王太子は聖女に愛を捧げ、婚約者には
「やはり素晴らしいな、聖女ミレーナは」
王太子アルナルドが心酔した様子で言った。アルナルドの婚約者であるザナルディ侯爵令嬢ガブリエラの前で。
ガブリエラは微笑みを崩さないまま「まことに」と静かに同意する。肝が冷えて表情が硬くなるのは二人のテーブルに同席している学友達だ。
ここは王立学園の中にある食堂で、今は昼休み。仲の良い婚約者同士が昼食を共にして談笑するのは何らおかしいことではない。おかしいのは会話の中身だ。
食堂は全学生に開放されているから、周囲にも当然生徒たちがいる。アルナルドの声は大きくはないがよく通る美声で、さらに王太子達の周囲に席を取る生徒など高位貴族の子達や野次馬根性がたくましい生徒ばかり。となれば、皆自然と声を潜めアルナルド達の会話に集中してしまう。
妙に静まり返った食堂の一角で、ひたすら聖女ミレーナを褒め称える王太子アルナルド。婚約者であるガブリエラは微笑んだままそれに首肯する。たまに「ガブリエラも聖女ミレーナの尊さがわかるのだな」と満足げに頷くのを、やはり微笑みながら「勿論でございます」と肯定するだけ。
そばに控えている生徒達の胃痛やら下世話な興奮やらが最高潮になった頃、昼休みの終了を告げる鐘が鳴った。
セラフィーニ王国には現在、注目されている三人がいる。
まず一人目は御年十七となる王太子アルナルド・セラフィーニ。現国王ベリザリオとて賢王と名高いのだが、その国王と対等に議論できたのが六歳の頃、さらにそこから政務に携わるようになったのが七歳の頃。八歳の頃には側近候補達の能力を引き上げつつ固い絆と信頼を作り上げ、九歳の頃には近衛騎士団団長と同等に剣を交わし、十歳の時には宰相レオナルドに「すでに完成されておりさらに完璧でいらっしゃる」と言わしめた。
見目麗しく成長したアルナルドはその優しさと公平さにより民からの好感も高く、ベリザリオが嬉々として「早めに隠居して王妃とゆったりと過ごせそうだ」と周囲にこぼすほどの王国の希望である。
二人目は王太子の婚約者、王太子と同じ年齢のザナルディ侯爵家令嬢ガブリエラ。政治的なバランスを見て赤子の時に早々に結ばれた婚約だが、幸い二人の仲は幼い頃から良好であった。侯爵家の令嬢として育てられたガブリエラもまた優秀ではあったが、アルナルド程ではない。だが、優秀すぎる王太子に浮かれた周囲はアルナルドと同等を求めた。結果、娯楽を削り睡眠を削り、文字通り血と涙を滲ませる努力を重ねて完璧な淑女へと成長を遂げた。耐えられたのは貴族としての責任感よりもアルナルドへの恋心があったからだろう。
どこにでもいた可愛らしい少女は、女神もかくやと言わんばかりの美しさを備えた完璧な淑女となり、周囲を満足させ、羨望の眼差しを受ける存在となった。
誰もがそんな二人を温かく見守り、未来は輝かしいものであると思っていた。
それが崩れたのはこの二年ほどである。
注目されている三人目は聖女ミレーナ。王太子達と同じ年の彼女は今は無きロッソ伯爵家の元令嬢。領地の災害、親類間のトラブル、事故による両親の死等の様々な状況から、彼女が爵位返上の末に出家し教会籍に入ったのは五年前の事。
そして聖女となったのが二年前の事。
この国の聖人・聖女認定は厳しい。還俗出来る教会籍ではなく生涯神に仕えることを誓う還俗出来ない神籍に入ることをはじめとして、百を超える民を助けること、百日間をパンとミルクのみで生きること、百日間食事と睡眠と排泄と救済活動以外は娯楽も会話もなく祈り続けること等、様々な条件や修業を達成し、さらに最後に枢機卿達の審判を経て、ようやく聖人・聖女へ認定される。
そもそも出家する人間は心身ともに疲れ果てた人間が多い。安らぎと救いを求めて神への奉仕を始めるのに、さらに過酷な道を行こうと考える者は少ない。さらに言えば、聖人・聖女になったとて生活は向上しない。せいぜいが教会内で発言権を得ることと行事に参加することが増えるだけ。生活は変わらず、むしろ仕事は増えるという名誉職だ。まさに心が清く神に仕える者でなくては出来ない。
それゆえに、聖人と聖女はあまり誕生しない。それゆえに、聖人と聖女は尊敬される。
その聖女に、ミレーナは十五歳の時になったのだ。
彼女の不幸な人生を、それでも汚れなかった清い心根を、国中の誰もが知っている。そう、アルナルドも、ガブリエラも。
……聖女認定の儀に出席したアルナルドが熱い眼差しでミレーナを見つめ続けていたのは、貴族の間で知らぬ者はいない。
「殿下は『特例』を狙っているのだろうなぁ」
王立学園の廊下の曲がり角、そこを曲がる前に聞こえてきた声にガブリエラは足を止めた。同時に、一緒に歩いていた学友の少女たちも足を止め、心配そうにガブリエラを見る。
「確かに。あそこまで堂々と聖女への愛を語っているのなら、可能性は高いな」
「だが、ザナルディ侯爵令嬢との仲はいいぞ。瑕疵もないどころか既に完璧な淑女として名高いのに、無理があるだろう」
「だからだよ。ザナルディ侯爵令嬢なら殿下が説得すれば王室を立てて身を引くだろ。彼女なら嫉妬に狂うこともないし、他からも引く手あまただ」
