第5話 眩しいランプは嘘を照らす
翌朝の月明かりの灯台は、まだ昨夜の紙の匂いを抱えたまま目を覚ました。
潮風は冷たいのに、短冊庫の中だけは人の熱が残っている。西岸契約関係控と札の貼られた新しい棚が、壁際で妙にきちんとした顔をしていた。乱雑な祈紙の山と、味気ない記録棚。その取り合わせが、いまの灯台そのものだった。助けたい気持ちだけ先にあり、追いつかない手と金と時間が、あちこちで息を切らしている。
シャシルは夜明け前から石段を掃き、チャトリンは受付台の筆を整えていた。レオンティナは昨夜の複写を見直し、エルケは港の見回りを終えて崖を上がってくる途中だった。誰も、もう昨日までの顔はしていない。老女の夫の名を正したことが終わりではなく、始まりだと分かってしまったからだ。
そこへ、裏口が壊れそうな勢いで叩かれた。
「開けてください! 開けてください、今すぐ!」
「壊すな」
と、シャシル。
「壊すつもりはないです! でも心が急いでるんです!」
「その言い方をする時のブラルは面倒だな」
と、エルケがぼやく。
扉を開けると、工匠の青年は朝露も拭かずに立っていた。片手に錆びた鍵束、片手に半分破れた備品控えを持ち、息を切らしている。髪には蜘蛛の巣の糸までついていた。
「見つけました」
「何を」
チャトリンが聞く。
「旧倉の鍵です。それと、備品の最後の最後に書かれてた灯具名です」
「旧倉?」
「灯台裏の石蔵です。閉鎖前に在庫を移したはずなのに、控えの最後が消されてる。消されてるのに、消した人の筆圧が弱くて、下に名前が残ってたんです」
「朝から何を読んでいた」
エルケが眉をひそめる。
「寝る前に気づいて、寝られなくなりまして」
「迷惑な体質だな」
「褒め言葉として受け取ります」
ブラルは破れた控えを食卓へ広げた。
滲んだ墨の下に、たしかに読める文字があった。
旧式監査灯 一基。
補助鏡 三枚。
遮光幕 一式。
使用停止の印。
そして、その横に、小さく追記されている。
眩しすぎるため。
「監査灯?」
チャトリンが首をかしげた。
「灯台の灯りを調べる道具ですか?」
「たぶん、それだけじゃありません」
ブラルの目が光る。
「使用停止の理由が、性能不足じゃなくて、眩しすぎるためなんですよ。そんな理由、普通の灯具にはつきません」
「まぶしすぎて駄目だっただけでは」
エルケが言う。
「駄目だったなら、解体してガラスを転用します。でも丸ごと石蔵に残すのはおかしい。しかも補助鏡と遮光幕まで一式で」
ブラルは紙を指で叩いた。
「隠したんです。使えなくてではなく、使われると困るから」
レオンティナが顔を上げた。
「旧倉は誰の管理でしたか」
「閉鎖前の正規灯台守、その前は灯政院の監督官ですね」
チャトリンが答える。
「先代が死んだあと、鍵の所在も曖昧になって、私は一度も中を開けてません」
「では開けましょう」
レオンティナは椅子を引いた。
「消された備品名は、それだけで記録に値します」
朝食は後回しになった。
灯台裏の石蔵は、崖の風がまっすぐ当たる場所に埋もれるように建っていた。入口の半分は蔦に覆われ、錠前には海塩が厚く固着している。ブラルが震える指で鍵を差し込んだが、二度ほど回したところで止まった。
「だめです、食ってます」
「鍵がか」
「錠前がです」
「どけ」
シャシルが前へ出た。
錠前をしばらく眺め、蔦を一本ずつ外し、最後に扉の取っ手へ手を掛ける。チャトリンが嫌な予感の顔をした。
「あの、壊す前提の姿勢になってません?」
「壊れている」
