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無敵オーラの灯台守シャシルは、捨てられた願いを拾って港町を救う  作者: 聖稲


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第2話 最強の男、猫探しで港を震えさせる

 翌朝、月明かりの灯台に新しい札が掛かったことは、潮が引くより早く港へ広まった。


 最初に見つけたのは、網を干しに来た漁師だった。崖の上を見上げて、閉鎖準備中の札が消えていることに気づき、その場で口笛を鳴らした。次に気づいたのは、坂道を上ってきた配達帰りの少女だった。彼女は札の文面を見た瞬間、抱えていた籠を傾けそうになり、笑いながら町へ駆け下りた。

 捨てられた願い受付所。

 そんな勝手な看板を、閉まりかけの灯台に掛ける人間がいるらしい。しかも王都から来た、やたらと怖い男だという。


 その怖い男は、夜明けから木箱を運んでいた。


 玄関間の祈紙を短冊庫へ移し、短冊庫の床を雑巾で拭き、壊れた棚を壁へ寄せ、入口の前に転がっていた樽を片づける。やることは山ほどあるのに、手を抜くという発想がない。チャトリンは最初の三十分だけ手伝うつもりだったのだが、気づけば一緒になって走り回っていた。


 「ちょっと待ってください、棚を一人で持つものじゃないです」

 「持てる」

 「持てるかどうかでやらないでください。床が抜けます」

 「なら先に床を直す」

 「床大工は私じゃありません」

 「誰だ」

 「まだ呼べてません」

 「なぜ」

 「帳簿が壊滅しているからです」

 「最悪だな」

 「朝いちばんに言われると、寝不足の胸に刺さるんですよ」


 言いながらも、チャトリンは入口脇の机へ祈紙と細筆を並べた。昨夜のうちに掃いた塩と埃が、朝日を受けて薄く光る。灯台はまだ胸を張れる姿ではない。だが、誰かを追い返す顔はもうしていなかった。


 坂の下から声が飛んできたのは、その時だった。


 「本当に開いてんのか!」

 「開いてるって! 私が見た!」

 「いや、看板だけかもしれんだろ!」


 足音がいくつも石段を駆け上がってくる。先頭は昨夜の配達帰りの少女、その後ろに魚籠を下げた漁師、洗濯物を抱えた女、腕組みした老人、眠そうな顔の若者が続き、あっという間に玄関前が人で埋まった。

 みな、半信半疑の顔をしている。

 灯台は長く閉まっていたし、町の者は、期待して裏切られることに慣れていた。


 チャトリンが一歩前へ出て、手を振った。


 「おはようございます。はい、開きました。勝手に」

 「勝手にって何だ」

 「王都の許可はありません」

 「おい」

 「港の組合にも言ってません」

 「おい」

 「でも、祈紙は受けます。捨てられたものも、持ってきたものも」

 「おい、見習い」

 「だって本当ですから」


 ざわめきの中で、誰かが奥の男を見た。

 みんな、そこで黙った。


 シャシルは入口の横に立ったまま、腕を組んでいた。朝日を背にしているせいで余計に顔が険しく見える。しかも無言だ。歓迎の笑みなど持ち合わせていない。漁師の一人など、上り切った石段を半歩戻りかけた。


 チャトリンは慣れた顔で補足した。


 「怖いですが、昨日からずっと働いてます」

 「補足になっていない」

 「あと、紙を踏みません」

 「普通は踏まんだろ」

 「ここ最近の普通は、わりと踏んでました」


 老人が咳払いをした。


 「で、その怖いのが新しい灯台守か」

 「見習いではない。討灯官だ」

 と、シャシルが答えた。

 「王都から飛ばされてきた」

 「うわ、正直だ」

 と、配達の少女が言った。

 「飛ばされてきた人って、もっと取りつくろいません?」

 「事実を飾る理由がない」


 少女はぱちぱちと瞬きをし、それから吹き出した。

 張っていた空気が、その笑いで少しだけ緩む。


 そこへ、石段の下から別の声が上がった。


 「どいて、ちょっとどいてくれ!」


 大鍋の蓋を片手に抱えた太った男が、息を切らして上ってくる。後ろには、七つか八つくらいの男の子がぴたりと張りつき、そのさらに後ろから、小柄な娘が泣きそうな顔で続いていた。

