#7 図書室で過ごすだけの話
梅雨の日の放課後。湿った空気と、本の紙の匂いが混ざり合う図書室。しとしとと降る雨の音が、窓の外から静かに聞こえる。
衣替えを済ませたしずくちゃんは、夏服の半袖ブラウスをピッタリと着ている。もはや「お約束」のように下着が透けていて、その大きさが晒されている。
彼女の肩まで伸びた黒髪が、しっとりと湿気を含んで少しだけふわついている。
「えっと……あの本、借りたかったんだけど……」
高い棚の上段を見上げるしずくちゃん。つま先立ちで手を伸ばすけど、あと少し届かない。
「……っ」
焦るようにぐっと背伸びした瞬間、彼女の胸が、本棚の縁に押し当てられる。
むにっと柔らかな感触が押し付けられて、本が奥にすこしズレた。
「あっ……う、うそ……っ」
彼女は赤面しながら、慌ててズレた本を押し戻した。
ちらっとこちらを見る視線が、気まずそうに泳いでいる。
「……見てた?」
「……ん? 何かあったの?」
僕は気づいていないふりをする。実際には、窓ガラスの反射を使って凝視していたけど。
「ううん、何でもない」
彼女は顔を赤くしながらも、何も言わずに本を抱えて僕の隣へ戻ってきた。
本棚に押し付けたブラウスの胸下がやや黒ずんでいたけど、見ていないことになっている僕は、それを指摘できない。
「あっ、あった!」
今度は、本棚の下の方を覗き込むしずくちゃん。
「……ん……」
スカートの裾が、ふわりと揺れる。
少しでも身を乗り出すと、中が見えてしまいそうで──。
(……あぶない……)
そう思いつつも、つい視線が吸い寄せられてしまう。
振り返ったしずくちゃんの目が、じとっと僕を見ている。
慌てて視線を逸らしたけど、遅かった。
「っ……な、なに見てるの……?」
「え、いや……っ、見てないよ? たぶん」
「……たぶんって何? アウトでしょ、完全に」
しずくちゃんはため息をついて、本の背表紙をトントンと指で叩いた。
「……まったく……スカート覗こうとするなんて……」
「いや、覗いてない! 見えそうだっただけで!」
「ふーん……」
彼女はじと目で僕を見つめてから、手元のタイトルを指差した。
「人間失格」
「……え、そこで、そのタイトル持ち出す?」
「ぴったりじゃん。品性の欠片もない下心と、情けない言い訳」
「ちょ、ちょっと待って、太宰だってたぶん覗いてたよ。いや知らないけど」
「うわ……言い訳がさらに失格感ある……」
しずくちゃんは呆れたように笑いながらも、頬を赤くしてそっぽを向いた。
「……本、借りてくるね」
そう言って、しずくちゃんは数冊の本を抱え、貸出カウンターへ向かう。
僕の目には見えている。
『ツァラトゥストラはかく語りき』『人間失格』──その間に、明らかにラブコメ系のライトノベルが一冊だけ挟まっていることを。
(なるほど、挟むことでごまかす作戦か)
「……な、なに?」
「ううん、なんでもないよ」
「……そ、そういうの、突っ込まないで……」
受付の司書さんに見られないように、ライトノベルだけしれっと裏返して提出するのも、いかにも彼女らしい。けれど、司書さんは容赦ない。
「はい、それでは順番に処理しますねー。『人間失格』、『お互いに好きって言わないと出られない部屋に閉じ込められたけど、アイツが恥ずかしがって口に出さないからずっと2人きりな件』、『ツァラトゥストラはかく語りき』『茶道文化検定公式テキスト』……」
「っっ……!」
しずくちゃんの肩がびくっと震える。
(タイトル、読み上げるんだ……)
僕は、長めのタイトルをスラスラと読み上げるプロの仕事に感服してしまった。
しずくちゃんが本を受け取って戻ってくると、そんなプロの仕事にケチをつける。
「……な、なんで読むの……! 名前だけでいいじゃん……!」
「たぶん、手作業だからじゃない?」
「もー……っ、ほんと、恥ずかしい……」
