#8 傘をさすだけの話
校舎を出た瞬間、ふわりと雨の匂いが鼻先をくすぐった。小粒の雨が制服の肩をコツコツと叩く。梅雨の空は今日も、どこか拗ねたように重たい。
「……けっこう降ってるね」
「うん……」
しずくちゃんが、小さなため息と一緒に傘を広げる音がした。それに倣って、僕も自分のビニール傘を開こうとした瞬間、風が横から吹きつけて、バキッと嫌な音がして、骨が折れた。裂けたビニールがばさばさと揺れ、持ち手があっけなく外れる。
「だ、大丈夫!?」
「うん、でも……これはもうアウトだね」
目の前にぶら下がった傘の残骸は、ただの鉄くずと化していた。しずくちゃんが、それを見て目をぱちくりさせたあと、僕と傘を交互に見つめた。僕は気まずく笑って、肩をすくめた。
「風、思ったより強かったんだな……」
「……もう。ちゃんと持ってきたのに……。なんでそうなるの……」
しずくちゃんは少しだけ頬をふくらませて、でもそのすぐ後に、ほんの少し顔を赤らめた。そして、迷うように一瞬ためらってから、自分の傘を僕の方に差し出す。
「……入って」
「いいの?」
「……濡れて帰ったら、風邪ひくでしょ。……帰る方向、同じなんだし……」
その言葉に、思わず照れてしまうのは僕の方だった。
でも、しずくちゃんはもっと真っ赤になっていた。
「……そっちこそ、気にしすぎ……でしょ。べつに……いいよ、ちょっとくらい」
僕は素直に彼女の傘に入る。狭いビニール傘の中、肩と肩が少しだけ触れる。目を伏せたまま、しずくちゃんは口元をきゅっと結んだ。少しだけ震えて見える睫毛に、どうしても目が奪われてしまう。僕はおとなしく、彼女の傘に入った。
でも──。
「っ……ち、ちょっと……近い……」
「ご、ごめん、狭いから……」
「……ううん、いい。……ちょっとだけなら……」
声はかすかに震えていて、どこか不安げな目が、傘の中をそっと泳いでいた。
しずくちゃんのあまりにも大きな胸が、狭い傘の中で自然と僕の肘に触れる。
正直、どこに目を向けていいのか困る。
「……ちょっと……目線、そういうのわかるからね?」
「ご、ごめん、そんなつもりじゃ……」
「……うん、分かってる。けど……気になる、から……」
「そうだよね、気をつける」
「……でもね、こういうの、けっこう好きかも」
「なにが?」
「放課後に、一緒に帰ったり、傘を半分こしたり……なんか、高校生って感じで」
「ふふ……意外とロマンチストだね」
「やっぱりバカにしてる」
「ちょっとだけ」
しずくちゃんがふわっと笑う。その表情がなんだか大人びていて、見とれてしまった。彼女は、ほんの少しだけ傘を僕側に傾けてくれていた。
でも、そのせいで──。
「……あ、ちょっと、肩が濡れてる……」
「え? あ、ほんとだ」
「ごめん、僕の方に引きすぎた」
「ううん、だいじょうぶ……」
と言いながら、しずくちゃんは傘をさらに僕のほうに傾けた。
「それじゃ、もっと濡れちゃうよ」
「……だって、背が違うから……。私の傘、あんまり広くないし……」
彼女は150センチ、僕はそれより少し高い。その差が、傘の角度に出る。
「じゃあさ、持たせて。僕の方が合わせやすいし」
「……うん」
そっと傘を受け取ると、自然と彼女の肩がまた僕の方へ近づいた。そのとき、しずくちゃんの髪が僕の首筋にふわっと触れる。
「っ……!」
「ごめん、当たった?」
「ううん……でも、なんか……くすぐったい……」
小さな声でそう言って、彼女は袖をそっと僕のシャツの裾あたりでつまんだ。
あたたかくて、やさしくて、ドキドキする距離。
「な、なんか……変な感じ……」
「変って?」
「い、いや……だって、なんか、こう……守られてるっていうか……」
ぽつりぽつりと落ちる雨の音。静かな住宅街の道を、二人きりで歩く。
その間も、彼女の耳の赤さは消えない。
「……ちょっと、顔、近いよね」
「そりゃ、傘狭いから」
「……やっぱ、恥ずかしいかも」
そう言いながら、しずくちゃんはほんの少しだけ身体を外に寄せた。
でも僕が傘をそっちに傾けると、また、元の位置に戻ってくる。
「……ありがと」
「なにが?」
「……濡れないように、してくれるの」
「当然だよ」
そう返すと、しずくちゃんはちょっとだけ笑った。
小さな声で、「うん」と言ったあと──
「……じゃあ、お願い。……私を濡らさないでね」
「もちろん」
それだけ言って、僕は彼女の肩をしっかりと傘の下に収めた。