 鍋の男は灯台前へ出るなり、帽子も取らずに叫んだ。


 「願い、受けるんだってな!?」

 「受ける」

 と、シャシル。

 「猫を探してくれ!」

 「は?」

 と、チャトリン。

 「うちの猫だよ! 三日前から戻らねえんだ。食堂の裏窓から毎日入ってきて、煮魚を盗って、昼は子どもらの膝で寝る、あの猫だ」

 「クリスターさん、それ食堂の猫っていうより、食堂を自分の家だと思ってる猫では」

 「家みたいなもんだ! あいつがいないと、店の皿洗いの子まで落ち着かねえ!」


 泣きそうな顔の娘が、ようやく前へ出た。両手で一枚の祈紙を握っている。


 「わたし、書いてきた」

 と、娘は言った。

 「きのうの夜、ちゃんと書いたの。ミータがもどりますようにって」

 「ミータという名か」

 と、シャシル。

 娘はこくんとうなずいた。

 「白くて、耳の先だけ黒くて、しっぽが曲がってるの。おこると、ぜったい『ニャ』じゃなくて『ムァ』って言うの」

 「怒る情報いるか?」

 と、鍋を抱えた男――食堂の店主クリスターが言う。

 「いる」

 と、シャシルが即答した。

 「鳴き声の癖は識別に使える」

 「使えるんだ……」


 娘は祈紙を差し出した。墨は少しにじんでいたが、丁寧に書かれている。

 ミータがもどりますように。

 短い一文の端に、小さな猫の顔まで描いてあった。


 シャシルはそれを受け取り、ほんのわずかに眉を下げた。子どもの字は、王都の仕分け場を思い出させる。まだ乾き切らない願いは、持っただけで指先へ熱が伝わる。


 「受けた」

 彼は言った。

 「見つければいいな!?」

 と、クリスター。

 「見つける」

 「おお」

 「ただし、確認する」


 シャシルは娘の前へしゃがみ込んだ。視線の高さを合わせると、それだけで子どもは少しだけ息をしやすそうにした。


 「最後に見た場所は」

 「おとといの朝。食堂の裏で、魚のあたまもらってた」

 「誰が見た」

 「俺と、この子と、皿洗いのネリ」

 と、クリスターが指を立てる。

 「争った相手は」

 「隣の乾物屋の犬」

 「怪我は」

 「見てない」

 「好む場所は」

 「日なた」

 「嫌う音は」

 「鍋のふた!」

 娘が力いっぱい答えた。

 「あと、樽をころがす音!」

 「樽を転がすな」

 「港町ですよ」

 と、チャトリンが口を挟む。

 「一日じゅう何か転がってます」


 シャシルは立ち上がった。


 「案内しろ」

 「今から?」

 と、クリスター。

 「願いは受けた」

 「いや、そうだけど、その、もっとこう、帳面に書いて順番待ちとか」

 「猫は順番を待たん」


 言い切られて、周囲の大人たちが変な顔をした。

 その顔のまま、何人かが後をついていく。港町では、大ごとは大抵、見物と一緒に動く。


 坂を下りる間にも噂はふくらんだ。

 灯台に来た王都の男が、最初の願いで猫を探すらしい。

 討灯官だか何だか知らないが、港で猫探しをするらしい。

 怖い顔で猫探し。

 それだけで、洗濯を干しかけた女まで手を止めた。


 クリスターの食堂は港の角、魚市場へ向かう通りの手前にある。朝から鍋の匂いが立ちこめる店で、看板は古いが鍋だけはいつもよく煮えていた。

 店の裏へ回ると、たしかに猫が通れそうな細い隙間、積み上がった魚箱、濡れた足跡、干した網が入り組んでいる。人の出入りも多い。普通の探し方では、どこへ消えたか分からなくなる場所だった。


