仲間外れにすることから始まったようです。ただでさえ人見知りをする人美が、そのような状況の中で味方となる友達を作れるわけがなく、孤独が最初に人美を襲いました。それから、掃除当番を人美一人に押しつけたり、自分たちの嫌いな給食をむりやり食べさせようとしたり、細かいことを言い出したら切りがないです」「暴力を奮われたりということはありませんでしたか」

「どうでしょう、そこまではなかったと思いますが。ただ、言葉の暴力や無視されるということに、人美は打ちのめされていました」

「そして、ついに学校に行かなくなった」

「そうです」

「その時、家ではどのように過ごしていたんですか」

「ほとんどを自分の部屋にいました。自分の好きなことをやって、気をまぎらわしていたようです」

「加害者である少女が行方不明になったということを知った時には、人美さんはどんな反応を?」

「人美にそのことを伝えたのは私ですが、これといった反応は特になかったと思います。ただ、素直に私の言うことを聞いていました」

「その後すぐに学校へ行くようになったのですか」

「いいえ。その後しばらくして夏休みに入りましたので、学校に行き始めたのは二学期になってしばらくしてからでした。ある朝突然学校に行くと言い出しまして。それからは休むことはなくなりました」

 沢木は興味を持った。

 なぜ、突然

「その、ある朝突然とは、いつのことか覚えていられますか」

「いいえ、覚えてないです」

「そうですか」

 沢木は期待を裏切られた気がした。

「ところで、その後いじめはなくなったのでしょうか。加害者は集団のようですが」

「人美の姿から想像する限りでは、なくなったと思います」

「幼女連続誘拐殺人事件については何か言ってましたか」

「いいえ。おそらく、その事件のことはよく理解できてないと思います。七歳の子供が新聞やニュースを見ることはないですし、私も妻も知らない人には気をつけなさいよ、といった程度の注意をしただけですから」

「そうですか。では、次のいたずら事件ですが。人美さんはこのことにより相当のショックを受けたようですが、口を利かなくなったのはどれくらいの期間なのでしょうか」

「被害者の女の子、つまり人美の友達が引っ越してしまった直後から、三、四週間くらいの期間だと記憶してます」

「人美さんは事件について何か言ってましたか」

「事件のあった直後に、友達がかわいそう、とだけ言っていました。口を利くようになってからは、もう事件の話題は人美も私たち夫婦もしませんでした」

「人美さんは事件を起こした教師のことを好意的に思っていたようですが」

「ええ。事件前までは、担任の先生はとても優しくて、分かりやすく勉強を教えてくれると言っていました」

 沢木はタバコを口にくわえると、ライターを取り出した。シュッ、シュッ、シュッっと、安っぽい音を三回発した後、四回めの音にしてようやく火が灯った。

 百円ライター? この男、かなりの高給取りなのだろうに

 見山はふとそんなことを思った。一服めの煙を吐き出した沢木は言った。

「今までのお話を聞いてますと、人美さんは自分のことをよく両親に話すお子さんのようですね」

「ええ。人美と私たちの親子関係はとてもうまくいっています。それは昔も今も変わりありません」

「そのようですね。ところで見山さん、質問ばかりされてお疲れになりませんか」

「いいえ、私は大丈夫です。人美のためなら、私はできる限りの質問にお答えします」

 見山は沢木の目を見ながら真剣な表情で言った。

「沢木さん。人美にはやはり特殊な能力があるとお考えですか」

 沢木は思った。

 この男はどういう返事を待っているんだろうか。肯定? 否定? あるいは、娘には何か得体の知れない力があると確信しているんだろうか?

 沢木はあえて挑発的な意見を言った。

「どうなんでしょうね。超能力とか、まあ、そういった超自然的現象の存在とは、海のものとも山のものともつかない未知の領域ですから、現段階では想像や推測をすることしかできないでしょうね」

 見山はその挑発に乗ってきた。

「では、どういう想像や推測をしているのですか。ぜひ、聞かせていただきたい」

 今度は惚けてみた。

「まあ、あるのかも知れないし、ないのかも知れないし……」

 見山は完全にいらついていた。

「そんな! とても科学技術の最先端にある人物の発言とは思えませんね。いくら未知なることとはいえ、もう少しまっとうな見識をお持ちにはなっていないんですか」

 二人の会話を隣で聞く秋山には、沢木の意図が見えていた。秋山は尋ねた。

「では、見山さんはどういう答えをお望みなのですか」

 白石は半ば呆れた顔をしていた。

「あなたがたは、私が思っていることは単なる妄想だ、と言いたいんですか」

 見山の顔は紅潮していた。

「白石さん。本当に彼らを信頼してもいいんですか!?」

 白石は穏やかに、諭すように一言言った。

「見山君。君は彼らをおいてほかに誰を信頼しようというのかね」




「そうだぁ!」

 彩香が突然声を張りあげた。

「人美。私、今晩人美の家に泊まりに行ってあげるよ。二人でいれば、怖い夢、見ないかも知れないし、少しは安心して寝られるでしょう」

「うん、そうしてくれるのは嬉しいけど、いいの」

「あったりまえじゃない。そうしよう、決めたっ!」

 なんとも頼もしい友人である。二人が出会ったのは運命的なものだったかも知れないと人美は思った。

 思えば、それまでの自分は人と接するのが苦手で、なかなか心を許せる友人ができなかった。六年生の時に、やっとそれに近い友達ができたがすぐに失ってしまった。もう自分には友達はできないんじゃないか? そう考えていた。中学に入学した時には、小学校に入った時の記憶が蘇ってきた。ぼやぼやしてると、また友達を作る機会をなくし、またいじめられるかも知れない。勇気を出して、勇気を出して友達を作ろうとしなくては―

