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超人(“スーパーマン”ではない)

のっけからトンデモタイトルになっているが、もちろん内容と関係があるので突っ込んではいけない。あと、“トンデモタイトル”を、“トンデ・モ・タイトル”とか勝手に翻訳して、やたらユーロピアンな感じにしてもいけない。

というか、この“トンデ・モ・タイトル”には日本語訳がつけられるのだろうか? 外国語に詳しい人、連絡求む。


もうそろそろこの文章の根底を成す構造となりつつあるくだらない語りがやはり出ているが、もちろんくだらな以下略。



さて、今回は宗教についてつぶやこう。ちょびっと過激なことを言おう。



タイトルからニーチェが出てくると想像できた人は鋭い。あの“ツァラトゥストラはかく語りき”のニーチェだ。マリオみたいな髭を生やした横顔を見たことがある方はいらっしゃるかもしれない。

さて、“ツァラトゥストラはかく語りき”を象徴する言葉として「神は死んだ」というものがある。たぶん、あの物語の根底を成す発言だ。

この言葉の“神”は、かの有名なYHWH、裁く神であり天上の父であり、ヤハウェでありエホバ、つまるところのキリスト教の“神”だ。

もちろん神様は不老不死のはずだから、この言葉は「宗教の時代はおしまいだ」ぐらいの意味にとるのが吉だろう。ヨーロッパにおけるキリスト教の席巻の終了をこの言葉で宣言したわけだ。

これは現代で言うと、天安門広場で「毛沢東のバカヤロー!!」と叫ぶのと同じぐらい……ただいま、まことに濃いブラックジョークが登場したことを、心よりお詫びいたします。

まぁつまり、これはかなり勇気がいる思いきった発言だったわけだ。ヨーロッパではキリスト教が絶対的な存在として君臨していたわけだし、それに歯向かうのは並大抵のことではない。

それをわざわざやったのだから、ニーチェの“宗教サヨナラ”宣言は、彼自身の強い決意の表れとも言える。

そんな決意を胸に、彼は“宗教サヨナラ”宣言をやったわけだが、もちろんのことながらキリスト教を批判している。曰く、

・キリスト教は奴隷宗教であり、強者に対する弱者の嫉妬に満ち溢れた宗教である

・キリスト教の説く、禁欲などといった道徳も、卑劣な弱者の奴隷(略)

・キリスト教を信じるものは(略)

などなど。これでもかというぐらいにキリスト教をこき下ろしている。

無神論者のエキスパートは、このぐらいのレベルに到達するのかもしれない。到達したいとは思わないけど。


彼のキリスト教批判はさておき、思想としては、タイトルにもある“超人”思想というものがある。

“超人思想”を要約してまとめておくと、

・神様なんていない

・神様なんていないから、人間が自分の意志でがんばろう

・というわけで物事は自分で考えて自分の力で何とかしようね

・周りの人間が神様を信じてたりだらけてるような奴だったりしても、連中への軽蔑をむしろバネにして成長しようね

的なものである。一番最後のところは微妙だが、作者はこの思想が好きだったりする。何を隠そう、無神論者なのだ(隠しきれてないって? 気にするな!)。

もちろん、神を信じて修行に日々いそしむ方々には頭が下がる思いがするが、それでも宗教はいけ好かないものだ。

なぜかって? 宗教において“何故”を問うことがタブーだからだ。


宗教における“何故”は、科学における“何故”とは性質が大きく違うのだ。

科学における“何故”は未だに分からないことを探求する糸口である。しかし、宗教における“何故”は、“神様の思し召し”で全ての説明を強引につけてしまうものなのだ。

つまり、科学における“何故”は思考の余地を産み出すものなのに対し、宗教における“何故”は思考の余地がそもそも存在しないものだということ。

世界の多くの科学者が“何故”の答えを探すために頭を使っているのに対して、宗教では「神様の思し召し」と言えばあらゆる“何故”にけりがついてしまう。思考停止もいいところだ。

もっともこれは、神様が絶対的な存在だから、世の中の現象は全部神様の計らいですよ、なんて理屈がまかり通るから起こるのだが。そして、宗教ではよくあるこの“思考停止”というのは、非常に大きな危険をはらんでいる。


「神様が言うのだから」と言うだけで、どんな理屈での命令でも物語でも思想でも正当化できてしまうのだ。「神様は絶対的な存在」で考えることを止めてしまえば、「神様の命令は全て善」となる。「神様が本当にいるのか」ということはろくに考えもせずにこうなっている辺りがそら恐ろしい。

つまるところ、宗教的には、神様が命じれば殺人だってやって当たり前なのだ。「神様がいること」は大前提なわけだし。何のことを言っているか読者の皆さんも察しがついてきた頃だろうか。


こんな思考停止が、時折大きな暴走を始めることがある。絶対的な存在の発言にずるずると人が引きずられ、道を踏み外すことが。

そんなことにもならないためにも、自分自身の頭脳で物事をしっかりと考えて判断するように、作者自身していきたいものだ。

それこそ、ニーチェの説いた超人のように。


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