 シャシルは裏口の前でしゃがみ込んだ。

 石畳の継ぎ目、箱の角、壁の擦り跡、水桶の下、全部を順に見ていく。話しかける者がいても答えない。触れず、嗅ぎ、目で追い、時々指先で地面をなぞる。


 見物人がひそひそ声を立てた。


 「何してるんだ」

 「追跡だろ」

 「猫を?」

 「猫を」


 やがてシャシルは立ち上がり、裏の魚箱を一つ横へずらした。下から小さな鱗が出てくる。


 「昨日の昼、ここにいた」

 「分かるのか」

 と、クリスター。

 「鱗の乾き方が違う」

 「ええ……」

 「その後、屋根へ上がった」

 「何で分かるんです?」

 と、チャトリン。

 「壁に後ろ足の擦れがある。跳躍の跡だ」

 「猫ってそんな痕跡を残すんですね」

 「急いでいた」

 「急いでいたんだ……」


 シャシルは店の脇壁へ手をかけた。

 次の瞬間、見ていた者の目の前で、ほとんど垂直に壁を駆け上がった。


 「うわっ!」

 「待て待て待て!」

 「人がやる上がり方じゃない!」


 屋根の端へ片手を掛け、体を引き上げる。そのまま視線を流し、向かいの乾物屋の屋根へ飛んだ。瓦が一枚がたんと鳴り、干してあった小魚が一束落ちかける。

 乾物屋の主人が戸口から顔を出し、悲鳴を上げた。


 「何だ今の!」

 「灯台の怖い人!」

 「なぜうちの屋根に!」

 「猫だ!」

 「猫で人は飛ぶのか!?」


 飛ぶ。

 少なくとも、シャシルは飛んでいた。


 食堂から乾物屋、その隣の綱具店、その先の酒樽倉庫へ。港に並ぶ建物の屋根を、彼は迷いなく渡っていく。戦場では矢雨を避けるための動きなのだろうが、いま追っているのは片耳の黒い猫である。用途の落差が大きすぎて、見物人は怖がるより先に呆れた。


 「チャトリン!」

 と、クリスターが叫ぶ。

 「あの人、いつもあんな感じか!?」

 「昨日来たばっかりなので、私もいま初めて見てます!」

 「止めろ!」

 「どの口で! 猫を探してって言ったのはそっちです!」


 その時、別の怒鳴り声が通りを割った。


 「屋根を走るなァ!」


 港湾警備の腕章を巻いた男が二人、棒を持って駆けてくる。先頭にいるのは背の高い男で、日に焼けた顔にきつい目つき、肩から下げた笛がやたら似合う。エルケだった。普段から港の揉め事に頭を突っ込んでいる男で、怒鳴り方がうまい。


 「誰だ、あれを上げたのは!」

 「上げたんじゃねえ、勝手に上がった!」

 と、乾物屋の主人。

 「勝手って何だ、猿か!」

 「猿より怖い!」

 「誰が」

 「灯台の!」


 エルケは屋根の上のシャシルを見上げ、舌打ちした。


 「灯台? 昨日来たっていう王都の厄介者か」

 「厄介なのは認めますけど、猫を探してます!」

 と、チャトリン。

 「猫ぉ!?」

 「祈紙が来たので!」

 「だからって屋根を壊していい理由にはならん!」


 エルケがそう怒鳴った直後、屋根の上のシャシルがぴたりと止まった。

 視線はさらに先、港へ突き出た荷揚げ台のほうへ向いている。


 そこには、古びた帆柱を横倒しにして積んだ材木置き場があった。昼寝にちょうどよさそうな高さで、しかも近くには魚市場の残り桶が置いてある。猫が寄るには好都合だ。

 だが今日は、その材木の陰に、見慣れない荷車が停まっていた。


 「通るぞ」

 と、シャシルが言った。

 「待て! 何を――」


 エルケが止めるより早く、シャシルは酒樽倉庫の屋根から荷揚げ台の張り出しへ飛んだ。板が大きく鳴り、上にいた鴎がいっせいに舞い上がる。荷車の馬が鼻を鳴らして後ずさりし、御者が「うおっ」と手綱を引いた。


