自然主義的な文章、ではありません。
さすがに更新ペースが危うくなってきたので、二週間ぐらいで再び書くことにする。
はてさて、読者の皆さん驚くなかれ。なんとなんと、とうとうこのつぶやきが“お気に入り登録”されたのである。しかも二件も。さらには、総合アクセス者数が百人を突破した。
さすがのこれには作者もおったまげた。作者の想像の遥か斜め上を行く大躍進である。
これからも末永く、このつぶやきをよろしくお願いします。
などと、柄にもなくマトモなことを書いてしまった。
ひとまず序文はさておいて、そろそろ本題に入るとしよう。
今回は庭の話である。
作者は、四季の中では春と夏と秋と冬が好きである。要するに全てだ。
春は命が芽吹いていく明るさがあるし、夏は生命にあふれる活気があるし、秋は命が枯れていく独特の風情があるし、冬は春に向けて静かに準備を進めていく流れがある。
それぞれによさがあるのでどの季節も好きだ。
しかし、その中でもとりわけ好きなのが夏である。
理由としては、ピアノが弾きやすいこと、旅行がしやすいことなどの他に、自然観察が楽しいことが挙げられる。
そんな夏が大好きな作者の家には、中途半端に手入れされた庭がある。草取りや水撒きは多少されているのだが、手入れをしっかりとしているわけではない。自然と人工との危うい均衡点上に存在するような庭だ。マヌーバーである。
さて、そんな庭だが、観察してみると発見がたくさんある。
“大きい蟻と小さい蟻では分布の範囲が違う”や、“特定の木にはテントウ虫が異様に多い”といった感じである。
理由について考えてみれば、“大きい蟻は移動力があるので広い範囲に分布できるが、小さい蟻はそうもいかない”や、“アブラムシが大量に付く木があるので、そこにテントウ虫が集まるのは当然”といったレベルのものだったりするが。
だが、この理由を考えるためにもさらに観察を深めることになるので、自ずと色々のなものを見るようになる。観察が観察を深めていくという、科学の発展の基礎を見いだすことができるのだ。
科学者の皆さんが「自然と触れあえ」とおっしゃる理由がよく分かる。
あと、このようないわゆる“自然遊び”というのは、観察力や論理的思考力を身につけるのに思いの外有効ではないか、と作者は思う。物事の理由を考えるコツが分かってきたりするのだ。
小さいものに目を向けて意外なものを発見することはそれ自体が楽しいことなので、やってみるのもまんざらではない。
というように、一度庭の話にオチをつけておこう。ここから、別の話に繋げていく。
庭の観察をやっていると、思考のスケールが変わっていることに気づくことがある。
一匹の虫を観察していたが、いつの間にかある種類の虫の分布図のイメージを作っていて、さらには食物連鎖での位置付けといったところまで考えが進んでいく
というように。
大きなスケールで物事を考えながら小さなスケールで観察する、などということがよくあるのだ。
こういった“巨視と微視の混在”は、結構貴重な体験かもしれない。
普段自分が物事を見るスケールが固定されてしまっているので、大きな視点と小さな視点とを同時に体感できるのは特殊な感じがしてかなりおもしろいものである。
こんな経験を通して“視点を変えてみる”という発想が身についたり、“複数の視点から同時に物事を捉えてみる”というようなことが、感覚的にできるようになったりする。
これが柔軟な発想の素になる日が来る、かもしれない。