顔を真っ赤にして、小声で愚痴をこぼすしずくちゃん。
でも、そんな彼女の横顔は、なんだか満足そうに見えた。
「……雨、強くなってきたね」
しずくちゃんが、図書室の窓を見上げながら、ぽつりと呟いた。
「今日は帰るの遅くなりそうだし……それまで、ここで勉強していこうか」
そう言うと、僕はこくりと頷いた。図書室の一角の勉強机にノートを広げる。僕は歴史の問題に向かい、しずくちゃんは物理の教科書を開いた。
けれど、僕は、すぐに気が散ってしまう。
隣には、机に自然と乗ってしまっている彼女の胸。しっかりと第二ボタンも閉めていて、だからこそ服の上からでもはっきりと形がわかる。
気まずそうに、少しだけ肩をすぼめているのが、余計に意識させる。
僕がちらちらと横目で見ているのに気づいたのか、しずくちゃんが小さく咳払いした。
「……あのさ、もうちょっと集中して勉強しなよ」
「ごめん、無意識だった」
「……無意識ならもっとだめ」
ぴしゃりと言いながらも、彼女の声はひそひそ声。ここが図書室だということをちゃんと覚えているから。
だけど、彼女の耳まで赤くなってるのは、無意識じゃなかった。気を取り直して、勉強を続ける。
「ねえ……ここ、分かる?」
隣でノートを広げていたしずくちゃんが、物理の教科書を指さしてきた。
「圧力って、力を面積で割るんだよね……? 『P=F/S』っていう式。式は分かるんだけど、なんか、いまいちピンとこなくて……このままだと応用が効かないかも」
しずくちゃんは、眉をひそめて教科書を見つめていた。
図書室の静かな空気に、彼女の声がそっと溶ける。
「うん、分かるよ。じゃあさ──」
僕はペンを置いて、少しだけ笑って彼女の顔を見た。
「さっき、しずくちゃん、本を取るときに……胸で押してたでしょ?」
「~~っ!? そ、それ見てたの!? ちゃんと戻したからね」
しずくちゃんの肩がびくっと震える。頬はすぐに赤くなった。
「いや、責めてるわけじゃないよ。ちゃんと物理の話」
「……っ、そ、そっか……」
彼女はむすっとしながらも、続きを待っている。
「あのとき、本棚に押し当てたのって、胸だったでしょ。面積、大きいよね?」
「~~も、もう、それは言わなくていい……!」
「でもね。あのとき本はちょっとしか動かなかった。つまり、圧力はあまりかからなかったんだよ」
「……それは……そうかも……」
「逆に、同じ力で、指でぐいって押したらどうなると思う?」
「……本が、ぐって……奥に入っちゃう、かな」
「そう。指先は面積が小さいから、圧力が大きくなるんだよ。だから、同じ力でも『痛い』とか『食い込む』とかになる」
「……あ」
しずくちゃんは、口を半開きにして目を見開いた。
「……そっか。そういうこと、か……!」
「つまり、面積が広いと圧力が分散して、小さくなる。それがこの式の意味」
「うん、分かった……! ちゃんと、分かったよ……!」
しずくちゃんはぱっと顔を上げて、笑顔になった。
でもすぐに、その笑顔は照れくさそうにしぼんでいく。
「……でも、やっぱり、例えがちょっと……恥ずかしい……」
「分かりやすかったでしょ?」
「……ぐぬぬ、それは認める……っ」
「ちなみに、しずくちゃんのブラウスの胸のところが黒ずんでるのも、本棚の細い金属の部分がギュッと押し付けられたからだね。これも、『面積が小さいから圧力が大きくなる』の例」
「~~も、もう、いいよ……! わかったから!」
ふいっと顔をそむけながらも、耳まで赤く染めて、しずくちゃんはノートに「P=F/S」と丁寧に書き写していた。
──数日後。
物理のテスト中、圧力の問題が出たとき。
「胸の面積が広いから圧力が……」なんて説明を思い出してしまったのか、しずくちゃんだけが、静かな教室でひとり顔を真っ赤にしていた。
もちろん、答案はしっかり満点だったらしい。
……それは、また別の話。




