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無敵オーラの灯台守シャシルは、捨てられた願いを拾って港町を救う  作者: 聖稲


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1/5

第1話 左遷先の灯台は、紙屑だらけだった

 王都の仕分け場は、朝から紙の焼ける匂いがしていた。


 石造りの広間の奥で、祈紙の束が木箱ごと運ばれていく。箱の側面には黒い墨で、軍需、航路、税収、豊作と分類が書かれ、そのどれにも当てはまらない束には、価値なしの赤印が乱暴に押されていた。火番の男が炉の蓋を開けるたび、湿った灰の熱が床を這い、列を作る職員たちの靴先を鈍く照らした。


 子どもの筆跡だった。


 細くて、ところどころ震え、墨がにじんだ短い祈りが束の一番上に見えた。

 おとうさんの船がぶじに帰りますように。

 それだけの一枚だった。


 箱の横に立っていた大柄な男が、ぴたりと足を止めた。


 シャシルは手袋越しにその祈紙をつまみ上げ、目を細めた。白い紙の繊維の奥で、消えかけの灯が糸のように揺れている。願火はまだ死んでいない。誰かが昨夜か今朝、泣きながら書いた熱が、まだ紙の端に残っていた。


 「戻せ」


 低い声だったが、近くにいた書記官が肩を跳ねさせた。


 「討灯官殿、それは仕分け済みです」

 「見えている。だから戻せと言った」


 箱を押していた職員が困った顔で責任者を見た。責任者は二階の回廊から降りてきた男だった。銀の飾り紐を肩に掛け、鼻先で人を見る癖のある上役で、シャシルとは王都勤務のころから折り合いが悪い。


 「何事だ、シャシル」

 「願火が残っている祈紙を焼くな」

 「基準外だ。海運に直結しない。軍資にもならん。決裁は終わっている」

 「終わっていない。まだ灯っている」

 「灯っていようが、国益に薄い」


 上役はそう言って、まるで汚れた布でも見るように祈紙の束へ顎を向けた。


 「そういう紙をいちいち拾っていたら、炉は回らん。地方灯台が無駄な願いを抱え込むから、王都が整理してやっている」

 「整理ではない」

 「言葉遊びをするな。おまえは潮闇を討つ役目だ。紙屑に情をかけるな」


 紙屑。


 その一言で、シャシルの指先に力がこもった。祈紙がかすかに鳴り、束の中の残り火がぱちりと音もなく明るくなる。


 火番が気まずそうに炉の蓋を半分閉じた。書記官のひとりは、視線だけで出口を探していた。こうなると面倒だ、と仕分け場の空気が先に身構えた。


 だが、シャシルは怒鳴らなかった。

 ただ一歩、箱の前に立った。


 「この紙は誰が書いた」

 「記名のないものです」

 「字の癖が幼い。筆圧が弱い。昨夜、眠る前に急いで書いた」

 「だから何です」

 「書いた本人は、これを灯台へ届けば何かがましになると思った」


 シャシルは祈紙を火番の前へ差し出した。


 「おまえはこれを、本人の顔を思い浮かべたうえで焼けるか」

 「わ、私に言われても」

 「焼けるか」


 火番は答えられなかった。


 上役が苛立ちを露わにして、回廊の手すりを指で鳴らした。


 「くだらん芝居だ。箱ごと入れろ」

 「命令を取り消せ」

 「立場が分かっているのか、シャシル」


 分かっていた。

 分かったうえで、腹が立っていた。


 地方灯台の縮小で救援が遅れた夜のことを、彼は忘れたことがない。濃い霧の向こうで、届くはずだった光が来なかったこと。朝になって見つけた家の跡と、家族の声のない静けさを。あの夜も、誰かが数字と効率の話をしていたのだろうと思うと、目の前の赤印が骨に触れるみたいに不快だった。


 上役が顎をしゃくった。

 職員が箱を押す。


 その瞬間、シャシルは木箱の取っ手を片手でつかみ、持ち上げた。


 箱は大人二人がかりで運ぶ重さだった。だが床から離れた箱は、そのままひっくり返され、束になった祈紙が石床に雪崩れ落ちた。白や薄桃や淡青の紙片が一斉に散り、広間のあちこちで小さな灯がゆらめいた。仕分け印の赤が、かえって惨めに見えた。


