第3話 赤い薔薇と金のない灯台守
翌朝、月明かりの灯台の食卓には、黒パンと薄い豆の煮込みと、机いっぱいに広げられた帳簿が並んでいた。
朝食の顔ぶれとしては、かなり最悪だった。
チャトリンは椅子の端に浅く腰かけ、匙を持つ手もどこか頼りない。向かいではシャシルが帳面を一冊ずつ開いては閉じ、開いては閉じている。閉じるたびに木の机が重く鳴り、煮込みの表面がびくりと揺れた。
「その、冷めますよ」
「すでに冷めている」
「帳簿の話じゃなくて朝ご飯のほうです」
「どちらも冷めている」
「うまいこと言った顔をしないでください。ぜんぜんうまくないので」
チャトリンは言ったものの、自分でも黒パンをちぎる気力がなかった。
帳簿のひどさは、昨夜の時点で分かっていた。だが、朝の光で広げると、さらにひどい。修繕費の控えはあるのに請求印がない。謝礼の受け取り欄には、受領者の名がない。貸し出した古い灯具の一覧はあるのに、返却日の列が途中から魚の買い物メモに侵食されている。しかも数字の半分が、チャトリンにしか解読できない独自の省略記号だった。
「この丸は何だ」
「たぶん、払う予定です」
「たぶんとは」
「払ってもらえそう、の丸です」
「では、この二重丸は」
「すごく払ってもらえそう、の丸です」
「払ってもらえていない」
「はい」
「なぜだ」
「追いかける前に別の紙が来るからです」
「追いかけろ」
「おっしゃる通りです」
シャシルは黙って次の帳面を開いた。
めくった先に、修繕費、緊急誘導謝礼、仮灯具貸与費、港倉庫片づけ手当と、金になる字面が並ぶ。合計額をざっと見ただけで、薔薇の苗も土も、ついでに灯台の割れた窓も直せる額だ。
「金がないのではないな」
「はい」
「回収していないだけだ」
「はい」
「俺は昨日、おまえが本気で貧しいと思っていた」
「灯台は本気で貧しいです。ただ、貧しい原因の半分くらいが私です」
「半分で済むか」
「七割」
「正直だな」
「怒られる前に自分で言っておけば、少し軽くなる気がして」
「ならん」
きっぱり返され、チャトリンは煮込みの豆をひとつ潰した。
けれど、怒鳴られはしなかった。
シャシルは帳簿を閉じると、黒パンを一口で半分食べ、立ち上がった。
「町を回る」
「いまからですか」
「願いは受けた。今日やる」
「薔薇のために」
「灯台のためにもだ」
「交渉、できます?」
「できる」
「力ずくではなく?」
「必要ない」
「本当ですか」
「おまえは俺を何だと思っている」
「扉を一枚外したことがある人」
「一枚だけだ」
「数えられるぶんだけ安心しました」
チャトリンも慌てて立ち上がり、帳簿を抱えた。
その拍子に、机の端に置いてあった未払い票がばらばらと床へ落ちる。彼女はしゃがみ込みながら、うわ、と小さくうめいた。拾い集めた紙の一枚に、港倉庫西棟、排水修理、受領未了とある。
「西棟の排水、私じゃなくてチュバイロフさんが直したんです」
「誰だ」
「修繕人です。頼まれると無言で来て、直して、無言で帰る人」
「頼れるのか」
「すごく。請求だけしないんです」
「最悪だな」
「はい。最悪がたくさん集まって月明かりの灯台なんです」
「おまえも入っているぞ」
「知ってます」
崖道を下りる時には、海から湿った風が上がってきていた。
港町は昨日よりも、ほんの少しだけ灯台を見る目を変えている。朝の魚市場では、荷を下ろす男たちの間に「猫を拾った灯台の男」という言葉がすでに行き渡っていた。怖い顔のまま網の山をまたぐシャシルを見ても、今朝は誰もあからさまに逃げなかった。
最初に向かったのは港の倉庫群だった。
