第4話 あなたを許さない
赤い薔薇の芽が出た翌々日の朝、月明かりの灯台には、海鳴りより先に杖の音が届いた。
石段を一段ずつ上がってくる音だった。
乾いた木が石を打つ、細く硬い響きである。配達帰りのケイデンスなら走る。ズベタなら二段飛ばしで来る。シヴは足音を立てない。だから、チャトリンは受付台に頬杖をついたまま首をかしげた。
「お客さんでしょうか」
「音が重い」
と、書類の束を結び直していたシャシル。
「重いお客さんですか」
「年を取っても急がない人間の音だ」
「そういう聞き分け方あるんですね」
扉の前に現れたのは、小柄な老女だった。
灰色の外套は潮で縁が白くなり、持っている籠は空に近い。けれど背中だけは曲がっていなかった。片手に杖、もう片手に古い布包みを抱え、灯台の看板を見上げる目に迷いがない。
チャトリンが立ち上がるより早く、老女は受付台の前まで来た。
それから、祈紙を一枚、きっちり四つ折りにしたまま置いた。
「受けるのかい」
「受けます」
と、チャトリン。
「捨てられた願いでも」
「なおさらです」
老女はそこで、ようやくシャシルを見た。
怖い顔の男が奥で座っているのを見ても、眉ひとつ動かさない。
「じゃあ読むといい」
シャシルが紙を開いた。
あなたを許さない。
それだけが、太く、深く、紙を破る勢いで書かれていた。
短い。だが弱くはない。
願火は黒く濁ってはいなかった。怒りの熱があるのに、腐っていない。相手を呪い殺したいというより、忘れさせないために紙へ打ち込んだ文字だった。
チャトリンが息を止めた。
「これは……その、かなり、まっすぐですね」
「曲げて書くようなことじゃないからね」
老女は言った。
「灯台は、こういうのも預かるのかい」
シャシルは祈紙から目を上げた。
「相手は誰だ」
「契約役人セルデグ」
「死んでほしいのか」
「それで済むなら、二年前にそう願ってるよ」
老女の声には湿りがなかった。
泣き疲れて乾いたのではない。泣くより先に、毎日の暮らしが来続けた声だった。
チャトリンは慌てて水差しを寄せた。
「どうぞ。座ってください」
「薄いお茶はあるかい」
「お湯なら」
「ならそれでいい」
老女は腰を下ろした。
外套の裾から、補修した跡のある靴が見える。杖の柄は手の形にすり減っていた。長く使ってきた物だけが持つ艶である。
「話せ」
と、シャシル。
「紙一枚で済むことではなさそうだ」
老女は湯呑を手に取った。
熱さを確かめるように指を止め、それから、受付台の木目を見たまま口を開く。
「うちの人は、港で油縄と帆布を扱ってた」
「店を?」
と、チャトリン。
「店というほど大きくはないよ。倉の半分と、小船一隻。漁師に縄を渡して、破れた帆を繕って、冬は灯具の油を少し納める。そういう、小さい商いだ」
小さい、と老女は言った。
だが、その小ささで長く食ってきた者の言い方だった。胸を張るほどではない。けれど恥じてもいない。
「二年前、西の沖で見張り灯が三つ止まった」
老女は続けた。
「港は騒いださ。夜に船を出すな、修繕が終わるまで待てって。でもセルデグは違った。灯が止まってるから補修費がいる、補修費を立て替えるには協力契約が要る、協力契約を結べば今までの灯税の延納もまとめて面倒を見る、そう言って回った」
シャシルの眉がわずかに寄った。
「延納」
「そう。払うのを待つって話だった。うちの人は、春先に大口の取引が飛んでてね。漁が戻ればすぐ返せる額だと思って、紙に判を押した」
「その紙が、協力ではなかった」
と、シャシル。
老女は湯呑を置いた。
「判を押したその日から、請求の額が変わったよ。延納じゃなかった。利息のつく前貸しだった。しかも補修費だけじゃない。西岸の見張り灯全部の保守金の一部を、契約した家に割り振ってた」