「そうだよなぁ、俺だって婚約者がいなければ……」
「いやお前じゃ無理だろ」
「身の程をわきまえろ」
「なんでいきなり辛辣になるんだよ! 夢くらい見させろ!」
笑いながら話しているのは教会派閥ではない、中立派閥の貴族の子息達だ。
それがわかったから、ガブリエラは静かに目を伏せる。
ああ、もう駄目なのだ、と。
「ガブリエラ様、別の通路を使いませんか?」
友人のジーナの気遣いの提案に、微笑んで「そうね」と返して元来た道を戻っていく。
『特例』――正確には『万民救済特例』というそれは、国の継続にかかわる場合のみ教会のどのような立場の者でも還俗を可能にした制度である。
かつて、流行病による王族の減少と対立国のたくらみで国を乗っ取られそうな時、派閥争いから身を引いて神籍となっていた優秀な王弟を戻す為、教義と教会を守ってくれる国を潰すわけにはいかなかった教会側が『万を超える民の救済と幸福の為』という名目で折れた時に生まれた。
その特例が発動されたのは今のところその時だけだが、その後しばしば権力争いの道具として持ち出されることはあった。
だが、今回は本当に発動されるかもしれない。ミレーナを王太子妃に、ひいては王妃にするため。何せ聖女だ。血統や国の存続の危機ではないが『万を超える民の救済と幸福の為』という名目を拡大解釈すれば、これほどふさわしい者はいない筈。そう考える生徒たちは多い。
学園内は実際の貴族社会の縮図だ。その学園の中で教会派閥だけでなく中立派閥の貴族がそう思うほどに、それに対して王室派閥の貴族が正面切って歯向かえないほどに、誰の目から見てもアルナルドは聖女ミレーナを寵愛している。
直接関わることはほとんどない。それでも慈善活動や何らかの儀式の時に出会えば二人の仲は近い。いや、アルナルドが自らミレーナへと声をかけているのだ。
「今度我が家がパトロンをしている音楽家を集めて演奏会をしようかと思っているの。よろしければいらっしゃらない?」
「まぁ素敵。ジーナ様の家の芸術を見る目は定評がありますもの、是非お招きいただきたいわ。ガブリエラ様はどうです?」
「ええ、とても素敵ね。是非お願いしたいわ」
「嬉しいわ。それでは招待状をお送りしますね」
「そういえば我が家も最近画家のパトロンになりましたの。ご存じかしら……」
友人たちは先ほど聞こえた会話などなかったかのように楽しい話を振ってくれる。ガブリエラもそれに合わせて声を弾ませる。
こんな時間が、あとどれくらい続けられるのだろう。
自分は、一体いつまで、アルナルドの婚約者としていられるのだろう。
笑顔の仮面の下で、ガブリエラの気持ちはひたすらに沈んでいく。
「やぁ、楽しそうだね」
「アル」
廊下を曲がれば、同じ教室へと向かうアルナルドとその学友達が立っていた。
驚きを表に出さずに微笑んで軽く礼を執ると、当然のようにアルナルドはガブリエラの隣に立って一緒に歩きだす。ガブリエラの友人達は一歩引いてその光景に安堵する。
たとえどのような噂が立っていても、実際のところアルナルドとガブリエラの仲は円満だ。学園ですれ違えば笑顔で挨拶するし、このように目的地が同じ場合は連れ立っていく。
「あいかわらずパトロネージュが盛んだね」
「そうですね、おかげで様々な分野が花開いているように思います」
「いいことだと思うよ。私はまだパトロンになれないけれど」
ここセラフィーニ王国では未成年で未婚の王子王女のみパトロネージュが禁じられている。かつて国庫を傾けるほど夢中になった王子と王女がいたらしく、いかに優秀であろうとも許されていない。
「お前が正しく評価するだけで充分支援だよ」
周りが勝手に王太子御用達と持ち上げるだろ、と学友の一人のエミリオが面倒くさそうに言う。不遜な言動も学園の中ということと王太子達の信頼により許されていた。アルナルドが笑顔で「そうかなぁ」と返しているのがその証拠だ。
そのままアルナルド達とガブリエラ達で談笑しながら目的地の教室へと向かう。
優しい時間と関係性。それなのに、すれ違う生徒達はどこかもの言いたげだ。
「そうだ、ガブリエラ。伝えておきたいことがあったんだ」
アルナルドは穏やかな笑顔のまま、喜色をあらわにした声になる。
「今度聖女ミレーナが学園へ慰安訪問を行うんだ。私は生徒会長として案内役を務めることになる」
楽しみだ。と先ほどより明るい笑顔で告げるアルナルドに、友人達は笑顔をこわばらせ、たまたま周囲を歩いていた生徒達も表情を凍らせたり下卑た笑みを浮かべたりする。
ガブリエラは変わらない。穏やかな笑顔のまま、穏やかな声色で静かに返す。
「そうでしたか。案内役、頑張ってくださいませ」
仮面はそう簡単には砕けない。ガブリエラはそのまま「頑張ると言えば、もうすぐ試験ですね」と別の話題をふった。
いっそアルナルドが酷い方だったらよかったのに。
一日の終わりに、ガブリエラはベッドの上で考える。
聖女ミレーナに夢中になって、王族の義務を怠ればいいのに。婚約者であるガブリエラを冷遇すればいいのに。周囲に『特例』を発動させろと権力にものを言わせればいいのに。