木の札に西棟と書かれた建物の前には、昨夜の潮で濡れた樽が積まれ、床板の隙間からまだ水気が上がっている。帳簿によれば、冬の嵐のあと、排水溝が詰まって荷が腐りかけた時、灯台側が応急修理を手伝った。その謝礼が払われていない。
番小屋から出てきた倉庫番の男は、シャシルを見るなり足を止めた。
「……何の用だ」
「未払いの確認だ」
と、シャシル。
「灯台の」
「もう払ったはずだ」
と、倉庫番。
「払っていない」
「帳簿を見ろ」
「見た」
「いや、こっちの帳簿をだ」
倉庫番は言い返しながらも、視線はシャシルの肩越しを泳いでいた。そこへ、チャトリンが小走りで追いつく。
「ええと、去年の霧月六日です。西棟の排水修理。樽三十本分の荷が助かって、謝礼銀貨八枚」
「そう、それ」
「受領印がありません」
「忙しかったんだ」
「忙しくても銀貨は動きます」
「痛いところを言うなあ」
倉庫番は頭をかいた。
その仕草に、誤魔化しよりも後ろめたさが先に見えたので、シャシルは一歩も詰めなかった。
「払えないのか」
「払えないわけじゃない。払う先が、ふわふわしてたんだよ」
「ふわふわ」
「灯台、正式な守り手いないだろ。請求書は届かないし、受け取る人間もいないし、でも急ぎの時だけは来てくれて、気づくと直ってるし……」
倉庫番はそこで、チャトリンを見た。
「おまえさん、請求に来なかったじゃないか」
「行こうとしたんです」
「しただけか」
「雨が降って」
「雨は関係ない」
「そのあと、短冊庫の整理が」
「余計に関係ない」
シャシルの声に、チャトリンがしゅんと肩を落とす。
倉庫番はため息をつき、番小屋へ引っ込んだ。しばらくして、銀貨の入った革袋を持って戻ってくる。数は八枚きっちりだった。袋の口を縛り直しながら、彼は気まずそうに言った。
「踏み倒す気はなかったんだ」
「次は先に払え」
と、シャシル。
「そうだな。……それと、排水を直したの、あの無口な兄ちゃんだろ。あいつにも礼を言っといてくれ」
「チュバイロフさんですね」
と、チャトリン。
「そう、その人。言っといてくれ。西棟が持ったの、あの人のおかげだ」
第一の回収は、拍子抜けするほど素直に終わった。
革袋の重みを手にしたチャトリンは、石畳の真ん中で立ち止まり、しばらく無言だった。
「なんだ」
と、シャシル。
「いま、お金って、音がするんですね」
「するだろう」
「灯台の帳簿の中では、数字でしか見てなかったので」
「現物を見ろ」
「はい……なんか、急に生々しい」
「生きるのに使うからだ」
その言葉で、チャトリンは銀貨袋を胸に抱えた。
薔薇の苗も、土も、灯台の修繕も、こういう重さの中に入っているのだと、やっと顔に出ていた。
二件目は、港の古道具商だった。
貸し出し灯具三基、返却遅延、整備料未払い。
帳簿だけ見れば揉めそうな相手だったが、店先へ行くと、話は別の形でこじれていた。店の前に、壊れたランプや錆びた金具や曲がった煙突管が山になっている。その山のてっぺんで、若い男が頭を突っ込み、半身だけ見せていた。
「ブラルさーん」
と、チャトリンが呼ぶ。
「いま、手が離せない!」
山の中から声が返る。
「体も離せてませんね」
「見れば分かる!」
ごそごそと金属が鳴り、ようやく現れたのは、煤まみれの頬に眼鏡をずらした若い工匠だった。袖をまくった腕には油と煤が筋になってつき、耳の後ろへ差した鉛筆はいつ落ちてもおかしくない角度で止まっている。
「おお、灯台。昨日の猫騒ぎの主犯と聞いた」
「主犯ではない」
と、シャシル。
「いや、主犯だろ」