 ある朝、人美は中学に行く途中で同じクラスの女の子を見かけた。人美は勇気を出してその子に声をかけた。「おはよう」―細く弱々しいその声に少女は振り向くと、にっこりと微笑んであいさつを返してきた。以来、その少女との間に友情が生まれ、人美は変わり始めた。

 ほんの少しの勇気があれば、本当に僅かの勇気さえあれば、人は変わることができる。その時人美はそれを確信した。何ごとにも積極的に取り組むようになったのはそれからだった。今では小学校の時が嘘のようだ。多くの友達に恵まれ、その中には彩香という親友もいる。どんなことでも話し会える、かけがえのない友達がいる。

 まず、勇気を持つこと、そして勇気は人生を切り開いてくれるもの。いつしかこれが人美の哲学となり、彼女の長い艶やかな髪は惜しげもなく短く切られた。それは、決意の証だった。

 人美は思った。

 もしもあの時、彩香が振り向いてくれなかったら今の自分は存在しない。ありがとう、本当にありがとう、彩香




 沢木は質問を再開した。

「さて、次は初恋と自殺の件ですが。人美さんの恋が実らなかったということは、どうしてお知りになったんですか。これも人美さん自身からお聞きになったのでしょうか」

 見山は憮然とした表情をしながらも、言葉は丁寧に、冷静を努めていた。

「いいえ。それは彩香さんから妻が聞いたんです。彩香さんとは私たち夫婦も親しくしていましたので、ある時妻がそれとなくした質問に答えてくれたようです」

「人美さんも当然そのことを知っていたんでしょうね。つまり、自分の好きな人には別の交際相手がいるということを」

「ええ、知っていたはずです」

「それ以後は、初恋相手の男の子や、その女の子と関わることはなかったのでしょうか」「多分、なかったと思います」

「自殺の一件は人美さんも知っているわけですよね」

「ええ、随分話題になりましたから」

「何か言っていましたか」

「死ぬことはないのに、というようなことを言っていたと思います」

「そうですか。初恋相手の名前、お分かりになりますか」

「えーと。確か、やま…… 山本雄二といったと思います」

「ところで、人美さんの失恋から少女の自殺までの間には時間差があるようですが、それは具体的にどれくらいの期間なのですか」

「初恋云々の話しがあったのは、確か、高校二年の九月ごろだと思います。少女が自殺したのは二月ですから…… えー、五カ月間ですか」

「なるほど。では、最後の自動車事故の件ですが、この時見山さんの車に乗っていたのは何人ですか」

「私に人美、彩香さんに同級生の男の子一人、全部で四人です」

「人美さんは眠っていたわけですね。泉さんは?」

「ああ、彩香さんはもう死んだように眠ってました。よほど飲んだらしいので」

「すると起きていたのは見山さんと男の子一人、ということですね」

「ええ、そうです」

「となると自動車事故のことを知っているのも、見山さんと男の子ということになりますが」

「そのとおりです」

「見山さんは、人美さんは事故のことに気づいてないとお考えのようですが、その男の子から聞いて知っているのではないですか」

「そうかも知れないです。口止めをしたわけではありませんし、そんなことをすれば余計話しが面倒になると思いました。ただ、人美も彩香さんも、その後何も言っていないので、私は素直に知らないのだな、と考えていました」

「なるほど。で、その時人美さんは確かに“そうよ”と言ったのですね」

 見山は自信に満ちた表情で答えた。

「ええ、これは間違いありません。その言葉の響きは今でも鮮明に覚えていますから」

 そして、声のトーンを落として続けた。

「人美が“そうよ”と言った瞬間、男たちの車のエンジンが異常なほどの轟音を発し、私は彼らのほうを見ました。その時私が見たものは、顔をひきつらせて恐怖に怯える三人の男の顔でした……」

 見山はその顔を思い出したのか、顎が小刻みに震えていた。カツカツ、カツカツと― 沢木はこの時感じた。この見山という男は、過去の出来事の事実がどうであれ、既に自分の創りあげた世界に入ってしまっていると。そこで、沢木は質問の方向を変えることにした。

「なるほど、よく分かりました。さて、今度は見山さんと奥様の話をお伺いしたいのですが。まず初めに、奥様は見山さんが思っているような疑問を感じてはいないのでしょうか」「妻が? まさか。妻はそんなこと、夢にも思ってないでしょう」

「では人美さんについて、ある種の疑惑を持っているのは見山さんお一人なわけですね」「ええ、そうです」

「見山さん自身は、これまでの人生の中で何か不可解な体験をしたことがありますか。あるいは、奥様がされた体験を聞いたことがあるとか」

「いいえ、全くないです。妻からもそのような話を聞いたことは一度もありません」

「例えば、正夢とか虫の知らせとか、そういったものもないですか」

「んーん、なかったと思いますが」

「そうですか」

 沢木は身を前に乗り出して言った。

「実はですね、見山さん。私は見山さんがお書きになられた手紙を読んで、四つの可能性を考えたのです」

 やっとまともな意見が聞けるかな

 見山はそう思い、沢木の顔を期待を込めてじっと見つめた。

「まず一つめは、これらの出来事が全くの偶然により生み出されたものであるということ。二つめは見山さんの想像どおり、人美さんが何らかの力を持ち、それを無意識のうちに使ったということ。三つめは何か別の力―例えばオカルト的なものであるとか、そういった力です。そして、四つめは」