「まだ希望はあるかもしれません」
「今、なくなった」
ばき、と乾いた音がした。
錠前より先に、錆びきった蝶番のほうが悲鳴を上げた。扉が半ばから外れかけ、ブラルが目を輝かせ、チャトリンが額を押さえ、エルケが腹を抱えて笑う。
「おまえ、本当に遠慮がないな」
「急いでいるんだろう」
「いや、そういう意味で言ったんじゃねえよ」
扉の内側から、湿った埃の匂いが噴き出した。
長く閉じられていた空気だ。
古い油、割れた木箱、濡れた石、そして、かすかに焦げた紙のような匂いも混じっている。
シャシルが先に入り、光を通すため窓板を外した。細い朝日が差し込むと、石蔵の中身が少しずつ姿を現した。壊れた手すり、予備の歯車、灯室で使うはずだった古い鏡、使い終えた巻綱。どれも捨てきれなかった物ばかりだ。だが奥の壁際に、布を二重に掛けられた背の高いものがあった。
ブラルが、ほとんど駆け寄るようにして布を剥がした。
「これです」
現れたのは、人の胸ほどもある真鍮の灯具だった。
普通の灯籠とはまるで違う。前面に分厚い湾曲硝子がはまり、その周囲に細かい刻み目の入った鏡板が幾重にも取りつけられている。台座には複雑なつまみが並び、後部には願火を流すためらしい細い管が蛇のように巻いていた。表面は曇っていたが、造りそのものは異様に精密だった。
「でかい」
エルケが素直に言う。
「大きいですね!」
ブラルは喜んだ。
「しかも刻印が残ってる」
台座を拭うと、旧王都灯政院監査局の紋章が浮かび上がった。
その下には、もっと小さな字で用途が記されている。
願光流路検査灯。
レオンティナの視線が鋭くなった。
「監査局の装備が、地方の閉鎖灯台に残されている」
「検査灯って、何を検査するんです?」
チャトリンが問う。
「名前の通りなら、願光の流れです」
レオンティナは答えた。
「正規の灯台では、祈紙がどの経路で焚かれ、どこへ願光が回るかを記録します。濁りや欠損があれば、事故か横領を疑う」
「そんな大事な道具を、なんでこんな倉に」
「使われると困るからでしょう」
シャシルが言った。
誰も否定しなかった。
チュバイロフが遅れて石蔵へ来たのは、その時だった。彼はいつものように多くを尋ねず、ただ中を覗き込み、灯具を一目見て言った。
「運ぶか」
「運びます!」
ブラルが即答する。
「無理です」
チャトリンが即答した。
「重い」
チュバイロフは台座を少し持ち上げ、そう結論した。
「三人」
「二人でいける」
シャシルが言った。
「いけません」
チャトリンが言う。
「床が心配です」
「じゃあ四人だ」
「人の心配はしないんですね」
「している。床も人もまとめてだ」
結局、シャシルとチュバイロフが主に持ち、ブラルが後ろから管を支え、チャトリンとエルケが周囲の荷をどける形で運ぶことになった。石段を一段上がるごとに、灯具の中で固着した鏡板がしゃらりと鳴る。まるで長く黙らされていたものが、ようやく喉を鳴らしたような音だった。
崖下の町から、その騒ぎを見上げる目が増え始めた。
朝の水汲み帰りの子どもが立ち止まり、魚籠を抱えた女が首を伸ばし、配達の途中らしいケイデンスが口笛を吹く。
月明かりの灯台は、ただでさえ目立つ。
そこへ怖い顔の男が化け物みたいな灯具を担いでいるのだから、見ないほうが難しい。
「何だあれ」
「また灯台が変なことしてる」
「怖い人がいる」
「でも重そう」
「うわ、持ってる」
子どもたちの囁きが風に乗った。
その中のひとりが、たぶん食堂の裏で猫を抱いて泣いていたあの小さな男の子だった。シャシルと目が合うなり半歩下がり、それでも目をそらさず、ぼそりと言った。