と、チャトリン。
「それで、今日は?」
「貸し出し灯具の件です」
「返すの忘れてた」
「返してください」
「整備中なんだよ。あれ、古いくせに芯の噛み合いが面白くてさ。ほら、この旧式の反射板、熱が外へ逃げすぎるだろ。逆に言うと、苗床を温めるにはちょうどいい」
「苗床?」
と、シャシル。
「赤い薔薇を育てるんだ」
と、チャトリン。
「ほう」
ブラルの目がそこで急に明るくなった。
「それなら話が早い。灯具の廃熱、使えるぞ。反射板の向きを変えて、硝子を一枚足せば、小さな温室くらいは作れる」
「できます?」
「やる前から無理とは言わない主義だ」
「金は」
と、シャシル。
「少しでいい。古材はその辺にある。あとは、灯台に眠ってる使ってない棚板を一枚借りたい」
「使ってない棚板なら山ほどあります」
「その山を先に片づけろ」
と、シャシル。
「それはその通りです」
ブラルは笑いながら、店の奥からランプ三基を抱えてきた。どれも磨き途中で、硝子は外され、芯箱が分解されている。
「整備料の請求、あとでまとめてくれ」
「あとででは遅い」
「真面目だなあ」
「灯台は金がない」
「知ってる。だから、こっちも少しは先に動く。薔薇の苗床、手伝う」
「見返りは」
「完成したら、旧式監査灯を一度だけ見せてくれ」
「監査灯?」
と、チャトリン。
「灯台の倉庫の奥に転がってる、異様に眩しいやつ。あれ、失敗作扱いだけど、構造が変なんだよ。気になって仕方ない」
「あとで見せる」
と、シャシル。
「よし、契約成立」
勢いだけで結んだように見えたが、ブラルはその場で灯具三基の整備料と、返却遅延の詫びとして小銀貨まで出した。帳簿より実物と構造を信用するタイプらしい。チャトリンはその受領印を押す手元を、まじまじ見ていた。
「印って、本当に押してもらえるんですね」
「おまえはそこからなのか」
と、シャシル。
「だって、灯台では紙だけ増えていくので」
「増やすな」
昼近く、二人は海辺の引き揚げ場へ向かった。
ズベタがいるのは、波打ち際から少し上がった、流木と古い網の山のあいだだった。嵐のあとに流れ着いたものや、使えなくなった船材を引き揚げては選り分ける場所で、塩と藻と鉄の匂いが混ざっている。
ズベタは腰まである長靴で浅瀬に入り、流れ着いた木箱をひとりで引きずっていた。細い体に見えるのに、引き方が妙にうまい。てこの角度を知っている手つきで、波に戻ろうとする箱をあっさり岸へ寝かせる。
チャトリンが声をかける前に、女は振り向いた。
「灯台」
「早いですね」
「そりゃそうだろ。崖の上から目立つ顔が下りてくりゃ、海鳥でも気づく」
言いながら、ズベタはシャシルを上から下まで見た。
怖い顔を見ても怯える様子がない。値踏みしているというより、役に立つ重さかどうか量っている目だった。
「で、今日は何を拾いに来た」
「土です」
と、チャトリン。
「いきなりだな」
「赤い薔薇を咲かせたい願いが来て」
「へえ」
ズベタは長靴の先で、浜の上に盛った黒土の山をつついた。
「崖下の潮抜け洞の脇に溜まる土だ。海の塩をかぶりにくい。根の強い草が育つ。花向きかどうかは知らないが、痩せ土よりはましだ」
「それ、もらえますか」
「運べるならな」
「いくらです?」
「灯台からは取らん」
「でも」
「代わりに、前に貸した滑車がまだ返ってきてない。倉庫の誰かが抱えたままだ」
「……帳簿にあります」
チャトリンが小声で言った。
「ありますが、回収に行けてません」
「じゃあ、回収して来い。それで貸し借りなしだ」
話が早い。
