二次創作についてあれこれ。
あらすじに同じく。
今回のお知らせを受けて始めることにしました、とは言うもののジャンルは幅広く扱いたいよね、という極めて優柔不断な書き方から始まる。この時点でどんなものになるかは推して知るべし。
というように前書きから意味不明だがそれはさておき(話題変更の常套句)。
3/15から、二次創作ものに関する取り締まりを、このサイトでも自主的に行うようになったようだ。とうとう来たか、という感じである。
そもそも二次創作自体が著作権には引っ掛かっているのだから、運営側の対応はむしろ正しいものだろう。が、やはり釈然としないものはあるのだ。
二次創作というのは、実は昔から行われているものだ。和歌の世界には“本歌取り”という技法が存在するし、クラシック音楽は誰かが作った“主題”というものを基本に曲を組み立てていくことがよくある。
それぞれ“もともとあった和歌をアレンジして歌を作る技法”と“曲の中でで繰り返し使われる基本となる旋律”である。どちらも、今でいうところの二次創作にあたる。
有名なところでは“パガニーニの主題による狂詩曲”をラフマニノフが作っていたりするが、この“主題”は、パガニーニの作曲した“二十四の奇想曲”のメロディのことである。
つまり、“パガニーニの主題による狂詩曲”といういかにも偉そうな曲名はのは、“パガニーニという人が作った曲のメロディをもとに作った狂詩曲”という意味である。要するに二次創作だ。
そういった、いわゆる“二次創作もの”にも現在では芸術価値が認められているものもある。それどころか、芸術作品には二次創作ものが多くある。不真面目なものでは“モナリザ”のパロディものだってある。
オリジナルを生み出すのが難しいから二次創作ものを作る。
二次創作ものにオリジナルとは違う要素が加わる。
結果として、新しいものが生まれる。
という連鎖が、文化の発展の基礎だったりするかもしれない。
もちろん、“アメリカ音楽の父”であるフォスターのような悲しい一例もあるが、これは二次創作というよりは海賊版の域である。確かにこれは取り締まるべきだろう。“二次創作などと称して原作丸パクリ”など、言語道断である。
だからといって、二次創作をまったく認めないというのは、ある意味で“作者”になる機会を狭めてしまうのではないか、という危惧の方が大きいのだ。そうしてしまう方が、将来的には文化の担い手の不足を生み出してしまうのではないか、と。そしてそれが文化の衰退に繋がるのではないか、と。
だがもちろん、権利者側の主張も認めなければならない。彼らなりの理由があってそうしているのだろうから。
つまり僕たちにできることは、権利者側が“二次創作禁止!!”の看板を取り下げるのを待つことである。座して待とう。
もっとも、二次創作によってどれだけの損害が生じているのか、というのは気になるところだが。