 「貴様!」


 上役が怒鳴るより早く、シャシルは散った祈紙の上へ立った。誰にも踏ませないつもりで、わざと中央に陣取る。職員たちが近づけずにいるうちに、彼は足元の一枚を拾った。


 母さんと仲直りできますように。


 別の一枚には、赤い薔薇がまた咲きますように、とあった。

 また別の一枚には、明日も店を開けますように。

 どれも兵器になどならない。だが、暮らしにはいる。


 「紙屑だと言ったな」

 「シャシル! それ以上は処分対象への妨害だ!」

 「処分対象ではない。誰かの明日だ」


 近衛が二人、槍を持って階下へ降りてきた。刃先が光ったが、シャシルは視線だけで足を止めさせた。潮闇を斬る時の気配が、仕分け場の空気を一度に冷やす。近衛の片方は、喉を鳴らして半歩退いた。


 上役はその後退を見て、ますます顔色を悪くした。


 「武力で脅す気か」

 「脅しているのはおまえだ。願いを書いた者の顔も見ず、数字で消す」

 「国を守るためだ!」

 「国は誰のためにある」


 返答の前に、しんと静まった。


 仕分け場の隅で、下働きの少女がひとつ咳払いをした。年の頃は十にも満たない。彼女の足元には、箱からこぼれた祈紙が一枚滑っている。少女はそれをこっそり拾い、胸元へ隠した。誰のものか分からないのに、捨てられないと思った顔だった。


 その仕草を、シャシルは見た。

 上役も見た。


 だからこそ、上役は大声を出した。


 「討灯官シャシル! 命令違反、仕分け妨害、公務執行阻害の責を問う! 今この場で任を解く!」

 「好きにしろ」

 「西岸の月明かりの灯台へ転属だ! 閉鎖待ちの役立たずな石塔でも見張っていろ!」


 広間のあちこちで、息をのむ音が重なった。


 月明かりの灯台。

 採算が悪い、潮霧が濃い、町の規模も小さい。王都では、左遷先の代名詞のように言われる場所だ。明日なくなっても誰も困らないと、そう扱われている灯台だった。


 上役は巻物を投げつけるように放った。辞令の紐がほどけ、石床に転がる。


 「本日付けで出立しろ。余計な口はきくな。そこなら紙屑がお似合いだ」

 「承知した」


 あまりにあっさり返ってきたので、上役の眉が跳ねた。


 シャシルはしゃがみ込み、散った祈紙を拾い集め始めた。職員が触れようとすると睨み上げるので、誰も手を出せない。結局、箱の中身を床へぶちまけた本人が、いちばん丁寧に一枚ずつ整えた。しわを伸ばし、破れた端を合わせ、願火が消えていないものを手前へ重ねる。


 赤い薔薇の祈紙も、父の船を待つ祈紙も、その束に入れた。


 辞令は最後まで床に落ちたままだった。


 王都を出たのは、その日の夕方だった。


 空は薄曇りで、街門の外へ出るころには雪ではない白い霧が地表に降りてきた。荷台の狭い連絡車に揺られながら、シャシルは足元の木箱へ何度も目をやった。仕分け場から持ち出した祈紙の束である。本来なら没収されてもおかしくなかったが、誰も触りたがらなかった。彼が一度睨むだけで、近衛も荷運びも目をそらしたのだ。


 御者が数刻ぶりに口を開いた。


 「旦那、月明かりの灯台に知り合いでも?」

 「いない」

 「じゃあ、着いても飯の当ては薄いですよ。港町の連中はよそ者に冷たい」

 「そうか」

 「しかも見張り台じゃなくて、あれはほとんど廃墟だ。閉鎖の札が掛かるのも時間の問題だって聞いてます」

 「そうか」

 「……いや、あんた、その顔で相槌だけ打たれると俺が悪口言ってるみたいだな」


 シャシルは返事の代わりに、霧の向こうを見た。


 王都の石壁が遠ざかるにつれ、道端の家は低くなり、畑は荒れ、祈紙を納める小さな祠も少なくなっていく。灯台が減った土地には、風の通り方まで変わる。願光の薄い道は夜の訪れが早い。彼にはそれが、肌の上の冷えとして分かった。


 夜半近く、西岸の港町へ着いた。


 潮の匂いが濃かった。魚を処理した血の気配、湿った網、古い船板、干した海藻、酒場から漏れる煮込みの匂い。王都の整えられた空気とは違い、全部がごちゃまぜで、だが生きている場所の匂いだった。


