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構造論理学  作者: 天秤座
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第7話 国家・宗教・教育による認知形成

 

 人は、自分の考えを自分で選んだものだと思っている。


 しかし、本当にそうだろうか。


 自分が正しいと思っていること。

 自分が悪いと思っていること。

 自分が恥ずかしいと思うこと。

 自分が誇らしいと思うこと。

 自分が許せないと思うこと。

 自分が当然だと思うこと。


 それらは、本当に自分だけで選び取ったものなのか。


 構造論理学では、そこを疑う。


 人間の認識は、何もない場所から自然に生まれるわけではない。

 人は、生まれた社会の中で言葉を覚え、常識を覚え、善悪を覚え、歴史を覚え、集団の空気を覚える。


 その過程で、人の見える世界は形作られる。


 何を見るべきか。

 何を見なくてよいか。

 何を誇るべきか。

 何を恥じるべきか。

 誰を味方とし、誰を敵とするか。

 どの行動を善とし、どの行動を悪とするか。


 それらは、国家、宗教、教育、家庭、共同体、メディア、資本によって少しずつ作られていく。


 人は、自分の目で世界を見ているつもりでいる。

 だが実際には、見方そのものを与えられていることがある。


 ここを見なければ、人間の思考は理解できない。


 国家は、認識を作る。


 国家は、単に法律や行政を持つ組織ではない。

 国家は、国民に物語を与える。


 この国は何者なのか。

 この国はどのような歴史を持つのか。

 この国は何を守ってきたのか。

 この国は誰に傷つけられたのか。

 この国にはどのような誇りがあるのか。

 この国の敵は誰なのか。

 この国のために何をすべきなのか。


 国家は、こうした物語を教育や儀式や報道や制度を通して伝える。


 もちろん、国家が語る物語がすべて嘘であるとは限らない。


 国家には本当に守るべきものがある。

 歴史には誇るべき部分もある。

 外部からの脅威も存在する。

 苦難の記憶も、被害の記憶も、共同体を維持する上で重要な意味を持つ。


 しかし、問題はそこではない。


 国家が語る物語は、国家に都合よく整理されやすい。


 自国の苦難は大きく語られる。

 自国の加害は小さく語られる。

 自国の防衛は正当化される。

 相手国の防衛は脅威として語られる。

 自国の失敗は時代の事情として扱われる。

 相手国の失敗は国民性や思想の欠陥として扱われる。


 国家は、国民に自国を疑わせたくない。


 なぜなら、国民が国家を疑いすぎると、統治が難しくなるからである。

 徴税も、動員も、法律の遵守も、戦争への協力も、社会秩序の維持も難しくなる。


 だから国家は、自国を必要なもの、正しいもの、守るべきものとして教えやすい。


 これは、どの国にもある。


 特定の国だけの問題ではない。


 国家という構造そのものが、国民に一定の物語を必要とする。


 国民が国家に帰属意識を持たなければ、国家は安定しにくい。

 国民が共通の歴史や価値観を持たなければ、制度はまとまりにくい。

 国民が自国を守る意味を感じなければ、防衛も外交も成り立ちにくい。


 だから国家は、認識を作る。


 問題は、国家が認識を作ること自体ではない。

 その認識が、どれほど歪み、どれほど検証不能になり、どれほど他者への敵意を作るかである。


 国家の物語が強くなりすぎると、人は自国を疑えなくなる。


 自国が正しい。

 自国には事情がある。

 自国の軍備は防衛だ。

 自国の歴史は誇るべきものだ。

 自国への批判は敵意だ。

 自国の被害は永続的に主張できる。


 こうなると、国家の物語は論理ではなく信仰に近くなる。


 構造論理学では、国家を否定するわけではない。


 国家は必要である。

 無秩序よりは、国家による法と制度がある方が多くの場合安定する。

 教育、医療、治安、インフラ、防衛、社会保障を維持するには、国家という構造が重要である。


 しかし、国家が必要であることと、国家の語る物語が常に正しいことは違う。


 国家を必要な構造として理解しつつ、国家が人間の認識をどう作るかも見る。


 これが構造論理学である。


