#6 タグを切るだけの話
駅前に着いたところで、しずくちゃんがぴたりと立ち止まった。カーディガンの胸元、第3ボタンに値札のタグがくっついている。彼女はそっと胸元を押さえて、真っ赤な顔でこちらを向いた。しずくちゃんは、顔を伏せたままブレザーのすそをぎゅっと握る。
「……恥ずかしい……」
声が小さくて、かすかに震えていた。
タグがヒラヒラと揺れるたびに、自然と目が行ってしまう。それは、まるで胸を見てくださいと主張するようだった。
「……めちゃくちゃ目立つじゃん……もう……っ」
声が、さらに小さくなった。
しずくちゃんに、タグを手でちぎるなんて発想はない。
そして、カーディガンを脱いだらパツパツのブラウスが晒される。
「ハサミとか……持ってない?」
「……あ」
彼女が顔を上げて、ポーチの中を探り始める。取り出されたのは、小さな眉用のハサミだった。細くて華奢な金属の刃が、光を受けてきらりと光る。
「これなら……切れるかも」
「え、これ……普段使ってるやつ?」
「メイクのときに使うやつ。……ちょっと恥ずかしいけど……」
しずくちゃんは、小さなハサミを差し出すとき、少しだけ手を引っ込めかけた。まるで、それを渡すこと自体が気恥ずかしいかのように。
「……なんかさ、こういうの人に見られるの、ちょっと……」
声はかすかに揺れていた。普段は家で、女の子としての秘密の時間に使うもの。それを人に差し出すこと自体が、彼女にとっては小さな勇気だった。
「メイク道具って、見られると……なんか恥ずかしいよね」
僕がそう言うと、しずくちゃんはホッとしたように笑って、そっと眉用ハサミを僕の手に預けた。渡されたとき、彼女の指先が少しだけ触れた。その瞬間、まつ毛がふるりと揺れたのが見えた。
「……お願い、できる?」
しずくちゃんからは、タグは立派な胸の影に隠れていて、気がつくことができない。僕は小さく頷いて、そっと手を伸ばす。
カーディガンの胸元のボタンは、大きな胸を持ち上げるように留まっている。一度気づいてしまうと、彼女自身が一番それを意識していた。ほんの少し肩をすぼめて、息を浅くして、胸の前でブレザーをそっと握るその仕草が物語っていた。
「う、うん……」
目の前、カーディガンの第3ボタンのすぐ横。そこに白いタグが、ふわりと揺れていた。
それは、丸みを帯びたふくらみの曲線にそって、自然と目が吸い寄せられるような位置にぶら下がっていた。
視線をそこに向けるたび、自分がどこを見ているのか分からなくなって、妙な罪悪感に襲われる。
「……動かないでね」
僕がそう言うと、しずくちゃんは小さく頷き、唇をきゅっと結んだ。
胸元にそっと手を添え、わずかに肩をすぼめるその仕草だけで、緊張が伝わってくる。
慎重に、彼女の胸元に手を伸ばす。ハサミを持った右手を、できるだけ身体に触れないように、空間を探るように動かす。指の甲が、ほんの少しだけカーディガンの編み目に触れた瞬間、しずくちゃんの肩がぴくりと動く。
「……っ」
かすれるような吐息が、わずかに漏れた。
僕の手は一瞬止まりかけたけれど、息を潜めてゆっくりと動かす。
タグの根元、透明なプラスチックの留め具に刃先を合わせると、指先がほんのわずかに震えた。
(……落ち着け……でも、近い……!)
