4-2.陽光
昨晩は無言で月を眺めた後、酒を一緒に飲んだり屋敷の結界を壊そうとした礼羅を止めたりしながら西の対まで送り届けた。
その夜が明けた次の日の昼。俺は諱写しの書、一番最後の頁をめくる音が響く。
これは俺が祓った妖や名のある悪霊の名簿一覧である。
俺が名を抜き取った上で祓った魔物の名を日付けと共に勝手に書き留めてくれるものだが、最後にあるはずの名が消えていたのだ。
「……まぁ良いんだけどさ」
あの妖も見つけた相手が貴人だったから結果俺が呼ばれた。ああいう町は曰く付きの者がわんさかいるから夜に紛れて見なかったことにすることもあるだろう。
祓われたのはただ運が悪かっただけだ。
俺の名簿から消えたのも何らかの術で生き返ったか、死んだと思わせるつもりだったようだ。
しかし問題はその妖が礼羅の育ての親なのではないかという疑いがあること。
(それを礼羅に伝えたら希望を持たせるか、はたまた恨まれるか……)
北の方は礼羅に対して同情しているようだ。しかし宮中に礼羅のことが広がっているなら式神の契約を解除するのは得策ではないだろう。
勢いで式神にしたは良いが休みが明けて家に帰ったら礼羅にはなんの仕事をさせようか。
晴明殿の計らいで仕事を貰っているとはいえ、実際は陰陽師として呼ばれる仕事はそこまで多くない。そう何度も妖狐や土蜘蛛が出てしまえばたまったものじゃない。礼羅の力が必要になることもあまり無いだろう。
しかし我が家の家訓は「働かざる者食うべからず」だ。都の深窓の令嬢のごとく家に引きこもらせることはできない。
屋敷の世話意外に手仕事に下女が必要だったから礼羅を下女にしたかったのだが、下女が駄目なら術師以外に何をさせればいいか――。
「嵐山殿!姫君を見ませんでしたか!?貴方様の式神です」
突然北の方の女房が俺がいる部屋の御簾の前に訪れる。
今は家人がいないので自分で御簾越しに近寄る。逆光で分かりにくいが相手は椿の君だろう。こうして言葉を交わすのも初めてだ。まさか向こうから来るなんて。
「見て無いが、礼羅が何か」
礼羅を姫君と呼ぶのに少し引っ掛かるが昨日の事もある。まさか本当に脱走したのではなかろうか。
「先刻、何者かが私の目を誤魔化して連れ出したのです。よりによって北の方に化けるなんて……!」
ギリと北の方から貰ったであろう扇が軋む。
「礼羅がどこに行ったのかは知らない。ただ……北の方に化けられる相手には心当たりがある」
「どなたですか。わたくしが見破れないなんて……!」
人から聞いた話でか弱いと思っていた。そう言うほど北の方の女房としての矜持があるようだ。しかしその状況に心当たりがある。というかあの人しかいない。
「……天文博士殿だ」
以前俺の目の前にイタズラで北の方に化けて出たことがあった。晴明殿の息子二人は何度か遭遇していたようで見分けが付いていたようだが。
椿の君は数秒時が止まったと思えば気が抜けたようにその場で力が抜けた。
「……だんな、さまが……?」
その様子では椿の君はそのイタズラを受けたことがないのだろう。主人に騙されたなんて相当ショックだろう。
俺も晴明殿が無断で礼羅を連れて行くなんて思わなかった。帝の赦しを貰う以前に俺の式神なのに。
御簾の前に近寄り、蹲る彼女に話しかける。
「顔を見るのは初めてだが、お主、椿の君だろう。北の方には伝えているのか?」
「……っ、申し訳ございません。ご挨拶もなく……!おっしゃる通りわたくしは奥様より椿と呼ばれております」
「構わない」
椿の君は慌てて姿勢を正す。
吉平達からの話からしてこの子はおそらく責任感が強いために自分でプレッシャーをかけてしまう性分だろう。
「北の方には既にお伝えしております。北の方が西の対に来てから事の次第が発覚した故に」
「分かった。私は天文博士殿に式神を飛ばそう。椿の君は北の方と待っていろ」
「そういう訳には……!」
咄嗟に椿の君は顔を上げるが御簾越しに目が合った途端またすぐに頭を下げる。大きな栗色の目をした俺がすぐそばにいるとは思わなかったらしい。
椿の君は俺の立場を分かっているからそう振る舞うのだろうが、初対面でそう怖がられるのは地味に辛いな。
「お前はこの屋敷から出られないだろう?礼羅を連れ出したという事は晴明殿は既に外だ。
念の為陰陽頭にも確認を取る。お前は北の方と一緒にいろ。そういう時は何かをしている方が気が紛れるはずだ」
「……寛大な御心に感謝いたします」
椿の君を見送ると俺はすぐに簡単に手紙を書いて陰陽頭に届くよう紙飛行機にして飛ばす。
しかし紙飛行機の式神は届くこと無く俺の元に戻ってきてしまった。
「本当に用意周到だな」
文を送るにも時間がかかる。
俺は使いを呼んで戻ってきた手紙を陰陽頭に届けるように伝えた。
「……真っ直ぐに届くといいんだけど」
なんせ俺のことを嫌う者は少なくないのだから。