けれど、現実は違う。アルナルドは傍から見れば完璧なのだ。
王族の義務も学園生活も何も手を抜かない。ガブリエラを婚約者として十全に交流を重ねて尊重する。教会にもミレーナにも権力を笠に着ての無理な要望など一つもしない。
何も問題は起こしていない。何も失態は犯していない。周囲からの評判も信頼も期待もさらに上がっている。
ただ、聖女ミレーナへの愛を隠さないだけ。
ミレーナの話が多いだけで、ミレーナの話をする時に何よりも嬉しそうな顔をするだけで、話の内容自体も何もおかしいことはない。ただただミレーナを褒めたたえているだけ。
ガブリエラを沈ませてしまうその無神経さを考えれば、真の意味で完璧とは言えないのだろう。
だが、それ以外なら。何もかもをこなしているのだから、一つくらい好きにさせてあげよう、と。一つくらい我儘を通させてあげよう、と。皆が思うくらいには、完璧に見えるのだ。
……覚悟をしておこう。
中立派があんな推測をするくらいだ。王室派が抗議することなくガブリエラを慰める程度だ。恐らく親世代では本格的に何らかの話が動いているだろう。何故なら、家族から次の試験後の長期休暇には必ず皆で領地に戻ろうと言われている。普段ならそのような言い方はしない。長期休暇の時に家族で領地に行くのはいつものことだが、いつもならばガブリエラの予定を聞いてガブリエラの意思を尊重してきた。それが『必ず』と言ってきたのだ。何かがある。
聖女ミレーナの学園慰安訪問は試験明けの長期休暇に入る直前だ。もしかしたらそれまでに事態が動くかもしれない。いや、慰安訪問のその日かもしれない。
覚悟をしておこう。
婚約を解消されるなら、周囲が望むガブリエラとして快く身を引こう。アルナルドが望む人を迎えられるようにしよう。
アルナルドの為にここまで頑張ってきたのだ。アルナルドが喜ぶなら、自分の幸せなんて……。
そこまで考えて目元がジワリと熱くなる。こぼれるまではいかないわずかな滲みを隠すように両手で顔を覆う。
「……アル」
許された呼び方を口にすれば、ぶわりと気持ちがあふれてくる。
好きよ。好きなのよ。ずっと好きだった。今も大好き。あなたがいたから、あなたが笑ってくれるから、あなたが支えてくれるから、私はどんなにつらくても頑張れた。
貴族としての責任もあった。でもそれ以上にあなたへの愛でここまできたの。
『ねぇ、ガブリエラ。ずっと私と一緒にいてね』
『はい、アルナルド殿下の望むままに』
『アルでいいと言っただろう。ガブリエラだけは特別なんだから』
『は、はい……アル』
婚約というものがよくわかっていないまま交流を重ねていた頃、アルナルドがガブリエラの手を握りながら言ってきた。きっとアルナルドもようやく婚約というものがどういうものかわかってきたのだろう。
もう十年以上前の暖かい春の日の記憶。王宮の中庭で満開だった黄色の綺麗な花々を見ながらの会話だった。今でも忘れない大切な思い出だ。日の光の中のアルナルドの笑顔は綺麗で優しかった。繋いだ手のぬくもりは温かかった。
十七年だ。この思い出以外にも沢山の思い出がある。エスコートの度に少し触れ合う気恥ずかしさも、好きな茶菓子を覚えて茶会で出したら喜んでもらえた充足感も、贈り物に添えられたメッセージカードが年々達筆になる微笑ましさも、ちょっとしたことが何もかも輝かしい思い出だ。
幸せだった。色々と大変だったけど、それでもアルナルドと共にいられた時間は幸せだった。決められた婚約者をこんなにも大切にしてくれた。触れるだけで柔らかな気持ちになる思い出をもらった。
だから、それで我慢しよう。
「アルの……望む、ままに……ッ」
自身に言い聞かせるようなガブリエラの声は、夜の静寂に消えた。
「聖女ミレーナ、ようこそ学園へ」
「お久しぶりです、王太子殿下。本日はよろしくお願いいたします」
弾けんばかりの笑顔で出迎えたアルナルドに、ミレーナは胸に手を置いての辞儀で応えた。
結局何事もなくミレーナはやってきた。そわそわとしていたのはアルナルドやガブリエラよりも周囲の人間たちだ。特に教会派閥の生徒達は、勝利の日を迎えたかのように胸を張って鼻を鳴らす。
「ガブリエラ様、今日のお昼はテラスにしませんか?」
窓から学園内を回っているアルナルドとミレーナ達教会の使節団を見ていると、ジーナ達友人がガブリエラに誘いをかける。
いつもならば食堂で食べているが、今日は恐らくミレーナ達使節団が食堂で食事をとるだろう。対面を避けるためのその提案に、ガブリエラはやはり微笑みながら「そうね」と応える。
周囲はガブリエラが傷つかないように、と考えていたが、ガブリエラ本人は二人の邪魔をしないように、と考えていた。
挨拶をしろとも言われていない。それならば離れていよう。アルナルドの望むままに、アルナルドの幸せのために。
そんなガブリエラと周囲の気持ちは踏みにじられる。
「おや、ザナルディ侯爵令嬢、奇遇ですね」
遠くから声を張り上げてガブリエラ達に近づいてくるのは、教会派閥の中でも中心的なペレ伯爵家嫡男のダニオだ。そのすぐ後ろにはアルナルドとミレーナ達使節団がいて「こちらです」と誘導している。
