第14話 朝焼けの灯台
星渡り祭から二十日後、月明かりの灯台へ正式書面が届いた。
王都本局の封ではなく、西岸臨時再編局と王国監理審署の連名になっている。
差し押さえではない。封を見ただけで、レオンティナが「朗報の顔をしています」と珍しく先に言ったので、チャトリンは階段を三段飛ばしで駆け下り、途中で足を滑らせ、チュバイロフに無言で襟首を掴まれて助けられた。
「走るな」
シャシルが言う。
「先に言ってくださいよ!」
「いま言った」
いつものやり取りだった。
ただ、広間へ入る朝の光が、前よりずっと明るい。
書面の内容は単純だった。
月明かりの灯台、閉鎖撤回。
西岸補助結界の要として暫定再登録。
あわせて、民間納願窓口の継続許可。
監査灯および記録庫は封鎖ではなく保全対象へ変更。
チャトリンは三行目で口を押さえた。
五行目で目が潤み、七行目まで来る頃には、もう駄目だった。
「泣くの早い」
エルケが言う。
「だって、閉めろって書いてない……」
「そこが最低ラインだろ」
「最低ラインが嬉しい日もあるんです!」
レオンティナは書面を最後まで読み終え、細い指で机へ揃えて置いた。
「追加で、王都側の差分再監査が始まります。西岸以外も掘り返されるでしょう」
「掘り返せ」
シャシルは短く言う。
「埋め直させるな」
「同意します」
グラウスの名は、その書面の後半にもあった。
特使権限剝奪。公文照合中。補佐人員を含む関連流路の監理下拘束継続。
まだ判決ではない。だが、少なくとももう、どこかの港へ行って同じ言葉を吐ける立場ではなくなっていた。
その日から、月明かりの灯台は忙しくなった。
朝の列は、魚市場が開く少し前からできる。
願いを書きに来る者もいれば、前に書いた紙がどう焚き上がるのか見に来る者もいる。帳場の横には、小さな説明札が増えた。レオンティナの字で、受理方法、保全期間、焚上日、再記録の仕方、証言紙の分け方まで、やたら細かく書かれている。
チャトリンは最初、その札を見ただけで目が回りそうになった。
だが逃がしてもらえない。
「受領札の束、昨日と今日で向きが逆です」
レオンティナが言う。
「えっ」
「えっ、ではありません。逆です」
「どうして分かるんですか」
「数字は逃げません」
「人は逃げます」
「だから追います」
チャトリンは心底困った顔をしたが、その横でシャシルが小さく肩を揺らしたのを、彼女は見逃さなかった。
「今、笑いましたね」
「笑ってない」
「眉がやわらかかったです」
「気のせいだ」
「見ました」
そんなやり取りの最中でも、灯台の内外では小さな変化が増えていく。
シヴの店先には、あの日芽吹いた赤い薔薇が、今ではしっかり蕾を増やしていた。
港の風は塩気が強いから本来は難しいと彼女は言っていたが、灯具の廃熱と海辺の土がうまく噛み合ったらしい。朝に一本だけ開いた花を見つけた時、シヴは誰にも声を上げなかった。ただ店先の水差しを新しく替え、その日いつもより早く戸を開けた。
クリスターの食堂の壁には、避難訓練の紙が貼られた。
字は太く、少し曲がっている。どう見ても本人が書いたものだった。
厨房脇の扉は荷の出し入れ用、二階窓側は子ども優先、鍋場はチュバイロフの合図で火を落とす。迷ってばかりいた男が、一度決めたことを毎朝見える場所へ貼っているのが、妙に彼らしかった。
エルケの警備隊は、灯台と港の連絡導線を組み直した。
以前は危険時に灯台を閉める前提だった動きが、今は逆になる。先に灯台へ人を流し、短冊庫横の回廊を通って広場へ抜ける。避難訓練の日、子どもたちはその回廊を走りたがったが、エルケに一喝され、次の瞬間にはシャシルにも同じ声量で止められて二倍しゅんとなった。
「無敵オーラの灯台守が二人いる」
と、誰かの子が真顔で言って、広場が笑った。
ブラルは監査灯の改良に取りつかれていた。
眩しすぎるという最大の欠点を、彼は欠点だと思っていない。
ただ「もう少しだけ均一に拡散すれば、紙も目も傷めない」と言って、鏡筒を外しては組み、導光板を磨いては唸る。昼の灯台裏から突然白い閃きが漏れるたび、通りがかった者が「また何かやってる」と避けて歩くのが恒例になった。