「そんな配分、町の合意がなければ通りません」
チャトリンが言い、すぐ口をつぐんだ。自分で言いながら、通ったから今こうなっているのだと気づいた顔だった。
「合意なんてなかったさ」
老女は肩をすくめた。
「紙の文が長くてね。灯のこと、航路のこと、税のこと、補助金のことが、同じ頁に並んでた。読めなくはなかった。でも、読ませないために長くしてある文ってものはある」
シャシルは何も言わなかった。
そういう文を、彼も王都で見たことがあった。分からせるためではなく、黙って判を押させるための長さで書かれた紙だ。
「返せる額じゃなくなった」
老女は言った。
「倉の権利書を預けろと言われた。船にも差し押さえの話がついた。うちの人は焦った。昼の仕事だけじゃ追いつかないって、霧の濃い晩に荷を運ぶ便まで引き受けた」
受付の外で、波がひとつ砕けた。
朝なのに、急に冷えた気がした。
「その晩、帰らなかった」
老女はそこで初めて視線を上げた。
濁りのない目だった。泣いた跡はもう残っていないのに、その代わりに二年分の眠れなさが座っている。
「船は朝に見つかったよ。帆柱が折れて、縄が刃物みたいに切れてた。役所は書いたさ。自主出航。契約履行のための過積載。天候判断の誤り。本人の責任」
チャトリンが唇を噛んだ。
シャシルは老女の置いた布包みへ手を伸ばした。
「中身は」
「その時の紙だよ。契約書の控え、請求書、夫の手控え、役所へ出して戻ってきた陳情書。あたしは何度も持って行った。おかしいって。でも、戻ってくるたび同じ判が押してあった。審査済み。違法性なし。自己責任」
布をほどくと、紙の端から潮の匂いがした。
長く抱えていた書類の匂いである。角は丸くなり、折り筋は何度も開かれた跡で白く擦れていた。
シャシルは一枚ずつ広げた。
細かい文字。途中で書体の変わる条文。末尾に小さく追記された補則。たしかに、急いでいる商人へ読ませるための紙ではない。
「読めるか」
と、老女。
「字は読める」
「文は」
「気に入らん文だ」
その答えに、老女の口元が初めて少しだけ動いた。
笑ったのではない。笑う前に、あきれが来た顔だった。
「それなら話が早いね」
灯台の入口で、控えめに扉を叩く音がした。
チャトリンが振り向く。
「開いてます」
入ってきたのは、濃紺の外套を着た女だった。海風を避ける短い帽子を被り、手には革表紙の薄い手帳を持っている。靴の泥は少ない。崖道を上がってきたのに、裾の乱れ方が小さい。歩き方に無駄がないのだと分かる。
彼女は受付台の上の紙束を見るなり、帽子を取った。
「その契約書、見せていただけますか」
チャトリンの肩が飛び上がった。
「監査ですか」
「いまは違います」
女は答えた。
「元監査です」
その言い方のせいで、なおさら悪かった。
「私はレオンティナ」
女は老女へ軽く会釈した。
「港の下で、セルデグの名が聞こえたので上がってきました」
「聞き耳を立ててたのかい」
と、老女。
「立てていました」
レオンティナは否定しなかった。
「その名が出る書類を、私は三年ほど見続けてきました」
シャシルは彼女を見た。
「灯政院の人間か」
「でした」
「過去形だな」
「まだ首は繋がっていますが、好かれてはいません」
彼女はそこまで言ってから、契約書へ指を伸ばした。
許可を待つ動きだったので、シャシルは無言で一枚差し出す。
レオンティナは立ったまま読み、二頁目の余白で足を止めた。
「やはり」
「分かるのか」
と、シャシル。
「ええ。ここです」
爪の先で示したのは、本文ではなく頁の綴じ際だった。薄い灰色の線が一本、極端に細く引かれている。