シャシルは土の山へ視線をやった。黒く、細かく、指で触ればしっとりまとまりそうだ。良い土かどうかは分からない。だが、ズベタがわざわざ別に寄せている時点で、使えるものなのだろう。
「運ぶ」
彼が言うと、ズベタは片眉を上げた。
「ひとりでか」
「足りないか」
「足りる足りないの前に、試すか?」
次の瞬間、ズベタは足元の木箱をひょいと蹴り起こした。片側に縄が通してある。土運び用の簡易橇だ。彼女はそれをシャシルの足元へ寄せると、にやりとも笑わずに言った。
「無敵オーラの灯台守って聞いた。なら、町に見せとけ。怖いだけじゃなく、土も運べるってな」
チャトリンが吹き出しかけた。
シャシルは何も言わず、橇を持ち上げた。
結果から言えば、土の山はその日のうちにほとんど灯台へ移った。
最初の一往復で済む量ではない。だがシャシルは、縄を肩へ掛け、崖道を黙々と上った。橇が石段に引っかかれば持ち上げ、角で傾けば手で押し戻し、息もほとんど乱さない。通りがかった洗濯女が立ち止まり、魚市場帰りの男たちが口を半開きにし、子どもたちは途中から「がんばれ無敵オーラ」と勝手に囃し始めた。
「やめろ」
と、シャシルは一度だけ言った。
「頑張ってるのは認める!」
と、子どもが返す。
「褒め方が雑ですね」
と、横を走るチャトリン。
「止めろ」
「私に言われても」
灯台の裏庭では、チュバイロフがすでに無言で待っていた。
誰に呼ばれたのかと尋ねれば、答えは単純だった。倉庫番が「灯台が今度こそ金を払いに来た」と町で話し、それを聞いた誰かが「なら土を運ぶならチュバイロフだ」と口にし、その話が本人の耳へ入ったらしい。
チュバイロフは背の高い男で、日焼けした首に古い傷が一本走っていた。作業着の袖はきれいに折られ、手にはもうスコップがある。無駄口はなく、挨拶の代わりに一度だけ顎を引いた。
「排水修理の謝礼、回収した」
と、シャシル。
「……そうか」
短い返事だった。
「受け取れ」
革袋から銀貨を出すと、チュバイロフは数えもせず受け取った。受け取ったあと、土の山を見る。
「で、ここへ薔薇か」
「頼めるか」
「畝を作る。水が溜まらないようにする」
それだけ言って、もう作業に入った。
スコップの入れ方が静かだった。必要以上に土を跳ねさせない。灯台裏の痩せた地面に溝を切り、海風を正面から受けすぎない角度で土を盛る。見るからに、何度も失敗してきた手つきだ。言葉より先に、やり直した回数が分かる。
午後にはブラルも来た。
灯具の反射板と古い硝子、棚板、どこから持ってきたのか細い銅管まで抱えている。
「薔薇の苗床って、つまり火加減の問題なんだよ」
彼は裏庭へ着くなり言った。
「人間が寒いと思う夜に、根も寒い。なら、灯具の熱を少しだけ借りる」
「燃えないのか」
と、シャシル。
「燃やしたら失敗だ。そこは腕の見せどころ」
「説明が雑ですね」
と、チャトリン。
「詳しく話すと長い」
「長く話してください。私はいつも途中で紙が足りなくなるので」
「それはおまえの管理の問題だろ」
と、シャシル。
気づけば、灯台裏はちょっとした工房みたいになっていた。
ズベタの土。チュバイロフの畝。ブラルの苗床。チャトリンは帳簿を抱えたまま、水差しを運び、紐を結び、受領印を押し、時々手伝ったつもりで邪魔をして怒られた。シャシルは重いものを全部持ち上げ、邪魔な石をどけ、壊れた柵を抜いて打ち直した。
その働きぶりを、崖下からシヴが見ていた。
夕方、店を閉めた帰りらしい。前掛けのまま石段を上がってきて、裏庭の端で足を止める。整えられた畝、硝子を渡した小さな苗床、風よけに組まれた板壁を見て、しばらく何も言わなかった。