ガブリエラ達がテラスの一角に座った後、その横のテーブルに座っていた生徒達が教会派閥の貴族の生徒達にどかされ、そこに大きなテーブルが置かれたと思ったらこの事態だ。
会食は予定では食堂だった。それは確かだ。つまりガブリエラのいるところへわざわざ予定変更をしたということだ。恐らくはアルナルドとミレーナが一緒にいるところを見せつけるために。
くだらないことを。そう思いながらも無理やり舞台に上げられたガブリエラ達は、立ち上がってアルナルドと聖女ミレーナ達に礼を執る。
「ようこそ、聖女ミレーナ、そして教会の皆様。昼はこのテラスにてお寛ぎください」
そつなく焦ることなく告げれば、アルナルドもミレーナ達も笑顔で受け取る。ダニオだけは面白くなさそうに眉根を寄せる。
アルナルド達が着席するところを横目に見ながらダニオはガブリエラに近づき、下卑た笑みを浮かべながら小声で言う。
「いやぁ、ザナルディ侯爵令嬢におかれましては面白くないでしょうが、殿下と聖女ミレーナは共にここで昼の休憩をとるご予定なのです。少しばかり我慢していただけますか」
さも気の毒そうな慇懃無礼の発言に、ますますもってくだらない、と、ガブリエラは冷静に目の前の少年の小物さを判断する。彼の父親であるペレ伯爵はもっと狡猾に根回しして言動の誘導する。それを真似たかったのだろうがしょせんはまだ子供、この程度の状況ではガブリエラは自由だ。
ならば、アルナルドの婚約者として、侯爵令嬢として、無様を晒すような真似はしない。
「まぁ、我慢も何も私は不都合などありませんよ。突然のことで驚きはありますが、他の生徒達と同じく歓迎する気持ちはございますので、こうして直接ご挨拶出来て嬉しく思いますわ」
ことさらに不思議そうに小首を傾げながら言えば、ダニオは舌打ちせんばかりに顔を歪める。それを無視して座れば、友人達もダニオに対しては一瞥もせず座った。
ミレーナ達の席へと戻るダニオの背を見ながら、この先を考える。
何も不都合はない。それは事実だったが、ダニオの言うように我慢しなければならないだろう。
アルナルドとミレーナの座る席はすぐそこ。話し声はすべて聞こえる。
食事をとりながらの会話の内容は、今日のこれまでの感想に教会の慈善活動への感謝と今後も良き関係を続けたいという、ごくありきたりなもの。
それでも、そこに熱い眼差しと熱に浮かされた声が加われば、意味は違って聞こえてくる。
テラス席の数は多い。それはつまりこの場に居合わせている生徒の数も多い。さらにこのテラスは通路や校舎からも丸見えの位置だ。
注目の三人がそろっている。それだけでも皆の足が止まる。足を止めて聞き入れば、王太子の通る声がいつものようにミレーナを褒めたたえている。
とうとう、何かが起こるのでは。
そんな生徒達の歪んだ期待と不安が膨らみ切ったところで、「そろそろ行きましょうか」とダニオが促して昼の休憩が終わる。
アルナルド達が立ち上がれば、自然、テラスにいた生徒達も皆立ち上がる。ミレーナ達も立ち上がり、さぁ次の目的地へと動き出す時。
「あ」
ミレーナが軽くよろけた。正確に言えば、不自然にならない程度にダニオに押された。
よろけたミレーナを支えたのはアルナルドで、誰もがほっと一息ついた。
「ああ、申し訳ございません。私の腕が当たったのですね、大丈夫でしたか聖女ミレーナ」
ミレーナがアルナルドに感謝をするよりも早く大げさにダニオが嘆くので、ミレーナはアルナルドへの感謝よりも先に「大丈夫ですよ」とダニオへ無事を伝える。結果として二人が寄り添っている状態が続く。周囲の注目がより熱くなる。
改めてミレーナがアルナルドへ謝礼をしようとすると、またもダニオが声を高らかにする。
「それにしても流石殿下! 誰よりも早く聖女をお守りしましたね」
「隣にいたのだからね、これくらいは当然だよ」
何てことはないと告げて、ミレーナの無事を改めて確認する。二人が寄り添ったまま見つめあうような形だ。目の前の光景にガブリエラの胸がチクリと痛む。
アルナルドもミレーナも礼儀正しく謝意を交わして適切な距離をとる。けれどダニオの立ち位置のせいで先ほどよりも近くなっている。
「いやいや、殿下の聖女ミレーナをお守りしたい気持ちが誰よりも強かったから出来た事ですよ。ご立派です」
うんうん、と一人納得しながら言う。あからさまな持ち上げに苦笑する者も出てくるが。
「それはまぁそうだね」
他ならぬアルナルドが微笑んで肯定した。
ダニオが、教会派閥の生徒達が口元を緩める。多くの者は息を呑んだ。騒めく者もいる。
ああ、ここなのか。そう思って、ガブリエラは自身の手を強く握る。
大丈夫。覚悟はしてきた。どう転んでも微笑んで受け入れる。
ミレーナへの愛を宣言されても、婚約の解消を告げられても、逆に愛のない結婚を強いられても。それがアルナルドの望みなら、受け入れると決めたのだ。
「そうでしょうとも! 殿下は聖女ミレーナが傷つく等認められませんよねぇ!」
「勿論。私にできることなら何をしてでもお守りしますよ」
心からの発言だという事はアルナルドの甘い笑顔から誰にでもわかった。
