#21 ここだけの話
その日の夕方。陽が沈む前の部屋は、やわらかいオレンジ色に染まっていた。
私は、静かにクローゼットの中を整理していた。
間違えて小さなサイズのブラを付けてしまい恥ずかしい思いをしたから、合わないサイズを処分するつもりだった。
ブラジャー。それは、ただの衣類じゃない。私にとっては、自分の成長が刻まれた「記録」だった。
私は、引き出しの中から取り出したブラジャーを、大きさ順に床に並べてみる。
制服を脱いで、部屋着のまま。まだ夕方の光が部屋に差し込んでいる、柔らかい時間だった。
白いラグの上に、ひとつずつ。レース、シームレス、フロントホック、ヌーブラ。DからJまでのサイズタグが、さりげなく裏に隠れている。
まるで、過去の自分たちが一列に並んでいるようだった。
「……なんか、壮観だね」
思わず、ぽつりと呟く。ブラジャーって、こんなに持ってたっけ? って思うくらい。
でも、ひとつひとつには、それぞれの理由があった。
一番端に置いたのは、Dカップの白いレースブラ。
(……小6の、終わり頃だったかな)
記念すべき「初めて」のもの。
クラスの誰よりも先に、明らかに膨らんできた胸。でも、自分だけが気づいてるみたいで、誰にも相談できなかった。
「……そろそろ、ちゃんとしたの買おっか」
そう言って、買ってもらったのが、最初のDカップ。
ピンクの小花模様が入った、ちょっとだけ子どもっぽいブラ。今見ると、驚くほど小さい。
それでも、まだ“ブラをつけてること自体が恥ずかしかった”時代。
洗濯カゴに入れるのも、こっそりしていた。
次に出てきたのは、Eカップ、Fカップ。
(……中学に入学したころの、サイズだ。夏ごろにはFになってた気がする……)
中学に入って、初めて夏服で登校した日。
あの頃、胸が大きくなることが、少し怖かった。そして、思い出した――。
***
それは、中学に入って、初めて夏服で登校したとき。
教室に入った瞬間、湿った夏の空気が肌にまとわりついた。
窓がいくつか開いていて、扇風機の音が天井からうるさく回っている。ホームルームが始まる前の、少しざわついた時間。友達の笑い声、椅子を引く音、プリントを配る先生の気配。
(みんな、外してる)
ちらっと視線を横に向ける。前の席の子も、隣の子も、二つ目のボタンまで自然に開けていて、どこか涼しげで軽やかだった。
白いシャツの襟元が少しだけ開いていて、それがなぜだか“当たり前”に見えた。
私だけ、ぴっちり留めてる。
ひとりだけ“真面目すぎる”感じがしてくる。もしかしたら、“ダサい”と思われてるかもしれない。
(開けたほうがいいのかな)
でも、手は動かない。
だって、胸が目立っちゃう。たったひとつ外しただけで、襟元が開きすぎる。
角度によっては、谷間が見えてしまうかもしれない。
そう思うと、視線が怖くて、指がシャツのボタンに触れるのさえためらってしまう。
隣の子が何気なく声をかけてくる。
だけど、私の胸のあたりに一瞬視線が落ちたような気がして、思わず背筋がこわばる。
笑って返しながら、シャツの襟元にそっと手をやる。
留めたままか、外すか。
ほんの数センチの差に、自分の全部が試されているような気がして、目を伏せた
ホームルームが始まる前の教室。
窓から吹き込む風はぬるくて、シャツの中に熱がこもる。
それでも私は、第二ボタンを留めたままだった。
みんなは開けてる。
それが「夏の制服」の“正解”みたいに見える。
だけど、私は怖くて開けられない。胸が目立ってしまうのが怖い。
誰かに見られてるような気がしてしまう。
……でも、開けないでいると、それはそれで浮いているような気がしてくる。
「なんか、きっちりしてるよね」
「暑くないの?」
そんなふうに言われたわけじゃない。
でも、言われそうな気がして、勝手に背筋がピンと伸びる。
胸元の布地が引っぱられて、ほんの少しだけパツパツと張る感覚が気になる。
たぶん、誰もそこまで見てない。だけど、自分では分かってしまう。
鏡で見たときも、分かった。
他の子みたいにスルッと落ちるシルエットじゃない。
ボタンとボタンの間が、なんとなく引っ張られていて、ちょっとだけ“がんばってる”感じがする。
開けても目立つ。閉めても目立つ。
――じゃあ、私はどうしたらいいの?