 沢木は見山の目を見据えた。見山は顔をこわばらせている。

「人美さん以外の人間に特殊な能力があるということです。例えば、見山さん、あなたにその力があるとか」

 白石と秋山ははっとして沢木の顔を見た。見山は驚愕の表情をし、かぶりを振りながら言った。

「ま、まさか、そんな……」

 沢木は見山の言わんとしている先を読んで言った。

「まさかそんなことがあるわけないと」

 見山は首を縦に振った。

「しかし、見山さんは人美さんに超能力があるのでは、と考えているわけですから、その論理からいけば、見山さん自身に超能力があると考えてもいいはずです。ご自分でそう考えたことはありませんか? あなたはすべての事件について、その背景をよくご存知だ。人美さんのことを守りたい、守らねばという心理は絶えず働いていたはずです。その時に、見山さんの隠された力が発揮されたと考えても、あなたの論理なら不思議ではありません」

 思ってもいなかった沢木の言葉に茫然自失となった見山は、何も言わずに窓の外をぼんやりと眺めていた。その窓からは、沈みかかった太陽の光が入り込み、白石の書斎をオレンジ色に染めていた。沢木は立ち上がって見山と窓の間に立ち、彼の視界の中に強制的に入って行った。

「見山さん、よく聞いてください」

 沢木は見山に一歩近づいた。

「私がなぜこのような推測を言ったのか、その理由はあなたがお書きになった手紙や先ほどの感情的な言動にあります。私はそれらに接しているうちに、あなたは、人美さんが不思議な力を持っているということを、半分では否定しながらも、もう半分では確信していると思ったのです。つまり、あなたは真実が何か、という以前に、既に自分で創りあげた世界の中に入ってしまっていると…… そんなあなたは、人美さんのことをとても恐ろしく思う、と手紙に書き記しています。ですが、私に言わせればその考えは間違いです。すべては状況だけで、さしたる証拠もなく、あなたは自分の娘を疑っている。そうした心理が無意識のうちに表に表れ、それを人美さんに悟られることを私は危惧するのです。あなたが一つの可能性を示唆するのなら、私はそれ以外にも可能性があることをあなたに理解していただきたい。そして、人美さんに対するその先入観を、まず、取り払ってもらいたいのです。過去に起こった四件の出来事には死者も出ているわけで、それは軽々に論じるような事柄ではありません。もちろん、あなたがことの真実を知るために、立ち上がったことには敬意を表します。そして、人美さんのことを心から思う気持ちも想像できます。しかし、現段階においては、誰にも超能力はないし、過去の出来事は事象の一つに過ぎないのです。そのことをよく理解しておいてください」

 沢木はそう言い終わるともとの席に座った。見山はしばらく顔を伏せながら、物思いに耽っているようだった。そして、沈黙の時が流れた―

 見山は娘にすまない気持ちで一杯だった。娘の身を案じていたこと、それは間違いない。しかし、この沢木という男の言うとおり、自分は勝手な思い込みで娘を疑い恐れていた。海外赴任の話しを受け入れたのも、人美から逃げたい一心からかも知れない―想像から、あるいは妄想から。それは、父親として失格なのだろうか。もしも、もしも人美が自分の思っていることを知ったら、どんなに傷つくだろう。そんなことを考えていると、彼の目には涙が込み上げてくるのだった。

 秋山は見山にそっとハンカチを手渡した。沢木は言った。

「見山さん。何よりも大切なことは、信じるとか、信じないという以前に、真実とは何なのか、それを知ること、それを知るための努力をすることだと私は考えます。そして、その努力を、私は人美さんや見山さんのためにするつもりです」

 見山はハンカチを目に当てたまま、つぶやくように静かに言った。

「ありがとう、沢木さん」




 人美と彩香はお気に入りの場所に並んで腰掛け、海に沈み込もうとしているオレンジ色の光の塊を眺めていた。海は夕日に照らされ、人美たちに向かって真直に伸びる光の絨毯を造り、空には赤く焼けた雲が浮かび、沖合の小さな灯台は、蜃気楼のように光に揺らめきながらたたずんでいた。

「ねえ、彩香。私って、変」

 その唐突な質問に彩香はたじろいだ。

「な、何よ。突然」

 人美は夕日を見ながら静かな口調で語った。

「私ね、漠然とだけど時々思うことがあるの。私には何かほかの子にはない力があるんじゃないかって」

「何でそんなこと思うの? 怖い夢のせい」

「んーん、そうじゃないけど。ただね、時々急に怖くなったり、悲しくなったり―さっきみたいにね。それから、直感、というのかな、それがよく当たったり。そんなことを考えてると、私、自分はほかの人と違うんじゃないかって思うの」

 彩香は人美のすぐ脇に座り直して言った。

「考えすぎよ、人美。急に悲しくなったりすることは私にだってあるし、怖い夢を見ることだってある。なんか今日はやなことが起こりそうだなぁ、と思うとそのとおりのことが起こったりすることもあるよ。まあ、確かに人美の感はよく当たるとは思うけど、それは結局、ただの偶然よ、ぐーぜん。人美は普通の女の子よ」