 宗教もまた、認識を作る。


 宗教は、人間に善悪の基準を与える。

 死への恐怖を和らげる。

 苦しみに意味を与える。

 共同体をまとめる。

 生活の規範を与える。

 秩序を維持する。


 人間は、死を恐れる。

 不幸を恐れる。

 理不尽を恐れる。

 自分の存在に意味を求める。


 宗教は、そこに答えを与える。


 なぜ生きるのか。

 なぜ苦しむのか。

 死んだ後に何があるのか。

 何が善で、何が悪なのか。

 どのように生きれば救われるのか。


 この答えは、人間にとって非常に強い。


 だから宗教は、長く続く。


 単なる迷信として片づけるには浅い。

 宗教には、共同体を維持する機能がある。

 個人の不安を支える機能がある。

 倫理や生活習慣を安定させる機能がある。


 しかし、宗教もまた、認識を閉じることがある。


 自分の神が正しい。

 自分の教義が正しい。

 自分の共同体が救われている。

 異なる信仰は間違っている。

 異なる価値観は堕落している。

 疑うことは罪である。


 こうなると、人は教義の外側を見られなくなる。


 宗教は、善悪を与える。

 しかし、その善悪が社会や時代の変化に適応できなくなることがある。


 宗教が共同体を守る。

 しかし、その共同体の外にいる人を敵視することがある。


 宗教が人に安心を与える。

 しかし、その安心のために現実を見る力を弱めることがある。


 宗教が倫理を与える。

 しかし、その倫理が他者の自由や尊厳を奪うことがある。


 だから宗教も、構造で見る必要がある。


 宗教がなぜ生まれたのか。

 なぜ人に必要とされたのか。

 どの不安を支えたのか。

 どの共同体を守ったのか。

 どの権力と結びついたのか。

 どの範囲では有効で、どの範囲では害になるのか。


 これを見なければならない。


 宗教を信じる者を愚かと断じるのは浅い。

 宗教を絶対視するのも浅い。


 構造論理学では、宗教を機能として見る。


 宗教が人間に何を与え、何を縛り、何を見えなくするのかを見る。


 教育もまた、認識を作る。


 教育とは、知識を教えるだけのものではない。


 教育は、人間に世界の見方を教える。


 何を正しいとするか。

 何を恥ずかしいとするか。

 何を努力と呼ぶか。

 何を成功と呼ぶか。

 何を常識と呼ぶか。

 どの歴史を重視するか。

 どの失敗を学ばせるか。

 どの疑問を許すか。

 どの疑問を黙らせるか。


 教育は、子供に認識の枠を与える。


 子供は最初から国家や宗教や資本主義や道徳を理解しているわけではない。

 それらは教えられる。

 繰り返し聞かされる。

 周囲が当然として扱う。

 そうして、いつの間にか本人の常識になる。


 だから教育は強い。


 そして危険でもある。


 教育は、人を自由にすることもできる。

 人を支配に適応させることもできる。


 考える力を育てる教育もある。

 従順な人間を作る教育もある。


 疑問を持たせる教育もある。

 疑問を持たないようにする教育もある。


 構造を見せる教育もある。

 国家や制度に都合のよい物語だけを教える教育もある。


 教育が悪いという話ではない。


 教育がなければ、人は社会で生きるための知識を得られない。

 読み書きも、計算も、歴史も、科学も、倫理も、社会制度も学べない。

 教育は必要である。


 しかし、教育が必要であることと、その教育内容が中立であることは違う。


 教育には、必ず何らかの価値観が含まれる。


 何を教えるか。

 何を教えないか。

 どの順番で教えるか。

 どの出来事を重く扱うか。

 どの言葉を使うか。

 どの問いを許すか。


 これらは、すべて認識形成に関わる。


 だから、教育を受けた人間は、自分が教育によって作られたことに気づきにくい。


 自分が学んだことを、世界そのものだと思う。

 自分が教わった正義を、普遍的な正義だと思う。

 自分が教わった歴史を、唯一の歴史だと思う。

 自分が教わった常識を、自然な常識だと思う。


 ここに危険がある。


 構造論理学における教育の目的は、特定の正義を植えつけることではない。


 なぜ人は正義を信じるようになるのか。

 なぜ国家は歴史を教えるのか。

 なぜ宗教は共同体を維持できるのか。