「追補条項の差し込み線です。あとから頁を差し替えた契約に付く印で、この形式は西岸補修名目の前貸しに使われました。表では協力契約と呼び、裏では灯税担保付き貸付として処理する」
「同じ紙で?」
チャトリンが目を丸くする。
「同じ紙で」
レオンティナは頷いた。
「しかも、払えなくなった家の権利を素早く押さえるため、契約不履行の判断を港の役所ではなく灯政院の出先が先に出せるようになっている」
老女の指が湯呑の縁を強く握った。
「じゃあ、最初から取るつもりで」
「ええ」
レオンティナの声は低かった。
「返させるためではなく、払えなくなった後の物を取るための文です」
チャトリンの顔色が変わった。
「そんなの、もう詐欺じゃないですか」
「紙の上では合法に見えるよう整えてあります」
「見えるようって」
「見えるだけです」
シャシルは契約書を取り返すように持ち直した。
「証明できるか」
「原簿があれば」
と、レオンティナ。
「契約台帳、灯税の延納簿、補修費の配賦記録。その三つが同じ棚に入っているなら、ほぼ確実に」
「どこにある」
「港の役所の地下保管庫でしょう。西岸の出先は塩害で紙が傷みやすいので、台帳だけ石蔵へ移す決まりでした」
老女が鼻で笑った。
「移して隠したんだよ」
「結果としては」
レオンティナは認めた。
シャシルが立ち上がる。
椅子がひとつ音を立てた。
「行くぞ」
「いまからですか」
と、チャトリン。
「役所は朝一番がいちばん嫌そうな顔をする時間ですよ」
「ちょうどいい」
「よくないです」
それでも誰も止めなかった。
止めるより先に、老女が立ち上がったからである。
「私も行く」
「杖で階段を下りられるか」
と、シャシル。
「下りるために杖を持ってるんだよ」
結局、灯台を出たのは五人になった。
老女、シャシル、チャトリン、レオンティナ。そして崖道の途中で合流したエルケである。
港湾警備の詰所の前で、エルケは腕を組んだまま彼らを見た。
「朝っぱらから、ぞろぞろどこ行く」
「役所」
と、シャシル。
「嫌な予感しかしねえ答え方するな、おまえ」
エルケの目が老女へ移る。
その顔を見た途端、警備の男は舌打ちを飲み込んだ。
「……あんた、また行くのか」
「まただよ」
老女が言う。
「今度は一人じゃない」
エルケは頭を掻いた。
迷った顔をしたあと、詰所の若い見張りへ短く何か言い置き、自分も歩き出す。
「勝手に殴るなよ」
「必要なら殴る」
と、シャシル。
「必要なしで頼む」
港の役所は、魚市場の裏手にある古い石の建物だった。
表の窓は朝の日を受けているのに、中は薄暗い。戸口には港税、停泊許可、灯税相談と書いた札が並び、どれも同じ色に埃をかぶっていた。
受付にいた若い書記は、老女の顔を見て露骨に困った。
「ええと、前回も申し上げましたが、過去の契約については——」
「原簿を見る」
シャシルが言った。
「閲覧許可を」
「許可は取っていない」
「じゃあできません」
「では責任者を呼べ」
書記は呼びに行った。
戻ってきた責任者は、髪をきっちり撫でつけた中年の男で、顔色だけがすでに悪い。老女を見る前にレオンティナを見て、その次にシャシルを見て、表情をひとつ諦めた。
「本日はどういった」
「契約台帳、灯税延納簿、補修費配賦記録の閲覧です」
と、レオンティナ。
「案件名はセルデグ立会いの西岸補修協力契約。二年前、春の第二月から夏の第一月にかけて」
責任者の目が細くなる。
「外部の方に開示できる書類ではありません」
「彼女は当事者です」
レオンティナは老女を示した。
「加えて私は元灯政院監査官として、書式の不一致を確認済みです」