「……無敵オーラだ」
近くにいた子どもたちが、え、と顔を向ける。
「何それ」
「あの人」
男の子は指をさした。
「この前、屋根の上から猫とってきたし、今もあんなの持ってるし、なんかこう、近づくと圧がある」
「圧って」
「無敵オーラのおじさん」
ケイデンスが吹き出した。
「それ、いいね」
「よくない」
シャシルが即座に言う。
「もう遅いですよ」
チャトリンが肩で笑った。
「広まる時の町って、火より早いので」
子どもたちは怖がっていたはずなのに、その場でくすくす笑い始めた。
その笑いは嘲りではなかった。分からないものに勝手な名前をつけて、自分の手の届く大きさにする、子どもらしいやり方だった。
灯具を食卓の横へ据えたころには、灯台の玄関先に見物人が十人ほど集まっていた。
ブラルは布を敷き、工具を並べ、別人のような顔で灯具へ向き合った。彼にとっては祭りより何より、こういう朝こそ大事件なのだろう。ねじ一本外すたびに目が輝き、曇った硝子の厚みを測るたびに歓声を上げそうになる。
「遮光幕、やっぱり必要です」
彼は言った。
「普通の灯具じゃない。これ、集めた願光をただ前に出すんじゃなくて、流れの癖ごと浮かび上がらせる構造になってます」
「流れの癖?」
エルケが聞き返す。
「願火って、人が書いて灯台へ納める時は、素直にまっすぐなんです。行き先が一つだから。でも途中で抜かれたり、圧縮されたり、別の炉に流されたりすると、戻ろうとする筋が残る」
「つまり、無理やり曲げた跡が見えるのか」
レオンティナが整理する。
「はい」
ブラルは嬉しそうに頷いた。
「たぶん」
チャトリンが片眉を上げた。
「いま、たぶんって言いましたよね」
「理屈は九割合ってます」
「残り一割」
「実物で確かめれば埋まります」
「怖いことを明るく言うの、やめてもらえます?」
その時、玄関先からひょいと声が飛んだ。
「理屈を埋めるなら、話も一つ持ってきたよ」
ジュニオールだった。
診療所に出入りする薬師は、今日も軽い色の上着を羽織り、寝不足とは無縁の顔で籠を提げている。中には乾かした薬草束と、封のされた小瓶がいくつか入っていた。
「昨日の続き?」
チャトリンが尋ねる。
「続き。あとは、うちの先生が面倒だからおまえが行ってこいって」
「投げられたんですね」
「信頼とも言う」
ジュニオールは食卓へ籠を置き、小瓶をひとつずつ並べた。灰色、青黒、薄金。
それぞれに紙札が巻いてある。
「港で働いてる人の喉、時々おかしな焼け方するんだよね」
「焼け方?」
エルケの声が低くなる。
「煙を吸ったみたいに荒れる。でも普通の炭炉や船鍛冶の煤じゃない。紙を焼いた匂いに、妙に甘い灯油みたいなのが混ざるんだ。去年の冬から何度かあった」
「どこで」
レオンティナが問う。
「北埠頭のはずれ。夜勤の荷下ろしをした男が二人、同じ症状で来た」
彼は灰色の小瓶を揺らした。
「これ、その時の服についた粉」
「ただの灰には見えん」
シャシルが言う。
「うん。紙の灰に、願火を長持ちさせる鉱塩が混じってる。診療所じゃ使わないし、港のかまどにも入ってない」
「願火の加工塩」
ブラルが目を見開いた。
「それ、王都の検査工程で使う配合に近いです」
「へえ。じゃあ当たりかな」
ジュニオールは薄金の小瓶も指先で弾いた。
「こっちは積み荷の縄についてた油。ひとりが、変な依頼だったって言ってたよ。木箱の中身は紙束なのに、やけに重い。しかも、持つとぬるい。紙がぬるいって変じゃない?」
