第6話 決められない男と、逃げない食堂
海霧が重くなる日は、音の届き方が変わる。
朝まだき、灯台の窓を叩く風は弱かったのに、港から上がってくる声だけが妙に湿っていた。怒鳴り声も笑い声も輪郭がぼやけ、石段の途中でいったん膨らんでから、遅れて耳へ届く。シャシルは寝台から起き上がるなり窓を開け、灰色に沈んだ海を見た。
霧が低い。
ただ濃いだけではない。海面すれすれに這っているそれは、波の白さを飲み込みながら、ところどころで墨を垂らしたような暗い筋を抱えていた。
「嫌な朝ですねえ」
背後で声がした。まだ髪を整えきっていないチャトリンが、肩に毛布を引っかけたまま階段を上がってくる。片手には昨夜の受付簿、もう片方には湯気の立つ椀を二つ持っていた。
「寝癖のまま外を見るのはやめたほうがいいと思います。無敵オーラが少しだけ減ります」
「いま必要なのは見栄えじゃない」
「それはそうですけど、減るんですね」
「減らない」
シャシルは椀を受け取り、霧から目を離さないまま一口すすった。塩気のある魚の出汁が舌へ広がる。まだ温かいのに、窓の外の気配のせいで喉の奥は冷えたままだった。
「潮闇か」
「そこまでですか」
「にじみ始めている」
言い切ると、チャトリンの寝起きの顔から少しだけ気の抜けたところが消えた。彼女は窓辺へ並び、目を凝らす。願火の残りを見る目はシャシルほど鋭くないが、灯台に住み慣れたぶん、海の普段と違う息づかいには敏感だった。
「港の鐘、鳴ってませんね」
「ああ」
「まだ誰も気づいてない?」
「気づいていても、見間違いだと思いたい程度だ」
霧の中で、黒い筋がふっとほどけた。だが消えたのではない。形を変えて、岸へ寄る潮の裏へ潜っただけだ。
小規模。
だが厄介な規模でもある。
大きければ誰でも逃げる。半端に小さいと、様子見が一番被害を呼ぶ。
シャシルは椀を置いた。
「降りる」
「私も行きます」
「帳簿を見ろ」
「こういう日に帳簿を見ている場合じゃないです」
「いつも見ていないだろう」
「今日の私、ちょっと刺さりますね?」
刺さっているのは事実だったので、シャシルは答えず部屋を出た。チャトリンは小さく頬を膨らませたが、結局は受付簿を脇に抱え直し、ぴたりと後ろについてきた。
港へ下りると、いつもの朝の忙しさはあるのに、どこか妙だった。
魚を選る声はある。荷車の車輪も鳴っている。だが皆、会話の端で一度だけ海を見る。目を向けて、すぐ逸らす。その繰り返しだ。
北寄りの波止では、スターロイグルが見張り台から降りてきたところだった。寡黙な航路番は、濡れた外套の襟を直しながら、シャシルを見るなり短く言った。
「二刻もたない」
「岸へ触るか」
「触る。小さい。だが散る」
散る。
まとまりのある群れではなく、霧に紛れて小さく入り込み、人の足を止め、荷をひっくり返し、怯えた者へ噛みつくやり方だ。港町ではむしろそちらのほうが面倒だった。逃げ遅れが出やすい。
エルケもすぐ来た。夜勤明けらしく髭面のままなのに、目だけはいつも以上に冴えている。
「見えたか」
「ああ」
「やっぱりか。北埠頭の端で網が二つ裂けた。刃物の切れ方じゃない」
「港を閉じるぞ」
シャシルが言うと、エルケは一拍だけ黙った。
「閉じるのはいい。問題は人をどこへ寄せるかだ」
港の倉は狭い。船具小屋は風が抜けすぎる。診療所は怪我人用に空けておきたい。となると、まとまった人数を入れられる場所は限られる。
エルケとシャシルの視線が、同じ方向へ向いた。
港の坂を少し下りたところ、青い庇の下にある食堂だった。
朝から鍋の匂いを出しているその店の前には、いつも通り木札が掛かっている。
本日の煮込み、貝の粥、焼き魚。
だが今の札に必要なのは、そんな献立ではなかった。
「クリスターか」
チャトリンが呟いた。
「一番広い」
エルケが言う。
「椅子もある」
「竈も」
「裏口も二つある」
条件は揃っていた。
店主の気持ち以外は。
クリスターは、ちょうど入口の札を掛け直しているところだった。丸い肩つきの男で、手は大きいのに動きは妙に慎重だ。人当たりはよく、常連の愚痴も旅人の無茶も、笑って受け止める。だが大きな決断だけはいつも、鍋の火加減を見るみたいに何度も何度も確かめないとできない。