「殿下、その想いを愛と言わず何と言うのです!」
王手を叫ぶかのようなダニオの言葉に緊張が走る。とうとう突き付けた。これでアルナルドの口から何らかの表明が出るだろう。
ガブリエラは一度静かに深呼吸をする。これから来る痛みに耐えるかのように。彼女以外の生徒達は息を呑みながらアルナルドに注目する。
その注目に気付いているのかいないのか、アルナルドは面白そうに顎に手を当て「なるほど」と言って満ち足りた笑みを浮かべる。
その笑みの意味は、肯定。
「愛……そうだな、恐らくこの感情は愛だ。私は聖女ミレーナを愛しているのだろう」
「殿下……!」
ミレーナ達使節団を除き教会派の生徒達が一様に歓喜する。中立派は事の成り行きを静観し、ガブリエラ含め王室派は絶望する。
「聖女ミレーナは素晴らしい。まさに神が遣わした清らかな方だ。彼女を尊敬しない者がいるとしたら、それはその者の心が薄汚れているのだろうし、彼女が尽くしても邪険に扱う者など、死後の裁判で間違いなく地の国へ堕とされるのだろう」
「殿下……?」
ふと、雲行きが怪しくなる。派閥を越え誰もが訝しむ。キラキラとしたアルナルドの笑顔が怖い。
「仮にこの世すべてが彼女の敵に回ったとしたら、それはこの世すべてが間違っている。そんなものは正すべきだ。彼女の正しく優しい心にこそ沿うべきだ、挫けぬ心にこそ励まされるべきだ、聖女ミレーナが聖女としての慈愛と慈善の行動を邪魔する者がいるのなら私が全力でその障害を排除するし世界は清く正しいものであるべきだしその世界で彼女は心穏やかに過ごすべきだ」
「で、殿下……ッ」
愛が、重い……ッ!!
アルナルド以外のその場の全員が引いた。全員の心が一つになった。
というかこれは愛なのだろうか? 愛というよりもっとこう、若干何というか……狂気……いやいやそんな不敬な!
「な、なるほど?! それほど愛していると!」
誰よりも早く再起したのはこの状況を作り上げた一人ともいえるダニオだった。
正直彼自身もアルナルドがまさかここまで重い感情をミレーナに向けているとは思わなかったが、これはチャンスである。なんせ聖女ミレーナを愛していると公言したのだ。その愛が王太子としてふさわしいかはともかく。
ここが決め時だ。そう考えてダニオはさらに続ける。
決して続けてはいけない先を。
「ではやはり殿下は、王太子妃にふさわしいのはザナルディ侯爵令嬢ではなく、聖女ミレーナだ、と……」
そこでダニオの言葉は止まる。正確には、言葉どころか声が出なくなったのだ。
アルナルドが、一切の表情を消してダニオを見つめている。
それだけだ。たったそれだけなのに、ダニオだけでなく誰も何も言えなくなった。何も動けなくなった。
アルナルドの無表情など見たことがない。そして、これほどまでにアルナルドの纏う空気が重く冷たくなるのを感じたことがない。
「何故だ」
アルナルドが問う。けれど誰も何も言えない。今口を開いたら首と胴が離れてしまうのではないかと思うほどの重圧を感じている。
「王太子妃にふさわしいのはガブリエラ以外にいないだろう」
言いながら、アルナルドはダニオの方へ一歩一歩近づいていく。ダニオは動けない。他の誰も動けない。名前を出されているガブリエラですら。
「どのような考えでもってそこへたどり着いたのだ。答えよ」
アルナルドがダニオの目の前に立つ。声色は普通だ。内容はともかく形はただの問いかけだ。けれどダニオは答えられない。かすかに開いた口から声は出ず、苦しそうに浅い息を繰り返すだけ。気が付けば自然と頭が下がっていた。顔をあげようにもあげられない。いや、そもそも顔をあげたくない。
アルナルドに追従する者も諫める者もいない。沈黙と重苦しい空気に支配されている。
それをアルナルドがため息を一つ落として終わらせると、踵を返して今度はガブリエラの前へ立つ。
まだ表情はない。けれど空気が少し和らぐ。困惑気味のガブリエラを見つめながらアルナルドは言う。
「……何か勘違いしている者がいるようだが、私とガブリエラは婚約解消などしない」
「殿下……!」
ガブリエラ含め王室派の生徒達が一様に安堵し歓喜する。中立派は事の成り行きをまだ静観し、ミレーナ達使節団を除いた教会派は絶望する。
「私とガブリエラは円満だ。王家とザナルディ侯爵家もまた円満で、これは貴族院でも承認されていて民も歓迎している。そうでない者はことごとく退いてもらった、伴侶として私を望む者もガブリエラを望む者もいない、いる筈がない、そんな者はいてはおかしい」
「殿下……?」
何故かまた雲行きが怪しくなる。派閥を越え誰もが訝しむ。逃れえぬ圧を放つアルナルドの無表情が怖い。
「仮にこの世すべてが敵に回ったとしても、ガブリエラ自身が私に刃を向けたとしても、それが何だというのだ。ガブリエラは私のものだ、他の誰にも渡さない、死ごときで手放すと思うな、天の国であろうと地の国であろうと離しはしないし離そうとする者がいたら私のすべてでもってその障害を排除するそれがたとえ愛する父であろうと母であろうと民であろうと神であろうと」
「で、殿下……ッ」
やっぱり、愛が、重い……ッ!!
