#19 着物を着るだけの話/乗り越えるだけの話
朝の光が障子越しに白く揺れていた。まだ誰もいない学校の茶室。畳の匂いがほんのりと漂う中、私は鏡の前に腰を下ろす。
今日は稽古の日。だからいつもより早く登校して、ひとりで着付けをすることにしている。誰かに支度を見られるのは、やっぱり恥ずかしいから。机の上に並べたのは、大小さまざまなタオル。新品の白いものもあれば、端が少しほつれた、何度も使っているものもある。全部で5枚。どれも、私には欠かせない相棒だった。
「……やっぱり、今日もこれくらい必要になるのね」
胸の前で手を合わせる。どうして自分はこんなに……と、ため息をつきたくなる瞬間でもある。
Lカップ。それは私の毎日の所作や支度に、確かな影響を与える現実だった。胸を平たくするための和装ブラも、市販のものでは合うサイズがない。結局、ノンワイヤーの柔らかいブラを使うしかない。そこにタオルを何重にも巻いて、体のラインを“着物仕様”に整える。人よりも手間がかかる作業。それは仕方のないこと。でも、そういう自分の身体と向き合うのは、少し息苦しくもあり、同時に、不思議と心が落ち着く瞬間でもあった。
私は制服を脱ぎ、生まれたままの姿になり、ノンワイヤーのブラを手に取る。柔らかな布を胸に当て、少し持ち上げて横へ流すように収める。息が詰まる。けれど、それをしないと襟元が浮いてしまい、だらしなく見える。
「……うん、これなら大丈夫」
その上から、畳んだタオルをくるくると巻いていく。胸下に三枚、脇に一枚。最後に帯の高さに合わせてもう一枚。身体が締まっていくたび、どこかで抑え込まれている感覚が増していく。だけど同時に、心のざわめきも少しずつ整っていく。
肌襦袢を羽織り、続けて長襦袢を重ねる。白い半襟が首元にのぞくと、ようやく“着物の芯”ができた気がした。胸の丸みはまだ完全には消えないけれど、襟芯を差し込むことで形を保つ。ここで一息。深く吸い込み、吐き出す。襦袢の布が胸の上下でわずかに揺れる。呼吸に合わせて、心まで静まっていく。
次は着物。今日選んだのは、少し落ち着いた薄いグレーの色無地。肩に掛けると、ひやりとした布の感触が背筋を伸ばしてくれる。左右の身頃を重ねていくと、胸の高さに布が取られて、右前の合わせが浅くなってしまう。
「ここが、やっぱり難関ね……」
私は片手で裾を押さえながら、もう片方の手で生地を斜めに引き、余裕をなくすようにかぶせる。布がぴたりと収まると、ほっと胸をなで下ろした。帯は淡い青の名古屋帯。少し下めに位置を決める。胸の存在感を抑えるには、この高さがちょうどいい。帯をぐるりと巻き、お太鼓に結ぶ。背中に重みがのしかかり、同時に体の重心が落ち着く。
「ふぅ……」
自然と吐息が漏れた。ほんの少し苦しいのに、不思議と安心する。帯締めを結び直し、鏡の中をのぞき込む。そこに映るのは、胸のふくらみを隠して、すっきりとした襟元の私。
普段は、どうしても意識してしまう部分が、着物の中では静かにおさまっている。
「……よかった」
思わず、息と一緒に言葉がこぼれた。胸を意識せずに立てることが、こんなにも安らぐなんて。太って見えるのでもなく、ただすっきりと落ち着いて見える。それだけで心まで軽くなる。私は着物の裾を両手でそっと広げ、ゆっくりと一礼した。その所作に合わせて袖が揺れる。胸の重みを気にせず動ける。ただ背筋を伸ばし、呼吸を整えると、心が澄んでいくのがわかる。
——和敬清寂。茶道の精神を表す四つの徳目であり、千利休によって特に重んじられたとされる言葉。私は小さく心の中で唱え、背筋を正した。鏡の中の目が、さっきより落ち着いて見える。
「和」は場を和やかに保ち、
「敬」は互いに敬意を払い、
「清」は道具も心も清らかに保ち、
そして「寂」は、心を平静に保つこと。
ここ最近の私は、その「寂」を乱されてばかりいた。胸の存在が、心をざわつかせ、落ち着きを奪う。けれど今、着物をまとった私の中には、静けさが戻ってきている。
茶室の空気に溶け込むように、そっと正座をしてみる。裾が自然に広がり、帯が背中を支えてくれる。胸を意識しないで動けることが、こんなにも自由だなんて。
私は小さく笑みを浮かべ、手を膝に重ねた。
「……大丈夫。今日は心が乱れない」
障子越しに、朝の光が一段と強く差し込む。鏡の中に映る私は、もう胸に悩む少女ではなかった。ただ静寂をまとい、茶の湯の一員として稽古に向かう“ひとりの私”がいた。草履を揃え、足袋のつま先をきゅっと伸ばす。しゃがむたび、背中の帯が心地よくあたった。着物に包まれた自分の姿は、さっきまでとは違う私。
肉体と精神が、ようやく一つに調和した“茶道部の園宮しずく”だった。
「よし。お稽古、行こう」
ひとりごとのように呟いて、茶室の戸に手をかける。
——この時間だけは、胸を意識しないで活動できる。活動しないといけない。
その確信が、私の心を支えてくれるのだった。
襖を開けると、茶室にはまだ誰もいなかった。畳の目がまっすぐに並び、釜からはわずかに白い湯気が立ちのぼる。香炉の煙と炭の匂いが、静けさに溶け込んでいる。
私は正座をし、深く一礼をした。着物の裾が自然に広がる。胸を潰した苦しさは、すでに感覚の奥へと引いている。かわりに帯の安定感が、背中を真っ直ぐに支えていた。
「……始めます」
声に出すと、恥ずかしさがすっと薄れていく。自分の声が、この空間に馴染んでいくのがわかるから。
柄杓を持つ手をそっとすくい上げる。水面に広がる波紋が、静かに消えていく。大きな胸を気にして猫背になりがちだった自分が、いまは自然と背筋を伸ばしている。すべての視線は茶器へ、湯へ、茶筅の動きへ。胸ではなく、私の手元に集まる。
「一、二、三……」
茶筅を振るたび、細かい泡が広がり、抹茶がみるみる鮮やかな緑を増していく。耳に届くのは、しゃかしゃかという軽やかな音だけ。その音が、心のざわめきを消していく。
「……」
気づけば、頬の熱さも、あの恥じらいも消えていた。かわりに、凛とした静けさが身体の芯に宿っていた。お茶を点て終え、一碗を両手で持ち上げる。その動作に合わせて、袖が流れる。
胸のふくらみを隠した着物の内側で、心臓が落ち着いた鼓動を刻んでいた。
正面に向かい、一礼。
「どうぞ」
誰かに見せるためではない。これは、私自身が“茶の湯の心”と一体になるための所作。
——和敬清寂。
その四字が、再び胸の奥で息をする。
恥ずかしさを超えた先にある、澄んだ静けさ。
私は、ようやくそこに辿り着けたのだ。