「元、でしょう」
「ええ、元です。ですから私の言葉だけでは足りません。紙を見せてください」
責任者は曖昧な笑みを作った。
「古い保管庫は湿気が強く、整理にも時間が」
「鍵を」
と、シャシル。
「いまの話を聞いていたか」
「聞いています。だからこそ規則が」
その時、老女が杖で床を打った。
「規則の話をするときだけ、あんたらは元気だね」
役所の表が静まり返る。
市場から運ばれてきた魚籠の音だけが、扉の外を通り過ぎた。
「うちの人が死んだ朝もそうだったよ」
老女は言った。
「自主出航だ、契約履行だ、規則に則ってるだってね。私はあの日から二年、あんたらの規則を聞いてる。今日は紙を見せな。そうでなきゃ、また誰かが同じ文で首を括る」
責任者は唇を引き結んだ。
答えの代わりに、目だけで書記へ合図する。だが若い書記は動かなかった。老女の声が想像より重かったのだろう。
エルケが一歩前へ出た。
「港湾警備として言っとく。揉め事の火種を放っとくほうが面倒だ。見せて終わるなら見せろ」
責任者はそこで初めて、完全に追い詰められた顔をした。
「……地下です」
案内された石蔵は、役所の裏手へ回った先にあった。
階段は湿り、壁の隙間に塩が吹いている。棚は多いのに通路が狭く、人一人が帳簿を抱えてすれ違うのがやっとだった。
責任者が奥の扉を開けようとして、眉をひそめた。
「引っかかっている」
「鍵は」
「回るんですが、内側から何か」
シャシルが前へ出た。
「下がれ」
「いや、壊されると困り」
言い終わる前に、扉が開いた。
蹴ったのではない。蝶番ごと抜いたのだ。乾いた金属音が二度鳴って、重い扉がシャシルの片手に乗る。責任者は目を見開き、チャトリンは額を押さえた。
「壊してるじゃないですか」
「開いた」
「意味の問題じゃないです」
だが中は見えた。
通路を塞いでいたのは、倒れた台帳棚だった。紙束が雪崩れている。人の力でもどけられなくはないが、半日は潰れる量である。
シャシルは扉を壁へ立て掛け、そのまま棚の端を持ち上げた。
「どの段だ」
「い、いちばん奥の左」
責任者が答える。
棚がずり、と持ち上がる。
紙が滑り、埃が舞い、通路ができた。レオンティナが袖口で鼻を覆いながら中へ入り、奥の棚から三冊の分厚い台帳を抜いた。
「ありました」
石蔵の外へ出て、役所の裏庭の荷台を即席の机にした。
朝日が少し回ってきて、紙の上へ斜めに差す。レオンティナは契約控え、延納簿、配賦記録を横へ並べ、頁を開いていった。指の動きが速い。けれど雑ではない。必要な行だけ、迷いなく拾っていく。
「ここです」
最初に止めたのは延納簿だった。
「この家は本来、春の第二月に二割延納で済む額です。ところが同じ日に、別冊の補修費配賦記録で西岸外周灯三基分の補修負担が足されています」
「なんで一軒に三基も」
と、エルケ。
「町内の割り振りが恣意的だからです」
レオンティナは言った。
「本来は組合か評議で決めるべき所を、契約ごとに個別計上している。払えなくなればその家だけが悪く見える」
彼女は次に契約台帳の綴じ目を開いた。
裏から見ると、糸が一度切られて結び直されている。
「差し替えです。しかもこの頁だけ、紙質が新しい」
「追補条項があとから入ったのか」
と、シャシル。
「はい。担保の範囲と、履行不能時の権利移転条件が後付けです」
「そんなことが通るのか」
チャトリンが声を上げる。
「通したのです」
レオンティナの声は冷えていた。
「通るはずがないものを、通した」
老女はじっと紙を見ていた。
自分が二年抱えてきた違和感が、ようやく文として姿を持った顔である。
「じゃあ、うちの人は」
「騙されています」
