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21-3.梛


 皇子も帝も去った屋敷で一人、かつて屋敷にあった書物を書き写させたものをめくり、思いに耽る。

 特段秀でた才は無いが、教養があり指先まで丁寧な娘だと言われて紹介された女房だった。

 未婚で後ろ盾もおらず、転々と務める屋敷を変えていたようだが、前の屋敷の主が国司となるため屋敷を明けなければならなかったようで、年が近いことから乳兄弟の侍従の君ともう一人の話し相手として私の女房になった。

 確かに何かに才が秀でているような人ではなかったけれど、まめで、謙虚な人柄でありながら意思のある彼女に対して、嫌悪感を抱く者はいなかったと思う。


「由良、何を書き記しているのですか?」

「わたくしが詠んだ歌をいつ、どこで詠んだのかを書き残しているのです……忘れっぽいので、また同じ歌を詠んでしまわないように、と。内緒にしてくださいましね」


 彼女は漢字が学び書けるので見栄を張っているようで恥ずかしいといつも隠していたのを無理矢理教えを乞うた。女房の何人かは知っていたようだけれど何も言わず見守ってくれた。

 私は本当の姉のようだと思っていたし、彼女も私を妹と思ってくれていると信じていた。


 父はすでに側妻も合わせ七人もの子供がいる。

 一番歳の近い兄でも六つ離れている中で私は表向き正妻の末娘として慎ましやかに成人するのだと思っていたし、いつか私に和歌を差し入れてくれる殿方が屋敷に忍び込んでくれると信じていた。


 だけど成人して間もない頃に開かれた宴で御簾の前に現れたのは私ですら噂に聞くくらい嫉妬深い妻がいて、自分よりも一回り歳の離れている皇子だった。

 本人がそう名乗ったから分かったものの、私はどう答えればいいのか分からない。

 後で思い出せば追い払う歌を詠めば生意気とは思われても、意思はないと返すことが出来たはずだ。

 女房らは私が視線を送っても控えているはずなのに誰も応えてくれず、「右大臣には困ったものよ」と皇子が挨拶の後に放った言葉で私は皆に裏切られたと思い知った。

 幸いその時は怯えて口もきけぬ私に呆れたのかその場から立ち上がり去ったけれど、私は父のことがとても恐ろしく感じて、震えて、すぐに由良に会いたくなった。

 どうにか立ち上がり由良のいる場所を探したけれど、途中見つけた、柱の影から由良が皇子に情けをかけてほしいと懇願していて、その後私の代わりにあの男と契ったと知った時は、気が狂い己の髪に鋏をかけた。


鈴子(すずこ)……お前はあのお方に懸想をしていたのではなかったのか」


 ずかずかと部屋に入り、久しぶりに諱を呼んだと思えば、とんでもない思い違いをしていて、持っていた扇を投げ飛ばしてやろうかと思った。


「何をおっしゃるの?……裳着を済ませたばかりの娘を妻子のいる男と契らせようとしたくせに」


 「あれは先の女御が……」と言い訳を並べるが死人を言い訳にしていい理由にはならない。

 あの日落飾してからいつの間にか由良も居なくなって、女房らにはさんざん当たり散らした。

 先祖が建てた寺に住まいを移し、しばらくしてから由良の筆跡で子供が生まれたことと、入内した旨の挨拶が送られてきた。

 表向きの謝罪を交わしても上手く晴れることは無い。右大臣にでも止められているのか、それとも会うつもりがないのか、会いたいと文を送ってもまた文だけが送られるだけだった。

 その代わり右大臣の屋敷にあった私の物は自由に使ってもいいと添えた。

 本人が心の底を打ち明けたことは無かったけれど、風の噂で由良とその子供が良い扱いをされていないことは知っていたし、そのせいでせっかく身籠った二人目の子供も流れたことも聞いていた。

 それでもまた身篭り姫を授かったと知れば、私は涙を流した。

 だからとても安心していたのに。

 己が最後に文を送ってからぱったりと返事が来なくなって暫くしたころに内裏が燃え、由良が亡くなったことを知ったのと父からの迎えが来たのは同じだった。

 由良の子が二人も内裏から居なくなって父は躍起になっていたのだろう。だからと言って私は由良の代わりになんてなれない。


 数年ぶりに東宮となった皇子の前に出てそれを訪ねても応えてくれやしない。ましてや歌を詠めない聞けないなんて誰が思うか。

 私のせいか。私があの夜もう少し愛想よく皇子に対して応じていれば由良はこんな目に遭わなかったのだろうか。


 父は言葉に詰まっているのか黙っているばかりだ。帝が心の傷を打ち明けても終ぞ、己の腹を明かすことは無かったけれど、由良の子もきっと帝のように何かしらの瑕疵があるのだろう。

 今更あの日を後悔することはないけれど、それでも由良の子が右大臣を毛嫌いしているのが目に見えて分かったことだけで溜飲が下がった。


 右大臣も由良が入内したときか、いやそれ以前から由良に歩み寄ればよかったのだ。今更後悔しても遅い。

 しかし後悔すれど反省の色はないこの男は「……では」と聞きたいことが他にもあったのか話を変えてくる。


「……あの狐が東雲(しののめ)の顔をしていたということは誠か」


 半妖の娘は私の問いに己が夜で由良の子が月だと言った。狐にしては、いや狐だからだろうか、大したものだと関心した。

 そして私の意図が分かっていたのは帝と目の前にいるこの老人だけだろう。

 まだ雨はやまない。だけど晴れていてもどうせ月はまだ見えない。我が子が雨避けを成功させればすべてが明らかになるだろうか。霧も霞も、歩けない赤子の頃から奇妙な子だった。きっと二人にも何かしらの力があるに違いない。同じ意味の幼名を冠するせいか、霞が何かを感じ取れば霧も霞の異変を感じ取った。母は違うのに双子のような子らだ。


「夜明けが夜になるまで、一体何があったのかしらね」


 そう遠くない頃に面白いことが起こりそうだ。


東雲の、色にし似ると聞く君よ、皇子が行方に何を思はむ

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