010
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たぶん
生きてても
死んでても
どうでもよかった
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朝、5時。
けたたましいアラーム音に起こされて、低血圧のせいでぼんやりとしたまま目を開けた。
薄いカーテンから光が、容赦なくまぶたを刺す。
(••••••二度寝したい)
ベッドから、少し歩いた先にある目覚まし時計を止める。
正直、低血圧がどういうものか知らんし、自分ではない何かのせいにしたいだけなんだけれど。
昨日部屋に取り込んだまま山になっている洗濯物を蹴っ飛ばす。
(あ?あー、そのうち片付けよう)
まあ、そのうちは一生こないんだろうなと思いながら、冷蔵庫を開ける。
飲んだ方がましな気がする鉄分サプリを口に放り込んで、残りの少ない2リットルサイズのペットボトルの水をそのまま飲んだ。
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夏。
汗をかきながら、いつもの時間に出社する。
家から2時間と少しかかるけれど、月の半分は在宅勤務だから、ぎりぎり体力は保っていられる。
フリーアドレス化した閑散とした職場で、今日出社しているのは、松田さんと自分だけのようだった。
他の人たちはテレワークだったり、客先に外出しているみたいだ。
来る途中コンビニで買ったお茶と、ノートPCをカバンから取り出す。
IT関連企業の、ウイルス対策ソフトの更新作業や管理をメインにしている部署で、事務よりな仕事に転職して3年目になる。
「佐々木さん、おはようございます。今話しかけて大丈夫ですか?」
朝のメールを確認していると、不意に声をかけられて振り向く。
「おはようございます。はい、大丈夫です」
ふた回りぐらい年上で、眼鏡をかけている松田さんの目もとがほんのり和む。
松田さんは直属の上司で、お仕事をいくつかいただいている。
「この前お願いした手順書の修正は、どんな状況ですか?」
(わす、れて、た)
一瞬頭がフリーズして、すぐに高速回転する。
「修正部分は洗い出していて、念のため認識合わせたいです。午後一に 15分ぐらいお時間いただけますか?」
午前中使って整理すればなんとかなる、と信じよう。
そんな状況を知ってか知らずか、松田さんは快く了承してくれた。
「了解です。じゃあ、午後一からよろしくお願いします」
「お手数をおかけします。会議室予約入れておきますー」
笑顔で見送ったあと、松田さんから送られてきていた過去メールから、手順書をざっと読む。
(うん、なんとかなる)
さすがに仕事で嘘はつけない。
ほっと息をつく。
会議室予約のメールを松田さんに送付する。
「メールありがとうね」
斜め前のデスクから声をかけられて、軽く頭を下げた。
「いえ、よろしくお願いします」
忙しさのあまり、チーム内の空気がたまに殺伐とするときでも、松田さんはその穏やかさを崩さない。
そんなところを、心から尊敬している。
(子どものとき、大人って松田さんみたいな人を想像していたけど)
わかりやすく腹黒い人や、圧をかければなんでもやってもらえると思っている人、自分に都合がいい人……。
思いの外、大人の方が無駄な知恵がつくせいか、自分勝手な人が多くて、疲弊する。
ふ、ーーっと、いらないことを思い出しそうになって、強く目を閉じる。
ーー会いた、い、な。
こういうとき、って思うのは思い浮かぶのは、とても大切な人で。
でも、きっとからかわれてしまうから、本人には絶対に言わない。
今日はなんだか雑念が多い気がする。
金曜日だからかもしれない。
やらないといけないことを整理したあと、すっと集中して、目の前の仕事に没頭した。
少しずつ内容は違うけれど、今日も同じような仕事をこなす。
たまに大きな流れに流されて、自分が大きな工場の部品のひとつになったような気持ちになる。
それが心地よかったり、たまにかけ違えたりすることもある。
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夜。
9月上旬の夏の暑さがほんの少しだけましになる。
この前まで、桜満開のニュースを見たと思っていたけれど、もう少ししたら紅葉が色づくだろう。
今日は結局2時間ぐらい残業した。
松田さんはゆっくりでいいですよって、言ってくださったけれど、忘れていた自分がよくなかった。
残業して得をすることは、電車内が比較的空くことと、お惣菜が安くなることぐらいだろうか。
明日から3連休だから、スーパーで買った袋を持って、千冬の家に行く。
といっても、本人は不在なんだろうが。
会社からだと自分の家より近いから、少し嬉しい。
マンションのエントランスに足を踏み入れようとして、躊躇する。
(なんで、マンションのエントランスって、虫がたくさんいるんだろう)
虫も暑さを感じるのだろうか。
陰があると涼しいのかしら。興味ないけれど。
今日はカナブンが2匹地面に落ちていた。
やつらは、寝ているのだろうか。
それとも、今ごろ天国だろうか。
(すみません。どちらでもいいので飛んでこないでください)
郵便物を取ることを諦めて、そろそろとエレベーターに向かう。
(今日はいるかな。いないかな)
千冬は週の半分は出張しており、家にいないことの方が多い。
夜も次の仕事につなげるために、取引先の方と飲みに行くほどの仕事人間。
今同じ働き方はできない。
でも、気持ちはちょっとわかる。
大事な人の大切にしていることは、自分も大切にしたい。
理解できないこともあるけれど、接していて、お互い割と同じ感じなんだろうなと思う。
だから、勝手にお惣菜を持ち、ひとりで適当に過ごすことが多い。
『本人がいないのに、家に行ってお弁当食べてるの、やばくない?』
『浮気しているんじゃない。本当に大丈夫なの?』
少しの期間だけ仲の良かった友達に言われた言葉と、嫌な視線を思い出す。
思い出すのは、少しでもそわそわしている自分の頭を冷却するためだ。
(事前に連絡取るの苦手だし)
なかなかエレベーターが来ず、心の中で言い訳をしながら、階段を登る。
(千冬の家は、全回復するセーブポイントみたいなものだし)
頭の中で言い訳をぐるぐる考えながら、顔の温度が上がっていることを自覚する。
ずっとそうだと疲れてしまうし、毎回思考がふわふわしているわけではないが、なんだか今日は、そういう気分だ。
気がついたら家の前。
部屋からは、明かりが、漏れて、いて。
ーー自然と、笑みが、溢れる。
(だめだ。笑われ、る)
マスク越しに口を開閉して、誤魔化す。
でも、出迎えてほしくて、合い鍵は持っているけれど、チャイムを鳴らした。
なぜか似ている名前になってしまいました。
ちょっと「千」の文字がマイブームなのかしら。