 なぜ資本主義は自由に見えながら従属を作るのか。

 なぜ人は感情に合う情報を信じるのか。

 なぜ集団は敵を必要とするのか。


 こうした構造を教えることである。


 つまり、何を信じるかを教えるのではなく、なぜ人はそれを信じるようになるのかを教える。


 これが重要である。


 人間は、無知な状態では間違う。


 これは当然である。


 知らなければ判断できない。

 比較対象がなければ疑えない。

 別の制度を知らなければ、自分の制度を当然だと思う。

 別の宗教を知らなければ、自分の宗教を絶対だと思う。

 別の国の物語を知らなければ、自国の物語だけを信じる。


 無知な時点で間違うことは、ある程度仕方ない。


 だから、構造論理学では、最初から無知を悪と断じない。


 無知は教育によって減らすべきものである。


 ただし、学ぶ機会があり、理解する能力があり、情報を得られる環境にいながら、それでも自分に都合のよい物語だけを守るなら、責任は重くなる。


 無知な者が間違うこと。

 学ぶ機会を拒む者が間違い続けること。

 理解した上で他者を騙すこと。


 これらは同じではない。


 認識形成を考える時、この段階を分ける必要がある。


 国家、宗教、教育は、人間に見える世界を与える。


 その世界の中で、人は善悪を判断する。

 味方と敵を分ける。

 誇りと恥を覚える。

 怒りと同情を向ける相手を決める。

 何を当然とし、何を異常とするかを決める。


 だから、人間の議論は単なる情報のやり取りではない。


 人と人が議論しているようで、実際には、背後にある国家、宗教、教育、共同体、感情、歴史がぶつかっていることがある。


 相手が話を理解しない。

 論点をずらす。

 ダブルスタンダードになる。

 都合の悪い事実を無視する。

 感情的に反発する。


 そう見える時、相手の知能だけが問題とは限らない。


 その人が、そう考えるように作られてきた構造がある。


 だから構造論理学では、相手の発言そのものだけを見ない。


 その発言が、どの教育から出てきたのか。

 どの国家物語から出てきたのか。

 どの宗教観から出てきたのか。

 どの集団感情から出てきたのか。

 どの被害者意識から出てきたのか。

 どの利益構造から出てきたのか。


 そこを見る。


 そうすると、相手の主張の弱点も見える。


 たとえば、ある者が自国の歴史的権利を主張する。

 しかし、責任を問われると、現政権はまだ若いと言う。


 これは、国家の連続性を都合よく使い分けている。


 権利を語る時は長い歴史を使う。

 責任を語る時は現在の政権だけに限定する。


 この矛盾は、表面の言葉だけでは見落とされる。

 しかし、国家物語の構造を見れば分かる。


 また、ある者が平和を語る。

 しかし、その平和が抑止不足を生み、侵略リスクを高めるなら、その平和論は低解像度である。


 これは、教育や思想によって「軍事力は悪」という認識が作られている可能性がある。

 だが、構造的には、軍事力の危険と抑止不足の危険を比較しなければならない。


 また、ある者が自由を語る。

 しかし、その自由が資本を持つ者だけに有利な競争を作るなら、その自由は見えない支配を隠している。


 これは、資本主義社会における教育や常識によって、「自由競争は公平」という認識が作られている可能性がある。


 このように、認識形成を見ることで、議論の深度は変わる。


 人は、事実だけで動くわけではない。


 事実の見え方によって動く。


 同じ出来事を見ても、国家が違えば解釈が変わる。

 宗教が違えば善悪が変わる。

 教育が違えば責任の見方が変わる。

 階級が違えば利益の見方が変わる。

 過去の経験が違えば感情の向きが変わる。


 だから、構造論理学では、出来事そのものだけでなく、出来事がどう見えるように作られているのかを見る。


 認識は、構造によって作られる。


 国家は国民に物語を与える。

 宗教は善悪の枠を与える。

 教育は常識を与える。

 資本は欲望と不安を与える。

 共同体は空気を与える。

 メディアは関心を与える。


 その中で、人は自分の考えを自分のものだと思う。


 しかし、まず疑うべきである。


 自分の正義は、本当に自分で選んだものなのか。

 自分の常識は、本当に普遍的なものなのか。

