21-5.礼羅
あの女御の言葉が幾度となく頭に響く。
「夜半の君、夜半の君!いかがされましたか。先ほどからぼうっとして」
「椿さん……」
しっかり者なこの子はそう言ってむくれた顔をする。最近は大人びていたと思っていた彼女もどこか年相応の幼さを感じる。
「……ごめんなさい、疲れちゃったみたいです」
「なら尚更しっかり食事を取ってください。まだ式札は残っているのですから」
礼羅も椿もその罰の意図を知らないため、椿は早く罰を済ませてさっさと主の元に戻って仕えるようにと思っている。礼羅の様子を見て晴明がこっそり式札を増やしているとは知らずに。(ちなみにこれは陽光も知る由もない)
「ですが気が乱れていては何もできないでしょう。今宵はお食事を済ませたらおやすみください」
「あ、私もお手伝いを――」
「この屋敷の女房でもないのにそんなことさせるわけにはいきません」
椿さんはさっさと自分の御前を片付け、近くに控えていた下女に膳を渡す。そして几帳の寝所の支度をするのか妻戸を開き隣の部屋に向かっていった。
自分もさっさと食事を済ませるかそれ以上食欲がないならそのまま下げ渡せという下女の視線を感じ、すぐに食事をすべてかき込んだ。空になった器を下女に渡すと几帳の向こうに入って火を灯し、机の上にある多くの紙の束を眺めた。
「どうして仇にこき使われてるのかしら……」
そうは言ってもこれは私が心を乱して庭を荒らした罰だ。
筆を取り、妖力を流しながら袖を抑えながら筆を滑らせる。
同じ文字を書くだけでは効力を発揮しないらしく、崩して図柄の形に変えることで式札として効力を発揮するという。しかも文字を書くだけではなく、その文字に一定の呪力(私の場合は妖力)を込めなければならない。墨で文字を書くことすら慣れていないのに、そこに呪力を注がないといけないのはとても重労働。
時々晴明が様子を見に来ては私の作った札を見ては「君にも不得意なことがあるんだね」と言われてかなりむかついた。
――狐を狩ったと思えば今度はそばに侍らせるとは。あの方は余ほど憑き物がお好きなようですな。
――かの天文博士も半妖であるという噂もある。その噂が事実なら半妖がお気に召したのかもしれませぬ。
内裏に来た時に聞こえた戯言が脳裏によぎる。
(そういえば陽光は私のお婆の容姿を聞こうともしなかった……)
聞いてきたのは尾の数だけ。
御簾を上げて陽光のいる東の対へ渡殿を普段よりも早く歩く。北の対は梅の君がいるけれど晴明は自分の塗籠の中だから庭が見える方の渡殿を進めば少し湿った冷たさを覚え、襟を摘まんでいた指先まで冷えていく。
とにかく確かめたかった。陽光が祓った狐はお婆でないことを知りたかった。
そうでもないと妖力と魔力の交換も、術式のことも、式札も、あの日常が楽しく思っていた自分が馬鹿らしいではないか。同情で引き取られて、搾取されて、まるで道化だ。
「はる――」
「……――、その中に「あきらこ」という名があがりました。その名にお心当たりはございますか?」
椿の声がする。寝所にいたと思っていたのに陽光のところにいたのか。
「……内裏では斜陽の宮と呼ばれていた」
「妹君だと知らず申し訳ありません」
妹の名前について話していたのか、絹すれの音の後にそう答える彼らがわずかながらに動揺しているのが伝わる。
二人は同じ先祖を持つ遠い親戚同士だ。二人が知っていて私が知らないことがあって当然なのに、陽光のことに私は靄がかかってばかりだ。椿は吉平と心が繋がったはずなのに。
(え、どうして――)
私は、椿と吉平のことを思い出して安心しようとしたの?
心が乱れて庭を荒らした時、私が思ったことは何だったか。あの折り紙の花は。
「分かった。明日折を見て様子を見に来る」
「かしこまりました……あの、もう一つお伺いしてもよろしいでしょうか」
まだ二人は会話を続ける。
「あぁ」
「五月ごろ、吉平様と共に討伐召された狐は、夜半の君の乳母だったのですよね?」
一番確認したかった事を目の前で詳らかにされる。
「それは礼羅から聞かれたのか?」
あぁやだ、臓腑がひっくり返りそうだ。
「いいえ……旦那様は嵐山殿下だけでなく、夜半の君のことも何かあると予見しておられたようなので……」
「……その話は俺からする。だから気にしないでくれないか」
それだけでもう答えは明らかじゃないか。
お婆はこの男に祓われた。
わが空に止まぬ長雨降りしはぞ、すべて汝が偽りのせひ