「変だな」
エルケが答える。
「積み先は?」
「依頼主は名乗らず。夜更けの北埠頭。受け渡しは王都行きの回送船に合わせる、だって」
レオンティナがすぐに控えへ手を伸ばいた。
「夜更けの回送船の届出は、通常より簡略化されます」
「知ってる」
エルケが苦い顔をする。
「霧が濃い夜は、書類を後で回す言い訳が立つからな」
「その穴を使われていたのでしょう」
話が重くなりかけたところへ、ケイデンスが勝手口から顔だけ覗かせた。
「穴の話なら、私も一つ」
「なんで毎回、絶妙なところで来るんですか」
チャトリンが呆れる。
「町が私を必要としてるから」
「自分で言った」
「あと、下で見物してる子どもたちが、おじさんのあだ名を広め始めてる」
「やめさせろ」
シャシルが低く言う。
「もう無理」
ケイデンスはにやにやした。
「いいじゃん。怖いより親しみやすい」
彼女は籠から紙片を一枚取り出した。配達控えの切れ端らしく、時間と荷数だけが雑に書いてある。
「先月から、北埠頭の裏路地に同じ車輪跡が何度もついてるの。細い鉄輪で、外側だけ新しく削れてる。うちの町の荷車じゃあんまり使わない型」
「分かるのか」
エルケが聞く。
「配達してると道を見るからね。で、その車が来る日はだいたい、王都の回送船が夜便で寄る日と同じ」
「荷は?」
レオンティナが尋ねる。
「木箱。荷札は灯具補修用硝子とか、古紙とか、そういう曖昧なの。でも、運んだ子がひとり、箱の隙間から紙の端を見たって」
「子どもがついていったのか」
シャシルの声が少し険しくなる。
「追い払ったよ」
ケイデンスは肩をすくめた。
「でも見ちゃったものは仕方ない。白い紙で、端に赤い印が押してあったって」
「価値なしの印ですね」
チャトリンが言う。
食卓の上に、帳簿、薬瓶、配達控え、そして旧式の監査灯が並んだ。
別々だったものが、ひとつの場所で同じ方向を向き始める。
見えてきたのは、たぶん偶然ではない。
地方の祈紙を価値なしと判じ、別便で抜き、夜の港から王都へ送る流れだ。
「灯具を試しましょう」
レオンティナが言った。
「口証だけではまだ弱い。記録に重ねる視覚証拠が必要です」
「やります!」
ブラルが立ち上がる。
「私は前からそのつもりです!」
昼まで、灯台は修理場になった。
ブラルが鏡板を一枚ずつ外して磨き、チュバイロフが台座のがたつきを直し、チャトリンが布の切れ端で真鍮の曇りを拭く。エルケは遮光幕の支柱を組み、レオンティナは検査対象の祈紙と控えを選別した。シャシルはと言えば、狭い場所でいちばん邪魔になる体格をしているくせに、重いものを持つ時だけは誰より役に立つ。高い棚の鏡板も、固着したねじ台も、彼が押さえればほとんどの作業が早く済んだ。
「じっとしててください」
ブラルが言う。
「している」
「威圧感が動くんです」
「意味が分からん」
「分からなくていいので、そのまま支えてください」
「無茶を普通に頼むな」
「無茶を普通にできるの、ここだとシャシルさんだけなので」
玄関先では、子どもたちが入れ替わり立ち替わり覗き込んでいた。
恐る恐る石段を上ってきて、シャシルが顔を向けると一歩下がる。だが逃げはしない。猫を拾ってもらった子、灯台に祈紙を持ってきた女の子、食堂の手伝い帰りらしい兄妹。彼らは怖い顔の男より、その男が今日は何を持ち上げ、何を直し、誰に叱られているかのほうに興味を持ち始めていた。
「無敵オーラのおじさん」
さっきの男の子が、玄関柱の陰から呼んだ。
シャシルは振り向いた。
