第2話 人はなぜ自分の正義を疑えないのか
人は、自分の正義を疑うことが苦手である。
なぜなら、多くの人にとって正義とは、ただの考えではないからだ。
正義は、自分の所属と結びつく。
自分の感情と結びつく。
自分の過去と結びつく。
自分が信じてきたものと結びつく。
自分が守りたいものと結びつく。
だから、自分の正義を疑うことは、単に一つの意見を疑うことでは済まない。
自分の国を疑うことになる。
自分の思想を疑うことになる。
自分の親や教師から教わったものを疑うことになる。
自分が今まで怒ってきた理由を疑うことになる。
自分が正しいと思って生きてきた過去を疑うことになる。
これは苦しい。
だから多くの人は、自分の正義を疑わない。
疑わないまま、自分の立場に合う情報を集める。
疑わないまま、相手側の弱点だけを見る。
疑わないまま、自分に都合の悪い事実を例外扱いする。
疑わないまま、相手の反論を感情的に拒否する。
そして、自分は論理的に考えていると思い込む。
だが実際には、結論が先に決まっていることが多い。
自分の国は正しい。
自分の思想は正しい。
自分の感情に合う情報は正しい。
相手が悪いなら、自分は正しい。
過去に被害を受けたなら、現在の自分たちも被害者のままだ。
これは論理ではない。
これは、自分の見えている世界を、そのまま現実だと思い込む状態である。
私はこれを、ベタ認知と呼ぶ。
ベタ認知とは、自分の認識を一段上から見られていない状態である。
自分はなぜそう思ったのか。
その感情はどこから来たのか。
その正義は誰に教えられたのか。
その常識はどの環境で作られたのか。
その怒りは本当に論理によるものなのか。
そうした問いを持たず、自分の見え方をそのまま正しいものとして扱う。
これがベタ認知である。
対して、メタ認知とは、自分の認識そのものを観察することである。
自分は今、どの立場から見ているのか。
自分はどの情報を見落としているのか。
自分はどの感情に引っ張られているのか。
自分は相手側に同じ基準を適用できているのか。
自分は本当に論理で考えているのか、それとも自分の結論を守っているだけなのか。
これを見る力である。
構造論理学には、このメタ認知が不可欠である。
なぜなら、構造を見るためには、まず自分の見え方そのものを疑わなければならないからだ。
自分の正義を絶対視したままでは、構造は見えない。
見えるのは、自分に都合のよい物語だけである。
人は、自分の所属集団を守ろうとする。
家族、学校、会社、地域、国家、宗教、思想、民族、階級。
人は何らかの集団の中で生きている。
そして、その集団に属していることは、多くの場合、自分の安心や誇りと結びついている。
だから、自分の集団が批判されると、人は自分自身が攻撃されたように感じる。
国家を批判されると、自分が侮辱されたように感じる。
宗教を批判されると、自分の人生を否定されたように感じる。
思想を批判されると、自分の知性を否定されたように感じる。
過去の判断を批判されると、自分の人生の選択を否定されたように感じる。
その結果、人は事実を検証する前に防衛反応を起こす。
「それは違う」
「相手の方が悪い」
「こちらには事情があった」
「お前に言う資格はない」
「昔のことを持ち出すな」
「それは偏見だ」
こうして、論理ではなく防衛が始まる。
しかし、自分の集団を守りたい気持ちと、その集団が本当に正しいかどうかは別である。
自分の国を愛していることと、自国の政策が常に正しいことは違う。
自分の宗教を大切にしていることと、その宗教が社会制度として常に正しいことは違う。
自分の思想に救われたことと、その思想が他者にも正しく適用できることは違う。
ここを分けられないと、人は簡単に集団の正義に飲み込まれる。
集団の正義は強い。
なぜなら、一人で考えるより楽だからだ。
皆が正しいと言っている。
学校でそう教わった。
メディアがそう言っている。
歴史がそう語られている。
親も友人もそう信じている。
その中にいると、それが当たり前に見える。
当たり前になった正義は、疑われない。
疑われない正義は、検証されない。
検証されない正義は、簡単に暴走する。
国家が作る正義は、その代表である。
国家は、自国民に物語を与える。
この国は素晴らしい。
この国には誇るべき歴史がある。
この国は苦しみを乗り越えてきた。
この国は外敵から守られなければならない。
この国への批判には悪意がある。
この国の行動には理由がある。
もちろん、すべてが嘘とは限らない。
国には本当に守るべきものがある。
歴史には誇るべき部分もある。
外部からの脅威も存在する。
自国に事情があることもある。
しかし、問題はそこではない。
国家が語る物語は、常に国家に都合よく整理されやすいということだ。
都合のよい被害は強調される。
都合の悪い加害は薄められる。
自国の行動は事情として語られる。
相手国の行動は悪意として語られる。
自国の軍備は防衛として語られる。
相手国の軍備は脅威として語られる。
これが国家の物語である。
この物語の中で育つと、人は自分の正義を疑いにくくなる。
自分が信じているのは、事実そのものではないかもしれない。
国家によって整理された物語かもしれない。
しかし、物語の中にいる人間は、それを物語だと気づけない。
宗教も同じである。
宗教は、人に善悪の基準を与える。
生きる意味を与える。
死への恐怖を和らげる。
共同体をまとめる。
苦しみに耐える理由を与える。
だから宗教には大きな力がある。
しかし、宗教が絶対化されると、人はその外側を見られなくなる。
自分の信じる神が正しい。
自分の教義が正しい。
自分の共同体が正しい。
異なる信仰は間違っている。
異なる価値観は堕落している。
異なる生き方は救われていない。
そう考えるようになる。
このとき、人は論理で判断しているのではない。
教義の内側で判断している。
