020
ご覧いただきまして、ありがとうございます。
あなたが、自分を大切にして、ご無理なさらず、幸せであることを願います。
チャイムを鳴らしてから、あまり待たずに、勢いよくドアが開いた。
「おかえり。お疲れ様」
部屋から出てきたのは、黒のスウェット、繊細な色白、ちょっと緩い天パ。
筆舌しがたい優しい声と彼の眼差しに、なんだか照れてしまい、目をそらす。
同時に、心と身体がほっと緩むのを感じる。
(ーーあ、れ?)
いつの間に、身体に力が入っていたんだっけ。
千冬と会うと、他の人と接するとき、どれほど気を張っていたのか、思い知らされる。
「ただ、いま」
なんとなく目を直視できなくて、小さくつぶやくような声を出す。
玄関に入れてもらって、靴を脱ぐ。
なんとなく千冬を直視できなくて、足元のブラウンのパンプスに視線を向けながら、声を出す。
「えっとね、後ろ向いて」
「えっ、何?」
ようやくはっきりと目が合う。
相変わらずまんまるな目だなと思う。
自分は三日月みたいな目だから羨ましい。
じっと見ていると、ちょっと困ったようなハの字眉。
その顔が好きだと言ったら、どんな反応をするだろう。
「なに?」
「後ろ、向いて!」
思いのほか、大きな声が出てしまい、自分の頭がのけぞる。
おずおずと、千冬を見ると、見透かしたようにいたずらっぽい笑みを浮かべて、後ろを向いてくれた。
(なんか、悔しい)
本当は、ぎゅってしたい気持ちになったけど、それは痴女だ。
少し腹が立って、背中を押した。
「おおっ!!」
わざとらしくバランスを崩した千冬をすり抜けて、荷物を下ろして洗面台で手を洗う。
スーパーの袋を拾い上げて、千冬が鏡越しにお礼を言った。
「ありがとう。つまみ買ってきてくれたの?」
「なくなりかけてたラップもあるよ」
「まじでか。ありがと」
ほんのり、煙草の匂いがして、千冬が帰ってきたのだと実感する。
エアコンがついているからか、部屋の中は過ごしやすい涼しさだ。
部屋はとてもきれいに整頓されている。
晩酌中だったのか、4人がけテーブルには緑茶ハイの缶と、飲みかけのグラスが置いてある。
私はテーブルに腰を下ろすと、どっと疲れが押し寄せてきて、テーブルに突っ伏す。
「お疲れ。俺は飲んでるけど、何か飲む?」
「ありがと。知ってる」
「グレフルサワーあるじゃん。これ?」
「んー。今はいいや」
換気扇の回す音と、かちかちかちっとコンロに火をつけた音が聞こえる。
それから、少ししてお味噌汁のいい匂いがした。
「今日帰ろうか悩んだけど、帰ってきてよかったわ」
「えー、なんで?」
「なんか疲れた顔してるから。うまいものを食べてほしいじゃん」
優しさが滲み出た声に、顔が見たくて、思わず体を起こす。
案の定、照れと、それを出すまいと無理矢理表情を消そうとした、変な顔をしていた。
さっきの仕返しとばかりに、図らずも、にやにやしてしまう。
「・・・・・・やっさしー」
「うるさー」
しばらくして、豆腐とわかめのお味噌汁とご飯と納豆、しょうが焼きを出してくれた。
特に連絡もしていなかったから、明日のご飯にする予定だったのかもしれないのに。
いい匂いを吸い込みながら、丁寧に手を合わせた。
「いただきます」
「はいよー。鮭とばと漬け物開けていい?」
「いいよー。私も食べたい」
「おけ」
しょうが焼きを頬張って、幸せを噛み締める。
千冬のはいつもしょうがをすり下ろして作ってて、とってもおいしい。
味付けも少し濃いめで甘くて好き。
とってもおいしい。
「うまーい」
「ほんとおいしそうに食べるね」
前に座った千冬は頬杖をついて、嬉しそうに目を細める。
「うまいものはうまーい」
向かいで緑茶ハイを飲んでいる千冬と目が合う。
自分の心がじんわり解けていく感覚が、とても心地よい。
何でいつもこの人は、優しい目をしているのだろう。
聞いてみたいけれど、もし、自分にとって、都合のいい妄想なのだったら、怖い。
(寒い冬に家に帰って、お風呂にゆっくり浸かっていく感じって言ったら伝わるかしら)
人たらしと思いきや、意外と他に対しては無らしい。
こちらは、胸がいっぱいになるのだが。
「3ヶ月ぶりだっけ?」
ご飯も食べ終わった頃、しみじみとされて、ぎこちなく、うん、と頷く。
「いると思わなくて、びっくりした。今日はどこに行ってたの?」
「大阪。紅しょうがの串カツが推し」
「いいなー、ビール飲みたくなるね」
「ビール飲んだけど、来週健康診断なのに飲みすぎたー」
「ばか」
会話があってもなくても、穏やかに時間が過ぎる不思議。
あまりばれないようにして、千冬の顔を眺める。
好きに見ていいよ、って前に言われたけれど、だって久々だから後光がさして見える。
目が潰れるかもしれない。
それから、それを見せまいとしているが、疲れた顔をしている。
ちゃんとご飯食べて、寝る時間はあったのだろうか。
(私のこと気づいてくれているけど、私もあなたのこと、気づいていることを、たぶん知らないんだろうな)
たくさんお話ししたいけど、滅多にない贅沢な時間をゆっくり味わおう。
「ごちそうさまでした」
「はいよー」
席を立ち、流しでお皿を水につける。
(お皿の数少ないから、洗っちゃうか)
「ねぇ」
スポンジに食器用洗剤を付けながら、泡立てていると、ゆるく話しかけられる。
「んー、なにー」
「ねー」
「だからなーによー」
ちょっとしただる絡みに、ふふっと笑い声が漏れる。
「こっちこないのー」
「……酔ってる?」
普段あまりしない千冬の振る舞いに、動揺を隠して見ると、してやったりとばかりにへらへらされた。
「今お皿洗っているもの」
ぶっきらぼうになってしまった。
変な誤解されていないかしら。
(ちょっと心配)
「あのねー、そんなこと言っていると、好きになるから、あまり言わない、で」
ーー焦るといらんことを言ってしまう呪いにでもかかっているのだろうか。
千冬の反応が怖くて顔が上げられない。
私たちは、前の職場関係の知り合いで、昔助けてもらってから、3、4年になる。
言葉にしてしまうと、壊れてしまいそうで、ずっと言えなかったのに。
(関係性に名前をつけると、いつか終わったり、変わってしまうことが多かったから)
だったらいらない。
実際に過ぎた時間は1分も経っていなかったかもしれない。
でも、私には永遠に近い重い時間が流れていると錯覚する。
私は、断頭台に上がった人間の気持ちはこんな感じかしら、と思いながら、彼の言葉を待った。