たった一つのボタンに、心の居場所が見つからない。
教室のざわめきの中、私はひとり、下を向いたまま自分の襟元をそっと見つめていた。
***
次に並んでいるのは、G、H……。成長スピードについていけなくて、合わなくなったものばかり。
Gカップは、記憶に残っていないくらい、あっという間に過ぎていった。
そのころは、中学2年生。部活で中心的な役割を担うようになっていた。
1年生のときは、バスケ部での活動のほとんどが基礎練習や球拾い。
試合には出れなかった。だから、あまり意識することはなかった。
それに、もともと身体を動かすときは余計なことなんて考えてなかった。
でも、あるときから少しずつ、それが変わっていった。
入部したときは、周りの同級生より少し目立つ程度だった胸。
ちょっとだけ体操服がきつくなったなと感じる程度だった。
そのうち、走るたびに揺れるのが気になって、夏でもジャージをずっと着ていた。
ついに、試合に出ることになって、嬉しさで胸が高鳴った。
だけど、実際にコートに立ってみると何かが違った。
ユニフォームは、大きさもかたちも、はっきりと伝わる。胸元の番号が歪む。
走り始めると、急に胸の重さが気になり、呼吸が浅くなる。ジャンプしてシュートを決めたつもりでも、着地する瞬間に胸が揺れ、そのたびに動きが遅くなる感覚があった。
それは、走ることすら支障がでるほどの大きさで、試合に出ることは減っていった。
私の胸だけが、何か別の競技を行っているかのように、激しく揺れる。
試合に集中できない。周囲の視線が気になる。
自分のプレーよりも、「胸がどう見られているか」に気を取られてしまう。
少しずつ、彼女はレギュラーの試合に出る機会が減っていった。
胸の成長は止まらない。それからは、レギュラーメンバーのサポートにまわるようにした。
***
3年生になった。H、I、J……もう、目立たないなんて無理だと思っていた。
Hのときに、フロントホックのブラを試してみた。ホックが透けるのを避けるためだった気がする。
締めつけ感が前に来るせいで、胸がますます強調されてしまい、1回しか着けずにしまいこんだ。
Iカップのヌーブラは、体育祭に備えて用意したもの。
ブラの線が目立つのがイヤで、ヌーブラなら……って思ったけど。汗ですぐ浮いて、落ちかけて、曲中ずっとハラハラしてた。
あの日の緊張感が、今でも肌の記憶に残ってる気がする。
Jカップのブラは、肩紐が特別太くて、ベージュの無地。可愛いとは言えないけど、「これしか合うのがなかった」から選んだ。お気に入りでもなく、嫌いでもなく――ただ、必要だから着ていた、そんな存在。
(でも……もう、合わなくなった)
クローゼットの奥から、ブラと一緒に中学の頃の制服が出てきて、ふっと記憶が呼び戻された。
私はいつも迷っていた。誰にも相談できなかった。
他の子より胸が大きいことも、恥ずかしいと思っていた。
あの頃の私に、今の私が何か言ってあげられるとしたら――。
「大丈夫。目立つことと、悪いことは違うよ」って、そっと伝えてあげたい。
でも、きっとあの時の私は、そんな言葉を受け取る準備ができていなかったかもしれない。
それでもいい。
ボタンを留めていた日も、開けてみようとした日も、どちらも私の“精一杯”だった。
そんなふうに思える今の自分が、ちょっとだけ誇らしい。
***
高校生になった。J、K、L……。
胸は、あの頃より一段と大きくなったけど、それを受け入れる心の余裕もそれ以上に大きくなっていた。
ずらりと床に並んだ、かつてのブラジャーたち。DからJまで、いろんな色、いろんな形。そして、いろんな思い出。
Jカップになったのは、中3の冬。
そのときに、高校の制服の採寸をした。だけど、いざ着るときにはサイズが合わなくなっていた。
それでも、その頃から、いつもさりげなく支えられていた。
恋人、友人、家族。そして、自分自身に。
一緒に、胸をきれいに見せるカーディガンを選んだこと。
友達にスナップボタンを付ける方法を教えてもらったこと。
妹の中二病に悶えて、でもちょっとうらやましくなったこと。
茶道部でお茶を点てるのに集中してたら、胸なんかどうでもよくなったこと。
だから、今の私がいるの。
私は一つひとつに目をやって、そっと手を伸ばす。
(捨てるだけなのに……なんでこんなに、さみしいんだろ)
急に合わなくなったわけじゃない。毎日、少しずつ変わっていっただけ。
でも、こうやって目の前に“変わっていった証拠”が並ぶと、それはやっぱり、ちょっと切ない。
「……入れちゃおう」
私は、一番小さなDカップのブラをそっと手に取って、くるん、と丸めるようにして小さく折った。
その上に、Eカップを少し広げて、包むように重ねる。
まるで、Dを優しく抱きしめるみたいに。
さらにその上から、F、G、H……と順番に。それぞれが、ひとつ前のサイズをそっと包みこむようにして、折っていく。
いつの間にか、重ねられた布のかたまりが、ぽんと両手に収まる大きさになっていた。
まるで、自分自身をマトリョーシカにしたみたいだった。小さな私を、少しずつ大きくなっていった私が包んでいる。
その外側を、今の私が抱きしめてる。
最後に残ったのは、Jカップのブラ。
私はゆっくりと深呼吸をして、それも大きく広げて、重ねた思い出たちを、丁寧にくるんだ。
そうしてできた、ふわふわした“思い出のかたまり”を袋の中に、静かに入れた。
がさり、と小さな音がして。袋の底に、柔らかい色たちが沈んだ。
「……さようなら、昔の私たち。今までありがとう」
言葉に出したら、少しだけ胸が軽くなった。
袋の口をぎゅっと結んで、私は窓を少しだけ開けた。
肌寒い風が、ふわっと頬に触れる。
胸が大きくて恥ずかしい思いをすることもあったけど、いろんなサイズの“私”たちは、今もちゃんとこの胸の奥にいる。だから、もう大丈夫。
私は今日から、ちょっとだけ、強くなれた気がした。