 材木の陰から、かすかな声がした。


 「……ムァ」


 娘が両手を口に当てた。

 「ミータ!」


 黒い耳の先が、材木の隙間から見えた。

 だが猫はすぐには出てこない。身を縮め、背中を丸め、片前足を浮かせている。怪我をしているらしい。しかも荷車のそばには、乾物屋の犬が繋がれていた。大きな茶色の犬で、見慣れない騒ぎに興奮し、吠えながら鎖を引いている。

 猫はその声にすくんで、さらに奥へ入った。


 「なるほど」

 と、シャシル。

 「犬か」

 「うちのだ! 悪気はねえ!」

 と、乾物屋の主人が叫ぶ。

 「飯の匂いがしたら何でも吠えるだけだ!」


 シャシルは荷揚げ台へ片膝をつき、犬と猫の位置を一度見た。

 それから、あろうことか荷車の脇に積んであった空樽を一本、軽々と持ち上げた。


 「おい、何する気だ!」

 と、エルケ。

 「猫は樽の音が嫌いだと聞いた」

 「嫌いなら鳴らすな!」

 「だから遠ざける」


 言うなり、シャシルは空樽を犬のいる側ではなく、荷揚げ台の反対端へ向けて転がした。

 ごろん、ごろん、と大きな音が木板に響く。犬はそちらへ吠えながら顔を向け、鎖を思いきり引いた。注意が逸れた一瞬、シャシルは材木の上へ跳び乗り、片手を隙間へ差し入れた。


 「ミータ」

 と、娘が叫ぶ。

 「静かにしろ」

 と、シャシル。

 「いま出す」


 猫は怯えて爪を立てたらしい。手の甲に細い傷が走るのが、下からも見えた。だがシャシルは眉ひとつ動かさない。そのままもう片方の腕を奥へ差し込み、材木の角に肩を押しつけるようにして体をずらす。

 次の瞬間、白い腹と黒い耳の猫が、彼の脇からむずがるように現れた。


 「ミータ!」

 娘が半泣きで飛び跳ねる。

 猫は怒っている時の声で「ムァァ」と鳴いた。

 「本当にそう鳴くんだ……」

 と、チャトリンが妙に感心した。


 シャシルは猫を抱えたまま飛び下りた。材木の上から荷揚げ台、荷揚げ台から石畳へ、重みを逃がすように着地する。腕の中の猫は暴れたが、逃がさない。片前足を見れば、爪の付け根を少し切っているだけだった。転んだか、何かに引っかけたのだろう。


 「薬師を呼べ」

 と、シャシル。

 「縫うほどではない。洗って巻けば済む」

 「おまえ、猫まで診るのか」

 と、エルケが呆れた。

 「戦場に猫はいないでしょう」

 と、チャトリン。

 「応急の見立ては同じだ」


 娘はおそるおそる近づき、シャシルの腕の中からミータを受け取った。猫は一度だけ文句を言うように鳴いたあと、娘の胸元へ顔を埋めた。ようやく安心したらしい。


 「ありがと」

 娘は言った。

 「灯台のひと」

 「シャシルだ」

 「シャシル」

 「そうだ」

 「……こわいけど、ちゃんと見つけた」

 「受けた願いはそうする」


 娘は真剣にうなずいた。

 その横で、クリスターが何とも言えない顔をしている。


 「助かった」

 と、彼は言った。

 「本当に助かった。皿洗いのネリも、さっきから奥で泣きそうだったんだ。あと、ええと、その、屋根の瓦は」

 「請求しろ」

 「できるのか」

 「灯台へ来い」

 「灯台へ?」

 「請求書も受ける」

 「何でも受けるんだな……」


 見物人の間で笑いが起きた。


 乾物屋の主人が屋根を見上げて深いため息をついたが、猫が見つかったこと自体は悪く思っていないらしい。犬の頭を小突きながら、「おまえももう少し加減しろ」とぼやいている。