アルナルド以外のその場の全員がもう一度引いた。そして全員の心がもう一度一つになった。
というかこっちも愛なのだろうか? 愛というよりもっとこう、若干どころか何というか……狂気……そもそも愛とはどういうものだっただろうか!
「だ、だから、そういったことはガブリエラ嬢の了承を得てから言えと、いつも言っているだろうが!」
エミリオが空気を変えようと芝居がかった笑い声をあげて「困った奴め」とアルナルドの肩をつかむ。そこでようやくアルナルドの表情が常と同じ柔らかな微笑みになる。全員の恐怖心が若干消えた。若干。
「失礼な。だからこちらも言っているだろう。了承は得てあると」
拗ねたように言ってから、同意を求めるようにガブリエラへとニコリと笑って小首を傾げる。つられて全員がガブリエラに注目する。まさかあんな想いを受けとめたのか、と驚愕しながら。
かつてない数の視線にさらされながらガブリエラは必死に過去を振り返る。あんな重い想いを受け止めた記憶はない。しかし他ならぬアルナルドが言っているのだ。会話を、手紙を、様々なやり取りを思い返すが、思い当たらない。わからない。それでも、ここで「そんな覚えはない」と言ったら何かが危うい気がする。何かが。
淑女の微笑みのまま固まったガブリエラに苦笑したアルナルドは助け舟を出す。
「ガブリエラも覚えているだろう? 『ずっと私と一緒にいてほしい』と言った時のことを」
そんな記憶は………………ある。
どう考えてもある。間違いなくある。
「は、はい……確かに」
「何と返してくれたかも覚えている?」
「で、『殿下の望むままに』と……」
「うん、覚えていてくれてうれしいよ。そうそう、そういえばその時に『アルと呼んでほしい』とも言ったんだよね」
ほらね、と嬉しそうに友人に胸を張るアルナルドを全員が呆然と見ている。
確かにその応答はした。したにはした、が。
この場にいる生徒の全員が、アルナルドが両親である両陛下とガブリエラ以外には絶対に愛称で呼ぶことを許さないことを知っている。あれほど砕けた態度を許している友人達にも許していないのだ。
さらにこの場にいる生徒の中でも上位貴族の者はなんとなく覚えている。ガブリエラがアルナルドを愛称で呼ぶようになったのは今から十年以上前の五、六歳の頃だということを。
そう。五、六歳である。
いや! たかだか五、六歳の!『一緒にいてほしい』などというありきたりな言葉が! そんなに重いものだなんて誰が思うか!!
変なところでまた多くの生徒の心が一つになった。
「そ、そうか、ガブリエラ嬢が了承しているなら友としても臣下としても言うことはないな、うん」
引きつり笑いのエミリオの言葉に他の友人達もアルナルドを取り囲んで大げさに笑う。もう無理やりこの場を終わらせるしかない、という判断だろう。
「いやぁ、うちの王太子と婚約者の未来は明るいなぁ!」
「我が国は安泰だ!」
「まったくまったく!」
やけくそのように笑って拍手をすれば、聖女ミレーナが慈愛の微笑みで拍手を重ねた。つられるように周りも引きつった笑みを浮かべながらも「よかったよかった」と言い合って拍手をする。
アルナルドは当然のようにガブリエラの肩を抱き拍手にこたえるように微笑んで手を挙げる。訳が分からないままガブリエラも同じように微笑む。拍手と歓声がさらに高まる。
力業でいい雰囲気に落とされて、その日の昼休憩が終わった。
聖女ミレーナの慰安訪問は、昼休憩以外は大きな問題は起こらずに終わりを迎える。
アルナルドの判断により、見送りはアルナルドとガブリエラでもって行った。
今回の慰安訪問は教会派閥の貴族にどうしてもと頼み込まれたものらしく、教会側も学園でそんなに悩みを抱えた生徒たちが多くいるのかと困惑していたのだが、今日の昼休みの出来事で色々と察したようだ。
アルナルドに下心がなければミレーナの方も何もなかった。それどころかこの際だからと「あの、ご厚情いただき誠にありがたいのですが、もう少し声を潜めていただけたら……」とアルナルドにくぎを刺していた。アルナルドは少ししょんぼりしながらも丁寧に了承の意を返した。
そして最後にミレーナはガブリエラにそっと耳打ちをした。
「どうかお願いでございます。皆様と民の平穏の為にも、くれぐれも、くれぐれも! 殿下から離れませんよう……いえ、離してもらえないでしょうが……どうしても休息をとりたい時はいつでも教会は受け入れますので」
どこか憐憫の目をしているミレーナに、ガブリエラは色々と申し訳なく思いながら「ありがとうございます」と答えた。
もしかしたら、ガブリエラの前でミレーナを称賛したように、ミレーナの前でガブリエラへの想いを語ったのかもしれない。様々な思い違いと様々な予想に、ガブリエラは反省するとともに教会への寄付を少し増やそうと決めた。
「今後は我々ももう少し裏を考えてから動くようにします。お騒がせしました」
そう言ってミレーナ達は教会へと戻っていった。
そこから数日、アルナルドと何名かの生徒が学園へ来ない日が続いて、ようやく戻ってきたと思えばガブリエラと友人達をお茶に誘った。
ガブリエラ達は快諾し、放課後にあの騒動のあったテラスへと向かう。
色々と答え合わせの時間だ。
「無事片が付いた。これで教会派閥も大人しくなるだろう」