レオンティナははっきり言った。
「少なくとも、この契約は対等な同意ではありません」
責任者が青ざめた。
「しかし、その、当時の処理は前任の」
「あなたは何年ここに」
と、レオンティナ。
「二年半、です」
「なら少なくとも、異常な差し替え頁のある契約を保管し続けています」
責任者は黙った。
シャシルは別の束から、薄い小さな台帳を抜いた。
帳面というより、配送控えのような造りだ。表紙には、基準外民願仮置と書いてある。
「これは何だ」
レオンティナが一瞬だけ目を止めた。
「……それもあったのですね」
「知っているのか」
「存在だけは」
彼女は頁をめくった。
町ごとの欄に、紙束の数と重量が記されている。月明かりの灯台の欄にも、いくつか数字があった。軍需転用可否の判定欄は空白だが、備考には王都再分類待ちとある。
「祈紙だ」
チャトリンが呟いた。
「価値なしで抜いた祈紙の束……」
シャシルの背中の空気が変わった。
役所の裏庭にいた全員が、それを感じた。
「契約と同じ棚に入れる物ではないな」
「ええ」
レオンティナは答えた。
「入れてはいけません。税も契約も祈紙も、本来は流れが別です。別のはずなのに、ここでは同じ時期、同じ印で動いている」
彼女は帳面の隅に押された小さな記号を指した。
灯芯のような形の中に七と刻まれている。
「この印は、西岸七番便。基準外祈紙を王都側の再活用倉へ送る便に使われた記号です」
「再活用」
シャシルの声が低くなる。
「燃やすのではなく、回しているのか」
「その可能性が高いです」
老女が顔を上げた。
「じゃあ、うちの人に払えと言っていた灯の金は」
「少なくとも一部は、補修そのものには使われていません」
レオンティナは答えた。
「灯が止まる。慌てた家へ紙を押させる。払えなければ物を取る。その一方で、基準外とした祈紙は別便で上へ流す。……綺麗なやり方ではありません」
エルケが小さく舌打ちした。
「綺麗どころか腐ってるだろ」
しばらく、誰も言葉を継げなかった。
海鳥の声だけが高く聞こえる。市場の喧噪はすぐ向こうにあるのに、この荷台のまわりだけ別の朝みたいに静かだった。
やがて老女が、布包みの奥から一枚の紙を取り出した。
それは契約書ではなく、もっと薄い、普段の祈紙だった。
「これも返されたよ」
開くと、拙くはないが急いだ字で、こう書かれていた。
倉を取られずにすみますように。
署名はない。
だが老女は言った。
「うちの人の字だ」
チャトリンの喉が鳴った。
シャシルはその祈紙を両手で持った。願火はもうほとんど残っていない。それでも紙には、当時の切迫だけが乾いて張りついている。
「出していたのか」
「灯台が止まる前にね」
老女は言った。
「たぶん、届かなかったんだろうと思ってた。でも届いたんだね。届いて、価値なしで戻された」
シャシルの指先が、ほんの少しだけ紙の端を押した。
怒っている時の癖だった。だが今日は破らない。破れば、書いた本人の最後の頼りも切れる気がしたからだ。
「セルデグは今どこだ」
「王都へ戻ったよ」
責任者が小さく答えた。
「昨年の冬に」
エルケが眉をひそめる。
「逃げ足だけは早えな」
シャシルは責任者を見た。
「この記録は写せるか」
「規則上は」
「写せ」
責任者が言い淀むのを見て、老女が先に口を開いた。
「私はあの男を許さないよ」
声は大きくなかった。
けれど荷台の上の紙より重かった。
「許さない」
老女はもう一度言う。
「うちの人が寒い晩に船を出したことも、帰ってこなかった朝も、あの男が机の向こうで肩をすくめた顔も、私は死ぬまで許さない。だけどね」
そこで、彼女は祈紙を持つシャシルを見た。