彼は四人の顔ぶれを見た瞬間、嫌な予感に当たった顔になった。
「やめてくれよ」
まだ何も言わないうちから、そう言った。
「その並びで来る時、ろくな話じゃない」
シャシルは前置きを捨てた。
「潮闇が寄る。店を避難所として開けろ」
クリスターの指が、木札の紐をつまんだまま止まった。
「今日の昼営業をやめて、客を入れ替えるって意味か?」
「違う。昼も夜もだ。子どもと老人を先に入れる。竈は炊き続けろ」
「簡単に言うなよ」
クリスターは乾いた笑いを一つ漏らした。
「皿が割れたら? 窓がやられたら? 霧に紛れて中へ入られたら? 俺の店だぞ」
「町の中でいちばん人を守れる場所でもある」
「だからって、はいそうですかって言えるか」
エルケが口を開きかけたが、その前にチャトリンが一歩出た。
「すぐ答えなくて大丈夫です」
「大丈夫じゃない」
シャシルが即座に返す。
「急いでるんだ」
「急いでるからって、迷っている人を蹴っても早くならないです」
クリスターは助かったような、余計に困ったような顔になった。チャトリンはその顔のまま逃げないよう、なるべく柔らかく言葉を続ける。
「クリスターさん。怖いですよね」
「……そりゃあな」
「店を壊されたくないし、鍋も皿も椅子も、全部お金がかかってる」
「そうだよ。借りだってまだある」
「でも、この町で子ども連れが入りやすい店って、ここなんです」
クリスターは返事をしなかった。
代わりに店の中を振り返る。磨いたばかりの卓、今朝焼いたばかりのパン、窓辺に置かれた小さな鉢植え。守りたいものが多い顔だった。
シャシルはいら立ちを隠さなかった。
「迷っている時間はない」
「分かってる!」
クリスターが珍しく声を荒げた。
「分かってるけど、俺が開けたせいで店が潰れたら、次に何を守るんだよ。店がなくなったら、普段の飯だって炊けないだろうが」
その言葉で、場が止まった。
店を守ることは、自分の懐を守ることだけではない。
いつもここで腹を満たしている者たちの日常も含まれている。
だから、即答できない。
チャトリンは横目でシャシルを見た。彼の顎がかすかに固くなっている。
怒っているのではない。
分かりたいのに、急ぐ時ほど分からなくなる顔だ。
「ひとまず準備だけしましょう」
チャトリンが言った。
「開けるかどうかは、あとでクリスターさんが決める。それまでに席を寄せるとか、通り道を空けるとか、できることはあります」
「それ、半分は開ける前提じゃないか?」
クリスターが聞く。
「半分です。残り半分は、開けないって決めた時に後悔しないためです」
クリスターは口を閉じた。
すぐには頷かない。だが、店へ入ってくれとも追い返してくれとも言わなかった。
だからエルケは遠慮なく店の中を見回し始めた。
「導線はこうだな。入口から左の席を子ども連れ、奥を年寄り。裏口側に水桶。窓際の卓は外せ」
「勝手に決めるなよ」
「決めてねえ。案を言ってる」
「言い方がもう決まってるんだよ」
チュバイロフは声を掛けられる前に、どこからか工具箱を持って現れた。黙って店の蝶番を見て、軋む窓枠を押し、重そうな卓の脚を確かめる。彼の仕事はいつも、誰かが気づく前に始まっている。
ジュニオールも薬箱を肩に提げてやって来た。
「診療所から包帯と酔い止め借りてきました。怪我と、あと、怯えすぎて吐く子が出た時用」
「縁起でもない」
クリスターが言う。
「縁起悪いものを先に用意しとくと、少しましになりますよ」
ジュニオールは笑った。
「経験則です」
昼に近づくほど霧は厚みを増した。
魚市場の声が短くなり、船は予定より早く繋がれ、網は畳まれたまま積み上がっていく。港にいる者の歩き方が、みな少しずつ速い。
それでも、まだ本当に危険だと認めたくない者は多かった。
荷を運び終えたい。
客を一組でもさばきたい。
家に置いた洗濯物を取り込みたい。
そのどれもが暮らしで、馬鹿にできない。だがそういう小さな先延ばしが、潮闇には一番都合がいい。
