#3 座っているだけの話
胸元のボタンを直す間もなく、チャイムが鳴ってしまった。
しずくちゃんはそのまま席に着き、ホームルームが始まる。
ほんの少し、糸の穴からずれただけ。けれど、その「ほんの少し」が大きな違いを生んでいた。
布地は胸のふくらみに引っ張られて、今にもはじけそうに膨らんでいる。
視線を外そうとするほど、僕は逆にそこばかりが気になってしまう。
でも、チャイムはもう鳴ってしまった。
彼女は直すことができないまま、席に着いている。
「……うぅ……」
小さな吐息が、僕のすぐ隣から聞こえた。
彼女の顔は正面を向いているのに、耳まで赤く染まっているのがわかる。
気づかれたくない――でも気になって仕方がない。そんな心境が痛いほど伝わってきた。
しずくちゃんはそっとブレザーを脱いだ。
ブレザーを脱ぐ仕草は、高級な陶器を扱うような慎重さだった。
胸元で布地が引っかからないように、指先はボタンを避けてそっと動く。
その動作ひとつにさえ、彼女の緊張がこもっていた。
その途中、僕と目があった。意図的にいやらしい笑みを浮かべると、それに気づいたしずくちゃんの顔はますます真っ赤になっていった。
ブレザーを脱ぐと、白いブラウスの下から、キャミソールやブラジャーの淡い色がうっすらと浮かび上がる。
本人はボタンのことしか頭に入ってないから気づいていないけど、後ろに座っている人たちは、そこから目を逸らすことができない。
それは、まるで透けた下着を囮にして、ボタンを直そうとしているかのように見える。
(……大丈夫。ボタンは誰も見てない。僕しか知らない)
心の中でそう言い聞かせる。けれど彼女の頬はさらに赤みを増して、ますます自分の身体を意識しているようだった。
ホームルームが終わり、授業が始まった。
先生が黒板に文字を書き始めても、彼女の視線はノートと胸元を行き来するばかりだ。
机に腕を置くと、胸も自然に乗ってしまう。
ノートを広げようと身を乗り出すたび、布地がわずかに形を変える。
本人は気づいていないふりをして俯く。
僕には、その仕草ひとつひとつが「恥ずかしい」と訴えているように思えた。
(今なら直せる……でも、見られたら……)
そう迷っていることは、言葉にしなくても伝わってくる。
机の下で、彼女の指先がブラウスに伸びていくのが、僕の視界の端に映った。
二の腕に柔らかな膨らみが触れて、彼女は一瞬びくっとして動きを止める。
それから、ゆっくりと呼吸を整えるように小さく肩を揺らし、もう一度、外れかけたボタンを探り当てた。
(いける……大丈夫……誰も見てない……)
そう心の中で唱えているんだろう。
僕は見ないふりをして前を向いた。けれど、耳の奥に彼女の小さな吐息が届く。
そのとき。先生が振り返り、教室を見回した。
しずくちゃんの瞳と、一瞬だけぶつかった気がした。
「……っ」
彼女は慌てて顔を伏せる。耳の先まで真っ赤だ。
まるで「見られた!」と叫んでいるみたいに。
それでも、彼女は勇気を振り絞ったのだろう。布地を寄せ、ボタンを押し込む。
それは、彼女にとってはチャイムの音よりも大きな解放だったに違いない。
ほんの数秒の出来事だったのに、見ている僕にとっても心臓が跳ねるほど長く感じられた。
ようやく胸元が整ったのを確認すると、彼女は小さく息を吐き、ノートを広げ直した。
その指先はまだかすかに震えていた。
(大丈夫だよ……誰も気づいてない。僕しか知らないから)
心の中でそうつぶやく。
けれど、彼女がどれほど恥ずかしがっているかを知っているのは僕だけだと思うと、少しだけ誇らしいような、秘密を共有しているような気持ちになった。
そのとき――。
「園宮さん。じゃあ、次の問題、やってもらえる?」
先生の声が、教室に響いた。
「――っ!」
しずくちゃんが小さく跳ねる。顔が一瞬で強張り、肩がぴくりと揺れた。
先生の声が彼女の名前を呼ぶのは、決して珍しいことではない。
でも、いまは――タイミングが悪すぎた。
直したばかりのボタン。整えていた襟元。意識はまだそこにあって、集中しきれていなかったはずだ。
問題文すら聞いていない可能性もある。
「……え、えっと……はい……っ」
おそるおそる立ち上がるしずくちゃん。
その動作で、さっきまでの作業が嘘のように、胸元の布地が再び引っ張られる。
僕はノートをそっと開き、鉛筆の先で小さく答えを書いた。
それを、机の端から、ごく自然に彼女の視界に入る角度に滑らせる。
「……?」
しずくちゃんが視線を落とし、ノートの端に気づいた。
そして、そこに書かれた答えを見つけた一瞬、目が見開かれる。
僕と、視線がぶつかった。
(大丈夫、僕だけが見てる。……君の味方だよ)
そう言う代わりに、僕は軽くうなずいた。
すると彼女は、ごく小さく喉を鳴らす。
胸元を気にしながらも、ひと呼吸して、声を出した。
「……答えは、えっと……a =2x、です」
「……正解。ありがとう」
先生が頷き、板書を再開する。
しずくちゃんは、こくりと小さく頭を下げてから、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
そして、両手を膝の上にぎゅっと置いたまま、そっと僕のほうを見た。
「……ありがと……」
声にはならない。
けれど、唇のかすかな動きと、その瞳がすべてを語っていた。
その頬は相変わらず赤く、視線も落ち着かないままだけれど――
直前までの不安と戸惑いは、少しだけ和らいで見えた。
授業は進んでいく。
黒板に先生のチョークが走る音、隣の席からかすかに聞こえる紙の擦れる音。
そして、その合間に混ざる、小さな吐息。
顔は正面を向いているのに、頬は赤いまま。
直したボタンにそっと触れては、またノートに視線を落とす。
彼女のそんな仕草を、僕は横目で見ていた。ボタンとボタンの隙間から、下着が見える。
――しずくちゃんは、ただ座っているだけ。
それだけで、こんなにも物語になってしまう。
すると、彼女は小さく肘で僕の腕をつついた。
「……もうっ、いつまで見てるの?」
耳まで真っ赤にしながら。