が、突風が今度は正面から吹きつけた。傘が大きく揺れ、彼女の肩がぐらつく。
「きゃっ──!」
傘が煽られ、彼女の前側が一瞬でびしょ濡れになる。
「うそ……やだ……っ」
彼女はすぐに制服の胸元を押さえる。白いブラウスが肌にぴったりと張り付き、下に着ていたブラジャーとキャミソールが透けて見えた。彼女の大きな胸のふくらみがはっきりと浮かび上がる。
「……っ、み、見ないで……!」
「ご、ごめんっ、見てないつもりだったんだけど──」
「見たじゃん……っ、バカぁ……っ!……だから言ったのに……守ってって……」
彼女は顔を真っ赤にして、ブラウスを隠すように、小さな手で覆う。
傘の下、彼女の声は細く震えていた。そのまま、そっと肩が触れた。か細い声が、雨音に混じって響いた。僕は慌てて傘を立て直し、彼女の濡れた肩を庇うようにそっと近づける。
「ほんとに、ごめん。今度はちゃんと守るから」
「……もう。しっかりしてよ、バカ……。恥ずかしいって言ってるのに……っ」
そう言いながらも、彼女はまた僕の袖をつまんだ。
「……あの、さ……」
「ん?」
「こんな状態で電車乗りたくない……乾くまで、一緒にいよ……」
その声は、ほんの少しだけ甘えたように揺れていて、僕の心の奥まで、とろけるように染みこんでいった。
駅の改札をくぐると、僕は構内の自販機の前で足を止めた。しずくちゃんはベンチに座って、お腹のあたりの布をつまみ、ブラウスをパタパタさせている。
「……ちょっと待って」
僕がそう言うと、しずくちゃんは不思議そうに首をかしげる。
自販機のボタンを押すと、「ゴトン」という音と一緒に、缶ココアが出てきた。もうひとつ、同じものを追加で購入する。
「はい、あったかいやつ。冷えてるでしょ」
「……えっ、うん……ありがと」
しずくちゃんは小さく目を見開いてから、缶を両手で包み込むように受け取った。
「……ん、あったかい。すごく……」
「しずくちゃん、寒そうだったからさ」
「……そっか。……じゃあ、ありがと、ね」
僕も、しずくちゃんの隣に腰を下ろした。ほんの少し、風が吹き抜ける。しずくちゃんの髪が揺れて、頬にしなだれかかる。彼女は濡れた前髪を指先で払おうとするけど、雨でくっついた髪がなかなか離れない。
「前、見えにくそうだね」
「うん……。濡れると、顔にくっついて……やだ、もう……」
彼女が指先でもぞもぞと額をかき分ける様子が、どこか子どもっぽくて、かわいくて。僕はポケットを探って、小さなヘアゴムを取り出した。
「……はい、使う?」
「えっ……ゴム? え、持ってるの?」
「……ありがと。……借りるね」
そのまま、しずくちゃんはゴムを受け取って、髪を後ろで束ねはじめる。濡れた髪が指に絡まりながら、器用に結ばれていく。やがて完成した、ゆるいひとつ結び。
「……へたっぴだけど、これで顔にはかからない、かな」
そう言って、彼女は指先で前髪をもう一度払ってから、僕の方を見た。
「ありがと、助かった」
「どういたしまして」
そう言って、彼女は缶に唇をつける。それを見て、僕も少し照れくさくなって缶を口に運んだ。僕も、雨で濡れた制服がまだ少し肌に貼りついている感覚がある。
ちょうど雨で電車が遅延していたので、ふたりでホームの隅にあるベンチに並んで服が乾くまで待つことにした。
人の少ない時間帯だったから、ホームの端は静かで、しずくちゃんのココアをすする音だけが、かすかに耳に届いた。
「……落ち着いた?」
「うん、ちょっとだけ」
彼女はほっと息をついて、缶を膝の上に置いた。
「服、ちょっと乾いてきたかも」
「だね。電車に乗るころには、だいぶマシになってるかも」
そう言って笑い合ったとき──
──ゴロゴロ……ッ。
遠くで、雷の音がした。ピクリ、としずくちゃんの肩が震える。
その直後、彼女はすっと僕の腕に手を伸ばして、抱きついてきた。
「っ……や、やっぱりダメかも……」
彼女の体がぎゅっとくっつく。まだ少し湿ったブラウス越しに伝わる体温と鼓動。彼女の頬が、僕の胸にやわらかく触れた。僕はそっと彼女の頭をなでた。しずくちゃんは何も言わなかったけど、ほんの少しだけ彼女の手の力が緩んだ。
「大丈夫だよ。ここ、屋根の下だし、雷はきっとどっか遠くだよ」
「……でも、音、すごいもん……。怖い……」
静かな雨の音に紛れて、空の奥から、低くくぐもった音が響いてきた。
──ゴロゴロ……、ドォォン!!