子どもたちは一斉に硬直したが、彼は追い払わなかった。
「何だ」
「それ、光るの」
「たぶんな」
「たぶんなんだ」
子どもたちが笑う。
チャトリンが、筆を置いたまま肩を震わせた。
「そこで笑うな」
「だって、たぶんって返したの初めて聞いたので」
「事実だ」
「ええ。だから余計に面白いんです」
子どもたちは顔を見合わせ、少しだけ前へ出た。
怖いけれど、完全に知らない大人ではなくなってきた。その線を越える瞬間は、たいてい何でもない会話の形で訪れる。
「まぶしかったら、目つぶればいい?」
女の子が聞く。
「遮光幕を張る」
シャシルは答えた。
「おまえたちは線より前へ出るな」
「なんで?」
「危ないからだ」
「危ないの?」
「俺がいる」
「それ、危ない理由ですか?」
ケイデンスが横から口を出す。
「守る理由だ」
シャシルは真顔で返した。
子どもたちは、また笑った。
今度はさっきより近い笑いだった。
昼過ぎ、監査灯の試験が始まった。
灯台の食堂机を壁際へ寄せ、窓へ厚布を掛け、ブラルが台座の願火受けへ細い管をつなぐ。普通の灯りではなく、祈紙からほどいた微弱な願火を少しだけ流し込む仕組みらしい。チャトリンが受領済みの祈紙から、もう焚き上げには回さない調査用の紙を数枚選んだ。王都の価値なし印があるもの、月明かりの灯台でそのまま保管されていたもの、昨夜の複写帳簿、そして北埠頭で拾われた木箱の縄切れ。
「遮光幕、下ろします」
エルケが布を引いた。
部屋の中が急に暗くなる。
見物の子どもたちが一斉に息を潜めた。
ブラルがゆっくりつまみを回す。
最初は、灯芯の芯先ほどの淡い光だった。
次に、鏡板のどこかが正しい位置へ噛み合い、細い線になった。
そして三度目に音がした時、部屋の中央へ白金に近い光が走った。
「うわっ」
「まぶし!」
「だから言っただろう」
エルケが慌てて布を持ち直す。
だが、ただ明るいだけでは終わらなかった。
監査灯の光は、照らされた紙の上で、普通の灯りでは見えない筋を浮かべ始めた。価値なし印の祈紙の内部に、細い灰色の流路が何本も絡んでいる。まっすぐ灯台へ向かうはずの願火の筋が、途中で引きちぎられ、どこか別の方向へ無理にねじられたような跡だ。
ブラルの声が震えた。
「これです」
「見えるのか」
エルケが思わず前へ出る。
「ええ。通常の願火は、もっと素直です。こんな逆棘みたいな返り筋は出ません」
「返り筋」
チャトリンが小さく繰り返す。
「持っていかれた願いが、灯台へ戻りたがってる跡です」
部屋が静まった。
シャシルは、王都から持ち出した祈紙のうち、最初に拾った一枚を思い出していた。
父の船がぶじに帰りますように。
あの短い祈りにも、いま目の前の紙と同じような引きつれが隠れていたのかもしれない。届け先を奪われ、別の炉へ回され、それでもなお本来の場所へ戻ろうとする筋。そう考えると、灯台を閉ざされた町の冷え方まで説明がつく気がした。
レオンティナは次に、複写帳簿を光の下へ置いた。
一見ただの数字の列だった紙の端に、薄い紋が浮いた。
誰かが上から別の分類名を書いた跡だ。
古紙処分。
灯具補修材。
そして、その下に消し残された本来の記載。
民願束。
「十分です」
レオンティナの声が、かすかに硬くなる。
「消された記録の痕跡まで拾える」
「帳簿が、嘘ついてたんじゃなくて、嘘を上書きされてた」
チャトリンが言う。
「そういうことです」
レオンティナは頷いた。
「これなら、公文照合で争えます」
ジュニオールが縄切れを差し出した。