 エルケだけは腕を組んだまま、シャシルをじろじろ見ていた。


 「港で次に屋根を走ったら止める」

 「必要があれば走る」

 「必要を勝手に増やすな」

 「猫は見つかった」

 「そこは否定しねえよ」


 エルケは鼻で息を吐き、娘の抱いた猫を一瞥したあと、チャトリンへ視線を向けた。


 「おまえ、あれの手綱を持てるのか」

 「持てません」

 「正直だな」

 「でも、方向くらいは言えます」

 「言うだけで向く相手か?」

 「向かない時は多いです」

 「だろうな」


 言葉は荒いが、完全に敵視している顔ではない。町を守る側の人間として、危険かどうかを量っている目だった。シャシルはそれを気にした様子もなく、荷揚げ台の上に残った空樽を元の位置へ戻している。壊したまま放置しないところが、また面倒くさいほど律儀だった。


 そこへ、食堂の裏口から別の少女が顔を出した。

 皿を抱えたまま、様子を窺っていたらしい。


 「ミータいた?」

 「いたぞ」

 と、クリスター。

 「でっかい顔の人が連れ戻した」

 「顔のことは言わなくていいだろ」

 と、チャトリン。

 「でも、ほんとにでっかい」

 と、皿の少女。

 「無敵みたいな顔してる」

 「無敵?」

 と、クリスター。

 「なんか、近づいたら負けそう」

 「分かる」

 と、乾物屋の主人まで乗ってきた。

 「オーラがもう、喧嘩売った側が悪い感じだ」

 「無敵オーラだ」

 と、最初の娘がミータを抱えたまま言った。

 「灯台のシャシルは、無敵オーラ」


 一拍おいて、見物人のあちこちで吹き出す声が重なった。


 「無敵オーラ」

 「ぴったりじゃねえか」

 「本人の前で言うなよ、怖いだろ」

 「もう本人の前だって」


 シャシルは自分を指さしている子どもたちを見た。

 何を言われたのか分からないわけではないらしい。だが怒るでも照れるでもなく、少しだけ首を傾げる。


 「それは褒め言葉か」

 「たぶん」

 と、チャトリン。

 「少なくとも、いまのところは」


 クリスターは鍋の蓋を抱え直し、大きく息を吐いた。安堵が半分、観念が半分、そんな顔だった。


 「分かった。礼はちゃんとする」

 「礼はいらん」

 「いや、そういうわけにいくか。飯くらい食ってけ」

 「食堂へか」

 「猫を戻した奴を追い返したら、うちの沽券にかかわる」


 そこで周囲から賛同の声が上がる。

 鍋の匂いは朝から強いし、見物のついでに腹が減っている者も多い。あっという間に「灯台の怖い男に飯を食わせろ」という空気ができあがった。


 シャシルは少し考えたあと、娘の抱いたミータを見た。

 猫はもう落ち着いたらしく、片目だけ開けて彼を見返している。


 「行く」

 彼は言った。

 「腹も減った」

 「最初からそう言え」

 と、クリスターが笑う。


 食堂の扉が開き、港の朝が一気に流れ込んだ。


 煮込みの鍋が湯気を上げ、焼き魚の脂がはぜ、磨き切れていない卓が並ぶ。立派とは言い難い店だが、座れば誰かが水を持ってきて、子どもが猫の足に巻く布を探し、皿洗いの少女がほっとした顔で鼻をすすった。

 シャシルは入口に立っただけでまた半分くらいの客を黙らせたが、クリスターが「こいつは猫を拾った側だから安心しろ」と大声で言いふらしたせいで、店の空気は思ったより早く元へ戻った。