灯台では、子どもたちが朝のうちに書いた祈紙が短冊庫へ納められていた。
チャトリンは受付台の脇で束を整えながら、時々窓の外を見た。
その横でレオンティナは、昨夜までの記録を閉じ、新しい紙へ避難者名簿の書式を引いている。
「名簿まで作るのか」
シャシルが問う。
「作ります」
レオンティナは顔を上げない。
「誰が逃げ遅れたか分からなくなると、探す側が死にます」
「縁起でもない人が増えましたねえ」
チャトリンが小さく言うと、レオンティナは淡々と答えた。
「縁起ではなく予防です」
そのころ、食堂では椅子を寄せる音が続いていた。
チュバイロフが重い卓を持ち上げ、エルケが床へ白い粉で矢印を引く。裏口から井戸までの道、竈から配膳台までの道、入口から一番奥の長椅子までの道。迷った人間ほど、床に線があるだけで動ける。
クリスターは最初、ただ見ていた。
手を出せば決めたことになる気がして、鍋の蓋ばかりいじっていた。
だが竈の火を見て、鍋の中身を見て、棚の皿数を見ているうちに、結局じっとしていられなくなったらしい。
「そこの椅子、二脚だけ残せ。足の悪い人がいる」
「奥の棚の布は下ろしとく。濡れた子を包める」
「粥は塩を薄くする。子どもが多いならそっちがいい」
口を動かしたら、手も勝手に動き出した。
クリスターは自分の店のことなら誰より分かっている。その知識がようやく、怖さと同じ方向へ向き始める。
昼過ぎ、最初の悲鳴が上がった。
魚市場の端で、干し網の影が不自然に膨らんだのだ。霧に紛れた潮闇は、犬ほどの大きさで三つ。輪郭は崩れた藻のようなのに、跳ねる時だけ妙に速い。一匹が桶をひっくり返し、もう一匹が逃げた魚売りの裾に噛みつこうとした。
そこへシャシルが飛び込んだ。
蹴り上げた木箱が一匹を弾き、返す腕で別の一匹を石畳へ叩きつける。刃を抜くまでもない規模だったが、霧の中で散る小型は厄介だ。一撃で消えたと思った影が、破れた布のすき間からまた這い出る。
「下がれ!」
怒鳴り声が港へ走る。
その声で、ようやく本物だと理解した者たちが動いた。
エルケの笛が鳴る。
高く短い三連。警備隊にだけ通じる合図だったが、今日は町じゅうがその音に従った。北側を閉じろ。子どもを内へ。荷は捨てろ。そういう意味だと、体が先に覚えていた。
スターロイグルは波止で旗を振り、海へ戻ろうとする小舟を止めた。ズベタは岸壁の縄を切って空間を作り、転がった樽が人の足を止めないよう蹴り飛ばす。ジュニオールは泣き出した子の耳を塞ぎながら、診療所へ走るのではなく食堂のほうへ押し出した。
だがその食堂の入口で、群れは一度詰まった。
開いていたからだ。
扉が。
青い庇の下、クリスターが両手で片開き戸を押さえ、怒鳴っていた。
「立ってる暇があるなら入れ! 靴はそのままでいい、あとで拭く! 子どもを先だ、鍋に触るな、火傷する!」
その顔は、迷っていた朝の男とは別人みたいだった。
別人というより、迷い終えたあとの同じ男だった。
長椅子へ子どもが寄せられ、奥へ老人が座り、濡れた者には布が回る。クリスターは一人ひとりの名前を呼ぶ余裕こそないが、誰に何が必要かだけはすぐに見た。
「マーナ、その子に椀を渡せ。おまえは片手が空いてるだろ」
「そっちの爺さん、頑張るな、座れ」
「泣くなとは言わんが、息だけ吸え。吸えば次ができる」
店の中は一気に人で埋まり、皿の鳴る音と泣き声と湯気と足音が混ざった。けれど混乱の中心にいるはずの店主の声が、なぜか柱みたいに通っていた。
チャトリンは入口で名簿を持ち、駆け込んでくる者の名前を書きつける。
読めないほど速い字になりかけるたび、横からレオンティナが一言だけ差し込む。
「落ち着いて」
「落ち着いてます」
「その字は落ち着いていません」
「今そこ指摘します?」
「今だからです」
そのやり取りを、泣いていた子どもがぽかんと見て、少しだけ泣くのをやめた。
外では小さな潮闇がまだ二、三体、霧の切れ端みたいに動いていた。シャシルは市場から食堂前まで押し戻し、最後の一匹を石段へ叩き伏せる。黒いしぶきが散る前に、チュバイロフが塩の袋を破って踏み込み、じゅっと音を立てて輪郭を崩した。