もちろん、宗教だけの問題ではない。
政治思想も同じである。
資本主義も同じである。
平等主義も同じである。
自由主義も同じである。
保守思想も革新思想も、同じである。
どの思想も、人間に見え方を与える。
そして、その見え方の中で生きると、人はその思想を通して世界を見るようになる。
資本主義を絶対視する人は、貧困を努力不足として見やすい。
平等を絶対視する人は、能力差や適性差を見落としやすい。
平和を絶対視する人は、抑止力の不足を軽視しやすい。
国家を絶対視する人は、国家による個人の抑圧を正当化しやすい。
自由を絶対視する人は、自由の名で生まれる格差や従属を見落としやすい。
思想は、世界を理解する道具である。
しかし同時に、世界を歪める眼鏡にもなる。
だから、思想を持つこと自体が悪いのではない。
問題は、その思想を通して見ている自分に気づけないことだ。
人は、自分の感情にも支配される。
怒りは、相手を悪に見せる。
恐怖は、相手を過大な脅威に見せる。
同情は、相手の責任を見えにくくする。
嫌悪は、相手の正当な理由まで否定させる。
誇りは、自分側の過ちを見えにくくする。
被害者意識は、自分側の現在の行動を正当化しやすくする。
感情は強い。
なぜなら、感情は人間にとって直接的だからだ。
論理は考えなければならない。
構造は読み解かなければならない。
前提は確認しなければならない。
しかし、怒りや恐怖や同情は、すぐに湧く。
だから人は、感情を事実だと思いやすい。
腹が立つから、相手が悪い。
かわいそうだから、相手は正しい。
怖いから、排除すべきだ。
不快だから、間違っている。
これは非常に分かりやすい。
だが、論理ではない。
感情は信号である。
結論ではない。
怒りが湧いたなら、そこに何か問題があるのかもしれない。
恐怖があるなら、何か危険を感じているのかもしれない。
同情があるなら、誰かが苦しんでいるのかもしれない。
その信号は重要である。
しかし、信号が示すものをどう解釈するかは、別の問題である。
怒りがあるから攻撃してよいわけではない。
恐怖があるから排除してよいわけではない。
同情があるから責任を消してよいわけではない。
感情を無視する必要はない。
しかし、感情を最終判断にしてはいけない。
構造論理学では、感情を否定しない。
感情がどの構造から生まれ、どのように判断を歪めるのかを見る。
特に厄介なのは、被害者意識である。
被害を受けた者には、確かに訴える権利がある。
加害があったなら、加害側には責任がある。
被害の記憶を軽視してはならない。
しかし、被害者であったことは、未来永劫すべての主張を正しくする免許ではない。
過去に被害を受けたこと。
現在の行動が正しいこと。
この二つは別である。
過去に侵略されたからといって、現在の軍事圧力が正当化されるわけではない。
過去に差別されたからといって、現在の不正が許されるわけではない。
過去に苦しんだからといって、他者への攻撃が正しくなるわけではない。
被害は事実として扱うべきである。
しかし、被害者意識を道徳的な万能札にしてはならない。
ここを分けられない人は多い。
なぜなら、被害者であることは強いからだ。
被害者は同情される。
被害者は道徳的に上位に見える。
被害者の言葉は批判しにくい。
被害者を批判すると、冷たい人間に見える。
だから、被害者意識は政治や思想に利用されやすい。
国家も、民族も、宗教も、集団も、自分たちの被害を語る。
そして、その被害を現在の正当性へつなげようとする。
だが、構造論理学ではそこで止まらない。
確かに被害はあったのか。
その被害の責任はどこにあるのか。
その被害は現在のどの主張まで支えられるのか。
現在の行動を正当化するほどの根拠になるのか。
相手側の被害も同じ基準で扱えるのか。
そこまで見る。
被害を軽視するのではない。
被害の射程を正確に見るのである。
人が自分の正義を疑えない理由は、結局ここに集まる。
自分の正義は、自分の外側にあるものではない。
自分の所属、自分の感情、自分の教育、自分の記憶、自分の誇り、自分の痛みと結びついている。
だから疑えない。
疑えば、自分が崩れるように感じるからだ。
しかし、疑えない正義は危険である。
疑えない正義は、修正できない。
修正できない正義は、間違った時に止まれない。
止まれない正義は、他者を傷つけても自分を正しいと思い続ける。
歴史上、多くの暴力は、悪意だけで行われたわけではない。
正義のために行われた。
信仰のために行われた。
国家のために行われた。
民族のために行われた。
平和のために行われた。
自由のために行われた。
未来のために行われた。
人は、自分が悪だと思っている時より、自分が正義だと思っている時の方が危険になることがある。
なぜなら、正義は自分の行動を疑わせなくするからだ。
だから、構造論理学では正義を疑う。
ただし、正義を捨てるためではない。
正義を感情論から論理へ引き上げるためである。
本当に正しい判断をしたいなら、自分の正義がどの構造から生まれたのかを見なければならない。
自分はなぜそれを正しいと思うのか。
自分は誰の物語を信じているのか。
自分はどの感情に引っ張られているのか。
自分は相手側にも同じ基準を使えるのか。
自分に都合の悪い事実を、例外扱いしていないか。
この問いを持つことが、構造論理学の始まりである。
人は、自分の正義を疑えない。
だが、疑えないままでは、正義は簡単に感情論になる。
所属集団の防衛になる。
被害者意識の武器になる。
権力の道具になる。
だからこそ、自分の正義を疑う必要がある。
それは、自分を否定するためではない。
より高い精度で、世界を見るためである。
ベタ認知から、メタ認知へ。
自分の見ている世界を、そのまま信じるのではなく、
自分がなぜそう見ているのかを問う。
そこから、構造論理学は始まる。