「憎しみだけで、あの人の名を覚えていたくないんだよ」
チャトリンが息を呑んだ。
レオンティナは目を伏せた。エルケは視線を外し、役所の石壁を睨んだ。責任者だけが、自分の靴先を見ていた。
「自己責任って書かれたまま終わるのは違う。あの人は馬鹿じゃない。強欲でもない。暮らしを繋ごうとして、あんたらの長い文に巻かれただけだ。だからまず、名前を戻したい。死んだ理由を、嘘じゃない文にしておきたい」
レオンティナが顔を上げる。
「できます」
「本当にかい」
「暫定記録の注記と、証憑の封緘をここで」
彼女は責任者へ向き直った。
「港役所保管のままでは改竄の疑いが残ります。警備立会いで複写を取り、一部を月明かりの灯台へ保全。一部を西岸評議へ提出。異議があるなら、あなたの名前で拒否を書いてください」
責任者の顔色がさらに悪くなった。
だがエルケが横から言う。
「書けよ。俺が見届ける」
結局、拒否は書かれなかった。
役所の書記たちが荷台をもう一つ運び出し、紙と筆と封蝋が並べられた。レオンティナが文面を作り、責任者が震える手で写し、エルケが立会欄へ署名する。シャシルは一歩も離れず見ていたので、途中で誰も余計な線を足せなかった。
注記の一行は短かった。
当該契約は追補条項差し替えの疑いあり。対等な同意の成立に重大な疑義を認む。事故記録は再審査中とする。
たったそれだけだった。
けれど老女は、その紙が乾くまで立ったまま見ていた。
「名前も」
彼女が言う。
「そこに、夫の名も」
レオンティナは頷き、元の記録欄に載っていた名を静かに写した。
ベルノ・ラージェ。
老女はその文字を指でなぞらなかった。
触れば消えそうで、ただ見た。
「ベルノさん……」
チャトリンが小さく読んだ。
老女は、ほんの少しだけ目を閉じた。
泣きそうな顔ではない。やっと呼吸が一回深く入った人の顔だった。
昼近くになって、複写は三部できた。
一部は役所に残る。一部はエルケが警備詰所へ持つ。一部は月明かりの灯台で預かる。その最後の一部を、シャシルは自分の手で布へ包み直した。
「預かる」
「落とすんじゃないよ」
老女が言う。
「落としたことはない」
「上役には噛みついたくせに」
「紙は落とさない」
その返しが少しだけおかしかったのか、老女は鼻を鳴らした。
笑いとまではいかない。それでも朝よりは顔がほどけていた。
役所を出る前、彼女は受付の脇にある祈紙箱へ一枚の紙を入れた。
今度は誰にも見せずに入れたので、チャトリンも黙って受けた。
石段を下りる彼女の背を見送りながら、シャシルが言う。
「何を書いた」
「見たいのかい」
「必要なら」
「必要ないよ」
老女は振り返らず、杖を鳴らした。
「さっきのより、少しましな文だ」
昼の海は朝より青かった。
市場の声も戻っていたのに、灯台へ戻る坂道では誰も軽口を叩かなかった。抱えた紙の重さが、腕より先に頭へ来ていたからだろう。
それでも、崖の途中で最初に口を開いたのはチャトリンだった。
「レオンティナさん」
「はい」
「元監査官ってことは、帳簿、ものすごく読めますよね」
「読めます」
「うちの灯台の帳簿は」
「あとです」
即答だった。
チャトリンが顔を引きつらせる。
「先にそこなんですね……」
「死んだ人の記録のほうが先です」
レオンティナは平然と言った。
「あなたの帳簿は逃げません」
「逃げてほしい」
エルケが横で吹き出した。
「それは無理だろ」
月明かりの灯台へ戻ると、裏庭ではブラルが薔薇の苗床の熱具を調整していた。チュバイロフはいつの間にか石段の欠けを埋めている。彼らは大勢で戻ってきた顔ぶれを見て、何かあったとすぐ察した。
「帳簿の顔ですね」
と、ブラル。
「もっと悪い」
と、チャトリン。