「これもいける?」
「やってみましょう」
ブラルが角度を変え、監査灯の光を縄へ当てた。
すると粗い麻の繊維の間に、青白い粉が筋になって残っているのが見えた。ジュニオールが持ってきた灰と同じ色だ。さらに縄の結び目の下には、小さな蝋印の欠片まで浮かび上がる。王都灯政院監査局の紋章を簡略化した印だった。
エルケが舌打ちした。
「港の夜荷で、監査局の紋が出るか」
「出てはいけませんね」
レオンティナが静かに答える。
「正式監査なら昼間に来る。夜の裏荷で使う印ではない」
ケイデンスが腕を組む。
「じゃあ、噂じゃなくなったね」
「ええ」
チャトリンは監査灯の前に立つ紙を見つめたまま言った。
「嫌な形で、ちゃんと本当になりました」
見物していた子どもたちは、事情の全部は分からなくても、部屋の空気が変わったことは感じたらしい。笑っていた顔が少しずつ真面目になる。最初にあだ名をつけた男の子が、柱の陰から紙を見つめ、小声で尋ねた。
「その紙、泣いてるみたい」
「泣いてる」
シャシルは答えた。
「だから戻す」
子どもは黙った。
それから頷いた。
子どもが大人の言葉を全部理解したわけではない。ただ、戻すという一言だけは分かったのだろう。
試験はそれで終わらなかった。
ブラルはさらに鏡の角度を変え、灯台で保管されていた古い祈紙を比べた。月明かりの灯台で受けた願いは、監査灯の下でも筋が穏やかだった。線は素直に上を向き、余計な濁りがない。対して王都経由で戻った祈紙は、ほとんどすべてが途中で傷ついている。しかも傷の形がよく似ていた。偶然ではなく、同じ工程を通された痕だ。
「抜く装置が一つじゃない」
ブラルが呟く。
「同型です。少なくとも西岸から上がった束は、同じ系統の炉にかけられてる」
「兵器炉か」
エルケが低く言う。
「あるいは再圧縮炉」
レオンティナが修正する。
「どちらにせよ、地方灯台に残るはずの願光ではありません」
シャシルは、監査灯の白い光の向こうに、王都の仕分け場を見た気がした。
赤印。
紙屑という声。
床に散った祈紙。
あの時は怒りだけで動いた。だが、今は違う。怒りの先に、筋道がある。誰が、どこで、どうやって奪ったのかを、灯りの下へ引きずり出せる。
その時、監査灯の前に立っていたチャトリンが、小さく息を呑んだ。
「これ……」
彼女が持っていたのは、月明かりの灯台に昔から残っていた古い受付控えだった。先代の字で、受け取った祈紙の数と簡単な内容だけが書かれている。何気なく光へかざしたその紙の余白に、別の字が浮かんだのだ。
見える。
帳面の裏側から、薄い書き込みが滲んでいた。
地下、次段、検査灯を残す。
流路を見ろ。
上は必ずまた抜く。
チャトリンの声が揺れる。
「先代です」
彼女は紙を両手で支えた。
「これ、先代の癖字です。急いでる時の書き方」
「裏書きで残したのか」
シャシルが問う。
「たぶん。見つかっても、表からは分からないように」
「地下、次段……」
ブラルの目がまた危険なほど輝いた。
「やっぱりまだ何かありますよ!」
「落ち着いてください」
チャトリンが言う。
「あなたがそう言う時はいちばん落ち着いてません」
「でも地下ですよ!? 次段って書いてある!」
「嬉しそうに言わないでください」
「嬉しいです」
場の緊張が、そこで少しだけほどけた。
見つかったのは不正の痕跡で、つまりは腹立たしい事実なのに、残した手掛かりがちゃんと灯台へ繋がっていたせいで、皆の顔にわずかな前向きさが戻ってくる。
玄関先で見ていた子どもたちが、ようやく息をついたように動き出した。