 人美は少しほっとした。

 そうだよ。少し考え過ぎだったかも知れない。そうだ、考え過ぎだ。でも、いつからこんなこと考えるようになったっけ。そうだ、先週の土曜。襲われた日からだ……

「人美、人美」

 その呼び声に人美ははっとして答えた。

「ええ、なーに」

「もう、人美、しっかりしてよ。もうじきおじさんとおばさんはアメリカに行って、人美一人になるんだから」

 そうだ、そうだった。変なことで悩んでいられない。心配かけないためにも元気を出さなくっちゃ

 人美は最大級の作り笑いをして彩香に言った。

「ええ、そうね。元気を出すわ」

 でも、でもやっぱり気になる……




 見山の乗った車が走り去って行くのを、沢木は感慨深げに窓越しから眺めていた。

「全く意外な展開だったよ」

 白石会長は沢木の横に立つと、去り行く車を見ながら言った。

「まさか、ああいうことを君が考えているとはね。で、沢木。次はどうするのだ」

「取り敢えずは手紙に記された出来事を調査します―あっ! そうそう。片山の下見は終わりましたか?」

「ああ、明後日辺りに技術スタッフを連れたまた来るそうだ」

「そうですか」

 この時、沢木の腰に備えられていた携帯電話が鳴った。

「はい、沢木ですが」

「もしもし、渡辺です」

「ああ、ご苦労様です。何か収穫はありましたか」

「あったなんてもんじゃありませんよ。非常に興味深い事実が出てきました」

 その声は心なしか緊張しているように思えた。

「どういうことでしょう」

「ええ、まあ詳しいことは後日報告ということで。二、三日このまま調査を続けますので、承知しておいてください。本社へも出社しませんので。それでは―」

「あっ、もしもし」

 既に電話は切れていた。

 興味深い事実? 一体……

 沢木はそんなことを思いながら、背筋からじわっと冷気が入り込むのを感じていた。




 それから二日後の八月三日、木曜日、午前十時。片山は沢木組の技術スタッフ七名を引き連れて、白石会長の家を訪れていた。理由はもちろん、人美が入居予定の部屋にPPSなどを設置することにあった。

 片山たちの作業を興味深げに見守っていた白石会長が尋ねた。

「これが特製のエアコンかね」

 片山は大きな段ボール箱からエアコンを取り出しながら言った。

「そうです」

「どの辺が特製なのだね」

「観測の妨げとなる不必要な電波が漏洩しないように、カバーの内側をアルミと電波吸収塗料でコーティングしてあります。まあ、これでもある程度は漏れるんですが、ないよりはましです。それから、屋外機も同じような処理がなされ、さらに観測データを送信するための発信機が内蔵されています」

「んんー、なるほど」

「そのほかにする作業は、照明器具の変更、電源周りのコーティングなどです。後は人美さんが電化製品をあまり持ち込まないことを祈るのみです」

「PPSはどこに取り付けるんだ」

「天井です。PPS(長さ五センチ、直径一.八センチの円筒形をしている)を三つ一組とし、それを八組、円を描くように天井に埋め込みます。もちろん、PPSを隠すための偽装も行いますから、人美さんに気づかれる心配はないでしょう。そして、その円を一つのセンサーに見立てて観測を行うわけです。これでかなりの感度が期待できます」

「なるほど。で、作業は後どれくらいかかる」

「一応三時を目標にしています―ご注文の改装のほうは、明日行いますので」




 人美はすがすがしい朝を向かえていた。一昨日の晩に彩香が泊まってくれて以来、二晩怖い夢を見ていなかったからだ。怖い夢を見なくなった、ということも逆に気になることだったが、ぐっすりと眠れることの幸せにまずは満足していた。

 人美には今日もやることがたくさんあった。彼女はとても忙しく、退屈という言葉をすっかり忘れている。彼女はベットの上で眠りの余韻を覚ましながら、今日は何をしようかと部屋の中を見回した。部屋の片隅にはいくつかの段ボール箱が置いてある。引っ越しの準備は大体終わっている。後は衣類や細々としたもの、本棚の本、それにお気に入りの縫いぐるみ―背丈が七〇センチくらいのスヌーピーと小さなウッドストック―などを詰め込むだけだった。

 どうしようかなぁ

 例えば読書。彼女の本棚にはたくさんの本があるが、それは専門書がほとんどである。動物、自然、宇宙、進化、恐竜、音楽、宗教など、少しでも興味を持ったものはすぐに本を買ってきて読んでいた。そして、それらの本から得た知識やイメージを頭の中でさまざまに組み合わせ、想像し、自分の精神世界を広げていった。

 現在の一番の関心事は、海で暮らすイルカやシャチ―クジラはちょっと苦手だった。なぜなら彼らは結構グロテスクだから―にあった。人美はよく彩香に彼らのことを話した。イルカやシャチはクジラの仲間であり、大きく二つに分けられたグループのハクジラ類に属していること。クジラの定義は噴気孔と水平な尾を持つ水生哺乳類であること。彼らは高い知性とコミュニケーション手段を持ち、そのコミュニケーションは数百キロ離れた距離でも可能であるということなどなど―しばらくは興味を持って聞いてくれる彩香も、さすがに一時間近く話しが続くと、夢うつつの状態になってしまうようだった。

 人美は不思議だった。なぜイルカは音波を操る能力を持ったのだろう? その不思議をいつか解き明かしたいと思っていた。

 また、彼女は絵も描くし音楽を創ったりもする。それらはまったくの自己流で、技術的には未熟なのかも知れなかったが、創作作業は溢れる精神世界のはけ口だった。さらに、運動も好きで、最近はマウンテン・バイクを乗り回している。通学にも使っている彼女の愛車は、赤いメタリック塗装のフレームを持っていた。週に一度は必ず洗車をし、スポーク一本一本に至るまで奇麗に磨きあげた。彩香はよく、そんなに磨くと磨り減っちゃうよ、とからかっていたが、人美は自分の行動範囲を広げてくれるその愛車をとても大事にしていた。