清々しい笑顔で言うのはアルナルド。アルナルドと同じだけ学園を休んだエミリオ達は、何があったのか、心底疲れ切った顔で座っている。
「そもそもな、お前が所かまわず聖女ミレーナを褒めちぎらなければよかった話でな」
エミリオが言えば、他の友人達もうんうんと頷いてくる。
「いや、ペレ伯爵は聖女ミレーナの人気が高まってきたあたりからやたらと私にアピールしてきていたから、どっちにしても変な横槍は入れられたよ」
「ダニオの処分は?」
平等をうたう学園であるがゆえに、アルナルドやガブリエラへの不敬はまだ目を瞑れた。だが、王家が定めた婚約に口を出したことは流石に見過ごせなかった。ましてあの場には教会からの使節団がいたので、司教庁の長を務めるペレ伯爵家の意見として受け止められかねなかったのだ。
「自主的に後継者から外れて領地でしばらく謹慎。この程度だろう。二度はない」
「怖いんだよお前。ペレ伯爵本人は?」
「うまく逃げ切ったよ。結果として彼がやったことは嫡男教育の失敗だけだからね。馬鹿を晒しただけで罪には問えない。まぁ発言権も自由も派閥そのものも大分削ったからひとまずはいい。あとは時間をかけて司教庁の体制を変えていけば安泰かな」
「いやもう充分お前の治世を邪魔しそうな芽は摘まれたよ……」
疲れ切った声を上げてエミリオが机に突っ伏す。マナーは完全にどこかへ落としてきたらしい。
「恐れながら殿下、それでは聖女ミレーナへの気持ちは、聖人への敬愛のみであったと?」
意を決してのジーナの厳しい言葉に、ガブリエラは名前を呼んで諫める。けれどアルナルドは気にした様子もなく申し訳なさそうに「そうだね」と答えた。
「まさか『完璧王子』がパトロネージュ下手だとはなぁ」
机に突っ伏したままエミリオが言う。
パトロネージュというものがしてみたかった。
なんだか流行っているし、実際にパトロンの貴族たちは妙に熱く語る者もいて面白そうだったのだ。もちろんそんな熱などなく政略の駒としてしか見ていない者もいたが。
だがアルナルドは未成年で未婚の王子。パトロネージュは許されていない。そもそも本当にパトロンになるには様々な調査や準備が必要だし、それ以降の面倒も興味本位で始めるには手間だったし、そもそもめぼしい才能や活動は既にパトロンがついているし、誰かと共有するのも面白くないし……。けれど、やってみたい。
そう思っていたところに現れたのが聖女ミレーナだった。
「私としては聖女だからこそ安心してパトロネージュの真似事ができると思っていたんだけど……」
しょげた様子すら見せる王太子にその場にいる者は皆ため息をつく。
アルナルドが聖女ミレーナを尊敬しているのは本当だし、彼女ほど高潔な人はいないと今でも思っている。彼女が認められないなら世界の方が間違っている、と言ったのも本心で、それくらい崇拝に近い敬愛を持っているのだ。
自身や国の損益とは切り離していた。ただひたすらに聖女ミレーナの活動を応援したい、聖女ミレーナが幸せになってほしい、多くの人に聖女ミレーナの素晴らしいところを知ってほしい、教えたい、と思っていた。
しかしそんな想いの出し方が驚くほど下手糞だった。
社交も駆け引きも討論も得意なのに、趣味に走った場合の感情の出し方だけ恐ろしく下手糞だった。
かつてしでかした王子と王女とは違う方向で駄目だった。
国が未成年で未婚の王子と王女にパトロネージュを禁止したのは、結果としてとても正しかった。
「うん、今回の事は私の手落ちだ。ガブリエラも皆も迷惑をかけた」
「聖女ミレーナも仰っていましたし、今後は少しお控えくださいね」
「ああ」
「私との時間にも聖女ミレーナのお話ばかりですと……寂しいですわ」
「本当にすまなかった」
完全に話題の選択ミスだったのだと思い知る。
とはいえ、アルナルドにしてみればまさかである。何せ相手は聖女なのだ。還俗出来る教会籍ではなく絶対に還俗出来ない神籍の者だ。
極端なことを言ってしまえば、その時点で俗世の人間とは別の生き物なのだ。
だからせいぜいが信心厚い王太子だと思われる程度だと思って安心して応援していたのに、まさかの事態であった。
「アルナルドのように規律が先で感情が後という人間ばかりならこんなことにはならなかっただろうが、すまんな、我々はどうにも俗に塗れた感情の生き物でな」
「私だって感情の生き物だよ」
エミリオの言にアルナルドは苦笑しながらも、認識不足と自身の失敗を深く反省した。
別の世界に生きる者。それでも、聖女ミレーナは人間であり女性である。邪推するにも嫉妬するにも充分だったのだ。
「ただ、私が万が一にも聖女ミレーナを王太子妃に望んだところで、どう考えたって『特例』なんて出せないのに、教会派閥はともかく何故皆そんなことを考えたのか……」
心底不思議だよ、と悪戯っぽく当てこするアルナルドに、勘違いしていたガブリエラと令嬢達は恥ずかしそうに頬を染めて俯いてしまう。名目はしょせん名目。そこを拡大解釈させても、血統と存続の危機が無いなら何の意味もないのだ。噂と妬心とアルナルドならば出来るだろうという謎の信頼感の合わせ技とはいえ、思いの外冷静な思考が出来ていなかったようだった。