「助かる」
シャシルが言う。
「仕事です」
チュバイロフはいつも通り短く答えた。
危険が完全に去るまでには、半刻ほどかかった。
長くはない。だが短いとも言えない半刻だった。
霧の黒ずみが薄れ、海風が少しだけまともな匂いを取り戻すころ、エルケが食堂の扉へ拳を二度打ちつけた。
「第一波、終わりだ!」
中にいた者たちが、同時には息を吐かなかった。
半拍ずつ遅れて、ようやく喉がゆるむ。泣き声も咳も笑いも、みな安堵の遅れとして出てくる。
クリスターは戸口に立ったまま、肩で息をしていた。鍋をかき回し、指示を飛ばし、人を押し込み、最後に自分も外を見ていたからだろう。袖をまくった腕が細かく震えている。
シャシルはその前へ立った。
「助かった」
簡単な言葉だった。
だがクリスターは、いきなり怒った。
「今さら言うなよ!」
声が裏返る。
「怖かったに決まってるだろ! 皿も割れた! 入口の鉢も倒れた! 鍋だって一つ焦がしかけた!」
「見ていた」
「見てたなら分かるだろうが! 俺、途中で何回もやっぱり無理だって思ったんだぞ!」
食堂の中がしんとする。
皆、聞いていた。
クリスターは息を詰まらせ、それでも言葉を止めなかった。
「でも追い出せなかった。ここまで来た連中に、やっぱり外へ戻れなんて言えなかった。言えなかっただけだ。立派だからじゃない」
シャシルは少し黙った。
朝の自分なら、そこで「結果が出た」とだけ返していたかもしれない。
だが隣にいたチャトリンが、小さく先に口を開いた。
「それで十分です」
クリスターが彼女を見る。
「迷ってても、逃げなかった」
チャトリンは名簿を抱えたまま言った。
「投げたんじゃなくて、ずっと背負ってたから、最後にちゃんと立てたんです」
店の隅で、老人がうなずいた。
膝へ布を掛けたまま、ゆっくりと。
「迷わん者より、迷って残る者のほうが頼りになる時がある」
その声に、クリスターは急に視線を落とした。照れたのか、泣きそうなのか、自分でも分からない顔だった。
シャシルはようやく言葉を選んだ。
「朝、急がせすぎた」
食堂の何人かが目を丸くした。
無敵オーラのおじさんが謝った、と顔に書いてある。
クリスターも同じ顔をしたあと、ふっと息を抜いた。
「……おまえ、そういうの言えるんだな」
「必要なら言う」
「必要って顔じゃねえけどな」
「うるさい」
そこで、ようやく笑いが起きた。
高くはない。腹を抱える笑いでもない。
けれどさっきまで震えていた喉が、自分の意思で震える笑いだった。
食堂の中を見回すと、皿はたしかに何枚か欠けていた。入口の鉢も倒れ、窓辺の布には泥がついている。だが店そのものは残っていたし、鍋の火も消えていなかった。
クリスターは焦げかけた鍋を覗き込み、木杓子を差して、味を見た。
「……食えるな」
その一言で、空気がまた少し戻る。
食える。なら大丈夫だと思える人間は多い。
「順番に出す!」
クリスターがすぐ声を張る。
「子どもと年寄りからだ! 文句あるなら外で潮闇に言ってこい!」
文句を言う者は誰もいなかった。
チュバイロフが割れた皿を端へ寄せ、ズベタが倒れた鉢を起こし、土を集める。ジュニオールは湯気の向こうで、泣き疲れた子に薄い薬草茶を持たせた。エルケは扉の外に立ち、もう一度霧の気配を見張る。
レオンティナは名簿の欠けを確認し、誰がまだ来ていないかを指先で追った。
「北通りの洗濯屋の婆さんがまだです」
「俺が行く」
シャシルが即答する。
「だめです」
チャトリンが止めた。
「だめじゃない」
「一人で行くのがだめです。エルケさん」
「あいよ」
返事が早かった。
シャシルは少しだけ不満そうな顔をしたが、エルケが横に立つと何も言わなかった。もう、ひとりで全部やる流れではなくなっている。そういう変化に、彼自身も気づき始めていた。
二人が洗濯屋の婆さんを連れて戻った時には、店の中へ粥の匂いが満ちていた。
子どもたちは最初こそ泣き顔のままだったが、匙を動かし始めると少しずつ頬がゆるむ。泣くのは腹が減るし、腹が満ちれば次の行動を考えられる。
チャトリンは入口の脇で、ようやく名簿を閉じた。