 ああ、今日は何をしようかな。海に行こうか―でもあんまり日焼けするのもなぁ

 人美は平和な日常を取り戻していた。しかし、いつまで続くのだろうか。




 沢木は第六開発室に入って行った。その部屋の片隅では、岡林がコンピューターとの格闘の真っ最中だった。沢木は岡林の背中を軽くひと叩きして言った。

「どうだ、進み具合は」

 岡林はコンピューターのキーボードを叩きながら答えた。

「ええ、なんとか間に合いそうです」

「そうか、ご苦労さん」

「ただですね、脳波の再合成過程でノイズが入ってしまうことがあるんです。どうも、分解された波形の選別定義がいまいちあいまいのようなんです。もっと融通の効くプログラムでないと、現場では対応できないかもしれません……」

「んー。で、今はどういう仕掛けを考えてるんだ」

「はい。PPSでとらえた信号をこのプログラムで分解し、脳波成分だけを抽出します。それを別のコンピューターで合成処理させようと思っています」

 沢木は腕組みをし、しばらく思考のための沈黙に入った。そして―

「それならば、いっそASMOSにフーリエ解析機能を持たせてみてはどうだ。そうすればあいまいな選別定義に対しても、ASMOSが経験から学習したパターンにより、フレキシブルに対応してくれるはずだ」

「なーるほど、そうなると学習時間が問題になりますよね」

 岡林は隣にある別のコンピューターの前に移動しながら言った。

「ちょっと、試算してみます。えーと、ASMOSのハードの処理能力がこれで、パラメーターが……」

 沢木は試算結果の表示されたCRTをのぞき込んだ。

「六七.五時間か、約…… 三日ってところか」

「そうですね。実際には被験者が常に部屋にいるわけではないですから、これよりももう少し時間がかかるでしょうね」

「そうだな、一週間くらいは大した観測はできないかも知れないな。まあ、急ぐ旅ではないんだ、人美さんが白石邸に入ってからはじっくりやるさ」

「となると、後はPPSがどこまでやってくれるか、センサーの魔術師のお手並み拝見といったところですね」

 沢木は微笑みながら言った。

「多分、片山も俺たちのお手並み拝見と思っているだろうよ」

 岡林は苦笑した。




 午後一時。沢木は自分のオフィスでIBMのコンピューターに向かい、葉山の計画本部に運び込む機材リストを作成していた。その時、直通電話のベルが鳴った。

「はい、沢木ですが」

「渡辺です」

 やっと連絡してきたか

「ああ、どうしていたかと思っていましたよ。そろそろ成果を伺いたいのですが」

「ええ、ちょうど一区切りついたところですので、社に一度帰ろうと思っていたところです」

「そうですか。では夕方辺りから会議を開きその時にでも―時間は後でオフィスのほうに連絡いたしますから」

「了解。二時までには戻ります」

 電話を切ると沢木は思った。

 さあ、何が聞けるのか楽しみだ




 午後五時三十分。沢木のオフィスにスタッフが集まった。

 沢木が言った。

「片山。PPSの取り付けのほうはどうなった」

 葉山から戻ったばかりの片山が答えた。

「予定より時間はかかったけど無事完了、テスト結果も良好だ。同行したスタッフには固く口止めしておいた」

「そうか、ご苦労さん。それではまず、私のほうからの経過報告としては、見山哲司氏に一昨日会ってきた。これから配るのはその時の会話を録音したものを文書化にしたものだ。松下さんと桑原さんには既にお渡ししてあるので、残りの者に配る。よく読んでおいてくれ」

 ざわざわと紙がうごめく音がやんだ後に沢木が続けた。

「それから、葉山の計画本部の場所が決まった。明日、機材の搬入及び設営を行いたいと思う。が、その件は後に回そう。ちなみに、本部となる借家は松下さんの個人名義で契約した。相模の重役という設定で」

 岡林がからかうように言った。

「松下さんが重役ねー」

 松下の険しい視線が岡林に飛んだ。彼はまた余計なことを言ってしまったと思った。

「岡林。観測システムのほうの経過を、簡単にみんなに説明してくれるかな」

「はい。えー、システムのほうは土曜日までには完成できると思います。何か問題が生じたり、付加する機能が望まれた時には、随時バージョン・アップで対応していきます。試算ではシステムが稼動してから六七.五時間後から、有効なデータが得られると思いますが、実際には被験者が部屋にいる時間が関係しますので、まあ、一週間くらいは必要かも知れません」

 片山が苦笑しながら言った。

「どうやら今回の計画は、PPS及びASMOS初の臨床実験ということになりそうだな。一石二鳥というのかな」

 松下は不機嫌そうに言った。

「まったくだな。こんな形で使うことになるとは」

 秋山が言った。

「いいじゃありませんか。人美さんを観測することでASMOS用の貴重なデータが得られれば、まったくの無駄ということはなくなるんですから」

 沢木が付け加えた。

「まあ、結果的にそういうことになったな。ある意味で今回の一件はタイムリーな巡り会わせだったかも知れない。もっとも、ASMOSやPPSがなかったら、この件には関わっていなかったかも知れないがな…… さてと、桑原さんは何かありますか」

