3-4.礼羅
夜、几帳の向こうから椿の寝息を聞く。
椿は勤勉なのか夜も油に火を灯して書物を読んだり書き物をしているらしく、彼女が寝静まるまで時間がかかった。
私は起き上がると部屋の結界を無効化し、無音の術を使って御簾をくぐり抜ける。
すり抜ける術が使えたら良かったのだが、生憎私は現世の存在でもあるようなので出来ない。
それから擬態の術で姿を隠し、裸足なのも構わず庭の中を歩き回る。
反対方向にある場所だろうか。屋根の上に上がれば久しぶりに銀髪が見えた。
「陽光」
彼は呼ばれてこちらを一瞥するがすぐに視線を月に戻す。
彼は烏帽子を外し、解けたざんばら髪を遊ばせていた。成人した男が烏帽子を身に付けることは庶民でも必須で、寝る時も被るのに髪まで降ろすなんて後ろから見たら女のようだ。
しかも袴も着ない白い小袖だけの格好で裸足を投げ出しては呑気に酒を飲んでいる。腰紐に酒が詰まっているであろう瓢箪をぶら下げているあたり余程の酒好きに見えた。
彼と会うのはいつも夜だ。月の精だと言われても疑わないくらい綺麗なのに、都では冷遇されているのは本当だろうか。
「物忌みはどうしたの」
のぞき見を試みる式神の中に覚えのある魔力を感じた。彼と契約したからか私の中に魔力が流れ込んでいるようで、自然と主に引き寄せられる。
「俺は何も見てない。聞こえない」
私の脱走も知らないフリをしてくれるらしい。
「部屋に引っ込むだけなら自分の家じゃなくてもいいだろ。帝からも休暇の建前だと仰せつかっているんだ」
よく見れば腰に『物忌』と書かれた札も下げられている。『物忌』の札をかけておけば何でもありか。
「酒は良いな。塩や肴があればもっと良かった」
知らないふりをする割にはよく喋る。酔っているのだろうか、酩酊した彼の赤い瞳は以前見た時よりもさらに赤みが増している。
私は擬態したまま彼の隣に腰掛けては周辺に無音の術をかけた。
隣に座って気付いたけど、彼も擬態の術をかけていた。私に見えたのは主従の契約を交わしているからだろうか。それとも私が来ると分かっていたのか。
空には西に傾いた欠けた月。大分夜が更けていた。
屋根の上から見る都はとても圧巻だけど、山で暮らしていた時のような自由は何処にも無い。
月光が眩しく感じる。好きだった月見が今は嫌いになりそうだ。
物思いにふけっているとぽとりと私の膝に小さな巾着が投げられた。
「おっと、月神へのお供え物が落ちてしまった」
陽光を見れば身の入らない演技で片手をひらひらとさせてはまた杯を傾ける。
巾着の中身は干し柿だった。
月神に捧げるなら餅ではなかろうかと思いつつ、その落し物の中身を口にすればほんのりとした甘さが口の中に広がる。
「……月を見てると本音が出るらしい」
何か話せという事だろうか。彼は盃にひょうたんから酒を注いでは口にした。
「物忌中だっていうのに、晴明殿は術に関する話を式神越しにしてくるし、兄弟子は勝手に部屋に入って塗籠の扉越しに晴明殿や兄弟の愚痴をブツブツ言うし、帝からは文が来るし、北の方は世話を焼きたがる……」
ここから私が滞在している離れまで遠いのに私や陽光を気にかけるなんて北の方も忙しい人である。
「この屋敷にいると、俺が忌むべき存在だって忘れそうになる」
相手からの愛情を素直に受け止められない彼の気持ちは私にはよく分からない。
その気持ちに甘えればいいのに何を厭ているのだろう。
「幼い頃、お婆……育ての親とこうして月見をしたことがあったの」
特に中秋の名月の頃は一緒に団子を食べながら縁側で月光浴をしたものだ。
「だけどお婆もいなくなって、賊に襲われて、あの屋敷に売られてこのザマよ。昼間だからって油断した私も悪いけど」
既に整理が付いたと思っていたはずなのに、心のどこかでは母の面影を探してしまう。
寝転びたくなって陽光の方に身体を預けた。
「ちょ、おい!」
「ふふ、やっと見た」
膝の上は硬いけど悪くない。戸惑う彼を見る事が出来て満足だ。
だけど退けるのを諦めたのか、さらりと顔にかかる髪を整えるようにかさついた指で頬を撫でられる。
「……傷、全部治ったんだな」
「主様の魔力様々ね」
「……」
よかったという呟く唇を見て、私は視線を月に向けた。
気に食わない反面、私は陽光が羨ましい。
慕ってくれる人が傍にいるから。
私を愛してくれる人は何処にいるのか、そもそも生きているのかすらも分からないのだから。
「お婆、どこに行っちゃったんだろう」
涼しい風が吹く。
屋根の上には人影が伸びていた。
月夜見の神酒を傾け、安らけく、さやけく風は母を思ひぬ。