僕の意識が胸元と指先に集中する。距離が近すぎて、彼女の吐息が肌に触れそうになる。
一呼吸おき、刃を慎重に閉じる。
「……切るよ」
「……うん……」
小さな囁きに、胸の奥がきゅっと締まる。
タグが揺れるのを押さえながら、刃先を静かに当てる。
少しでも角度がずれたら、胸元に触れてしまう。その緊張感で手のひらにじんわり汗が滲む。
シュッ。
小さな擦れるような音とともに、タグの根元が静かに切れた
白い紙がふわりと宙を舞い、彼女の胸元から解放されてゆっくりと地面に落ちていく。
しずくちゃんはそっとカーディガンの襟を押さえ、胸元を整える。
「……ありがとう……」
耳まで赤く染まった顔は、目線をそらしていても、緊張と安堵が混ざった表情に見えた。僕の手の中には、小さなハサミだけが残る。
「……なんか、変な汗かいた……」
「僕も……」
タグを切っただけなのに、胸の前でそわそわするしずくちゃんと、距離の近さによる妙な気まずさ。その微妙な緊張が、ほんの少しだけ二人の距離を縮めているように感じた。
「……ありがと」
「もう、大丈夫だよね?」
僕がそう言うと、しずくちゃんは一瞬だけ迷ったように唇を結び、そして何かを決意するように目を伏せた。
「……あのさ、もうひとつだけ、お願いしてもいい?」
「うん?」
しずくちゃんは、ためらいがちにカーディガンの裾をつまみ、そっと裏返して見せた。内側の首元近くに、小さな白い布のラベルが縫い付けられている。
そこには、くっきりと印字されていた。
「胸囲:100〜110cm」
僕は一瞬、言葉を失った。それは、サイズを表示するだけの事務的な情報。
なのに、それだけで彼女の身体の具体的な数字を突きつけられたような気がして、視線のやり場に困った。
「……それも、切ってくれる? 忘れないうちに」
しずくちゃんは、目を伏せたまま言った。声は小さいけれど、しっかりと届く声だった。
「えっと……いいけど……」
「……見ないでね」
その一言に、僕の胸の奥がどくんと跳ねた。
たぶん彼女は、このタグが誰かの目に触れるのが、何より嫌だったんだと思う。制服を脱ぐとき、体育のとき、ふとした瞬間に誰かに見られてしまうかもしれない。ただそれだけのことで、心がざわつく。
僕も含めて、そういう年頃なのだ。
僕はうなずいて、再びハサミを構える。今度は、カーディガンの内側。
柔らかい裏地の、縫い目すれすれの場所に付けられたサイズタグ。
「……ちょっと、失敗したらごめん」
「ううん、ゆっくりでいいから……お願い」
手を滑らせないように、息を殺して刃先を寄せる。
タグの端を指で押さえて、そっと布から引き離すようにしながら、細い刃を差し入れた。
シャッ。
乾いた音とともに、サイズ表示のタグが切り取られた。
「はい、終わったよ」
「ありがと……ほんとに、ありがとね」
顔を上げた彼女は、さっきよりも少しだけ、安心したような顔をしていた。
だけど、頬はやっぱり赤いままで――
「……見た?」
「見てない」
「……嘘ついたら、怒るよ?」
「チラッとだけ、見えた」
「……それなら、しょうがないけど……。絶対に秘密にしてね」
照れ隠しのようにカーディガンの袖をくしゅっと握って、しずくちゃんはまた前を向いて、笑った。その笑顔には、緊張のあとにしか出ないような、ほっとした色があった。
少しだけ気が抜けて、少しだけ距離が近づいた気がした。
しずくちゃんは落ちたタグを拾い、カバンの中にしまう。
「……あ」
「え? どうしたの?」
「……色違いのカーディガン、買ってた……」
「……うん?」
「それもタグついてる」
彼女はカバンを開け、中から同じデザインのブルーのカーディガンを取り出す。
ボタンには、まっさらな値札。
「……こっちのタグを取ってから、着ればよかった……っ」
しずくちゃんは顔を覆ってしゃがみこんだ。
「も、もう……なにしてるの、私……」
「いやでも、結果的には……よかったんじゃ……?」
「無駄に恥ずかしい思いをすることになっただけだよ……!」
「確かに、僕も緊張した……」
「言わないで~~~っ!」
ブレザーの袖でばたばたと僕を叩いてくる。
「ちょ、ちょっと! そこ! 当たってる、当たってる……!」
慌てて動きを止めるしずくちゃん。
今さら自分の胸が当たっていたことに気づいたのか、顔がさらに真っ赤になって、しばらく動かなくなった。
「……ばか……」
ぽつりと呟いて、そっぽを向く。
その横顔が、夕焼けよりもずっと赤かった。