「いいえ、今のところは特に報告するようなことはありません」

「そうですか。松下さんは?」

「右に同じだ」

 沢木は松下の言葉にうなずいた後、視線を渡辺のほうに向けた。そして、今日二回めの言葉を心に浮かべた。

 さあ、何が聞けるのか楽しみだ

 沢木は言った。

「それでは渡辺さん。どんなことが分かったのか、聞かせていただきましょうか」

「では資料を配りましょう」

 渡辺の作成した資料が全員に配られた。沢木はそれにパラパラっと目をとおした。その資料は奇麗にワープロで印刷されていて、新聞の切り抜きなど―スキャナーを使って取り込まれたもの―が奇麗に添付されていた。また、A4サイズの資料の左端は、ホチキスで三カ所留められていた。沢木はその几帳面な仕上がりの資料を見て、渡辺を意外に思った。沢木は彼のことをもっと粗野な人間だと思っていたのだ。

「最初のページを見てください。これは幼女連続誘拐殺人事件の犯人が逮捕された翌日の朝刊です。見てすぐに分かるように、六体の遺体が犯人の自宅の裏山から発見されています。私はこの件に関して、当時の捜査責任者に会って話しを聞いてきました。その結果、こういう事実が分かったのです」

 全員が渡辺を注目する中、彼の静かな語り口の報告は続いた。

「逮捕後の取り調べに対して、犯人が犯行を認めたのは五件、残る一件については犯行を否認しています。そして、その後の裁判で刑が確定されたのも五件までで、残りの一件は宙に浮いた形となっています」

 沢木が尋ねた。

「どういうことです」

「捜査当局は遺体捜索の際に、五体の遺体を捜していました。なぜなら、奇怪な電話や手紙、むごたらしい被害者の写真など、同一犯の犯行を示すものは被害者宅や警察に送られ、それが五人の被害者の存在を示していたからです。ところが、犯人が遺体を埋めたと自供した場所からは、六体の遺体が発見されたわけです。このプラス1の少女は、行方不明者として警察が扱っていた少女です。当初捜査当局は、この少女についても犯行を追求しました。ですが、犯人はあくまで犯行を否定し、また、犯行を裏付ける証拠も発見されませんでした。もちろん、遺体の状態も他の被害者とは異なっています。他の被害者は皆遺体の一部が切断されたり、焼かれた跡があったりしていますが、プラス1の少女の遺体は完全は形で発見されています。直接の死因は不明ですが」

 渡辺はひと呼吸、間を空けた。

「宙に浮いた一体。これに該当するのは安西真理子。見山人美をいじめていた少女です」 誰も口を開かなかった。渡辺が続けた。

「この当時見山人美は登校を拒否し自宅にいました。登校を再開したのは一九八四年九月十一日火曜日です。学校の記録で調べました。さて、新聞の日付を見てください、同じです」

 岡林がつぶやいた。

「なんてこった」

 ほかの者は沈黙していた。

「安西真理子については、十一年たった今も死体遺棄事件として捜査中だそうです。しかし、実態は迷宮入りでしょう」

 松下が言った。

「謎が謎を呼ぶとはこういうことだな」

 秋山が小さな声を出した。

「安西真理子に何があったんだろう」

 渡辺はクールに一言言った。

「そこまでは分かりませんね。おそらく、誰にも」

 沢木が少し大きめの声を出した。

「取り敢えず報告の続きを聞こうじゃないか。細かいことはその後で話し合おう」

 沢木は渡辺の目を見てうなずいた。

「三ページめはいたずら事件の記事です。この事件が明るみになったのは、被害者の父兄が警察に訴え出たことによります。事件の明くる日、その教師は幼年者への強制わいせつ罪で逮捕されました。精神錯乱を起こしたのは拘置されて三日めのことだそうです。担当警察官の話しでは、それまではまったく異常は認められなかったそうです。四日めには舌を噛み自殺未遂を起こし、ついに精神病院に収容されました。そして一年後、極度の拒食症により衰弱死したそうです」

 片山が言った。

「死者二名か」

 沢木はタバコに火をつけて、ゆらゆらと揺らめく煙をぼんやりと眺めながら言った。

「次の事件は」

「自殺したのは西田純子という子です。彼女は自室の天井からロープをつるし、首をつりました。ところが遺書がなかったのです。こういう場合必ず検死解剖に回されます。そこで検死に立ち合った警察官に話しを聞いたのですが、要点は二点、一つは自殺に間違いないということ、もう一つは妊娠二カ月だったということです」

 桑原が言った。

「つまり自殺の原因は二つあるわけですね。受験失敗と妊娠と」

 秋山が言った。

「それなら、人美さんの関与はないんじゃありませんか。妊娠し悩んでいた、その影響による受験失敗、そして自殺。つじつまが合います」

「ところが、後日談があるんですよ」

 相変わらず渡辺はクールだった。

「西田純子の宿した子の父親は山本雄二という少年です。これは当時の警察の調べで確認されています。その少年なんですが、高校進学後すぐに中退しまして、地元の自動車修理工場で働いていました。ところが事故が起こったんです。ジャッキで持ち上げられた車の下に潜って作業している時に、それが外れて車の下敷きになったんです。幸い一命は取り留めましたが、下半身不随の身になってしまったそうです。彼は現在母方の実家のほうで暮らしているとのことです」