 月明かりの灯台は、港を見下ろす崖の上にあった。


 遠目にはまだ立派に見える。白い円塔は月を浴びて青白く光り、頂の灯室は硝子が何枚か割れているものの、形だけなら威厳があった。だが近づくと、石段には塩が吹き、手すりの鉄は赤錆び、入口の木扉には閉鎖準備中の札が斜めに打ちつけられていた。


 その札を見て、シャシルは無言で引き抜いた。


 釘が一本、きんと鳴って飛んだ。


 「うわっ」


 中から声がした。

 続いて、何かが崩れる音がした。

 紙束だった。


 扉を開けた先の玄関間は、想像よりひどかった。床にも棚にも階段の踊り場にも、祈紙の束が積まれている。色分けも年代分けもなく、紐の切れた束が雪崩れ、請求書らしき紙、修繕願い、航路記録、食糧納入票まで混ざっていた。ひとことで言えば、紙屑の山である。

 ただし、王都の仕分け場と違って、ここにはまだ残り火があった。


 灯っている。


 踏めば消えそうな小さな願火が、あちこちで息をしていた。


 「ちょ、ちょっと待ってください、そこは踏まないでください!」


 紙の山の向こうから、ひとりの女が這い出てきた。栗色の髪を雑に束ね、頬に煤をつけ、片手に帳簿、片手に折れた羽根ペンを持っている。灯台守の制服らしい上着を着ているのに、袖口に乾いた糊がつき、裾にはインクの染みが広がっていた。


 彼女はシャシルを見るなり止まった。


 止まって、瞬きを二回した。


 「……誰ですか」

 「本日付けで来た」

 「何が」

 「左遷」


 女は帳簿を胸に抱えたまま、口を半分開けた。


 「それは、ええと、自己紹介ですか」

 「討灯官シャシル。今日からここへ入る」

 「討灯官?」

 「そうだ」

 「王都の?」

 「そうだ」

 「なんで」

 「紙を燃やすなと言った」

 「ああ」


 女は納得した顔をした。

 納得したうえで、額を押さえた。


 「なるほど。こっちへ来る人って、だいたいそういう顔してます」

 「どういう顔だ」

 「上と喧嘩して飛ばされてきた人の顔です。あと、今にも床をひっくり返しそうな人の顔でもあります」

 「ひっくり返す必要があるならやる」

 「やめてください。もう十分ひっくり返ってるので」


 彼女は紙束をかき分けて立ち上がった。背は高くない。けれど声がよく通る。しかも、目の前の男がどれだけ物騒な顔をしていても、言うことは言うらしかった。


 「私はチャトリンです。月明かりの灯台の、その……見習いです」

 「見習い」

 「見習いです。正式な灯台守は、去年から空席で」

 「では誰が回している」

 「回ってません」

 「そうか」

 「そうか、じゃないんです。回ってないのに、閉めるための帳簿と、閉める前に届いた祈紙と、閉めたあとにこっそり置いていかれる祈紙と、放置された修繕票と、港の苦情と、回収されるはずの古い灯具が全部ここへ来るんです」


 早口でそこまで言ってから、チャトリンは一度息を吸い、少しだけ胸を張った。


 「でも、捨ててません」

 「見れば分かる」

 「怒ってます?」

 「紙の量にはな」

 「私も怒ってます」

 「帳簿にも怒っている」

 「それは、ごもっともです」


 彼女はきっぱり認めた。


 シャシルは玄関間の山を見渡した。請求印のない納品書。未払いの修繕票。紐だけ新しく結び直された祈紙束。いくつかは王都の赤印が押されている。価値なしと判じられた紙を、ここへ誰かが戻したのだろう。あるいは捨て場から拾ったか。紙の扱いの雑さに対して、願火の守り方だけが妙に丁寧だった。