「本当にやってる」
やがて、そうこぼす。
「受けた」
と、シャシル。
「受けたからって、ここまでやる?」
「やる」
「灯台なのに」
「願いは来た」
「便利な言葉ね、それ」
シヴはしゃがみ込み、土を指でつまんだ。
黒土をこすり、湿り気を見る顔が、花屋のものに変わる。
「悪くないわ」
「足りるか」
「最初は十分。苗さえあれば」
そこで彼女は、自分の持ってきた布包みを開いた。
中から出てきたのは、小さな木箱だった。乾いた苔にくるまれた、細い挿し木が三本。
「最後の株から、切っておいたの」
と、シヴ。
「駄目になるつもりで切ったんじゃない。戻せるなら戻したいと思って、でも自分の裏庭じゃもう無理だったから」
「預かる」
と、シャシル。
「預けるわ」
その受け渡しだけで、裏庭の空気が少し変わった。
願いが紙から苗へ、言葉から手触りへ移った感じがあった。
植え付けは、日が落ちる前に済ませた。
チュバイロフが穴を掘り、シヴが根の向きを直し、チャトリンがそっと土を寄せる。ブラルは苗床の灯具へ火を入れ、熱が強すぎないか何度も硝子の内側へ手をかざした。ズベタはいつの間にか追加の土袋を二つ置いて帰っていた。誰もそれを大げさに言わない。必要だから置いた、という顔の土だった。
最後に水をやる役だけ、なぜかシャシルへ回ってきた。
「俺か」
「受けた人なので」
と、チャトリン。
「顔がいちばん怖いから、薔薇もしゃんとするかも」
と、ブラル。
「花に失礼」
と、シヴ。
「失礼ですよね?」
と、チャトリン。
だが、誰も水差しを引っ込めないので、シャシルは黙って受け取った。
細い挿し木にかける水は、潮霧の町では意外に重い。
根のまわりへ静かに染みていく様子を見ていると、斬るより、持ち上げるより、壊れた扉を外すより、よほど手加減が必要なのだと分かった。
「強すぎます」
シヴが言った。
「少しだけ」
「これで少しだ」
「戦場の話はしてません」
「……分かった」
ほんの少し、水の筋が細くなる。
それを見て、チャトリンが吹き出した。
「なんだ」
「いえ。シャシルさんにも、少し、って分野があるんだなと思って」
「ある」
「さっきまで土の山を三つ運んでましたけど」
「必要だった」
「その理屈で全部進むんですよね」
「そうだ」
「知ってました」
植え付けが終わるころには、空が紫に沈んでいた。
灯台の白壁にも長い影が伸び、港のあかりがひとつずつ点る。裏庭の小さな苗床だけが、ブラルの細工した灯具の熱でほのかに赤く見えた。
その夜から、灯台には新しい日課ができた。
朝、チャトリンが葉の様子を見る。
昼、ブラルが熱を調整しに来る。
夕方、シヴが店の帰りに寄る。
チュバイロフは何も言わず排水を見て、土が流れていないか確かめる。
ズベタはたまに土袋を増やしていく。
そしてシャシルは、毎日一度、水差しを持つ。
その手つきが少しずつましになっていくのを、チャトリンは毎回見逃さなかった。
「最初より上手です」
「そうか」
「薔薇、怖がってません」
「花に感情があるのか」
「あるかもしれません」
「なら俺を嫌っている」
「それはないです。嫌ってたら、とっくに枯れてます」
五日目の朝、最初の芽が出た。
ほんの小さな緑だった。
黒土の割れ目から、まだ頼りない先が覗いているだけで、見落とせば石の欠片と思うかもしれない。けれど、チャトリンは悲鳴みたいな声を上げ、灯台の階段を駆け下り、裏庭で朝の点検をしていたシャシルの腕をつかんだ。
「出ました!」
「何が」
「芽です!」
「落ち着け」
