ハナキン
「冬が好きなんだ。」
相変わらず低いあなたの声が、喫茶店の中に響く。夜の二十一時を過ぎても営業しているこのカフェには、美波と修治と、マスターの三人しかいない。金曜日のこの時間に来る客なんてほとんどいなく、みんな居酒屋やバーなりと、酒を飲んで浮世から離れることを楽しんでいるのだろう。マスターが近寄って来て、美波たちのテーブルにウィンナーコーヒーを置く。甘党の二人にはぴったりの飲み物だ。
「お酒も少し用意できますよ。」
マスターの声が二人のテーブルの上を通り過ぎた、「内緒ですけど」との声を添えて。「後でお願いします」と修治が言うと、それに合わせて同意するように美波も軽く頭を下げた。テーブルの上にあるウィンナーコーヒーの泡がぱち、ぱちと泡を立てている。
「かしこまりました。」
また声を響かせながら、マスターはカウンターの方へと戻って行った。
薄暗い店内の中で、マスターのいるカウンターの中の数個のオレンジ色の間接照明だけが息をしている。カフェなのにバーみたいな雰囲気の夜カフェは、繁華街にあるはずなのに、繁華街の喧騒とは距離があるように感じられて好きだった。金曜日の夜ともなれば尚更で、他にお客さんが来ないこの時間のこの空間が、美波にとって一週間の唯一の贅沢だった。
「なんで冬が好きなの?」
そうきいた後にウィンナーコーヒーに手をつけた。クリームの甘さとコーヒーの苦さが丁度よくて、熱を持ったカップも、冬の寒さに負けていた美波の手を温めてくれた。
「冬は夜が長いから。」
修治もカップに手を伸ばした。
「夜が長いと安心するんだ。昼間、みんな意思を持たないコンピューターみたいに働いたり動いたりしているうるさい喧騒だらけの世界が、シャットダウンされたみたいで。監視カメラみたいなビルの光が一つ、また一つと消えていく度、また一人、また一人とプレイヤーに戻っていく。自分の意思を持って、笑ったり怒ったり泣いたり。今日みたいな金曜日の夜は最高だね。たくさんの人が明るすぎる監視の目から解き放たれてる。華金、って言うんだっけ。」
コーヒーをテーブルの上に置きながら、美波は「ハナキン」と繰り返した。
「本当は昼間だって夜中だって、どちらでもいいんだ。晴れた十三時ごろに、芝の上で寝っ転がりながら浴びる陽は最高だからね。コーヒーかビールがあったら尚いい。ただ、この世界で生きていると、みんな昼に起きているはずなのに寝ているみたいなんだ。それこそ、意思を持たないコンピューターみたいに。それが、どうしても嫌いで、だから夜の世界になると安心する。みんながみんなでいるから。」
そう言うと、修治はコーヒーを飲み干した。カチャリ、とカップと置き皿が当たる小さな音がした。
まだ半分近くコーヒーが入っている美波は、カップを口元に近づけた。
「じゃあ夜の貴方は、本当の貴方なのね。」
美波の問いかけを無視して、修治はマスターを呼ぶ。
「ハイボールを一つ。」
「かしこまりました。」
マスターの低い声が、また店内に響く。