その拍子に、一枚の祈紙が帳簿のあいだから落ちる。
「何だそれ」
シャシルが尋ねる。
「さっき、来る途中で受け取ったんです」
チャトリンは拾い上げた紙を広げた。
「書いた人、名前は言わなかったんですけど」
墨は太く、勢いだけはある字だった。
うちの食堂が、逃げる場所じゃなくて戻ってこられる場所でありますように。
クリスターが、その場で耳まで赤くなった。
「見せるな」
「自分の字ですよね?」
チャトリンが聞く。
「違う」
「嘘です」
「違わないかもしれんが見せるな」
エルケが吹き出し、ズベタは土だらけの手で口元を隠した。ジュニオールは薬草茶を注ぎながら、ああいう時の字はだいたい本人なんですよねえ、と誰にも聞かれていない感想を漏らす。レオンティナでさえ、名簿をめくる指先を一瞬止めた。
シャシルはその祈紙を見て、静かに言った。
「いい願いだ」
からかいのない声だった。
だからクリスターは、もう否定しなかった。
夕方近く、霧はようやく薄くなり、港の石畳が本来の色を取り戻した。
食堂の前では、エルケの警備隊が簡単な導線の確認を続けていた。どこで声を掛けるか、どこへ子どもを座らせるか、竈の火をどう守るか。今日の即席の動きを、次に使える形へ変えるためだ。
チュバイロフは外れた蝶番をもう直している。クリスターは割れた皿の欠片を拾いながら、使えるものと使えないものを分けた。ズベタが倒れた鉢へ土を戻すと、シヴがどこからか持ってきた赤い薔薇の枝を一本、そっと挿して帰っていった。
「景気づけ」
それだけ言って。
夜、灯台へ戻る石段の途中で、チャトリンがぽつりと言った。
「朝、怒ってましたよね」
「誰にだ」
「たぶん、迷っていたクリスターさんにじゃなくて」
シャシルは答えなかった。
チャトリンは潮の匂いを吸い込み、続きを言う。
「昔、決めるのが遅くて間に合わなかったこと、あるんでしょうね」
足が止まる。
石段の下では、食堂の窓にまだ火が見えた。避難に使った店は、今度は遅い夕飯を出している。鍋が回り、扉が開き、人がまた戻っていく。
「ある」
シャシルは短く言った。
「だから急がせる」
「でも今日は、急がせるだけじゃ足りなかった」
「ああ」
チャトリンは少しだけ笑った。
「覚えましたね」
「偉そうに言うな」
「今日はちょっとだけ言っていい日です」
灯台へ戻ると、短冊庫の受領箱に新しい紙が何枚か入っていた。誰がいつ置いていったのか分からない。だが海霧のあとに届く祈紙は、昼間より字がゆっくりしていることが多い。たぶん、怖かった手が少し落ち着いてから書くのだ。
チャトリンが一枚を読み上げる。
きょう、みんながちゃんといっしょにいられてよかった。
別の一枚。
おみせのおなべが、こげませんように。
そして最後の一枚には、見覚えのある太い字でこうあった。
次は、迷う前に机を寄せる。
クリスターだった。
チャトリンが吹き出し、シャシルは受領箱へその紙を入れながら、口元だけ少し緩めた。
「次がないのが一番いい」
「でも、次が来ても逃げない場所にはなりましたね」
「そうだな」
灯台の上階では、夜番の風が窓を鳴らしていた。
今日の潮闇は小さかった。
けれど町が学ぶには十分だった。
即断できる者が前へ出る。
迷う者が場所を守る。
記録する者が漏れを埋め、運ぶ者が道を作り、笑う者が息を継がせる。
強さは一種類ではない。
剣の早さだけでも、怒鳴り声の大きさだけでもない。
怖くても残ること。
残ると決めた場所へ、誰かを入れること。
その強さで、今日、港の明かりは消えずに済んだ。
受領箱の底で、祈紙が静かに触れ合う。
小さな願いほど揺らぎが少ないと、灯台の古い仕組みは言っていた。
たしかにそうなのだろう、とシャシルは思う。
店が残りますように。
みんなでいられますように。
鍋が焦げませんように。
どれも戦場では笑われるような願いかもしれない。
だが、そういう願いが消えない町は、簡単には折れない。
窓の外、霧の向こうに食堂の灯が見えた。
青い庇の下の小さな光は、今夜の港で、灯台に負けないくらい頼もしく見えた。