「落ち着いてます!」
「その息で言うな」
裏庭へ連れて行かれ、シャシルは畝の前でしゃがんだ。
確かに、緑がある。
弱そうに見えるのに、ちゃんと土を割って出てきた色だ。
ちょうどその時、シヴも石段を上がってきた。
前掛けの紐もほどかず、花屋の朝の仕込み前だと分かる顔である。彼女は畝を見るなり足を止め、何も言えなくなった。代わりに、一歩だけ近づいて、指先を口元へ当てる。
「……本当に」
ようやく、それだけ出る。
「咲く前です」
と、ブラルが横から言う。
「まだ喜ぶのは早い」
「分かってるわ」
と、シヴ。
「分かってるのに、少し嬉しいのよ」
その嬉しさを隠そうとしない声だった。
シャシルは芽を見たまま、問いをひとつ返した。
「おまえは、なぜ赤い薔薇にこだわる」
「昨日も話したでしょう」
「もう一度聞く」
「……しつこい人ね」
シヴは畝の横へしゃがんだ。
朝の海風で髪が揺れる。彼女はその乱れを気にも留めず、芽の先だけを見ていた。
「店を飾りたいわけじゃないの」
静かな声で言う。
「きれいな花を置けば人が寄る。そんなこと、花屋なら誰だって知ってる。でも、赤い薔薇が要るのはそこじゃない。あの人が、ふと顔を上げた時に、前と同じ景色があるって分かること。そのため」
「あの人」
と、チャトリン。
「夫を見送ってから、買い物の順番まで変わった人よ。パン屋には行く。魚屋にも行く。でも、うちの前だけは通らなくなった。赤を見ると苦しいからかもしれないし、平気なふりをするのが面倒なのかもしれない。理由は聞いてない。聞けば、来なくなると思ったから」
シヴはそこで一度、芽から視線を外した。
「でもね、店って、明日も開ける理由がなきゃ駄目なのよ。売れるから開ける日もある。そうじゃない日もある。それでも扉を開けるのは、誰かが来るかもしれないから。赤い薔薇は、そのために咲いてほしいの」
「飾りではないな」
と、シャシル。
「ええ。明日も店を開けるために咲かせるの」
その一言は、朝の裏庭によく通った。
チャトリンは何も言わず、芽を見た。
ブラルは眼鏡を押し上げたまま、少しだけ口を閉ざした。
シャシルも返事をしなかった。返事の代わりに、水差しを取りに行った。
小さな願い、という言い方は、やはり少し間違っているのかもしれない。
国を動かす願いではない。
兵器にも税収にもならない。
だが、店の扉を明日も開ける理由になる。
それは暮らしの骨みたいなもので、折れれば立てなくなる。
その夕方、シヴの店先には、まだ咲いてもいない薔薇のために、新しい花瓶がひとつ置かれた。
空の花瓶だった。
けれど、通りすがりの老女がそれを見て「もうすぐ入るのかい」と声をかけ、シヴが「ええ、たぶん」と返した時、その店はもう少し先の明日に手を伸ばしていた。
月明かりの灯台の受付台にも、その夜、新しい祈紙が増えた。
赤い薔薇が咲きますように、ではない。
花屋さんが明日も店を開けますように、と、誰か別の手で書かれた一枚だった。
チャトリンがそれを読んで笑い、シャシルは受領箱へ静かに重ねた。
「また増えましたね」
「そうだ」
「捨てられないですね」
「最初から捨てる気はない」
「知ってます」
灯台の窓の外では、港の夜がゆっくりと深くなっていく。
崖の下には魚の匂いと笑い声が漂い、食堂の裏口では猫がまた誰かの残りを狙っていた。
目の前の芽は、まだ指先ほどの大きさしかない。
それでも、その緑ひとつのために、土を運び、熱を集め、水をやり、明日を待つ人が増えた。
たぶん、それだけで、もう灯台はただの古い塔ではなかった。