ひとりの女の子が、おずおずと受付台へ近づき、細筆を一本手に取る。
チャトリンが目で促すと、彼女は小さな祈紙へ一行だけ書いた。
こわいゆめをみませんように。
書き終えた紙を、彼女は受領箱ではなく、シャシルのほうへ差し出した。
彼は少し戸惑ったあと、しゃがんで目線を合わせる。
「受付台だ」
「うん」
「俺に渡す必要はない」
「でも、おじさん、戻すって言ったから」
女の子は真剣な顔だった。
怖い夢も、猫も、薔薇も、戻してくれる人だと思ったのだろう。
シャシルはその祈紙を受け取り、いつもよりずっと丁寧に受領箱へ入れた。
「預かる」
「……うん」
女の子が走って戻ると、他の子どもたちも急にそわそわし始めた。
筆を借りる者、紙だけ取って石段で書く者、書けない弟の代わりに姉が聞き取る者。玄関先が、いつの間にか簡易の祈紙台みたいになっていく。
ケイデンスがその様子を眺め、口元を緩めた。
「ね。あだ名、悪くないでしょ」
「よくはない」
シャシルは言った。
「でも、前よりはましかも」
チャトリンが横から挟む。
「前は怖い人でしたから」
「今も怖いだろ」
「それはそうです」
「否定しろ」
「事実なら否定する意味がないんですよね」
チャトリンは平然と返した。
エルケが吹き出し、ブラルは監査灯のつまみを磨きながら肩を震わせた。レオンティナでさえ、紙を揃える指先を一瞬止めたあと、ほんの少しだけ目元を和らげた。
午後遅く、町の組合から使い走りの少年が来て、灯台へ妙な問い合わせが増えていると告げた。
北埠頭の夜荷について、誰が許可を出したのか。
古紙処分と書かれた箱が、なぜ監査局の封で縛られていたのか。
灯台で眩しい光を出して何を見たのか。
噂はもう、灯台の中だけの話ではなくなっていた。
レオンティナは机に向かい、監査灯で見えた流路と消し跡を簡潔に書きつけていく。
「記録にします」
「いま?」
チャトリンが尋ねる。
「いまです。記憶は都合よく薄れますから」
「そのへん、本当に容赦ないですね」
「容赦して消えるのは、だいたい弱い側の記録です」
レオンティナは顔を上げなかった。
「それはもう、やめたい」
チャトリンは何も言わず、代わりに新しい紙束を彼女の横へ置いた。
シャシルは外へ出た。
崖の上の風は朝より冷え、港の水面は夕方の鈍い色をしている。北埠頭のほうを見れば、たしかに人気の少ないはずれの岸に、不自然なくらい新しい車輪跡が二筋ついていた。見ていれば分かるものを、見ないで済ませる人間が多かっただけなのだと、いまは思う。
背後で石段を上がる足音がした。
エルケだった。
「顔が怖いぞ」
「元からだ」
「そうじゃなくて、今日は刺さるほうの怖さだ」
「そうか」
「そうだよ」
エルケはシャシルの隣へ来て、同じように北埠頭を見た。
「証拠が増えた」
「ああ」
「でもまだ、決め手ってほどじゃない」
「分かっている」
「ならその顔やめろ。飛び降りて今すぐ北埠頭をひっくり返しに行きそうだ」
「必要ならやる」
「必要でも順番を守れ。そういうとこだぞ」
シャシルは少し黙った。
順番。
昔の自分なら、たぶん夜のうちに倉を壊していた。だが今は、灯台に人が増えている。記録を読む者、運ぶ者、噂を拾う者、直す者、そして書く者。ひとりで暴れるより、ずっと遠くまで届く手が、ここにはあった。
「分かった」
そう言うと、エルケは意外そうに片眉を上げた。
「おまえ、たまに素直だな」
「たまに?」
「ほとんど奇跡」
下から子どもの声が上がった。