「そうよね、そもそも血統で言えばヴィオレッタ王女もいらっしゃるし、王族公爵のコレッティ公爵もいらっしゃる……アルが聖女ミレーナ以外は受け入れない、婚約を変更しないと政務をしないし子も作らない、と言っても無理ね」
「無理だな。『特例』は切れないカードなんだよ。過去から学んで既に色々対策が取られている。私が血迷ったなら、私が消えて継承権第二位の叔父上が立太子するだけだ」
「アルナルドでも?」
答えをわかっているエミリオがニヤニヤしながら問いかける。
「幸いにも父上は善政を布いているし、国外にも問題はない。有能な王太子は欲しいだろうが、十あれば大丈夫なところに百持ってこられなくなっても困りはしない。まして百の代わりが五十だとわかっているなら尚更だ」
望んだ通りの回答が返ってきて、つまらなそうだが安心したように友人たちは息を吐く。
「自身を百と言い切るか……まぁ否定はできない」
「過大評価も過小評価もしないと心掛けているんだ。叔父上が優秀で私も心強い」
「安心してついていける王太子で俺達も心強いよ」
自然と笑いあう。ようやくほぐれた空気に、だがガブリエラはふと思い出す。
「あの、ですが大人達の間ではまた何か別の動きがあるのでは? 実は父から次の長期休暇は必ず一緒に領地に戻るようにと言われているのですが……」
今日の様子で教会側には二心は無いとわかった。だが、当人たちの意思など無視して担ぎ上げたりするのが政治だ。ダニオのようにあからさまに動く者がいるのだ。教会派閥の貴族達が何か企んでいるのではと疑うのは当たり前だった。
「ああ、それはザナルディ侯爵に悪いことをしたな……実は結婚の時期を早めた」
「は……え? き、聞いておりませんが?!」
さらりと落とされた爆弾にガブリエラも他の者も驚く。だがアルナルドはどこ吹く風。「まだ言っていないからな」と爽やかに笑いながら答えた。
「さっきも言っただろう。教会派閥の横槍が入れられそうだったからな。教会そのものとは揉めたくなかったし、それならば横槍を入れられないようにしてしまえばいいと父上と侯爵と話して決めたばかりだったんだ」
恐らくは最後の家族団欒旅行のつもりで『必ず』と言ってきたのだろう。そう言われて、ガブリエラは体の力が抜けた。気持ちとしてはエミリオのように机に突っ伏してしまいたい。
「本来なら学園卒業後一年経ってからの予定だったが、卒業と同時になる。長期休暇前にガブリエラとの時間をもらって告げる予定だったんだが、結果として報告が遅れた事がガブリエラを混乱させる一因となったのだな。これも私の手落ちだ」
「いえ、アルに確認を取ればいいところを、私が、その、もしかしたらと思うと、怖くて……それで聞けなかったのがいけないのです。今後は何か気になることがありましたらまずはアルに聞きますね」
「ありがとう、そうしてくれると嬉しいよ。そして『もしかしたら』なんてありえないから安心してほしい」
アルナルドがガブリエラの手をそっと握りながら言えば、ガブリエラの頬が赤く染まる。
「アル……嬉しいですわ」
わだかまりがなくなった婚約者達が微笑みあう。それを見て友人達も微笑む。問題はすべて解決した、そういうことにしたい、と思いながら。
楽しそうに試験の出来や長期休暇の事を話している二人を見ながら、ジーナは小声で「エミリオ様」と話しかける。微笑みのまま。
「私、色々とあって少し混乱してますの。教えてくださらない?」
「何なりと」
エミリオもまた微笑みのまま小声で返す。
「殿下のミレーナ様への想いは敬愛で間違いないのですね」
「そうだね」
「敬愛というには少しばかり行き過ぎていたような気がしましたけれど、それはたまたま殿下が表現に不慣れだったというだけですのね」
「そうだね、それ以外ないね」
ジーナとエミリオは顔を見合わせて微笑みあう。
「殿下のガブリエラ様への想いも少しばかり……何かが行き過ぎていたような気がしましたけれど、それは教会派閥への威圧の為ですのね」
エミリオは答えない。二人の微笑みも崩れない。
「……我々子供は知りえませんでしたが、殿下とガブリエラ様の仲が壊れることは」
「ないね」
ジーナの問いにエミリオは食い気味に答える。微笑みながら。
「そうですよね、まさかお二人の仲に割り込む方などおりませんよね」
「そうだよ、そんな存在はいない、いる筈がない」
何故『いる筈がない』と言い切ることができるのか、という問いは口にしない。恐れ多いことだ、とジーナは判断する。
つまりこれが最後だったのだ、アルナルドの邪魔の芽は。
「本当に完璧でいらっしゃいますこと。パトロネージュ以外は」
「そうだね、怖いくらい完璧だよ。パトロネージュ以外は」
小声での会話を聞いていた友人達は、呆れたように息を吐く。
王太子が婚約者に捧げているものが愛なのかどうかはもはや深く考えない。婚約者であるガブリエラはすでに呑み込む覚悟をしている。そうでなければ今手を握りながら笑いあえない。
どうあれ当人達が幸せで周りに被害がないのなら、もうそれでいいではないか。多分。
友人達の目の前の光景は平和で穏やかで輝かしく、二人と王国の行く末を示しているようだった。
2024/03/25 誤字修正
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