 秋山は沢木の顔を見て言った。

「山本雄二って」

 沢木が答えた。

「んん、見山人美の初恋相手だ」

「そういうことです。これは私の想像なんですが、下半身不随ということはつまり男性機能の喪失ということでして…… その辺が非常に引っ掛かるんですよ」

 片山がせかすように言った。

「最後の件は」

「事故が発生したのは昨年の十月二十四日、日曜日、午後十一時ごろです。事故現場はかなりの急カーブでして、そのカーブの進入口にあるガードレールに事故車は衝突しています。事故の通報は近くの住人からのもので、警察に加えて消防車も出動しています。事故車から火災が発生しているためです。消火後、事故車から三人の男性の遺体が発見されています。さて、この事故には不審点がいくつかあります。まず、事故現場にはブレーキを踏んだ痕跡がありません。たいていは道路にタイヤの摩耗した跡がつくものなんです、急ブレーキを踏んでいれば。そしてもう一点は、なぜ三人とも脱出できなかったのか、ということです。三人の直接の死因は有毒ガスによる中毒死であり、火災によるダメージのためではありません。つまり、彼らを襲った火災は爆発的なものではないわけです。事実、彼らの遺体はあまり傷んでいません―一人ぐらい脱出できてもいいはずです」

 岡林が声を震わせながら言った。

「やばいよ。これって……」

 片山は目を閉じ腕を組ながらささやいた。

「死者六名、身体障害一名か。確かにまずい、まずい気がするな」

 松下が言った。

「しかしだ。へ理屈ではなく実際問題としてまだ確証を得たとはいえない。沢木君、そうだろう」

 沢木は松下の動揺ぶりが手に取るように分かった。なぜなら、彼が前置きをし同調を求めたからだ。

「確かにそうです。状況証拠は完全にそろい、どれも人美さんにサイ・パワーがあるとするならば奇麗につじつまが合う。しかし、まだ確証がない。確証がない限り断定はできない」

 片山が反発した。

「だが沢木、偶然にも限度があるぞ。十八年という間に四件の、それも不可解な出来事に遭遇する可能性は、統計学的に考えたって極めて少ないはずだし、それは偶然の域を超えているんじゃないか」

 岡林が付け加えた。

「そうだよ。具体的な数値は出せないにしても、少なくとも僕らの経験則からしてこれは異常だ」

 沢木は腕組みをし、溜め息を一度した後に言った。

「まあ、そう結論を急がなくてもいいだろう。まだ計画は始まったばかりなんだから」

 秋山が言った。

「でも、沢木さん。仮に人美さんにサイ・パワーがあり、そして彼女が私たちの存在に気づいたとしたら、一体私たちはどうなるんでしょう」

「殺される」

 岡林が青ざめた顔をしてつぶやいた。その瞬間、誰もが背筋から冷たいものが入り込むのを感じた。

 しばらくの沈黙の後、桑原が言った。

「……でも、それはちょっと悲観的過ぎると思います。過去の事例では、人美さんに何らかの危害を加えた者が奇怪な出来事に遭遇しています。少なくとも私たちは彼女に危害を与えることはないはずです。この計画自体、それと悟られないように行うわけですから」

「でも!」

 岡林は桑原の話しをかき消すように叫んだ。

「彼女は予知能力を持っているかも知れない。そして、彼女の正体を暴こうとしている僕らを快く思わなかったら……」

 沢木が静かに言った。

「クールにいこう、みんなクールにいこうよ。今ここで想像や憶測で話しを広げたところで、何も問題は解決されない。我々は科学や技術の世界に生きる人間なんだ。確証を得るまでは中立のスタンスを崩すべきではない。そうだろう岡林」

 沈黙の時間が再び流れた。それぞれの脳裏に不安、恐怖、好奇心の感情が、そして、想像や憶測の思考が駆け巡った。

「それとですね。もう一件気になる事件があるんですよ」

 渡辺が口を開いた。

「まだ何かあるんですか」

 桑原が驚異の眼差しで渡辺を見た。

「これは見山人美と関連があるかまでは分からないんですが、横須賀警察署をうろついてた時にこんな事故の話しが耳に入ったんです」

 渡辺が沢木の顔をうかがった。沢木は言った。

「どうぞ、聞かせてください」

「先週の土曜日の午後七時半ごろ、二人の男性の溺死体が発見されました。場所は三浦市の三戸海岸、見山人美の家から三キロほどの距離です」

「ああ、それなら知っています。酔って海に入ったために溺れたとされている事故ですね」 沢木は日曜の昼に見たニュースを覚えていた。

「そうです。ところがこの事故も実に不可解でして」

「どういったことが?」

「実は、アルコールが検出されたのは二人いるうちの一人だけなんです。一人は体質的に酒が飲めなかったそうですから、当然酔っていたのは一人だけということになります。そこで考えられるのは、酔って溺れた一人を助けるためにもう一人が海に入り、結果二人とも溺れた、ということです」

「そうですね。それが自然な推測です」

「ところが不自然な点がありましてね。その酒を飲めないほうの男なんですが、遺体で発見された時、衣服も靴も身に着けたままなんですよ。酔っていたほうもそれは同じです」「なるほど。普通海に入るなら、緊急時ならなおさら、靴ぐらい脱いでもよさそうですね」「ええ、そうなんです」

「他殺の可能性は?」

「海で溺死させたのなら、そのまま沈めておくはずです。二人の死因は窒息死、外傷はありません。警察も事故以外の可能性は否定しています」

「その二人は住居はどこですか」

「二人とも東京です」

「となると、事故当日以前に人美と関わっている可能性は少ないですね」

「ええ、私もそう考えてます。もしも見山人美と関わるならば事故当日だと」

「二人の足取りは?」

「当日は車でやって来てます。海岸近くの駐車場から車が発見されてますから。現在までに分かっているのは、横横(横浜横須賀道路)を衣笠インターで下り、コンビニとファミリー・レストランに立ち寄ったということだけです。それぞれ車内から領収書が見つかりました」