「無敵オーラのおじさん! 紙、風で飛ぶ!」
「待て!」
受付台に積んであった未使用の祈紙が、一陣の風で石段へ散りかけていた。シャシルは反射で駆け、三段飛ばしで階段を下り、紙束の先へ回り込む。潮風に持っていかれる寸前の紙を、片手で受け止め、もう片方で転びかけた子どもの肩を支えた。
あっという間のことだった。
だが見ていた者たちには、ずいぶん派手に映ったらしい。
「だから無敵オーラなんだって!」
男の子が叫び、
「紙も人も落とさない!」
別の子が続けた。
石段の下で、魚売りの女が声を立てて笑った。
見物の大人たちにも、つられるように笑いが広がる。
怖い、だけでは出てこない笑いだった。あいつがいると面倒だが、あいつがいると何とかなるかもしれない。そういう笑いだった。
シャシルは拾い集めた祈紙を腕に抱えたまま、何とも言えない顔で立ち尽くした。
チャトリンが上から見下ろして言う。
「諦めてください」
「何を」
「その名前です」
「嫌だ」
「もう遅いです」
「最悪だ」
「でも」
チャトリンは少しだけ声をやわらげた。
「前より、ずっといいと思います」
彼女の視線の先には、受付台の前で順番を待つ子どもたちがいた。
以前なら、怖い男がいるだけで近づかなかっただろう子たちだ。いまは互いの紙を覗き込み、字を教え合い、短冊庫の箱へ自分で入れようとしている。
夕方、監査灯は食堂の奥へ移され、布を掛けられた。
ただの古い灯具ではなくなったからだ。
眩しいだけの失敗作ではなく、嘘の上塗りをはがす道具。先代が隠し、ブラルが見つけ、皆で起こした証拠の灯り。灯台にまた一つ、守るべきものが増えた。
レオンティナは書き上げた記録の最後に、乾く前のインクで一行を足した。
旧式監査灯により、価値なし印祈紙および関連控えに不自然な流路改変痕を確認。
味気ない文だった。
だが、その味気なさの向こうに、今日見た祈紙の引きつれも、港の夜荷も、子どもが書いた小さな願いも、全部きちんと繋がっている。
夜、灯台の窓に明かりがつくころには、町のほうからまた新しい祈紙が届いた。
魚の値が戻りますように。
兄ちゃんの船酔いが治りますように。
明日、診療所の注射が痛くありませんように。
そして、最後の一枚には、たどたどしい字でこう書いてあった。
むてきおーらのおじさんが、ちゃんとごはんをたべますように。
チャトリンが読み上げた途端、食卓の向こうでエルケが吹き、ブラルは机に突っ伏し、ケイデンスは腹を抱えた。ジュニオールなどは薬瓶を落としかけた。
「誰だ」
シャシルが本気で聞く。
「字からすると、たぶん食堂の子」
チャトリンは笑いを堪えきれない顔で答えた。
「悪意はないですね」
「知っている」
「愛嬌はあります」
「余計だ」
けれど彼は、その祈紙を捨てろとは言わなかった。
価値なしとも言わなかった。
無言で受領箱へ入れ、箱の蓋を閉める手つきだけが、少しばかり乱れていた。
監査灯が見つけたのは、不正の跡だけではなかったのかもしれない。
人がどこで怖がり、どこで笑い、どこでようやく誰かを頼るのか。
そういう目に見えない流れまで、今日は少しだけ灯りの下へ出てきた。
月明かりの灯台はまだ閉鎖寸前の古い塔で、帳簿は相変わらず穴だらけで、港の裏では誰かが祈紙を抜いている。
それでももう、この町は灯台をただの役立たずとは思えなくなっていた。
怖い男がいる。
でも、その怖さは、いざという時に前へ立つためのものだ。
そんなふうに、町の見え方が一歩だけ変わる。
変わったものは、案外、簡単には元へ戻らない。




