#2 登校するだけの話
春の朝、まだ肌寒さが残る空気の中、僕たちはいつもの時間に家を出た……はずだった。
「しずくちゃん、急がないと……電車、そろそろ出ちゃうよ」
「……う、うんっ……!」
改札を通り抜け、ホームに向かう階段の前に立った瞬間、しずくちゃんの足が止まる。
「……やっぱり、階段、怖い……。足元、見えなくて……」
その声は、まるで春風に紛れてしまいそうなほど小さかった。
でも、ちゃんと僕には届いた。
彼女の両手は、無意識のように制服の胸元に添えられていた。
そこにある膨らみが、彼女の視界をほとんど覆ってしまっている。
中学卒業時点で、バスト102センチのJカップ。不安を抱くのも納得する。
僕が先に一歩、階段を降りて振り返る。下から覗くと、しずくちゃんの表情が胸の膨らみに隠れて見えなくなる。
まるで、ヒールに慣れない初心者のような足取り。
つま先を慎重に一段ずつ下ろし、身体を前に倒すようにして重心を移す。
そのたびに、ブレザー越しにやわらかな曲線が、ふわりと揺れた。
「……その、手、貸そうか?」
「い、いいっ! ……けど、ちょっとだけ……持ってて……」
僕がそっと手を差し出すと、彼女はためらいながらも、袖の端をつまむようにして掴んだ。
きっと、手を繋ぐのは恥ずかしい。
でも、何もなしで降りるには、不安が勝ったのだろう。
彼女の指先は、かすかに震えていた。
その小さな手のぬくもりが、じんわりと僕に伝わってくる。
途中、何度か足を止めながらも、ようやく、ホームにたどり着いた。
でも、そこにあったのは、すでに閉じたドア。
発車のベルが遠ざかる中、電車はゆっくりとホームを離れていく。
「うぅ……やっぱり……遅れちゃった……」
しずくちゃんは、申し訳なさそうにうつむいた。
「次の電車でも間に合うよ。ちょっと急げば」
僕が声をかけると、彼女はそっと制服の襟元を引っ張る。
階段を降りただけなのに、顔にはうっすら汗が浮かび、息も少し荒い。
肩――いや、胸が上下していた。
それでも彼女は何も言わず、じっと電車の来る方を見つめていた。
ブレザーの袖口をぎゅっと握るその横顔には、静かな覚悟のようなものが見えた。
やがて、新しい電車がホームに滑り込んでくる。
窓越しに見えるぎゅうぎゅうの車内。
吊り革はすべて塞がり、扉の前の人たちは肩がぶつかり合っている。
「……いくよ、しずくちゃん」
「……う、うん……っ」
ドアが開いた瞬間、背後から押し寄せる人の波に、ぐっと押される。
ぎゅう、と背中が密着する。腕も動かせない。
目の前には、しずくちゃんの顔。
ほんの数センチ。見つめるつもりはなくても、視界に入ってしまう。
「っ……ご、ごめんなさいっ……!」
しずくちゃんが、真っ赤になりながら視線を逸らす。
僕も同じだった。意識しないようにしても、どうしても視線が逸れない。
制服越しに伝わる、形と柔らかさ。
わざとじゃないと分かっていても、距離はゼロに近い。
呼吸が浅くなる。心拍がどんどん速くなる。
僕は平静を装って、そっと目を閉じた。
(……朝からこれは……刺激が強すぎる……)
彼女は小さく俯きながら、自分の胸元をちらりと見た。
そして、眉を寄せて、唇を噛む。
「……う、うぅ……私のせいで、こんな……っ」
消え入りそうな声。でも、僕には聞こえていた。
彼女は、自分の体が他人との距離感に与える影響を、痛いほど意識している。
どうしようもないのに、責任を感じているなんて。
「もうすぐ降りるから……大丈夫だよ」
できるだけ優しく声をかけると、彼女は小さく頷いた。
車内の揺れに合わせて、彼女はほんの少し身体を引こうとする。
でも、動けるスペースはどこにもなかった。
わずかな摩擦と、深い沈黙。
誰も何も言わないけれど、互いの存在を強く意識していた。
やがて、アナウンスが流れ、電車が減速しはじめる。
「……もうすぐ、着くから」
「……うん……」
彼女の声は、ほんの少しだけ安心したように聞こえた。
ドアが開くと同時に、僕たちは一斉に身体を動かした。
わずかな隙間を縫うように抜け出し、ようやく外の空気を吸う。
しずくちゃんは、小さく肩で息をした。いや、胸が、揺れていた。
「……間に合いそうだよ。急ごう」
「えっ!? ま、まって、走るの……!?」
「走らないと、ホントに遅刻しちゃうよ」
「っ、う、うん……わ、わかった……!」
僕が先に駆け出すと、彼女も胸元を押さえながら走り出す。
制服の中で揺れるものを両腕でぎゅっと抑える。
でも、抑えきれない。
(……視線、感じる……!)
きっと、彼女の頭の中ではそんな声が鳴っていたはずだ。
控えめな足音、かすれた息遣い。
ギリギリのダッシュで、ようやく教室にたどり着いた。
チャイムが鳴る、ほんの数秒前だった。
「は、はぁ……っ、はぁ……っ……」
「間に合ったね。……おつかれさま」
しずくちゃんは席に着いたまま、息を整えている。
……いや、整っていない。胸の上下がまだ収まらない。
そして――ボタンがひとつ、外れかけていた。
「……っ、やば……。取れそう……」
慌てて胸元を押さえるしずくちゃん。
「……見てないよ。大丈夫」
「~~っ、見たじゃん……見てたじゃん……!」
耳まで真っ赤にして、制服の裾をぎゅっと握りしめる。
「……あとで直してあげるから」
「だ、だいじょうぶ、自分で……っ……」
でも、そう言いながらも、どこかほっとしたように、彼女は小さく笑っていた。
僕らの朝は、まだ始まったばかりだ。