チュバイロフは、誰に言われるでもなく壊れた階段を直した。
祭りの日に濡れて割れた踏板、軋んでいた踊り場、手すりの緩み。彼は一つずつ外し、一つずつ元へ戻す。派手ではない。だが、一段目が真っ直ぐになるだけで、灯台へ上がる足取りは驚くほど変わる。
ズベタは海側の見回りを続けながら、引き揚げ屋の倉へ妙な荷が入ればすぐ知らせるようになった。
スターロイグルは見張り台から新しい合図灯を試し、ジュニオールは診療所で聞いた細かな証言の拾い漏れがないか、今も時々灯台へふらりと現れては話を置いていく。
ケイデンスは、その全部を人より先に広めた。
しかも自分で喋った顔をしないのが彼女らしい。
気づけば西岸の他の町からも手紙が届き始めていた。
うちの灯台でも差分がおかしい。
帳面にない荷札を見た。
願いの受理方法を教えてほしい。
そういう短い文が、配達袋の底から次々出てくる。
「静かに終わる気はなさそうですね」
レオンティナが言った日、シャシルは紙束を一瞥し、鼻で息を吐いた。
「最初からそのつもりはない」
「でしょうね」
朝焼けの色が、灯台の白壁を少しずつ染めていく。
その朝、シャシルは新しい受付簿の最初の頁を開いた。
厚い紙だ。以前のような寄せ集めではなく、正式支給の帳簿になっている。
けれど、書き始めの少し緊張する感じは変わらない。
彼は筆を持ち、少しだけ考えたあと、一行目へこう書いた。
今日を越えたい願いも受け付ける。
横からのぞき込んでいたチャトリンが、そこでふっと笑う。
「いいですね」
「説明が足りないか」
「足りてます」
「柔らかすぎる気もする」
「ちょうどいいです」
彼女はそう言ってから、少しだけ声を落とした。
「シャシルが最初にここで言ったでしょう。捨てられた願いの受付所にするって。あれの、今の書き方です」
シャシルは返事をしなかった。
ただ、耳のあたりだけが少し赤くなる。
「照れてます?」
「照れてない」
「じゃあ、なんで顔をそむけるんですか」
「朝日がまぶしい」
「またそうやって」
笑いながら、チャトリンは受付台へ新しい筆を並べた。
動きに無駄が少ない。まだ帳簿で失敗はするが、前より確実に片づけられることが増えている。
その横顔を見て、シャシルはほんのわずかに目を細めた。
第八話の準備の夜みたいに、今も彼女は紙を前にすると真剣だ。
願いを書く者の顔を、まっすぐ受け止める目をしている。
だから灯台は、あの日から本当に立ち直ったのだと分かる。
石段の下で、誰かの足音がした。
見れば、小さな男の子が一枚の祈紙を握って立っている。
第一話の王都で見た子とよく似た年頃だったが、同じ子ではない。違う顔、違う町、違う朝だ。
それでも、紙を握る手の強さは、同じくらい必死だった。
「書きにきたのか」
シャシルが聞く。
男の子はこくりとうなずく。
「読まれたら困るか」
今度は横に振る。
チャトリンがしゃがみ、受付台の高さへ目線を合わせた。
「じゃあ、ここで一緒に確認しようか」
男の子は紙を差し出した。
そこには、まだ少し曲がった字で、こう書いてある。
きょうも、みんなであさごはんをたべられますように。
短い願いだった。
だが、それで十分だった。
チャトリンが受領札を書き、シャシルが脇で紙を押さえる。
受け取る手つきが、もう前みたいな場当たりではない。二人で立つべき場所へ、ちゃんと立っている。
その時、港のほうから新しい朝の汽笛が鳴った。
海は青く、結界の光は薄い金に見える。
月明かりの灯台の白壁にも、朝焼けの名残が残っていた。
石段の下には、もう次の人影がある。
魚籠を提げた女、包みを抱えた老人、仕事前の若い衆、名を書き残しに来た老女。
願いの大きさはばらばらだ。
けれどここでは、ばらばらのままで受け取れる。
シャシルは受付簿を閉じずに、次の頁を開いた。
港には、新しい光がともっている。
それは遠くまで届く強い灯である前に、今日を越えたいと願う者を、もう勝手に切り捨てないための光だった。