 席へ着くと、チャトリンがすぐ横に座った。


 「朝から大騒ぎでしたね」

 「願いを受けた」

 「受けましたね」

 「問題あるか」

 「ないです。ないですけど、普通は港中の屋根を揺らさないんですよ」

 「普通では見失う」

 「その理屈で全部進むと、私の心臓がもちません」

 「鍛えろ」

 「簡単に言うなあ」


 そこへ、エルケが戸口から顔だけ入れた。


 「おい、灯台」

 「何だ」

 「あとで警備詰所に来い。屋根の件は一応聞く」

 「分かった」

 「逃げるなよ」

 「逃げる必要がない」

 「その返しだけは気に入らん」


 言い捨てて去っていく背中を、チャトリンが目で追う。


 「思ったより怒ってませんでしたね」

 「町を見ている顔だ」

 「そうですね。怖い人ですけど」

 「おまえが言うな」

 「私はやわらかい怖さです」

 「分類があるのか」

 「あります」


 そこへ大皿がどんと置かれた。

 煮込み、黒パン、焼いた小魚、刻んだ海藻の和え物。王都の食堂に比べれば飾り気はない。だが湯気は遠慮なく腹を殴ってくる。


 クリスターが腕を組んで言った。


 「代金は……いや、やっぱり取る」

 「取るのか」

 「取る。うちは慈善じゃねえ。ただし猫割引だ」

 「猫割引って何ですか」

 と、チャトリン。

 「恩があるから、普段より多く盛る」

 「割引じゃなくて増量ですね」

 「そうだ」


 店の中にまた笑いが広がる。

 怖い男はまだ怖い顔のままだったが、煮込みを口へ運ぶ手つきまで怖いわけではないと分かると、客たちの視線も少しずつ解けていった。


 食事の終わり頃、最初にミータを抱えていた娘が、包み紙にくるんだ何かを持って近づいてきた。


 「これ」

 彼女は言った。

 「ミータのぶんの小魚。おれい」

 「俺は猫ではない」

 「知ってる」

 「ならなぜ魚だ」

 「猫をつれてきたから」


 理屈としては妙だったが、彼女の顔は大真面目だった。

 シャシルは少し考え、小魚を受け取った。


 「受けた」

 「うん」

 「次は猫を逃がすな」

 「うん。……でも、またいなくなったら」

 「灯台へ来い」

 「無敵オーラのとこ?」

 「それはやめろ」

 「じゃあシャシルのとこ」

 「それでいい」


 娘は満足そうに戻っていった。

 その背を見送りながら、チャトリンが横でにやにやしている。


 「ずいぶん町になじむのが早いですね」

 「なじんでいない」

 「子どもはもう覚えましたよ」

 「不本意だ」

 「顔で得する日もあるんですねえ」


 昼前には、灯台へ持ち込まれる祈紙が昨日より増えていた。


 魚市場の隅に置かれた簡易箱へ、配達の帰りに誰かが入れる。食堂で煮込みを待つ間に、紙切れへ走り書きして託す。洗濯女は「雨の前に乾きますように」と書き、船乗り見習いは「親方に今日だけ怒鳴られませんように」と書き、老人は無言で細い一枚を折ってよこした。

 灯台が開いたというだけで、人は案外すぐに願いを書く。


 その日の夕方、シャシルとチャトリンが受付台の前で新しく届いた祈紙を分けていると、一人の女が崖道を上がってきた。


 日が傾いた光の中で、女の店先用の前掛けだけが先に赤く見えた。

 花屋のシヴだった。背筋の伸びた歩き方で、手には紙筒を抱えている。崩れた石段の端も、汚れた手すりも、彼女は見ていないふりで通り過ぎた。汚れた場所に慣れているというより、必要なものだけを見る顔だった。


