寛容さの問題
「“子供”という書き方を差別的表現であるから、“子ども”という表記をするべきだ」という主張がある。
差別的表現云々の問題として以前に取り上げたことがあるものだ。
“子供”の“供”という文字は、本来なら“共(“たくさんの”という意味がある)”と書かれるべきものである。
本来あるべきこの“共”という文字は、今で言うところの“達”に近い。別に差別的表現でも何でもない。
ただ、何の因果か“子共”ではなく“子供”という表記をするようになったため「親の供えものみたいで印象が悪いから差別的表現にあたる」というような主張が生まれるようになったわけである。
しかし、このような『印象が悪い』ということと『差別的表現である』ということを直接イコールで結ぶのは、あまりにも安直すぎやしないだろうか。
まずは一度立ち止まって言葉の大元をたどって「本当に差別的表現なのかどうか」を考えてみるべきではないだろうか。
脊髄反射的に表現を取り除こうとするその潔癖さが、いつしか大きな歪みを産み出すような気がしてならない。
おそらく、主張する方々の感覚としては“子供”という言い回しは気持ちが悪いものなのだろう。
しかし、誰しもが自分と同じように感じているわけではないのである。
自身の感覚からずれたものを受け入れる寛容さを持つことも、大切なのではないだろうか。
ちなみに、“子供”の語源をたどってみるとむしろ「一人の子供」という表現の方が大きな問題を抱えているように思われる。
なにせ、英語で言うと"one children"となる。全くもって理解不能である。
「不確定性原理によって子の数を正確に特定することができず、一人の状態と複数の状態が重なりあっている」なんていうことは、そもそも起こりえない(というのも、確率波は日常的スケールにおいては無視できるほど小さいからである)。
また、同じ言葉の問題で“障害者”という表記に関するものがある。
これを“障がい者”と書くべきだという主張があるわけだが、これも本来ならば“障碍者”と書くべき言葉である。
ちなみにこの“碍”の漢字は“妨げになるもの”というような意味で、セラミックを取り扱っている日本ガイシの社名を漢字で書くと、“日本碍子”となる。
つまり、よくない意味など特にはない。
それならなぜ“害”という漢字を用いるようになったのか、と気になるのが人の常。
その理由は単純で、当用漢字に基づく当て字である(※ただ、当用漢字の制定前から“障害”という表現も存在していたらしい)。
一部の漢字を不用意に締め出したことで、こういったところで問題が出てくるのである。
塞翁が馬、というやつだろうか。
はてさて、この障碍者に関わるニュースが最近あった。
盲導犬に対する傷害事件(法的には器物損壊として扱われるのだが)と、視覚障碍者に対する暴行事件だ。
作者自身は、これらのニュースを聞いたときに「とうとう起こったか」と感じた。このような事件の発生を予感させるような出来事が、今までに起こっていたからだ。
たとえば「幼稚園で子供がはしゃぐ声がうるさい」という苦情が出たことなどが挙げられる。
“子供がはしゃぐ”ということは、言うなれば『当然そうあるべきこと』である。
もちろん、苦情を出した人は子供ではないだろう。やかましくはしゃぎたてることも、普段はないのだろう。
しかしそれは“その当人の視点から見て当たり前のこと”なのであって、当然子供にとってはそうではない。
結局その人は、『相手の立場から見てどうなのか』ということを想像する力と、それを受け入れる寛容さを持っていないのである。
かなりの論理の飛躍を挟むのだが、こういった“寛容さと想像力の不足”の背景には“行き過ぎた平等主義”があるのではないかと考えている。
「異なることや差がつくこと」を極度に嫌がるような行き過ぎた平等主義の下では「みんな同じような人間だから、みんな同じように考えて、同じような結果を出す」というようなある意味で社会主義的とも言えるような思想が成り立ってしまう。
そんな状況では、自分の考えはすなわち他人の考えということになる。
お手々つないで仲良くゴール、という馬鹿馬鹿しさに相通じるものがある発想だが。
だが、公平さというのは、違いを否定するのでは生まれない。
『違いを前提として、異なる他者を受け入れること』や『自分と異なる者に対する配慮を行うこと』を実践してはじめて実現できるものなのではないかと思う。
このような「想像力と寛容さ」を欠いてしまった社会は、おそらく息苦しく薄ら寒いものになる。
現在大きな勢力となりつつあるISISの姿を見ても、そう感じるのではないだろうか。