「きゃっ!!」
今度は間近で、空が破裂したような大きな雷鳴が落ちた。びくっと跳ねるようにして、しずくちゃんが僕の体にしがみついてくる。
「こ、こわっ……!」
「大丈夫、大丈夫……ただの雷だよ」
「っ……しってるけど……っ」
声が震えている。彼女の手が、僕のシャツの袖をぎゅっと掴んで、離そうとしない。
それどころか、しずくちゃんが僕の胸に顔を埋めるようにして抱きついてきた。
肩と肩がぴったりくっつく。彼女の大きな胸が押し当てられて、僕の鼓動が跳ね上がる。
「……もう、やだ……こわい……っ」
「……ご、ごめん、びっくりしただけだからっ……っ」
言い訳のようにそう言いながらも、しずくちゃんは腕の中から離れない。
「ねぇ……もうちょっとだけ、こうしててもいい……?」
「……もちろん」
「……こわいの、ほんとにダメで……。雷、ちっちゃい頃から苦手で……」
抱きしめたまま、彼女の声はかすかに震えていた。
「でも……こうしてると、少しだけ落ち着く……」
「……ねぇ」
「ん?」
「もっと、ぎゅってして……足、ちょっと……震えてるの」
彼女の息が、僕の胸元でふわっとかかる。近すぎて、何も考えられなくなる。
──ドゴォォォン!! また一発、大きな雷が落ちた。
「っ、やっ……!! ……やっぱダメ……っ。……離れないで……」
「大丈夫。ここにいるよ」
「……ほんとに……?」
「うん。ちゃんと、守るから」
「……さっきは、守れなかったくせに……」
ぽつりと、意地っ張りなセリフ。
「……でも、今は……ちゃんと守ってくれてる、気がする……」
彼女が、頬を僕の胸にすり寄せた。その声は甘く、少し震えていて。
ゴムで縛った髪が、僕の胸の中でぴょこぴょこと動く。
「……ずるいよね、私。ふだん強がってばっかりなのに……こわくなったら、こうして甘えちゃって……」
「ずるくないよ。嬉しいよ、しずくちゃん」
そう言ったとき、彼女の耳がふわっと真っ赤に染まった。
「……っ、そ、そういうこと……言わないで……っ」
「なんで?」
「だって……もっとドキドキしちゃう……」
そう言って、しずくちゃんは顔をあげて、真っ赤なまま僕を見つめた。
「……雷、もうちょっと鳴っててもいいかも……」
「え?」
「そしたら、もうちょっと……こうしてられるでしょ……?」
──ドォン……と、また遠くで雷が鳴った。
でも今度は、彼女はもう震えていなかった。僕の腕の中で、少しだけ笑っていた。
「……あったかい」
「それ、僕のセリフ」
やがて、電車のライトが遠くに見えてくる。いつの間にか、ホームは乗客でごった返していた。
「……あ、来たね」
「うん……」
「電車、やっぱり混んでるね。1本遅い電車にしようか?」
僕の提案に、しずくちゃんは小さく頷いた。この時間がもう少しだけ続いてほしかったから。
電車を降りて、最寄駅の改札を抜けたとき。空はすっかり雨雲を追い払っていて、地面がまだ濡れているだけだった。
「……雨、やんでる」
「うん。空、明るくなってきたね」
しずくちゃんは小さくうなずいて、傘をたたむ。そのまま、駅前の道を並んで歩き出した。
ふたりとも、すこしだけ湿った制服。靴下はまだ冷たくて、アスファルトが水をはじく音がかすかに聞こえる。
数歩、並んで歩いたあと。しずくちゃんが、ちらりと僕の方を見て、小さくつぶやいた。
「……ねえ」
「ん?」
「……さっきみたいに、ぎゅってしてくれなくてもいいけど……」
しずくちゃんは、少しだけ言葉をためらった後、震える手で僕の手に触れた。指先がひんやりと冷たくて、彼女の緊張が伝わってくる。
「……手、つないで帰っても、いい?」
その言葉に、僕は驚いた。しずくちゃんが、こんなことを言うなんて。
彼女の声は、ほんの少しだけ震えていて、恥ずかしさを隠しきれない様子があらわになっていた。でも、目を合わせることなく、そっと僕の手を握ってきたその優しさに、僕は心が温かくなった。
僕は何も言わずに、彼女の手をそっと握り返した。指先がふるふると震えているのは、きっと寒さのせいじゃない。しずくちゃんの横顔は、夕焼けを浴びて、ほんのり赤く染まっていた。