 「ここが、捨てられた願い受付所?」

 と、シヴは言った。

 「そうだ」

 と、シャシル。

 「勝手な名前」

 「そう思うなら帰ればいい」

 「帰らないわ」


 シヴは紙筒から一枚の祈紙を抜き出した。

 他の祈紙より少し厚い、花屋で使う包み紙を切ったものだ。字は細いのに迷いがない。


 赤い薔薇を、もう一度咲かせたい。


 チャトリンがそれを読み上げ、そっと息を吐く。


 「シヴさん」

 「店の飾りに欲しいわけじゃないの」

 と、シヴは言った。

 「前にうちへ通ってた人がいたのよ。赤い薔薇が好きで、毎年、命日でも何でもない日に一本だけ買っていった。理由なんて話さなかったけど、持って帰る顔が少しだけましになる人だった」

 「いまは来ないのか」

 と、シャシル。

 「来られないわ。去年、夫を見送ってから、家を出る回数が減ったもの。だから私は、あの人がまた店先で赤いのを見て、足を止められるようにしておきたい」


 灯台の中へ、夕方の風が入った。

 受付台の上に置かれた今日の祈紙が、かすかに鳴る。


 「でも、苗がない。土も足りない。うちの裏庭で最後の株を駄目にして、それで終わりのつもりだった」

 シヴは言った。

 「終わりのつもりだったけど、灯台がまた勝手なことを始めたって聞いたから」


 チャトリンは横目でシャシルを見た。

 その視線を受けた男は、祈紙を一度読んでから、まっすぐシヴへ返した。


 「受ける」

 「できるの」

 「やる」

 「金は?」

 「ない」

 「土は?」

 「集める」

 「苗は?」

 「探す」

 「ずいぶん大きく出るのね」

 「受けた願いだ」


 シヴは数秒だけ黙っていた。

 そのあと、小さく笑った。


 「そう。じゃあ、期待しないで待ってる」

 「待て」

 「期待しないで、って言ったでしょう」

 「勝手に咲かせる」


 花屋の女主人は、そこで初めて、ちゃんとおかしそうに笑った。


 彼女が帰ったあと、チャトリンは受付台へ肘をついたまま言った。


 「次は薔薇ですか」

 「そうだ」

 「灯台なのに」

 「願いは来た」

 「来ましたね」

 「問題あるか」

 「ないです。ただ、灯台の財布に大問題があります」

 「財布を見る」

 「見ないで済むなら見せたくなかったんですが……」

 「見せろ」

 「はい」

 「いま嫌な間があったな」

 「灯りの下で帳簿を開くのが怖いだけです」


 チャトリンが抱えてきた分厚い帳面は、見た目からして不穏だった。

 端は水を吸って波打ち、途中に魚の鱗が挟まり、何ページかはインクが滲んで読めない。開いた瞬間、シャシルの額に深い皺が刻まれる。


 「何だこれは」

 「灯台の現実です」

 「現実が汚い」

 「言わないでください。私も薄々そう思ってました」

 「薄々で済ませるな」

 「すみません」


 だが、その帳簿のひどさの中に、まだ払われていない修繕費の控えと、港から受け取るはずだった謝礼の記録と、回収されていない貸し出し灯具の一覧が混ざっていた。

 金がないのではない。

 本来入るはずのものが、入っていないのだ。


 シャシルは帳簿を閉じた。

 その音が、妙に静かな灯台に重く響く。


 「明日、町を回る」

 「薔薇のために?」

 「灯台のためにもだ」

 「怒ります?」

 「怒っている」

 「ですよね」

 「だが、壊さない」

 「本当ですか」

 「たぶん」

 「たぶんで明日が来るの、少し怖いんですけど」


 外では、港のあかりがひとつずつ灯り始めていた。

 食堂には猫が戻り、花屋には新しい願いが置かれ、灯台の受付台には、また一枚、小さな祈紙が増えている。

 町はまだ、この灯台を信用しきってはいない。

 それでも今日一日で、怖い顔の男に頼めば何かが動くかもしれない、と誰かが思い始めていた。


 その思いは、紙より軽いようでいて、案外、灯台を動かす火になる。



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