 「おまえが集めたのか」

 「半分くらいは」

 「残り半分は」

 「町の人が、夜に置いていきます。閉まってる灯台に祈紙を納めても意味がないって、みんな分かってるんですけど。でも、持ってくるんです」

 「なぜ」

 「さあ。でも、灯台って、そういう場所だったからじゃないですか」


 言いながら、チャトリンは足元の束を抱え直した。崩れた端を揃える手つきが慣れている。


 「捨ててもいいって言われたんです。王都からも、町からも。灯りもつかない、結界も弱い、維持費ばかりかかるって。でも、捨てたら、たぶん二度と戻ってこないから」

 「何が」

 「願いを書く癖です」


 その言い方に、シャシルは少しだけ目を細めた。


 願いを書く癖。

 妙な言い回しだが、分かる気がした。人は一度、どうせ届かないと思えば、二度と書かなくなる。灯台へ紙を持ってくる足も止まる。そうして町から小さな願いが消えていけば、結界だけでなく、暮らしそのものが痩せる。


 玄関の奥で、風が抜けた。

 積まれた祈紙の端がふるえ、淡い火がいくつか同時に揺れた。


 シャシルは自分の持ってきた木箱を床へ下ろし、蓋を開けた。

 王都から守ってきた祈紙の束が現れる。


 チャトリンの目が丸くなった。


 「それ、赤印……」

 「焼かれる前に奪った」

 「奪った」

 「問題あるか」

 「あるかないかで言えば、たぶん大ありです。でも、ええと……」


 彼女は箱の中の一枚をそっと取り出した。

 子どもの字で、父の船がぶじに帰りますように、と書かれている。

 チャトリンはほんの一瞬だけ、泣きそうな顔をした。


 「まだあったんだ」

 「まだある」

 「王都、ぜんぶ焼いてるんじゃなかったんですね」

 「焼こうとしていた」

 「それで喧嘩して飛ばされたんですか」

 「そうだ」

 「じゃあ、たしかにこっちへ来る顔です」


 シャシルは答えず、灯台の奥へ歩いた。


 主階段の下、古い受付台が横倒しになっている。天板には塩と埃が積もり、引き出しは半分抜けたままだ。彼はその台を片手で起こし、床へまっすぐ据えた。ぎしりと鳴ったが、まだ使える。


 次に、閉鎖準備中と書かれた札を二つに折った。


 「えっ」

 「筆はあるか」

 「ありますけど、いまインクが乾いて」

 「炭でも何でもいい」

 「何を書く気です」

 「見れば分かる」


 チャトリンが慌てて机の上を漁り、短い墨棒と水差しと刷毛を持ってきた。シャシルはしゃがみ、折った札の裏へ大きく字を書き始める。筆遣いは繊細ではないが、ためらいがない。一本一本が深く板へ食い込むような文字だった。


 捨てられた願い受付所。


 チャトリンが読み上げ、まばたきをした。


 「……何ですか、これ」

 「見ての通りだ」

 「勝手に名乗っていいものじゃない気がします」

 「閉鎖準備中よりましだ」

 「それは、そうかもしれませんけど」

 「受付台もある」

 「ありますけど」

 「祈紙もある」

 「ありますけど」

 「人もいる」

 「見習いひとりです」

 「いま二人になった」


 シャシルは板を受付台の正面へ立て掛けた。

 灯台の暗い玄関間に、その字だけが妙に堂々として見える。


 「今日からここは、捨てられた願いを受ける」

 「王都の許可は」

 「取らない」

 「港の許可は」

 「知らん」

 「怒られますよ」

 「慣れている」

 「私が怒られます」

 「俺も一緒に怒られる」

 「そういう問題でしょうか」

 「違うのか」

 「違う気がします」


 言いながらも、チャトリンの声は少し笑っていた。


 外で波の砕ける音がした。崖下の港では、遅くまで開いている食堂から灯りが漏れ、酔った声がかすかに届く。王都から見れば、たしかに小さな町だ。だがここにも、誰かの船が帰る夜があり、明日の仕込みがあり、謝れない親子がいて、咲かせたい花があるのだろう。