 自分の怒りは、本当に論理に基づいているのか。

 自分の誇りは、誰かに与えられた物語ではないのか。

 自分が疑っていない前提は、誰に都合がいいのか。


 ここを問う。


 構造論理学は、他人の洗脳を暴くためだけのものではない。


 自分の認識がどう作られたかを見るためのものでもある。


 自分はどの国家の中で育ったのか。

 どの教育を受けたのか。

 どの宗教観や道徳観に触れたのか。

 どの経済制度の中で競争してきたのか。

 どの共同体で恥や誇りを覚えたのか。

 どの情報環境で世界を見てきたのか。


 これらを見ずに、自分は自由に考えていると言うのは危うい。


 人は、自分の見え方を疑うことで初めて、少しだけ構造の外へ出られる。


 もちろん、完全に外へ出ることは難しい。


 人間はどこかの時代に生き、どこかの社会に属し、どこかの言語で考える。

 完全に無色透明な思考など存在しない。


 だが、自分がどの色に染まっているのかを知ることはできる。


 それがメタ認知である。


 国家、宗教、教育による認知形成を理解することは、単に社会を批判するためではない。


 人間がなぜそう考えるようになるのかを理解するためである。


 人をすぐに愚かと断じるのではなく、なぜその認識が形成されたのかを見る。

 ただし、形成されたから仕方ないで終わらせるのではなく、そこからどう抜け出すかを考える。


 無知な者には教育が必要である。

 感情に支配された者には、感情を構造として見る訓練が必要である。

 国家の物語に閉じ込められた者には、他国の物語や利害構造を比較する機会が必要である。

 宗教の内側に閉じた者には、宗教が社会で果たしてきた機能と限界を学ぶ必要がある。

 資本主義を当然視する者には、自由と支配の構造を学ぶ必要がある。


 これが教育である。


 本来の教育とは、特定の正義を押し込むことではない。

 人が正義を信じる仕組みを理解させることである。


 そうすれば、人は自分の正義を一段上から見られるようになる。


 国家に教わった正義。

 宗教に教わった正義。

 親に教わった正義。

 学校に教わった正義。

 メディアに誘導された正義。

 資本に作られた欲望。

 共同体に作られた常識。


 それらを完全に捨てる必要はない。


 しかし、それらが自分の認識を作っていると知ることは必要である。


 知らなければ、人は操られる。


 自分が操られていると気づかないまま、自分の意思で考えていると思い込む。


 これが最も危険である。


 構造論理学は、その危険を減らすための思考である。


 国家は必要である。

 宗教にも役割がある。

 教育は不可欠である。

 しかし、それらは同時に、人間の認識を作り、閉じ込める構造でもある。


 必要なものが、危険でもある。


 ここを同時に見る。


 国家を否定するのではない。

 国家によって作られる認識を見る。


 宗教を嘲笑するのではない。

 宗教が人間に与える救いと拘束を見る。


 教育を信じ切るのではない。

 教育が何を教え、何を教えないのかを見る。


 これが構造論理学である。


 人は、見たいように世界を見るのではない。


 見えるように作られた形で世界を見る。


 だからこそ、問い続けなければならない。


 自分は、何を見せられているのか。

 何を見ないようにされているのか。

 何を正義だと思わされているのか。

 何を恥だと思わされているのか。

 何を恐れるように作られているのか。

 何を望むように作られているのか。


 この問いを持つことが、認識の自由への第一歩である。


 構造論理学は、思考の自由を目指す。


 ただし、それは何でも好き勝手に考える自由ではない。


 自分の認識がどう作られたかを知った上で、前提を疑い、構造を読み、論理的整合性によって判断する自由である。


 国家、宗教、教育は、人間の認識を作る。


 だからこそ、それらを理解しなければならない。


 それを理解せずに語る正義は、どれほど美しくても低解像度である。


 本当に正義を論理へ引き上げるなら、まず自分がどの構造によって正義を与えられてきたのかを見なければならない。


 そこから、構造論理学はさらに深くなる。


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