「それ以上のことも掴めそうですか」

「今は調査中としか言えないですね」

「そうですか。後は見山人美の足取りですね」

「ええ、これから調査するつもりですが、そこでお願があるんですよ。人員を増やしたいんです」

「ああ、そのことは私も相談しようと思っていたんです。人美さんが白石邸に入り次第、二十四時間体制の監視を行いたいと思っていましたから。で、何人くらい必要ですか」

「それならば私以外に四人要りますね。監視役二名にそのバックアップ二名、もう一名は調査要員です。私の部下でやりくりします」

「分かりました。お任せしましょう」

 岡林は恐る恐る沢木に尋ねた。

「あのー、沢木さん。ということはまだやるんですか?」

「もちろん」

 沢木は力強い口調で言った。

「私はこの目でしっかりと真実を見極めるまではとことんやるつもりだ。しかし、この考えをみんなにまで強制するつもりはない。辞退したい者は遠慮なく言って欲しい」

 沢木は全員を見回した。岡林も皆を見回した。誰も辞退を申し出はしなかった。

 岡林は怖かった。見山人美という少女には関わらないほうがいい、関わることは避けなければいけない、そう考えていた。しかし、ここにいるみんなはまだ続けるという。自分には勇気がないのか、自分は情けない奴なのか、それともほかのみんなは狂人なのか、恐怖という感情を持たない変人なのか。さまざまな思いが短時間のうちに駆け巡った。

 でも、僕は仲間を見捨てたくない。それは卑怯なことだ。怖がりと思われるのは構わないが、卑怯者とは思われたくない。そう、松下は無愛想なおやじだがこれまで一緒に仕事をしてきた仲間だ。沢木さんは? 沢木さんはとても頭のいい人だ。きっと素晴らしいしアイデアを持っているんだ。勝算があるから怖くないんだ。秋山さんはとても奇麗だ。それは今は関係ないことだ。ああ、僕は何を考えてるんだ。でも、でも僕は仲間を大切にしたい

 岡林はなんとも頼りない口調で言った。そして、それはユーモラスでもあった。

「まいったなぁ、みんなやるんだ。勇気あるよなぁ…… だったら、だったら僕もやりますよ。みんな死んで僕だけ生き残ったりするのは、僕だけ死ぬよりもっと嫌ですから。みんなの死と呪いを背負ってこれから生きていくなんて考えられないから」

 沢木は思わず笑ってしまった。

 秋山も、片山も、松下も、桑原も、声を出して笑った。

 岡林も作り笑いをした。

 渡辺はクールだった。

「岡林、そしてみんな、ありがとう」

 沢木は言った。

「それではこの計画の呼称を決定する。エクスプロラトリー・ビヘイビア計画だ」

「どういう意味ですか?」

 秋山が尋ねた。

「心理学用語の一つなんだが私の解釈はこうだ。“未知なるものへの探索行動”」




 八月四日、金曜日、午前十一時。白石邸で沢木組建築工学部門のスタッフが人美の部屋の改装作業をしているころ、沢木と秋山、片山、岡林の四人は、松下名義で借り入れた葉山の一軒家に到着していた。一行は三台のワゴン車に分乗し、沢木がリストアップした機材とともにやって来たのだ。

 その家は白石邸から約八〇〇メートル、沢木の自宅からは約一二〇〇メートル離れたところに位置し、近くに小学校と幼稚園がある住宅街の一角にあった。道幅の広い道路沿いに建てられたその家は、道路よりも一段高くなっている土地にたたずみ、正面の玄関へはコンクリートの階段を少し登って行くのだった。家の正面には車が一台駐車できるスペースがあり、左側には小さな庭があった。そこには屋根までとどきそうな背の高い木が三本立っていて、二階のベランダを覆い隠すように枝葉が伸びていた。

 沢木たちが中に入ると、岡林は興味津々といった面持ちで、家の中を隅から隅まで探索した。

 玄関を入ってすぐ正面にはドアが二つあり、右の部屋はダイニングキッチン、左の部屋はリビングになっていて、その二部屋は間仕切りを挟んでつながっていた。二階には六畳の和室と四畳半の洋室が二部屋、計三部屋あり、ベランダへは和室から出るようになっている。

 探索を終えた岡林が、リビングルームにいるみんなのもとに戻って来た。

「なかなかいい家じゃないですか」

 岡林が感想を口にした。

「そうだな。よし、それじゃ部屋の割り当てを決めよう」

 沢木が指示を始めた。

「まず、メインの機材はこのリビングに設置する。二階の和室のベランダには各種アンテナを設置し、部屋の中には通信機器関係を置きラインをここまで引き込む。残りの二部屋は仮眠室に使い、一つは秋山さんと桑原さん用で、もう一つが男性用だ」

「それじゃ、後で僕が鍵を付けといてあげますよ。片山さんがのぞくといけないから」

 岡林は秋山の顔を見ながら冗談っぽく言った。

「ありがとう」

 秋山はそう言って微笑んだが、片山は岡林の額を軽くひっぱたいた。

「よし、機材の搬入から始めよう」

 沢木はそう言って手のひらを打った。

 未知の能力を探るための観測システムは、次ぎのような構成になっている。

 人美の部屋に設置されたPPSは、そこで発生するすべての電磁波をとらえ、そのデータはエアコンの屋外機内に仕込まれた送信機から本部に送られる。受信したデータは解析システムの中枢となる、IBM社製ワークステーション(コンピューター)で処理される。このワークステーションには、沢木たちが開発したASMOS用の処理回路、及び岡林により作成されたソフトが実装されている。ここでさまざまな処理が行われ、人美の脳波が抽出、分析される。

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