 シャシルは受付台の上に、王都から持ってきた祈紙を一束置いた。

 次に、灯台の床に散っていた束を一つ拾い、その横へ並べる。


 「分類は」

 「できてません」

 「だろうな」

 「でも、読めばだいたい分かります。誰の字かも、持ってきた人の足音も」

 「足音」

 「夜に置いていく人、だいたい急いでるので」

 「そうか」

 「笑わないんですね」

 「笑うところか」

 「いいえ。慣れてる人は、たいてい変な子扱いするので」

 「足音で分かるなら役に立つ」


 チャトリンは少しだけ口を閉じ、それから小さくうなずいた。


 灯台の内壁に掛かったままの古い鐘が、風にあおられて一度だけ鳴った。

 弱い、かすれた音だった。

 それでも、完全に死んだ音ではなかった。


 「腹は減っているか」

 と、シャシルが言った。


 「え」

 「話しながら手が止まっている。今日、まともに食っていないだろう」

 「……パンの耳なら」

 「それは食事に入らん」

 「王都の討灯官って、もっとこう、命令だけして帰る人種かと思ってました」

 「帰る先がない」

 「それ、ちょっと重いです」

 「食堂はどこだ」

 「坂の下ですけど、こんな時間だと煮込みくらいしか」

 「十分だ」

 「紙はどうします」

 「食う前に片づける」

 「全部?」

 「できるだけだ」

 「朝までかかりますよ」

 「なら朝までやる」


 チャトリンは一瞬、呆れたように天井を見た。

 次の瞬間には、袖をまくっていた。


 「分かりました。じゃあ、せめて燃やすものと残すものの区分だけでも」

 「燃やさない」

 「請求書は燃やしませんよ、さすがに」

 「なら先に請求書を分けろ」

 「はいはい。あの、そこ、足元に未払いの修繕票があります。たぶん五年前の」

 「なぜたぶんだ」

 「字がにじんでるので」

 「最悪だな」

 「知ってます」


 ふたりで紙の山に手を入れると、灯台の空気が少しだけ変わった。


 ひとりで抱えていた雑然としたものが、ふたりになるだけで形を持ち始める。祈紙は祈紙、修繕票は修繕票、帳簿は帳簿。王都の仕分け場みたいに切り捨てるためではなく、残すための分け方だった。


 途中、チャトリンが一枚の祈紙を拾って吹き出した。


 「見てください。『港の食堂の猫が戻りますように』」

 「猫?」

 「クリスターさんの店のやつです。最近いなくなってるって」

 「食堂の店主か」

 「はい。大鍋はうまいけど、決めるのが遅い人です」

 「そうか」

 「その顔、もう行く気ですね」

 「願いは受けると決めた」

 「まだ受付所って札を置いただけなんですが」

 「十分だ」

 「十分なんだ」


 チャトリンは祈紙を、残す束へ入れた。


 その動きに合わせて、紙の端がかすかに明るくなる。

 ほんの豆粒ほどの火だったが、さっきよりはっきりしていた。


 灯台の外で、雲の切れ間から月が出た。

 割れた硝子を通った光が玄関間へ落ち、受付台の新しい札を照らす。

 捨てられた願い受付所。

 乱暴な字なのに、不思議とその灯台には似合っていた。


 シャシルは床に片膝をついたまま、積み直した祈紙の束へ手を置いた。


 「明日から持ってこさせろ」

 「誰に」

 「町の者にだ。ここは閉じない」

 「勝手に言い切りましたね」

 「閉じる理由がない」

 「王都はありますよ。たくさん」

 「知るか」

 「すごい人が来たなあ……」


 チャトリンは呆れたように笑い、それから、紙束の向こうで少しだけ姿勢を正した。


 「じゃあ、私、明日の朝いちばんで港に下ります」

 「何をする」

 「言いふらします。怖い顔の新しい人が来て、灯台がまた余計なことを始めたって」

 「余計ではない」

 「町の人にとっては、だいたい最初そう見えるので」

 「好きにしろ」

 「はい。あ、でも」

 「何だ」

 「怖い顔なのは否定しないんですね」

 「事実なら否定する意味がない」


 チャトリンはとうとう声を立てて笑った。


 王都でその顔を見て笑う者は少ない。恐れるか、避けるか、利用するかのどれかだ。けれどこの見習い灯台守は、紙束に膝をついたままの男を見て、ちゃんと笑った。

 それが少しだけ、灯台の空気を人の住む場所に戻した。


 夜は深い。灯りは弱い。帳簿は壊滅している。

 それでも床に積み上がる祈紙の束は、もうただの紙屑ではなかった。


 翌朝、この町で最初に広まる噂は決まっている。

 月明かりの灯台に、王都からとんでもなく怖い男が来た。

 しかも、捨てられた願いを勝手に受け付けると言い出した。


 港町は、まだそれを面倒だと思うだろう。

 だが、その面倒くささが、じきに誰かの助けになる。



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