「国の顔です」
灯台の食卓に複写を広げると、ブラルは眼鏡を押し上げ、チュバイロフは黙って椅子を一つ増やした。レオンティナは立ったまま、祈紙の配送控えを皆へ見せる。
「ここに載っている町は、月明かりの灯台だけではありません」
彼女は頁をめくった。
「西岸の小灯台、湾奥の祠灯、河口の見張り火。どこも同じ時期に、基準外民願の名目で束が抜かれています」
ブラルの指が数字を追う。
「これ、補修費の不足が出た月と重なってますね」
「ええ」
レオンティナは答えた。
「灯が弱る。地方は焦る。契約を急がせる。祈紙は別便で上へ送る。少なくとも西岸では、その流れが繰り返されています」
「上で何に使ってる」
シャシルが問う。
レオンティナは一瞬だけ黙った。
「確証はまだありません」
「推測は」
「再活用倉の先です。兵器炉か、大規模結界の補助炉か、あるいはその両方」
食卓の空気が沈んだ。
誰も声を荒げなかったのは、数字が静かすぎて、かえって怒鳴る余地がなかったからかもしれない。
チャトリンがぽつりと言う。
「小さい願いって、役に立たないから捨てられてたんじゃないんですね」
「役に立つから抜かれていた」
シャシルが答えた。
その言葉に、ブラルが顔をしかめた。
チュバイロフは無言のまま、複写の角へ文鎮を置く。紙が風でめくれないようにする、ごく当たり前の手つきだった。
夕方、老女が役所の祈紙箱へ入れた一枚が、ケイデンスの手で灯台へ届いた。
配達娘は階段を駆け上がり、はいこれ、とだけ言って去っていった。中身までは聞いていないらしい。その遠慮が、今日はありがたかった。
チャトリンが静かに開く。
夫の名が、嘘の文に埋まりませんように。
さっきの紙より、少しましな文。
たしかにその通りだった。
シャシルはその祈紙を受領箱へ入れず、いちど掌に載せた。
薄い紙なのに、朝の祈紙よりずっと重かった。
「許さない、か」
誰に言うでもなく出た声だった。
チャトリンは向かいから彼を見たが、茶々は入れなかった。レオンティナも訂正しない。灯台の中で、その言葉はただの怒りではなく、逃がさないための形になり始めていた。
夜、短冊庫の壁に新しい棚が一つ増えた。
チュバイロフが余り板で組んだ、幅の狭い頑丈な棚である。そこへ複写帳簿が並び、レオンティナが小さな札を書いて貼った。
西岸契約関係控。
実に味気ない札だった。
だが、その味気なさがかえってよかった。怒りに任せた飾り字ではなく、あとで誰が見ても同じ意味になる字だったからだ。
「今日はここまでです」
レオンティナが言う。
「ここまで?」
チャトリンが聞き返す。
「まだ始まったばかりです」
彼女は灯台の奥、短冊庫のさらに向こうを見た。
そこには、まだ整理されていない祈紙の山も、読まれていない控えも、壊れたままの古い棚もある。町ひとつ分どころか、西岸じゅうの時間が積もっていた。
「一人分の名前が戻っただけです」
レオンティナは続けた。
「他にもいるでしょう」
「いる」
シャシルが答える。
「なら、全部見る」
短い言葉だった。
けれど、その場にいた全員が、冗談ではないと分かった。
灯台の外では、港の夜がまた始まっていた。
食堂から鍋の匂いが上がり、花屋の窓には空の花瓶がまだ置かれたまま見える。崖の下の町はいつも通りの夜へ戻ろうとしているのに、月明かりの灯台の中だけは、戻れない場所まで来てしまった気配があった。
それでも、受付台の上には新しい祈紙が置かれている。
明日、魚が売れますように。
妹と仲直りできますように。
薔薇の芽が寒さに負けませんように。
小さい願いばかりだった。
だからこそ、もう誰にも勝手に紙屑とは呼ばせない。




