“幻想ソナタ”で通じるのかな?
夏だ。
梅雨が来たのでそろそろ夏を宣言してもいいはず。しかし、暦(※旧暦)では、もう秋に突入していたりする。というわけで、
秋だ。
と形式だけ作っておこう。もちろん、頭の中では“夏本番はまだ来てない”という感覚だが。
そもそも、この国家全体で八月を“夏休み”として祭り上げているのだから、八月を夏本番とすることに異議は認めない。文句があるのなら、八月を“秋休み”と呼ばせるべくしてデモをすればいい話だ。
さて、もうそろそろ読者の皆様の練度も上がってきただろうから、あえて定型句をスルーして本題に入ろう。
冒頭のネタ振りで“おっ、ベートーヴェン”と思った方はどれぐらいいるのだろうか? ここでむしろ“おっ、スクリャービン”と思った方は、クラシック通だろう。
“幻想ソナタ”、正確には“幻想曲風ソナタ”は、“ピアノソナタ第十四番”、いわゆる『月光』ともう一つ(これはマイナーな上に通称がない。あえて呼ぶならピアノソナタ第十三番)のソナタにベートーヴェンがつけた名前だ。
“ピアノソナタ第十四番”の本来の名前は“幻想曲風ソナタ”なのだが、普通は『月光』としか呼ばれない。
もう一つの“ピアノソナタ第十三番”など、普段は忘れ去られている有り様だ。“幻想曲風ソナタ”と言うと、普通は『月光』のことだけしか指さない。不憫だ。
さて、その『月光』なのだが、第一楽章こそ有名なものの、第二、第三楽章はあまり知られていない。
あえて文章で説明すれば、
・第二楽章は明るいよ。いわゆるスケルツォ。
・第三楽章はジャンジャーンって和音が響く。いわゆるベートーヴェンな曲。
である。はっきり言って、全然『月光』というタイトルに合わない。
しかし冷静に考えてみれば、これは当然のことである。
この曲は、ベートーヴェンにとっては『幻想曲風ソナタ』であり、『月光』をイメージして作った標題音楽ではないのだから。
この曲を聞いた少女が「月光みたい云々」と言ったとかいう話がまことしやかに流れている。
しかしそもそも『月光』というタイトルはこの曲を聞いたどこかの詩人が勝手につけたものらしいわけで。
ベートーヴェン自身は『幻想曲風ソナタ』と呼んでいた二つの曲は、いつの間にかその一方が忘れ去られ、もう一方は一部分だけを切り取った名前で呼ばれることになったのだ。
クラシックはスケールが大きいので、実は結構省略されていたりする。その過程で本来とは違うイメージが広まった曲って、案外多いのでは、と思う。
さっきの『月光』もそうだが、他にはモーツァルトの“トルコ行進曲”とか。
実はこの曲、単独で“トルコ行進曲”として作曲されたものではない。
“ソナタK.331”の第三楽章なのである。作者は毎度“トルコ行進曲”と聞くたびに「いや、ソナタK.331なら第一楽章も結構いい曲なんだけどな」と思うわけだが、ピアノソナタをまるごと聞く人が少ないのであまり通じないネタである。
演奏者かクラシック通ぐらいしか、交響曲とかソナタなんて通しでは聞かないのかな? というのが最近の実感だが。
あと他に不憫な例を挙げるとすれば、サリエリが挙げられる。モーツァルトの同輩(?)だ。
彼は生きていた時代には人気を博して絶頂の時代を謳歌したわけだが、現代でサリエリの曲を聞いたことがある人って、かなりレアではないのだろうか。
彼が書いたのは残念ながら(と言うかなんと言うか)ほとんどがオペラであった。準備にも上映にも場所と時間とお金と人手がかかるオペラなんて、今時流行らない。
こういう言い方をすると失礼かもしれないが、サリエリが忘れ去られたのは時代の成り行き上仕方がなかった。
結局今のサリエリは“モーツァルトに嫉妬して、最終的に殺しちゃった人”ということぐらいしか知られていない。しかもこの唯一知られている不名誉なプロフィールは、史実かどうか怪しいのだ。
……もう、サリエリは怒ってもいいんじゃないかな。
となんの役に立つのか全くわからないことを延々書いてしまった。
明日から使えるかは分からないトリビア程度に、どうぞ。